書評1


中島義道『生き生きとした過去――大森荘蔵の時間論、その批判的解読』


強引、というより無理過ぎる大森哲学解釈、という印象を受けた。中島は大森の弟子であり、大森と幾度も対話を重ねている。大森に会ったこともない私が異論を挟むのはおこがましい感もあるのだが、大森と同様の現象一元論者として、あえて本書を批評したい。

概説すると、中島が大森哲学批判を通じて主張したのは、「過去時間」と「意識作用」の実在性を認めるしかないということである。穿った見方をするならば、それらの実在性を前提にし、意図的に偏った大森哲学解釈をしたと思える。なにせ中島は冒頭から「過去論」という観点からだけ大森哲学を裁断すると宣言している。(p.8)

まず中島は、立ち現われ一元論は、立ち現われるための物理学的時間の実在性を是認していると解釈する。(pp.31-32)

これは「立ち現われる」という動詞自体が過去の実在を前提としている、という理由なのだが、しかし大森からすればその過去もまた立ち現われ内部に位置づけられるものだ。そもそも大森がカントの物自体になぞらえて「過去自体」と呼ぶ過去の実在を証明するのは不可能なのである。これはラッセルの「五分前世界創造説」も類似の洞察なのであるが、大森が線形時間と呼ぶ物理的時間の実在性は、現前する「この現象」が存在するために必要ではないのである。

SF小説などでは、時間がループする世界というアイデアがよくある。たとえば、――2015年1月1日の朝、私は起きて、恋人に会う。そして将来のこと、昔のこと、遠い海外のことなどを話し、一日を終えて夜、自宅に帰って寝る。そしてまた朝起きるのだが、その朝は「同じ」2015年1月1日の朝である――このように時間がループする世界というのは論理的に可能である。大森の用語を使うならば、その僅か一日には、何十億年分もの過去や遥か銀河の彼方までの全てが、「思いを込めて」立ち現われているのである。その一日の内部で、私には自分が過去何十年も生きてきたという「思い」が与えられている。

そして「一日だけの世界」というのが論理的にありうるなら「一秒だけの世界」もありえてしまう。その「一秒だけの世界」が「立ち現われの世界」だと考えてもさほど大きな間違いではない。そのような不条理な世界が論理的に可能である事実を認めることから立ち現われ一元論は始まっている。

中島はこのような「一秒だけの世界」=「立ち現われ」が論理的に成り立たないことを論証できていない。

また中島は、心は存在しないものにも関わるあり方だという。たとえば「赤」が登場すると同時に「赤でない色」が世界に登場するように、不在のものは「意識」が世界にもたらすものだといい、「思いの立ち現われ」だけでは判断における「否定的な赤」などが立ち現われることを説明できないという。(pp.66-68)

この批判も大森哲学との微妙な擦れ違いを感じる。大森からすれば、「赤」が登場している立ち現われの世界には、「青」のような「否定的な赤」が積極的に登場する必要はない。せいぜい「3」という概念が「4」や「2」を含意するように、「否定的な赤」は「赤」の「思いの立ち現われ」内部に含意されていればよい程度のものだ。

また別の立ち現われにおいて「青」が登場すると仮定しても、「青」を立ち現わした「意識作用」なるものがその立ち現われ「外部」に実在的にある必要はないし、その必要性を中島は論証できていない。

また中島は大森の他我論を解説しながら、「他人の心」は現象を立ち現わす能動的主体であるとして、心の作用を否定している独我論的現象一元論は、他我問題を「問題」として捉えられない構造をしていると指摘する。(pp.164-167)

これは独我論的現象一元論に対する批判としては全く正しい。だが大森哲学の解説としては不十分という印象を受ける。つまり独我論的現象一元論者がなぜ現前する現象のみに拘っているのかという、「動機」の部分についての斟酌が足りないように思える。これは私の憶測も混じえていうのだが、前述したように「一秒だけの世界」は論理的に成り立ってしまう。ならば現前する「この現象」のみの実在性を認め、物質的実在だけでなく、過去も未来も他我も「不可知」にしよう、と考えるだけが独我論的現象一元論ではないのである。

むしろ、過去も未来も他我も、積極的に「否定」した方が整合的に説明できる、という悪魔の囁きにも似た誘惑に晒され、その誘惑に抗って何とか常識と折り合いをつけようと腐心しているのが独我論的現象一元論者なのである。もし過去も未来も他我も「存在しない」と仮定するならば、現象がなぜ立ち現われるのかという問題も、マクタガートのパラドックスも、他我の問題も消去されるからであり、全てが現前する「この現象」内部で完結的かつ完璧に説明できるのだ。そこは論理のユートピアであり実存のディストピアなのである。

立ち現われ一元論の困難、「一秒だけの世界」が論理的に成り立ってしまうというような受け入れ難い結論からの脱却は、大森最晩年の論文である「時は流れず」で永久主義的な時間論を提案したことで試みられている(『時は流れず』pp.100-101)。死を間近にして形而上学を提案せざるを得なかったと私は解釈している。この論文の提案では、大森がそれまでカントの物自体になぞらえて「過去自体」と呼んでいた不可知の過去世界の実在性が取り込まれている。

ところが奇妙なことに中島はこの重要な時間論を取り上げておらず、「時は流れず」には特に新しいもの無しと軽く読み流している(p.216)。これは中島同様に大森の弟子である野矢茂樹が大森哲学の解説書で件の時間論を取り上げ、「大森自身は紆余曲折を経て「時は流れず」という結論に到達した」と述べていることと対照的である(『大森荘蔵――哲学の見本』p.213)。

野矢の解釈では、大森はアウグスティヌス的な時間論へ到達したということである。私もそのように解釈すべきだと考える。やはり中島は、大森の「動機」への斟酌が足りなかったように思える。

結局、中島が無理な解釈をしたのは、二元論の立場から現象一元論批判を通じて、「過去時間」と「意識作用」の実在性を認めるべきだという主張をしたかったからなのだと思う。しかし大森に成り代わっていうわけではないが、大森同様に現象一元論者である私の感想は、中島の主張には「全く説得されなかった」ということである。「過去時間」も「意識作用」も、中島はその実在性を論証できなかったと私は判定する。

本書には他にも多くの異論があるが、あまりに細かいことなので言及は控えておく。

ともあれ、本書では興味深い大森の個人的エピソードなどが紹介されていて、それだけでも読んだ価値はあったと思う。特にすばらしいと思ったのは、「どのように哲学するべきか」と尋ねた中島に対し、大森が「やりすぎることです」と答えたエピソードである。(p.122)

確かに大森の著作からは、常識などに配慮することなく「徹底的にやる」という貪欲な哲学的精神が行間から飛び出すほどの勢いで伝わってくる。

私もその大森の精神を見習っている。

戸田山和久『哲学入門』

本書は自然主義哲学、あるいは認知科学の解説書というべきものである。哲学入門と題するに相応しい一般向けの内容はほとんどない。

戸田山は2002年の『知識の哲学』において「認識論の自然化」を主張していた。本書はその方向性を進めたものであるが、『知識の哲学』との大きな違いは唯物論を旗幟鮮明に打ち出している点である。

私は戸田山とは対極の現象主義という立場である。ここでは現象主義の立場から、心の哲学に関連した問題に限定して本書を批評したい。

まず戸田山は、この世界にあるものは物理的なものだけだと主張し(p.24)、物理的なもの以外を「存在もどき」と切り捨てる。その後で自然主義の定義として、
科学的知見と科学的説明とを使いながら哲学し、また哲学説も科学的知見によって反証されることを認める立場(p.34)

と述べる。ここまでは個人的信条の問題なのだが、その定義に続けて戸田山は、
言い換えれば、科学の一部として哲学をやろうぜという立場を自然主義と言う。私は、この意味での自然主義者だ。科学の手の及ばない、哲学だけでやれる領域を確保するために頑張る、というのはどう考えても不毛だ。

と述べている。これはミスリーディングであり、唯物論と自然主義の抱き合わせ商法とでもいうべき解説方法だ。唯物論と自然主義は直結しているわけではない。両者の大きな違いは、唯物論とは「物質だけが実在である」と主張する形而上学であり、自然主義とは形而上学的な「実在」にコミットせず実用的実在論を前提にする方法論である、ということだ。

ところが本書では戸田山自身が唯物論者であることを宣言し、次に「科学の一部として哲学をやろうぜという立場」と自身が自然主義者であることを宣言して、唯物論と自然主義が一体であるかのように読者を誤解させるようになっている。これは詐術である。自然主義とは形而上学にコミットせず科学的知見を哲学に取り入れるという一方法論に過ぎないのだから、唯物論ではなく現象主義と併せて主張することもできるのである。

しかも「科学の手の及ばない、哲学だけでやれる領域を確保するために頑張る、というのはどう考えても不毛だ」という戸田山の考えは偏狭に過ぎる。そもそも科学者の大多数は科学によって哲学的な問題が全て解消するなどと誇大妄想はしていない。そんな妄想をするのは科学の成功を唯物論の成功だと勘違いしている一部の哲学者ぐらいのものだろう。

当の科学者たちは慎重である。科学と哲学が地続きの学問であることは承知していても、科学はその手法のゆえに研究対象が制限されていることから、哲学的問題にコミットすることを科学者は忌避するものである。いわく「――から先は哲学の問題になります」などと。物理学でも「実在」という語は用いられるのだが、それはあくまで物理理論内部の用語であり、形而上学的な含意はない。ホーキングが徹底した唯物論者であることは有名だが、彼は例外的であり、大多数の科学者は「物質的なものだけが実在である」などという形而上学的な主張はしていない。

戸田山の唯物論はプラトン的な形而上学である。プラトンのイデア論では、人が直接経験できないイデアだけが真の「実在」であり、人の経験する多様な現象は全て仮象のものだとみなす。唯物論はそれと似ており、人の経験する多様な現象を「物的」と「心的」に分けて、物的なものだけが「実在」と対応して存在し、心的なものは仮象とみなして、物的実在に還元できるとみなす。ところが「物的実在」なるものを見た者は人類史上誰もいない。原理的に人間が経験できない物的実在を措定した上で、その物的実在によって全ての現象が説明できるという主張は、まさにプラトン主義的な形而上学というしかないものである。

もちろん誰がどのような形而上学を構想しようが自由なのであるが、戸田山の非難されるべき点は自身の唯物論が正当である事を全く論証していないことである。

心の哲学において唯物論に対する最大の批判は、クオリアの存在論的身分を巡る問題である。クオリアは物的実在に「還元できる」という主張は、クオリアについて何も説明していないという主旨の批判が、チャーマーズなど二元論の立場から「ハードプロブレム」としてなされ、クリプキなど言語哲学の立場からもなされている。戸田山はそれらに何の応答もしない。

ただし戸田山は還元主義では心的なものの存在が十分説明できないことを認めており(pp.22-24)、還元主義の代替として「発生的観点」というものを提唱する(p.30)。これは心的なものの存在を進化論的に説明しようとするものであり、本書ではその観点から表象や自由意志といったものの説明を試みるミリカンらの説が紹介されている。

しかしその発生的観点とは、クオリアの存在を巡る議論において還元主義に指摘されている難点を補完する方法論ではない。たとえば素粒子が宇宙の歴史においてどのような脈絡で生じたかを問うことと、素粒子の正体とはそもそも何であるかを問うことは別の問題である。戸田山の先祖が誰々であるかを調べても戸田山という人間の本性が理解できるわけではない。同様に表象やクオリアの来歴を説明できたからといって、クオリアの正体が明らかになるわけではない。

本書第1章におけるサールの「中国語の部屋」についての議論は、クオリアの存在論と関連しているに関わらず、戸田山は「理解」という語の定義に焦点を当てており、問題を矮小化しているような印象を受ける。しかも戸田山のサール批判は成功していない。

まず戸田山は、チューリングテストは「知能」のテストであって「意味の理解」のテストではない、とサールを批判する(p.52)。これは脈絡を無視したような批判である。

そもそも中国語の部屋という思考実験は、脳とコンピューターを類似のものとみなす立場に対する批判として提唱されたものである。1978年にダニエル・デネットが主張した「コンピューター機能主義」においては、脳による心的表象の処理は構文的構造をもった記号操作であるとし、物質的な脳と心の関係もそれと同様であり、コンピューターのハードとソフトの関係に等しいと考える。このようなコンピューター機能主義に対し、サールは人工知能を、人間の思考を模倣できる「弱いAI」と、人間同様の心を持つ「強いAI」に分類した上で、強いAIが不可能なことを1980年に中国語の部屋として論じたのである。

戸田山は中国語の部屋に「意味の理解」がないことを一旦認めている。そして意味の理解がない理由は、中国語の部屋が「行為しないから」、また「会話以外何もしないから」と述べる(pp.55-56)。しかしこれはサールが「意味の理解がない」ということで示した「クオリアの不在」という問題を置き去りにした話の進め方である。

また戸田山は、「心」というのはあまりに曖昧すぎるため考察の対象とはしない(p.60)、と述べながらも、以降はロボットがどういう状況になれば「心」を持ったといえるようになるかを考察し、ロボットが心を持つのは、「機械が自分自身の問題をもつようになったとき」(p.62)と明確に定義している。

これは自ら「心とは曖昧」といいながら、その概念の曖昧さに依拠して、なおかつクオリアの不在問題を棚上げして「ロボットは心を持てる」と主張していることになる。

チャーマーズは「意識」を機能的側面と現象的側面(クオリア)に分けている。この二分法から派生した思考実験が「哲学的ゾンビ」である。この思考実験に対しては様々の賛否があるものの、意識というものに客観的にアクセス可能な側面と、主観的にしかアクセスできない側面という二面性があることは事実である。

ロボットが機能的な意識(弱いAI)を持てることはサールも他の誰も否定していない。問題はクオリアを持てるか否かであり、「ロボットには心がない」という場合、それは「クオリアがない」という意味なのである。

クオリアは主観的なものであり、第三者がアクセスできないことはわかっているのだから、動物であるにせよ他人であるにせよロボットであるにせよ、自分以外の何かに「クオリアがある」と認めるということは、クオリアがあるという「事実」を認めることにはなり得ない。それはクオリアがあるとする信念の妥当性を認めることであり、厳密にはその信念がどのような理由で形成されたかという「根拠」の妥当性を認めることである。

サールはタンパク質は意味を生むことができるがシリコンはできないという。戸田山はそのサールを批判し、
われわれの脳が意味の理解を生み出せるのは、それがタンパク質でできているからでない。タンパク質が生命とともに歩んできた分子だからである。シリコンにはまだその歴史が欠けている(p.65)

と述べるが、この「歴史」という根拠は妥当ではない。戸田山は『知識の哲学』において、デカルトの方法論を内在主義的であると批判し、知識の自然化を主張していたはずである。ならば個人的信念や直観というもので根拠の妥当性を主張できないはずだ。

どのような根拠があれば他者にクオリア(心)があると認められるかという問題については、脳科学の知見を根拠とした公的基準がある。まず人間には誰であってもクオリアがあると認められている。刑法もそれを裏づけしている。そして人間の脳に近い構造をしている哺乳類にもクオリアがあると認められている。だから動物の虐待を禁止する法律がある。しかし人間の脳と構造がかけ離れている魚類や昆虫などには動物愛護法は適用されない(堆積のパラドックスはあるが、その問題は省略する)。

つまり自然科学の知見によれば、シリコンや石地蔵や藁人形にクオリアがあるとは認められない。仮に不思議な風が吹いて藁人形が人間のように踊ったとしても、そこにクオリアはない。シリコンによって制御されるロボットが人間のように行動したとしても同じことである。問題は歴史ではない。

本書の第2章以降はミリカン、シャノン、ドレツキなどの説が紹介されるが、正直私には興味のない分野であり、批評は差し控える。

最後に、本書を含めた戸田山の哲学そのものに対する疑問を呈しておきたい。哲学者によって考究している問題は異なる。問題が異なれば当然アプローチの仕方も異なる。世の中には顕微鏡を使うべき問題があれば望遠鏡を使うべき問題もあるだろう。最新の流行が顕微鏡ならば、「星を見るのにも顕微鏡を使おう」と言い出す粗忽者がいるかもしれない。私は戸田山の基礎付け主義批判や性質二元論批判にそんな粗忽さを感じる。

鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう: 意識のハード・プロブレムに挑む』

本書の内容の大半は表象理論の解説である。書名は「表象理論の立場から意識のハード・プロブレムに挑む」とすべきであったように思う。意識のハード・プロブレムに興味をもった哲学初学者が読めるような易しい内容ではなく、心の哲学について相応の事前知識がないと読み進めることは困難である。ともあれ私は表象理論についてこれだけ細かく解説した本を読んだことがなかったので、値段相応の情報価値はあったと思っている。

しかし表象理論によって意識のハード・プロブレムの解決を試みる論者たちの議論には、首肯できる部分が私にはほとんどなく、読了後はクオリアの自然化は不可能だという結論に達した。ここでは著者の鈴木だけでなく、クオリアを自然化しようとする自然主義者たちに対する反駁を試みたい。

まず「自然主義」そのものの定義を明確化する必要があるだろう。しかしこの語の定義は論者に大きく異なっているようである。私の知るところでは以下の三つの定義があるように思う。
定義1: 自然科学の知見を前提にし、それに反することなく哲学を行う
定義2: 自然科学の方法で哲学を行う
定義3: 自然科学の方法のみで哲学を行い、かつその方法のみで認識論や存在論の問題は解決できると考える

定義1は広義の自然主義と言うべきもので、小林道夫が主張している。この定義が正しいならばカントも大森荘蔵も自然主義者である。定義2はチャーマーズなど現代の二元論者の立場であり、意図的に定義を厳密にせず解釈の余地を広げている。定義3は狭義の自然主義と言うべきもので物理主義と直結しており、「物理主義的自然主義」と言ってもよいだろう。ダニエル・デネット、ポール・チャーチランド、信原幸弘、鈴木貴之などの立場である。

現代の分析哲学で単に「自然主義」と言う場合、定義3の立場を指すことが多いように思われる。この立場はクオリアの存在論的還元または消去を前提にする。つまり世界に存在するものは物理的なものだけであり、心脳問題は自然科学の方法だけで解決できるとする強い形而上学的含意がある。逆に定義1と定義2ではクオリアの存在論的還元を必ずしも前提していない。

鈴木は「物理主義」と「自然化」を次のように説明する。私の分類した定義3である。
この世界に存在するものは、すべて、ミクロ物理的な存在者か、ミクロ物理的な存在者によって構成された存在者か、ミクロ物理的な存在者によって実現された存在者のいずれかである。
ある現象に構成による説明や実現による説明を与え、その現象が自然科学的な枠組みのもとで理解可能であることを示すことは、自然化(naturalization)と呼ばれる。この言葉を用いれば、物理主義とは、すべての現象は自然化可能だと考える立場だということになる。(p.19)

この自然主義は倒錯していると私は考えている。小林道夫が繰り返し論じているように、ガリレオやデカルトによって始められた近代科学の方法論とは、人が経験する多様な現象たちの内、数量化不可能な物事を排除し、数量化可能な物事のみを対象とすることによって成立しているのだ。人の経験の大部分を占める感覚知覚や思惟、主観性や志向性といったものを対象としないという方法論が自然科学なのであり、それらを自然化しようとする定義3の物理主義的自然主義は自然科学の方法と対立しているということになる。つまり定義3は「自然主義」を自称すること自体が既に矛盾であると考えることもできる。

ところが鈴木はこの最初の矛盾に全く言及していない。定義3の偏狭な自然主義に対する批判は、上述の小林だけでなく大森荘蔵や大陸哲学の論者からも頻繁になされているにも関わらずである。これは鈴木の議論がクワイン以降の分析哲学に限定されているからだと思われる。もちろん範囲を限定することは鈴木の勝手であるが、近代科学の方法論の成立について最低限紹介しておくのが読者に対する良心だったと思う。

鈴木は、意識の自然化は不可能だと主張する論者は二つの論証を提示しているとして、「思考可能性論証」と「知識論証」を紹介している。

クオリア逆転の思考可能性については、内的整合性を疑うべき理由があるとして次のように述べる。
(……)色の知覚経験においては、赤クオリアと緑クオリアは対照的であり、橙クオリアは赤クオリアと黄クオリアの中間に位置するといった関係が成り立つ。このような関係は、それぞれのクオリアにとって本質的であるように思われる。
このような事実があるために、色にかんする多くのクオリア逆転は思考不可能となるたとえば、さまざまなクオリアがランダムに入れ替わるという変化の仕方は、思考不可能だ。(p.37)

確かに或る色は隣接する他の色と本質的な関係を持つために、一つの色のクオリアだけが逆転していると考えることは難しい。しかし青と赤のクオリアが逆転している人ならば、当然黄や橙、その他全ての色のクオリアも通常の人のクオリアと異なっているはずだ。ソシュールは、語は他の語との差異と関係によって意味が与えられると考えた。実際、或る言語の語体系と別の言語の語体系を相関させれば、日本語と英語のように双方の個別の単語は翻訳可能である。色のクオリアが逆転した人と通常の人の関係もそうなのであって、個別の色のクオリアが通常の人のクオリアと異なっている人がいても、両者の色のクオリア体系全体が相関し合っていれば日常生活や対話に何の支障もないのである。

ゾンビ論証に対しても鈴木は同様に内的整合性に疑問を呈している。しかし、そもそもクリプキの議論に想を得てチャーマーズが主張したゾンビ論証の眼目とは、物的なものを指す語と心的なものを指す語は指示対象が異なっており、つまりは認識のされ方として異なるものは存在として異なっている可能性が否定できない、というものであった。このゾンビ論証に対してデネットは『スウィート・ドリームズ』で「ゾンビ感覚」や「直観」と繰り返し批判しているのだが、これは感覚や直観の問題ではないのだ。実際に物的なものと心的なものは異なった認識のされ方をしており、認識として異なるならば存在論的に異なる可能性が自動的に生じるという「事実問題」なのである。思考可能性論証に対する批判者はこの認識論的事実を軽視しがちである。この事実を重視するならば、主観的存在者と客観的存在者という、融合させ難い存在者間の対立を認めることになり、思考可能性論証の妥当性が理解されるだろう。

本書第7章ではフランク・ジャクソンの知識論証「メアリーの部屋」が検証されている。モノクロの部屋で生まれ育ったメアリーは、赤についての物理学的知識と機能を全て学んだとしても、部屋を出て実際に赤いものを見たなら新たな体験をするはずであり、したがって世界には非物理的なものが存在する、というのがジャクソンの思考実験であった。

私はジャクソンの論証は成功していると考える。先に述べたように、定義としてクオリアは「物理的なもの」には含まれていないからであり、それを排除することによって近代科学は始まったからである。ジャクソンは自明な事実を指摘しただけなのだ。ちなみにこの論証に対してデネットはさまざまな批判を加えているが、その一つには、メアリーは全ての物理学的知識を持っているのだから、脳の神経活動を操作することによって「赤」を見たときと同じ脳状態にし、モノクロの部屋の中でも色彩体験をすることができるはずだ、という杜撰なものもある。クオリアが脳の活動と相関(神経相関)していることは誰も否定しない。メアリーが神経相関の知識でクオリアを相関させることができるという事実があったとしても、それはクオリアもまた物理的なものであり、かつ物理的知識であるという証明にはならない。

鈴木はジャクソンの論証に対し、「メアリーは全てを知らなかった」とするハーマンの応答、「メアリーは新たな知識を獲得しない」とするデネットの応答などを紹介し、いずれも批判的に退け、次のように述べている。
ある経験と、その経験にかんする説明の経験は、経験として等価ではないのだ。さらに、世界にかんする命題的な知識をどれだけ獲得しても、問題の知識を獲得することはできない。意識経験は世界にかんする非命題的な知識であり、命題的な知識とは異質なものだからだ。(p.206)

つまり鈴木は命題的な知識(三人称的・科学的記述)と、非命題的な知識(一人称的・クオリア)のギャップを認めている。鈴木は物理主義を標榜しながらもデネットらとは異なり、チャーマーズなど二元論者の主張に接近しているように思える。実際次のようにも書いている。
意識の自然化における物理主義者の真の課題とは、意識経験を他のものに還元することではなく、意識経験に物理的な世界における独自の身分を与えることなのだ。(p.178)

ジャクソンの知識論証を部分的に認めた上で、鈴木はこのギャップが物理主義的に理解可能なものであるとし、以下のように論拠を挙げて最終的には物理主義が正しいと論じる。
◎本来的表象は、その因果的機能によって定義できる。
◎経験される性質そのものは物理的性質に還元できないが、ある特定の経験される性質を内容とする表象を生物が持つことは、その表象と行動の関係にもとづいて、物理主義的に理解できる。
◎本来的表象が非概念的な内容を持つことは、物理主義的に説明可能であり、それゆえ、知覚と思考の違いも物理主義的に理解できる。(p.218)
※「本来的表象」とはクオリアのことであり、文字や記号などの「派生的表象」と対置される概念である。

この説明はチャーマーズが言うイージー・プロブレムでしかない。脳とクオリアは事実として相関している。「どのように相関しているか」を探求するのがイージー・プロブレムであった。対してハード・プロブレムとは「なぜ相関するか」という脳とクオリアとの存在論的な関係、つまり脳とクオリアは同一なのか、非同一ならなぜ相関できるのかという問題であり、またクオリアが一体どのような原理で生じるかという問題なのだった。本書の書名のように、人を構成する原子一つ一つにはクオリアの存在は認められない(原意識を想定する立場もあるが)。ならばその原子たちの組み合わせによって、なぜクオリアが構成されるのだろう?

鈴木も経験される性質(クオリア)が物理的性質に還元できないことを認めている。認識のされ方として異なるのならば存在としても異なる可能性があると主張するのが現代の二元論者であった。ところが鈴木の説明は発生的観点に尽きている。物理的なものの因果系列のどの過程でクオリアが生じるかを説明できたとしても、それは脳とクオリアが存在論的に同一であるか非同一であるかという問題の解決にはならず、また物質である脳からどのような原理でクオリアが生じるかという問題ともかかわりがない。

結局、意識のハード・プロブレムは何も解決していない。クオリアの自然化は不可能なのだと私は考える。

鈴木は志向説(表象理論)に対する重大な反例は存在しないと判定している(p.84)。これはあまりにもバイアスがかかった見方だ。

表象理論の最大の問題は、クオリアの主観的性質を説明できないことである。表象理論は志向性の問題を解消するために、表象内容(クオリア)が志向対象そのものの性質であると仮定した。しかしこれではクオリアが客観世界に存在するということになってしまう。つまり「客観的クオリア」というものを認めるしかないのである。これは矛盾した存在だろう。それは「誰にも経験されないクオリア」があるということである。誰も痛くないのに「痛みがある」というのは一体どういうことだろう?

信原幸弘は『意識の哲学 クオリア序説』で表象理論が抱える「客観的クオリア」の問題について次のように説明している。
(……)このような客観的な痛みとはいったいどのような痛みなのであろうか。(……)「痛く感じられない痛み」とはどのような痛みなのだろうか。
客観的な痛みがどのような性質かを述べようとしても、われわれは「痛く感じられるときのその痛みである」としかいいようがない。(p.154)
(……)
客観的性質はたしかに認知者の認識から独立の性質であるが、認知者の認識とまったく無縁なわけではない。ある対象がある客観的性質をもつといえるのは、それを認識しうる認知者に相対的にのみそうなのである。そのような認知者を考慮に入れなければ、その対象は性質をもつとも、もたないともいえない。(……)確かに世界は認知者の個別の認識からは独立である。鉄が原子量56であるために、ある認知者がそれを認識している必要はない。しかし、鉄が原子量56であることがそもそも意味をなすためには、それを認識しうる認知者が存在しなければならない。鉄は客観的に原子量56であるが、絶対的な意味で客観的に原子量56なのではなく、そのような認知者に相対的な意味で客観的にそうなのである。(p.158)

この信原の説明は意味論と存在論が混同されている。「鉄は原子量56である」という言葉が意味をなさなければ、原子量56という鉄の性質が客観的に、つまり主観から独立して存在できない、とは言えないからである。おそらく信原自身も自分の説明が成功しているとは思っていないだろう。

信原の説明の混乱は、クオリアの自然化、換言するなら「主観性の客観化」というものがいかに倒錯した試みであるかをよく表している。

鈴木は、著書の最後でこれまでの自説を検討し、次のように謙虚に述懐している。
これまでの議論はそれなりに筋の通ったもののように見える。しかし、そこにはきっと、致命的な誤りや混乱や飛躍があるのだろう。(……)では、わたしはどこで間違ったのだろうか。

私から見ると、鈴木や信原の致命的な間違いとはクオリアの自然化という点にある。繰り返し述べたようにそれは矛盾した行為だからだ。私は最初に「自然主義」には三つの定義がありうることを論じた。「自然科学の方法のみで哲学を行い、かつその方法のみで認識論や存在論の問題は解決できると考える」と考えるのが定義3の物理主義的自然主義とでも言うべきものであった。

物理主義と直結させる自然主義が間違っているのである。私は自然科学の知見は尊重するべきであると考える。しかし自然科学の方法のみで認識論や存在論の問題が解決できると考えるのは科学に対する過信である。鈴木は次のように述べている。
(……)物質の究極的な構成要素、宇宙の起源、ヒトの進化の歴史といった問題にたいして、われわれは、いまのところよい答えを持ち合わせていない。しかしその理由は、これらの問題に答えるために必要なデータをわれわれがまだ手にしていないから、あるいは問題がきわめて複雑であるために、すでに手元にあるデータを説明できる理論をまだ発見できていないからだ。これらの問題にたいするよい答えをわれわれが現在持ち合わせていない理由は、技術的または時間的な制約にあるのだ。科学技術が十分に進歩すれば、われわれは問題の解決に必要なデータをすべて手に入れることができるだろう。(p.12)

このような鈴木の考え方は、現代の物理主義的自然主義者に共通のものだろう。彼らはカントがアンチノミーという形で論じた人間理性の限界を忘却している。宇宙の歴史に始まりはあるか、あるいは無限なのか? 宇宙に果てはあるか、あるいは無限なのか? 物事の因果関係の究極原因はあるのか、あるいは無限なのか? ――これらの問題には原理的に解答できない、とするのがカントの「理性批判」である。

カントのアンチノミーが解決できないのは鈴木が言うような技術的・時間的制約によるものではない。それらは原理的に答えが出せないのである。宇宙の始まりや因果系列の最初に神や無のようなの究極原因を想定するのは不合理である。しかし逆に「無限の物事が存在する」というのは「自然数が完結して存在する」と言うに等しい語義矛盾である。ちなみに現代物理学でもビッグバン以前の宇宙や、観測可能な宇宙の外部についてさまざまな仮説が出されているが、それら仮説は古代哲学者たちのアイデアを超えるものではない。

自然科学は確かに多くの成功を成し遂げている。しかし自然科学が成功しているという事実は、決して自然科学で全ての哲学問題が解決するということ、また世界の全てが物理的なものだということを意味しない。それらの点を物理主義的自然主義者は十分わきまえていないと思える。

カントの理性批判とは、理性の限界を示し、理性の権化である科学によって解明できる範囲と、解明できない範囲を画定することであった。カントの論証は成功している。科学の方法には論理的に限界があることがわかっているのだ。したがって物理主義的自然主義は最初から間違っているのである。

表象理論とは、現代の自然科学の知見と無理やり整合させるためにクオリアの自然化、換言するなら主観性の客観化という矛盾を犯し、その矛盾を解消するために新たな概念を次々とでっち上げ、継ぎはぎだらけで完成させた不細工な理論である。あちこちの継ぎ目から水漏れのように疑念がこぼれてくる。この理論が物理主義的な立場からクオリアを説明する最も有望な理論だとされているのは、クオリアの自然化と物理主義的解明が不可能であることを示唆していると思える。

ところでデネットは『スウィート・ドリームズ』で、クオリアと意識のハード・プロブレムについて、「哲学者だけでなく哲学以外の分野の研究者をも等しく混乱させて、誤解させている哲学的問題」だと批判し(邦訳 p.3)、一貫してハード・プロブレムを否定し、物理主義的自然主義を擁護している。

しかし私からすれば、物理主義的自然主義というものが、自然科学の領域に「物的なものだけが実在である」という途方もない形而上学を科学的知見で偽装して密輸して科学者を混乱させるものである。一般に科学者は物理主義という形而上学にコミットしていないし、する必要もない。

デネットらが物理主義を擁護する論法を要約すれば次のようになるだろう。
前提: 自然科学は成功している
結論: 物理主義的自然主義は正しい

これは詐術である。神経相関が解明され、クオリアの発生的・進化論的説明ができたからといって、クオリアの存在論が解消するわけではないし、ハード・プロブレムは解決しないことは上述したとおりである。「自然主義」は正しいと言うことはできるが、「物理主義的自然主義」が正しいと言うのは論理の飛躍である。

華々しい科学の成功に幻惑されて、カントが批判した理性の限界を忘れ、乗り遅れるな急げとばかりに科学に便乗する者がいる。かつて詩人ランボーはあきれて言った。「そら科学だ、どいつもこいつも飛びついた」。哲学者も飛びついて自分の哲学に科学という箔を付けた。

私が最も主張したいことは次のことである。

自然科学の方法で哲学を行うのは結構である。科学者と同じ船に乗るのも結構である。しかし科学の船に物理主義という形而上学をこっそり持ち込むべきではない。


入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』

本書は運命論に関する古今東西の諸説を網羅し、解説・批判を加えた上で、入不二の哲学である「現実性」の視座から運命論を論考するものである。日本語で読める運命論の書としては情報量の多さは圧倒的である。本書の多くは初学者にもわかりやすく解説されているのだが、入不二が他者の理解可能性など顧慮することなく自説を論じた部分もあって、難易度が高い部分も少なくない。

運命論は時間論と不可分の問題である。私は運命論の議論には詳しくないのだが、時間論と入不二の現実性の哲学は私の関心の対象であり、主にその二つの観点から本書を評したい。

入不二は人の時間理解について、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱに分けている。(第15章)

時間原理Ⅰとは、「等質的な時間推移」と「時制的な視点移動」という二要因からなり、「現在も過去においては未来だったし、未来もやがては現在になり過去になる」と考えるもので、これはマクタガートが定義したA理論的な時間理解である。

時間原理Ⅱとは、「時制推移の相対性」と「時制区分(未来)の絶対性」という二要因からなる。これは、未来を「完全に無い」ものとして扱うものであり、「未来もやがては現在になる」とは表現できず、未来と現在および過去には「無」と「有」との関係に等しい絶対的な断絶があるとする時間理解である。

まず私が疑問に思ったのは、「永久主義」の位置づけが不明瞭なことである。時間原理Ⅰに含まれているように解釈できるし、最初から全く除外しているようにも解釈できるのだ。

永久主義は過去・現在・未来の物事が全てがひと塊の実体(四次元時空)として存在すると考える形而上学である。現代分析形而上学の時間論では、マクタガートの時間論を巡ってA理論(時制理論)支持者と、B理論(無時制理論)支持者の論争が盛んであるが、B理論は一般に永久主義を前提としている。永久主義は紀元前の空疎な形而上学というわけではなく、現代では相対性理論が永久主義の理論的支柱になっており、支持者も多い。

仮に時間の形而上学として永久主義が正しいとするならば、それは即ち運命論が正しいということになる。永久主義においては未来は「既に」存在しているのだから、この立場では論理的運命論者が用いる排中律などは不要であり、同一律によって「AならばA」というように「存在するならば存在する」として未来は決定している――いや、「決定」とすら言うことも無意味であり、地球上で私が行ったことのない場所が私の知識に関わらず存在しているように、未来はただ「存在する」としか言えないようなものである。

永久主義は運命論を支持するものというより、運命論の議論そのものを無意味にする破壊力がある。参考までに佐金武は『時間にとって十全なこの世界 現在主義の哲学とその可能性』で永久主義の論駁に多くの紙幅を割いた上で、現在主義を擁護する論証と、運命論への反駁を行っている。佐金の書は論証の手続きとしてはお手本のように堅実な内容であり、これは佐金が永久主義の破壊力を意識していたことの裏返しでもあるだろう。

入不二の分類による時間原理Ⅰと時間原理Ⅱは、いずれもA理論内の分類であると解釈することができる。時間原理Ⅰは過去・現在・未来がそれぞれ認識論的に特権的で、無時制な表現に還元できないとするものであり、これはマクタガートの定義によるA理論、そしてA‐B混成理論(移動スポットライト説)が対応するだろう。そして時間原理Ⅱは存在論的に未来を完全に「ない」ものとするものであり、これは現在主義と成長ブロック宇宙説が対応するだろう。入不二の分類ではB理論・永久主義の位置づけは不明瞭である。

佐金がそうしたように、永久主義を阻却しなければ運命論の議論は始めることすらできないのだから、入不二は永久主義を時間原理Ⅲとして扱うべきであったように思う。

ただし別の見方をすれば、永久主義では運命論は議論にすらならないのだから、最初から除外したと憶測することはできる。また入不二の場合は「現実性」の視座から運命論を論じているため、未来は「現実」には経験できないのだから、永久主義といっても時間原理Ⅰに含めることができると考えたのかもしれない。いずれにせよ永久主義は極めて破壊力がある時間の形而上学なので、位置づけは明確にすべきだったように思う。

次に「現実性」の哲学について私が疑問を感じた部分を述べる。

入不二は第5章で、「現実と夢」「現実と理想」など、「現実」の概念が多くの対比相手を持つことを述べ、現実の概念は反対物を包摂することを論じる。
現実をX、対比項をYで表すならば、X={X vs. Y}と図式化できる。「現実X」は、{ }内に現れる対比項の一つ(部分)であると同時に、その両者を包摂する{ }の全体でもある。これが、現実の「反対物包摂」である。(p.69)

以上のような説明を見ると、現実性の哲学が微妙なポジションにあるよう私には思える。現実性の哲学は実在をめぐる論争にコミットできないはずである。実在や神やゾンビ世界は不可知なのが「現実」だからである。つまり現実性の哲学とは実在に対する判断を停止している(ある種の現象学的な)ものと解釈するしかないのだが、ここに矛盾を感じるのだ。現実性の哲学は明らかに認識論のみならず存在論にコミットしているからである。

実在論は正しいか否かのどちらかである。ゾンビ世界もあるかないかのどちらかである。この場合、「現実性と実在論」「現実性とゾンビ世界肯定論」は対立構造にはなりえない。対立するのは「実在論と観念論」「ゾンビ世界肯定論とゾンビ世界否定論」である。現実性の哲学はそれぞれの「論争」を包摂することはできるだろう。しかし現実性の観点からは、不可知であることがわかっている実在やゾンビ世界の可能性を語ることはできない。にも関わらず入不二の議論にはより踏み込んだ主張が含まれているように思える。入不二は「現実」と「現実感」が異なることを主張し、次のように「現実性」を特徴付ける。
感覚が現実性を与えるのではなく、逆であって、現実性が感覚に付与されるのである
〔……〕
「腰に痛みを感じる」ようには「現実を感じる」ことはできない。「現実」は「腰の痛み」と並べられるような一つの体験内容・対象ではないからである。むしろ「現実」は、「現に腰に痛みを感じる」や「腰に痛みを現実に感じる」のように、体験内容の外側から副詞的に付加されるしかない。(p.73)
「現実」と「感じる」という体験との関係は、切り離すことのできる(外的な)関係にある。(p.74)
〔……〕現実の現実性は、現実感ではない。現実性と現実感のあいだには、決定的な懸隔がある。
以上のように、現実は、反対物を包摂し反対物へも浸透して、対比の論理から溢れ出してしまう。また現実は、どんな認識論的な補足からも逃れて先行し、副詞的に外的に働くことによって、体験からも溢れ出してしまう。現実の現実性はそのように過剰である。(p.74)

確かに「現実」イコール「現実感」ではない。しかし「感じる」ことは「現実」であることの十分条件である。私からすると「現実性のない感覚」とは矛盾概念でしかない。いや「過去の痛み」や「他人の痛み」には現実性がなく、「現実の痛み」は「この痛み」だけであり、「この痛み」の現実性は本質的に記述不可能ではないか、という指摘はあるだろう。しかし「過去の痛み」とは「痛みの記憶」であり、「他人の痛み」は「痛みの類推」であって、「痛み」そのものではない。したがって私の考えでは、現実と感覚は「不可分」の関係であり、入不二の「現実性が感覚に付与される」という主張は理解不可能である。もちろん、感覚だけが現実だと主張しているのではない。感覚の背景にはそれをもたらす現実があり得る。その現実とは、経験可能性、あるいは経験不可能でも量子論のように既に実証された科学理論でなければならない。粒子は直接に知覚することは不可能だが、観測機械を通じて間接的に経験可能だからである。

「現実性」が認識論的な補足から先行し、外的に働くというのなら、入不二の定義する「現実性」は「真実」等の概念を侵食してしまっているように思える。つまり「現実」には経験可能性を超えた真実や実在など「メタ現実」は「現に」登場していないのに、それら経験されないものに現実性を与えた上で、それらを「感覚」と対等に扱うことによって、現実性と現実感の「決定的な懸隔」を主張しているように思えるからだ。

もちろん入不二は、それは誤解であるとして次のように反論すると私は想定する。――現実の本質は「無内包」であり、「現実」と「真実」は全く異なる概念なのだ、と。入不二は第11章において、現実性が様相の一つではなく、様相を持たないことを論じた上で、次のように述べている。
現実は、それが全てでそれしかなく、様相を持たず、特定の中身・様態に依存しない。この全一的で・無様相で・空っぽのあり方こそ、ことばの正確な意味において、「絶対現実」(対を絶する現実)と呼ぶのが相応しい。「絶対現実」とは、「現に」という現実のことであり、その全一性・無様相性・無内包性を集約した表現である。(pp.130-132)

上の文に続いて入不二は、全一的で無内包の「絶対現実」が、特定の内容・様相を持った「相対現実」へと転落することを論じている。ちなみにこの「絶対現実」と「相対現実」の区別、そして前者から後者へ転落するプロセスの説明は、永井均の独在性の問題――世界の中で自分だけが特別な存在であることの主張が、他者からも同様に主張され続けられてしまう構造(独在性の累進構造)と、同型である。

しかし私のような無主体論的な立場からすると、無内包の「現実」や〈私〉というものは理解し難い概念である。ここでデカルトの方法的懐疑が想起されるべきだろう。デカルトは『方法序説』において、疑うことが可能なものは全て疑った後、決して疑い得ないことを発見した。それが哲学史上最も有名な「我思う、ゆえに我あり」であるが、しかしデカルトはその後も慎重に分析を続け、『省察』で次のように論じている。
私は在る。私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。(第二省察)

この洞察にはデカルト哲学の真髄というべきものが現れている。「私」が思うゆえに存在するのなら、思うことをやめれば「私」は存在しない可能性がある。双方は対の論理になっているのに、後者は見落とされがちである。疑い得ない「私」を発見したことで安穏とせず、その「私」が存在しなくなる可能性を真摯に受け止めた点に、私は哲学者デカルトの偉大さを感じている。

この最も哲学的純度の高いデカルトの洞察を敷衍して考察を進めるなら、「現実性」や〈私〉があるから「痛い」や「甘い」や「美しい」があるのではない。事態はその逆であって、「痛い」や「甘い」や「美しい」があるということが即ち「現実性」や〈私〉があるということになるはずである。

もちろん〈私〉の哲学と違って「現実性」の哲学では、世界に何もなく考えるものもない場合、「何もない現実」というものが想定できるかもしれない。しかしその場合は暗に「何もない現実」を思考している人物が前提されているのであり、即ち現実性とはあくまで誰かの視点依存的な概念なのである。誰の視点にも依存しない現実とは「真実」や「実在」に他ならない。――これが上で私が主張した、現実と感覚は不可分の関係だという意味の内実である。

次に運命論について私が疑問を感じた部分を述べる。

入不二は第24章で、運命論と反・運命論も共に不完全であると判定して、次のように述べている。
けれども、これは単純な「引き分け」でも、ただの「失敗」でもない。むしろ、この事態――運命論と反・運命論の不完全なままの拮抗――が、「運命」というあり方を自ら体現している。その点まで含めた議論の遍歴の全体が、むしろ運命論の内部である。(p.294)

この入不二の判定は、「現実性」の視座から成されたバイアスのあるものであると思う。そもそも運命論とは未来の出来事について必然的か偶然的かという様相――論理的に決定されているか否かを問うもの(ゆえに運命論は「論理的決定論」とも呼ばれる)であるが、「現実」は入不二が言うように本性上、様相内に位置づけられないものであり、無理やり様相化・相対化されたものだからだ。時間原理Ⅱを前提するならばもちろん、時間原理Ⅰを前提にしても、「未来」は現実化していないのだから、「現実性」という視座から未来について語ることは困難であることが、バイアスのある判定につながっているように思う。

もっとも入不二の場合は「運命論」そのものの解釈が通常とは微妙に異なっていることに留意しておく必要はあるだろう。入不二によれば運命論とは、「論理的な必然性」でなく、「現実的な必然性(現実の不可避性)」である。(p.97、p.145)

入不二は「現実」を、必然でも偶然でもあるという〈中間〉性を持ち、現実が〈中間〉であるとは、無様相なのに(不完全な)様相を帯びることであるということを述べている(p.300)。そして入不二はその〈中間〉性を時間論へと敷衍していくのだが、この辺りの論述には微妙な強引さとわかりにくさがある。これは本性上難解な時間の哲学の説明を省略して語っているためでもあるが、現実化していない「未来」を現実性の哲学に取り込もうとするためでもあるだろう。

入不二は時間原理Ⅰと時間原理Ⅱの一方を選択するのでなく、次のように述べている。
この二つの時間原理のあいだの、終わらないオセロ的な反転関係(シーソー関係)に基づいて、私たちの「時間」は成立している。二つの時間原理が、反発しつつ協働することによって、連続でも断絶でもある時間が成立する。(p.302)

そして入不二は「未来」というものを、言語によって(不完全に)表象される「無」であり、また「現実未満の無」であり、そして現実と言語の間に独自の厚みを開くような〈中間〉と説明している。(p.302)

このような考えは「現実性」の視座から必然的に帰結する「運命論」であるのかもしれない。「未来」とは言葉の意味において、時間原理Ⅰにおいても時間原理Ⅱにおいても、やがて「現在」になるから「未来」である。〈中間〉性のある未来は現在となることによって様相が潰れ、不可避で必然的、かつ特定の内容を持った「相対現実」となる。全ての未来は現在・現実となる。――そう言えるのかもしれない。

ちなみに入不二は第19章で、テイラーの「海戦」版の論理的運命論は排中律と現在(現実)だけによって、「現在についての運命論」として圧縮・改変可能だとし、発展可能性と「現実性」の哲学との連携可能性を読み取っている。また第23章ではダメットの「遡及的な祈り」に言及し、神を介して過去に祈りが届くときは、その過去は「現在」に他ならないとしており、ここにも類似の洞察がある。――このような入不二の運命論は「現実的運命論」とでも呼ぶべきものかもしれない。

私は入不二の考えが間違っているとは思わないのだが、微妙な曖昧さを感じざるを得ない。運命論と時間論の核心問題を強引に相対化してしまったような印象を受けるのだ。

運命論は時間の形而上学と不可分、というよりは時間の形而上学に依存したものである。運命論において「未来」は決定しているか決定していないかのいずれかであり、また必然的か必然的でないかのいずれかであり、ここに〈中間〉はない。時間論においても永久主義は正しいか正しくないかのどちらかであり、〈中間〉はない。

既述したように、仮に永久主義が正しいなら同一律によって未来は「存在するならば存在する」のだから、必然性・偶然性といった「様相」などはなく、運命論の議論そのものが成り立たない。したがって運命論が議論されるのはA理論の土俵でなければならない。

そしてA理論を前提とするならば未来の様相を問うことができるが、その場合は運命論の「敗北」であると私は判定する。未来は全くの無であるとする時間原理Ⅱを前提とするならば、未来の出来事は言葉の指示対象にすらならず「決定している」と言うことは無意味である。逆に時間推移は等質的であり、「現在」は認識論的に特権的な地位を占めるのみだとする時間原理Ⅰの立場を前提するならば、未来が「決定している」と言うことは可能かもしれない。しかしその場合でも論理的運命論の武器である「排中律」のみでは、どうしても特定の出来事が決定することの「必然性」が導出できないはずである。――ただしこの判定は、運命論の主張が「あらゆる出来事は必然的である」というものであり、かつ反・運命論の主張が単にその必然性の「否定」ならば、という前提になる。反・運命論の主張がそこから進んで「現在Pでも、非Pでも行うことができる」という内容になるならば、判定は躊躇せざるを得ない。

参考までに伊佐敷隆弘は『時間様相の形而上学』で、テイラーの「オズモの物語」による運命論の論証を、「宇宙の全歴史を記述する真なる命題の集合があるなら、それらを偽に変えることはいかなる力によっても不可能」と要約する。そしてテイラーに対し、「Pならば、Pは不可避である」ということと、「〈PならばP〉は不可避である」ということは似て非なるものであり、テイラーは証明すべきことがらを推論の前提に含ませるという論点先取の誤謬を犯していると批判している。(『時間様相の形而上学』pp.112-124)

伊佐敷の批判は現在主義を前提としているが、妥当なものであると私は考える。排中律のみによっては未来の出来事の必然性は決して導出できないのだから、テイラーの運命論の論証は成功しないはずである。ただし、伊佐敷の場合は現在主義と対立する永久主義に言及せず論駁もしていないので、反・運命論の論証としては手落ちがあると思う。

入不二は運命論と反・運命論も共に不完全であると判定していた。確かにアリストテレスやテイラーの議論のみでは不完全ではあるだろうが、しかしそれが「運命論の運命」ではないだろう。

排中律のみを用いる運命論の論証には確かに限界がある。しかし時間の形而上学はどうだろう。マクタガートが試みたように時間の非実在の証明、逆に時間の実在の証明は、運命論とは異なる論理的な方法で行うことが可能であるように思う。

仮に永久主義の論証が成功したなら、それは即ち運命論の論証が成功(正確には運命論が「解消」)したということである。対照的に現在主義の論証が成功しても、それは即ち反・運命論の論証の成功にはならないが、運命論の不完全さの証明にはなるだろう。

「運命論の運命」は時間の形而上学に委ねられている。


最終更新:2017年02月06日 18:59