言語的批判


概説

心身問題を解決しようとする試みは、物理主義であっても性質二元論であっても、大きな難問を抱え込むことになる。ウィトゲンシュタインの言語的哲学の影響を受けたギルバート・ライルなどの人々は、そうなってしまうのは概念的な混乱――カテゴリー錯誤が背後にあるからだとして、心身問題を消去しようとする。

ライルによれば、心的状態を記述する言語のカテゴリーは、物理的な脳を記述する言語のカテゴリーとは異なっている。従って心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いである。脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリー錯誤、つまり推論の誤謬なのである。

ウィトゲンシュタインは「私的言語」や、意識の「私秘性」について語ることに反対している。彼にとって言葉の意味とは使用法であり、心の中にあるものではない。心的状態は公的な言語では表せない。表そうとしても、表れたものは公共的なものであって、私秘的なものではないのである。私秘的な性質は「言語ゲーム」に参加できない。このウィトゲンシュタインの思想は、意識の私秘性をブラックボックスとして扱う行動主義機能主義に影響を与えた。

拡張解釈

ウィトゲンシュタインの私的言語批判と言語ゲーム論を拡張解釈し、逆転クオリア(逆転スペクトル)や哲学的ゾンビ などの「想像可能性論法」を、「想像不可能」だと批判する学者もいる。

たとえば野矢茂樹は、『哲学航海日誌Ⅰ』で以下のように述べている。
「赤」や「痛み」といった語は、そうした語を用いて為されるさまざまな実践連関と結びついてのみ、その言葉遣いの適切さが評価されるのである。
だとすれば、逆転スペクトルの懐疑を通常の日本語で表現することは原理的に不可能なこととなるだろう。(p.60)
実践連関上にはまったく姿を現さない異なりの可能性を表現するには、実践連関から切り離され、実践連関とは独立に意味を与えられる言語でなければならない。純粋にこの感覚を指し示すことで意味を獲得している言語、それこそがこの懐疑を表現するには必要なのである。(p.61)
もちろん、野矢のいう「純粋にこの感覚を指し示すことで意味を獲得している言語」とは「私的言語」のことである。

ウィトゲンシュタインによれば、ある対象を名づけるとは、昨日のXと今日のXを、同じXとしてまとめあげること、つまり同一性の基準を与えるということが、その対象に名前を与えるということである。他者との実践連関から切り離された私的言語は、対象に同一性の基準を与えることが出来ないゆえに、言語ではない。

そして野矢は、逆転スペクトルは「私的言語」でなければ表現できないとし、私的言語が不可能であるゆえに、逆転スペクトルの懐疑を「表現不可能」なものとして、以下のように述べる。
私秘的言語が実はいささかも言語ではなかったということは、すなわち「私秘的対象」なるものも、実はいささかも対象ではなかったということを意味している。そこには対象が対象として成立しているために要求される同一性が決定的に欠けている。
私秘的対象など存在しない。
ふつうの日本語の使用がいったん中断され、前理論的にせよ、言語についてある描像が形成される。そしてその側面だけが肥大し、私的言語のような領域がその幻影を浮かび上がらせる。そうして、逆転スペクトルの懐疑をあたかも理解可能であるよう思わせてしまったのである。(pp.68-69)

永井均も野矢に近い考えであり、意識は物理特性に論理的に付随しないとするデイヴィッド・チャーマーズによる哲学的ゾンビの思考実験を批判し、『なぜ意識は実在しないのか』で以下のように述べる。
ゾンビは文字通りまったく不可能なのです。理由は簡単で、われわれの「意識」概念は、(中略)たとえば「意識を失う―意識を回復する」ゲームに参加できるか否かによって、客観的に規定されているし、そうであるほかはないからです。(p.79)
上の「ゲーム」とは、もちろんウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を指している。言語ゲーム論では、言葉の意味をチェスの駒の役割のように考える。言葉の意味とは、用法あるいは機能であり、意識の私秘的側面は言葉の意味に関わらないとされる。

永井は『翔太と猫のインサイトの夏休み』でも以下のように述べている。
転んで膝を擦り剥いて泣いているる子供がいたとするね、その時子供が膝に感じている感覚を定義によって『痛み』と呼ぶんだよ。(中略)痛み以外の感覚を感じている可能性は0.001パーセントもないんだ。なぜなら、そのときその子が感じているものが定義によって『痛み』なんだから、『痛み』という言葉の意味の源泉はそこにしかないんだから
色に関しても同じだよ。消防自動車やトマトや血のような色を、他の色から区別別して『赤』と呼ぶんだ。それが各人にどう見えてるかってことは、もともと考慮に入れられていないんだ。(中略)『赤』が『青』く見えてる人など存在しえないことになるんだよ。
『たとえ赤が青く見えていても……』なんて仮定じたい成り立たないって話なんだから。(pp.79-80)。

ただし永井の場合は野矢と異なり、私的言語は可能であるとする立場であり、逆転クオリアやマリーの部屋の思考実験に対しては、「独在性」の立場から「想像可能性」を批判している。

ウィトゲンシュタインの誤用

(以下は管理者の見解)

野矢茂樹や永井均による想像可能性論法に対する批判は、ウィトゲンシュタインによる私的言語批判と言語ゲーム論の観点から行われているものであるが、これは想像可能性論法に対する無理解か、またはウィトゲンシュタイン哲学の誤読に基づいている。たとえば「赤」という場合、「赤」という言葉の機能と、「赤」という感覚(クオリア)は区別して考えなければならない。

ウィトゲンシュタインは『哲学探究』272節で以下のように述べている。
私的な体験について本質的なことは、本来、各人が自分固有の標本をもっているということなのではなくて、他人も〔これ〕をもっているのか、それとも何か別のものをもっているのか、誰も知らない、ということなのである。それゆえ、一部の人間にはある赤さの感覚があり、他の一部の人間には別な赤さの感覚がある、と仮定することが――検証不可能ではあるけれども――可能なのであろう。
続く273節で、以下のように述べる。
では、「赤」という語についてはどうか――わたくしは、この語が何か〈われわれ全てに対峙しているもの〉を表記しており、各人とも本来この語のほかに自分固有の赤さの感覚を表記するための、もう一つ別の言語をもっているはずだ、と言うべきなのか。それとも「赤」という語は何かわれわれが共通に認知しているものを表記しており、そのうえ、各人に対しては、何かその人だけが認知しているものを表記している、ということなのか。(あるいは、それは何かその人だけが認知しているものを指しているのか、といったほうがいいのかもしれない)
以上のように、ウィトゲンシュタインは他者の「赤」の感覚が異なっている「想像可能性」を認めた上で、「赤」という語の意味が個人の感覚を指しているのではない、という主張(心理主義批判)を行っている。想像不可能性までを主張しているのではない。

事実として、逆転クオリアなどは私的言語を用いずとも、言語ゲーム内で「想像可能」である。ネド・ブロック表象主義を批判するために考案した「逆転地球」の思考実験は、クオリアが言葉の機能と意味に論理的に付随しないことを論証している。

ブロックによる思考実験は以下のようなものである。
宇宙のどこかに地球とそっくりな星――逆転地球がある。逆転地球では、われわれの住む地球と二つの点だけが違っている。一つは事物の色が逆転しており、澄んだ空や海の色が「赤」であり、血や消防車の色が「青」である。もう一つは逆転地球の人たちが使う言葉で、彼らは「赤」を「青」と呼び、「青」を「赤」と呼ぶ。
この思考実験を拡張して考えてみよう。もし時空間の異常などで、逆転地球の人々とわれわれとが、電話など「音声のみ」で通信可能になったとしたらどうだろう。

双方の地球の人々は同じ言語によって、双方の地球がそっくり同じ状態にあることを知るはずだ。同じ名の国に、同じ名の人々が住む。人々の身長体重までも同じである。そして澄んだ海の色を同じように「青い」と表現し、また同じように「赤」と呼ぶ色の信号で車を停める。そして戦争で赤い血が流れることに同じように胸を痛め、バカンスでは南洋の青い海を見たいと同じように思っていることを、互いに知り合う。

逆転地球の人々とわれわれとは、何の不自由も無く会話ができる。彼らの「赤」や「青」という言語はわれわれの言語と同じ「機能」と「意味」をもち、彼らは言語ゲームに参加している。しかし、われわれは彼らの色彩感覚が逆転しているのではないかと想像できるし、その想像は私的言語を用いずとも、言語ゲーム内で容易に可能である。

野矢と永井は、使用される語の機能と意味が同じである場合、クオリアの逆転など想像できないという。彼らの主張が間違っていることは、逆転地球の人々とわれわれが、音声通信だけでなく、映像で通信できるようになった所を想像すれば明らかである。

※参考までに、バーチャルリアリティーを応用した思考実験ならば、クオリアの逆転は容易に想像可能であり、むしろ「語の意味」と「クオリア」を区別して考えない方が不自然である。


永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫 2007年
永井均『なぜ意識は実在しないのか』岩波書店 2007年
野矢茂樹『哲学航海日誌Ⅰ』中公文庫 2010年
ティム・クレイン『心の哲学』植原亮 訳 勁草書房 2010年
L.ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究』藤本隆志 訳 大修館書店 1976年