現象的意識の非論理性


1 「変化」という矛盾

目を閉じると闇になる。私はその闇に美女でも戦車でも銀河系でも思い浮かべることができる。そして次にはその美女も戦車も銀河系も消すことができる。これは魔法や奇跡としか形容しようのない不思議なことである。

意識に現れる現象は次々に変化する。これは一般人には当たり前のことと思われている。しかしその変化なるものは紀元前にパルメニデスが指摘したように、論理を逸脱した不思議なものである。変化とは「ある」ものが「ない」ものになることであり、「ない」ものが「ある」ものになることである。「無からは何も生じない」というのは世界の基本原理である。逆に言えば存在していた何かが無になることもない。仮に有から無への変化のみを認めるならば、全ては何も生むことのない無となり、世界には何もないはずである。したがって変化は不可能なはずである。しかし私が「美女」をイメージしながら歩いている最中に釘を踏んだならば、美女は消えて私は「激痛」に支配されるだろう。ならば先ほどいた美女は一体どこに消えたのか?

ここで、美女は「無」から生まれたのでなく、私の「意識」というものから生まれ、私の意識の内に消えたのだと思いたくなる。しかし私が暗闇に美女を思い浮かべ、次に戦車を思い浮かべたとしよう。元の暗闇のどこを探しても美女はいない。戦車のどこにも美女はいない。美女は無から生まれ、無へと消えて行ったように思える。次のように論じることもできるだろう。暗闇に美女の要素はゼロである。ゼロをいくらゼロを足しても乗じてもゼロだという論理は真である。ならば美女が生まれることは論理的に不可能である――だが私の意識ではその非論理的なことが起こっているように思える。これは一体どういうことだろう?

脳科学者や物理主義的な哲学者なら、美女のイメージ、つまりクオリアは脳細胞の活動が「生み出した」ものであり、脳細胞の活動によって「消えた」のだというだろう。だがこの場合の「生み出した」という言葉は「魔法を使った」という言葉を超える合理性をもっていない。脳科学全盛の現代においてデイヴィッド・チャーマーズが「意識のハード・プロブレム」を主張せざるを得なかった理由のひとつがここにある。

チャーマーズが提起した「意識のハード・プロブレム」は有名であるが、仔細に検討すると問題性が以下の二つに分けられる。
ハード・プロブレム1: 物的な脳と心的なクオリアはどのような関係にあるのか(心脳問題)
ハード・プロブレム2: クオリアはどのような要素で構成されるのか(クオリアの構成原理)

チャーマーズの問題提起以降、喧々諤々の議論が続いているが、未だ合理的な解答は登場していないし、今後登場する可能性さえも見当たらない。特にハード・プロブレム2の方は議論の対象になることさえ稀である。

パルメニデスは、感覚で捉えられる現象世界は変化するゆえに錯覚のようなものであるとし、現象世界を超越した「実体」の概念を措定した。パルメニデス以降の哲学者はこの「不滅の実体」という概念を継承し、生成変化する現象と不滅の実体とをどのように調和させるか腐心することになる。彼らのアイデアは、絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとするものだった。プラトンの場合それはイデア論であり、後の普遍論争の一方の立場になった。レウキッボスやデモクリトスの場合それは原子論であり、近代・現代まで続く唯物論的の源泉となった。

私は「人格の同一性」において変化と同一性の問題を論じた。この問題は意識の現象的側面、つまりクオリアにおいても根源的な問題なので、ここで再論したい。

・変化の論理的不可能性
変化とは果たして論理的に不可能なのかを改めて考える必要があるだろう。まず「無からは何も生じない」というのは世界の根本原理である。物理学にはエネルギー保存則がある。宇宙の原因であるビッグバンは「無」から始まったと説明されることもあるが、それは哲学的な意味での「無」ではなく、量子力学的に一定の「確率」を持った存在だと説明される。なお物理学的な意味での「真空」とは「最低エネルギー状態」と定義されている。またそのような小難しい物理学の知見を援用するまでも無く、自分の部屋にいきなり黄金の山が出現しないという事実によって、「無からは何も生じない」という原理は疑うことも無意味だと直観できるはずだ。また仮に無から何かが生じ、有が無になる能世界があるとするなら、その世界の人は秩序ある思考さえすることができないだろう。

ただし「無からは何も生じない」という原理が、厳密に論理法則として証明できるか否かは慎重な検討が必要である。デカルトは因果律に基づく原理だと考えた。カントは『純粋理性批判』の「超越論的原理論」で、この問題を持続性の原則から導かれた結論だと分析し、また「超越論的方法論」では、存在しないものはいかなる性質も持たないと論じている。ライプニッツの哲学では充足理由律が無からの生成を否定する根拠になる。なお Alexander R. Prussは充足理由律の特別なケースであるとしている*1

彼らの説明は首肯できるものであるが、何か物足りない感がある。私は「無からは何も生じない」という原理が、人知にとってより信頼性の高い論理法則に反するものでもあると考えている。

パルメニデスの哲学とは、同一律によって「ある」と「ない」との絶対的差異を確認することによって「なる」が不可能であるとみなし、その変化の不可能性に基づいて、変化する現象世界は仮象のものであり、実体は「一」であると主張するものであった。パルメニデスの論理は極限まで圧縮して表現されたものなので、直観的にわかりにくいかもしれない。解説が必要だろう。

「あるものはある。ないものはない」(断片6)と言うのは、「AはAであり、非Aではない」とする同一律の原理と同じであり、疑うことは不可能である。そして「ある」と「ない」の絶対的差異が確認されたなら、「ない」が「ある」になるということは不可能である。なぜなら「なる」ということは、「ない」と「ある」が同じものであるということであり、矛盾しているということである。

ここで「なる」を認めるなら「ない」と「ある」が同じだと言うのは暴論であり、何も「ない」状態から、次に何かが「ある」状態に変化するのだから矛盾ではない、と思う人がいるはずである。ところがその「変化」の概念が既に矛盾しているのである。

「変化」については、まず認識論的問題と存在論的問題を峻別しなければならない。たとえば交差点の赤信号が青信号になる場合、信号という存在の状態を記述するだけならば、「時点1では赤である」「時点2では青である」と書くのみである。赤が青に「なる」と言う場合、それは人の憶測――認識を表しているのであって、変化は存在論的な世界の事実とは言えない。

廣松渉によれば、変化とは同一でありつつ相違することであり、相違しつつも同一であり続けることであり、したがって矛盾構造を持つ概念である*2。つまり異なる時点に別々のものが並んでいるだけなら変化とは言わない。逆に異なる時点に同じものが並んでいるだけでも変化とは言わない。たとえば丸いものがあり、それが四角いものに変化しようとする場合、いずれの時点においてもそれは丸いか、そうでないかの二種類しかない。丸いものは丸く、そうでないものはそうでない。ここに変化が介入する余地は無い。したがって変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けるという矛盾したものである。同様の指摘は入不二基義も行っている。入不二はゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスを論じる過程で「時間が各瞬間から構成されているならば」という前提では変化がパラドックスを含むものであることを指摘している*3

大森荘蔵も類似の指摘を行っている。大森の議論は時間的幅を持たない「点」概念に限定されているが、大森によれば数学的に表現されるような点時刻が線形時間軸上を動くというイメージが事実とすれば、それは線形時間軸上の或る点Aと別の点Bが同一であるという矛盾であり*4、これが変化の不可能性を主張したエレア派の論拠であるとする*5。また自身の洞察を、時間の概念に矛盾があることを指摘したジョン・マクタガートの洞察と同様のものと看做している*6
※ただし大森は変化の不可能性までも認めるのでなく、変化は或る主体における属性の相違として解釈し、エレア派の主張を退けている*7。――ちなみに私は大森の哲学を自らの哲学の出発点とし、また哲学者としての大森を大変尊敬しているのだが、大森哲学の最大の欠点は変化の矛盾についての考察が浅かったことだと考えている。ここでは詳述しないが大森の「立ち現れ」一元論とは、「ない」ものであった現象が突然「立ち現れ」て「ある」ものに「なる」という矛盾を含むものだからである。大森は最晩年まで自説が孕む根源的な矛盾に苦悩していたと私は解釈している。

なお分析形而上学では、廣松が指摘した問題は「一時的内在的性質の問題」として議論されている。これは「人格の同一性」第5節で紹介した。分析形而上学の時間の哲学では、時間様相の矛盾を指摘したマクタガート時間論をベースにして、A系列支持者(現在主義者)とB系列支持者(永久主義者)の議論が主になっている。しかしそれらの議論内容は、A系列とB系列とではどちらが「時間における変化」を論理的かつ文法的に正しく説明できるかというものであり、「変化」そのものは自明なものとして前提され、議論の対象になっていない。

改めて「変化」とは何かについて考えよう。或る特定の物事が一貫して存在しなければ変化という概念が成立しない。人は時間を異にして存在する別々の存在者に、数的同一性を保っている何らかの「通時的主体」があると推理することによって変化の概念を得るのである。丸いものがあり、それが四角いものに変化するという場合、両者に質量的・時空的な同一性を見出し、丸いものが四角いものに「なる」のだろうと推理する。このように一般的には、変化とは何らかの「主体」における「属性」の相違として理解されている。そして主体と属性の関係を認めるのならば、廣松が指摘したような「同一でありつつ相違する」という矛盾を、「相違するのは属性であり、主体は同一である」として避けられる。

ところが「無からは何も生じない」という原理の場合、「ない」と「ある」にはただの一つも共通点がない。双方にあるのは「絶対的差異性」なのだから、通時的な主体を想定することなどは不可能である。したがって無からの生成とは端的に矛盾である。パルメニデスが強調したのはこのことである。

パルメニデスの哲学には三つの哲学的驚愕(タウマゼイン)があることを私は感じる。まずは「ある」について。世界には何もないのでなく何かが「ある」ということの驚き。次に「ある」と対極の「ない」について。ハイデガーの用語を借りて言うと「存在者」には全て「存在」という共通点があるが、「ある」と「ない」には何の共通点もなく、「ない」は徹底して「ない」という驚き。「ある」は端的に徹底して「ある」ものであり、「ない」は指示することも語ることもできないほど徹底して「ない」ものである。そして、それらの絶対的差異から「なる」が不可能であるということの驚き――。

以上のような考察の結果、結論は明らかである。「ない」が「ある」に「なる」のならば、それは絶対的に相互排他的な「ない」と「ある」が同じものである、あるいは何らかの同一性があるということであり、これは矛盾律に反している。

しかし無から何かが生じるのは不可能だとしても、「有から有への変化」はどうだろう。或る存在が別の存在を生じさせると考えるわけである。たとえば赤信号が青信号に変わるのを見る場合、これは絶対的な「ない」から「ある」に変化するとは言えない。プラトンや原子論者はその点に着目して、エレア派に対抗して変化を肯定しようとしたのだった。

変化は「相変化(phase change)」と「生成消滅(generation and corruption)」の二種類に分類されることがある。前者は同一の実体が存在し続けながら、その部分や性質を変化させるものである。後者は実体そのものが生まれたり消えたりする変化であり、これは実体的変化(substantial change)と呼ばれる*8

「有から有への変化」では、通時的な主体を措定して相変化の説明をすることは可能であるように思える。しかし通時的な主体が措定可能だとしても、この考え方がパラドックスに陥ることはすぐ推察できるだろう。

ある画家が風景画を描いたとする。その画に何か物足りないものを感じた画家は、一羽の鳩を描き加えたとする。この場合、元の画を主体として鳩を属性とするなら一枚の画が変化したのだと考えることもできる。しかし逆に、鳩を主体として他の要素を属性と考えてはいけない合理的理由がない。つまり通時的な何かを主体とし、その属性の相違として変化を説明する方法は、単に人の認識の在り方を説明しているに過ぎないのである。主体というものは認識論的な、人為的に定められた規約的存在者であり、存在論的には世界の事実とは言えない。

また「有から有への変化」を想定しても、「無からは何も生じない」という原理を完全に回避できるわけではない。風景画の例で言うと、キャンパスを主体として鳩を属性としても、鳩が描かれる前の絵のどこにも鳩はない。「鳩」と「非‐鳩」の関係は端的に「ある」と「ない」の関係に等しい。鳩が「ある」と言えるものならば、非‐鳩は絶対的に「ない」のである。

ここで、「無からは何も生じない」という原理とは「ない」と「ある」にはただの一つも共通点がないこと、通時的な主体を想定することが不可能だということを前提しているのであり、鳩の絵と元の絵には「存在する」という共通点があるではないか、という指摘があり得る。しかしそう簡単には行かない。ハイデガーの「存在者」と「存在」の峻別を念頭に置いて考察するならば次のように結論しなければならない。――元の絵という存在者が鳩の絵という存在者に「なる」ということは、「非‐存在」であった鳩の絵が「存在」と同一であるということである。これは明白な矛盾である。つまり鳩にせよ美女にせよ戦車にせよ、「存在者が存在する」ということは「存在者が非‐存在する」とは論理的に異なるということであり、双方にあるのは「絶対的差異性」なのである。

変化とは「ある」ものが「ない」ものになることであり、「ない」ものが「ある」ものになることである。したがってその「なる」とは、「存在者が非‐存在する」と「存在者が存在する」とが同一だとみなすことであり、端的な矛盾なのである。重要な点であるが、これは単なる「言葉」としての矛盾ではなく、「存在」としての矛盾である。人は「球形の正六面体」という矛盾した言葉を語ったり書いたりすることはできるが、世界に矛盾したものは存在しない。「存在」と「非‐存在」が同一だとみなすことは、言葉や概念に留まらず、その指示対象である「存在者の存在」の矛盾を主張しているのである。

「Aが非‐存在する」とは、Aは存在論的に完全に「ない」なのである。そして「ない」と「ある」には通時的主体が介在する余地はなく、排中律が容喙する余地もない。したがって「有から有への変化」と想定しても、「無からは何も生じない」という原理に反していることに変わりがなく、結局は「相変化」も「生成消滅」の一種だということである。

ちなみにアリストテレスは運動変化を説明するために、「質量因」「形相因」「作用因」「目的因」の四つの原理を想定している。これはパルメニデスらエレア派に対する反駁と受け取れる。このアリストテレスのアイデアで件の鳩の画を説明するならば、絵の具やキャンパスに質量因があり、画家の精神に形相因と目的因があり、描く行為に作用因があるということになる。しかしアリストテレスの説明は変化の矛盾を解消できるものではない。鳩の画が「可能態」から「現実態」に変化したとするなら、「ない」ものであった鳩の画の現実態が、「ある」ものになったということになり、結局これまで論じてきたように「無からの生成」ということになる。「現実態としての鳩の画」と「非‐現実態としての鳩の画」は「ある」と「ない」の関係に等しいのであり、可能態が現実態に「なる」とするならば、「ある」と「ない」が同じものであるということであり、やはり矛盾なのである。つまり変化の四原理を想定したアリストテレスがほんとうに変化の説明を成功させるためには、その「四原理が変化する原理」を更に想定しなければならないのである。問題は無限後退するだろう。

またアリストテレスの説明にも認識論と存在論の問題が混在している。鳩が描かれる前の画をAとし、描かれた後の画をBとするならば、「時点1ではAである」「時点2ではBである」と記述されるのみである。AがBに「なる」という変化の本性は客観的な世界のどこにも見当たらない。「なる」という概念は人の認識が便宜的に作り出したものだと言ってもよい。

ここで発想を転換し、変化とは世界の事実として存在せず、人の認識にのみあるのだと考えたらどうだろう? 通時的主体というものが人の認識に依存する規約的存在者ならば、その人の意識こそが通時的主体なのだ、と。しかしこれで問題を落着させることもできない。時点1での意識状態がAであり、時点2での意識状態がBであるならば、「時点1では意識Aである」「時点2では意識Bである」と記述されるのみである。意識Aが意識Bに「なる」というならば、双方は異なるものでありながら同一であるという件の変化の矛盾が到来する。意識Aが「ある」ものならば、それは論理的に「非‐ある」とは異なる。双方にはただの一つも共通点がなく、あるのは絶対的差異性であり、意識Aが意識Bに「なる」ことは不可能である。結局、変化を認識する意識を想定しても、意識自体の変化が説明できない。

そもそも意識内容の変化というものが「無からの生成」という問題の出発点なのであった。私が暗闇に美女を思い浮かべ、次に美女を消したとしよう。元の暗闇のどこを探しても美女はいない。美女は無から生まれ、無へと消えて行ったことになる。この変化の不合理を解消しようとして想定したのが有から有への変化や通時的主体というものであった。変化を認識する「意識の変化」を想定しても、それが矛盾しているならば変化はやはり不可能だということになる。――いや、その「意識の変化」を認識している通時的主体として更に高次の意識を想定することはできる。これは「ホムンクルス仮説」とも呼ばれる前近代的な認識モデルである。しかしこのモデルが無限後退に陥ることはすぐ推察できるだろう。そのホムンクルスの「意識の変化」を説明するのに、更にホムンクルスの中のホムンクルスを想定しなければならないからだ。

ここで「部分と全体の存在論(メレオロジー)」の観点から、人の認識に関わらず究極的に存在しているものは素粒子だけだとする「ニヒリズム」を主張することによって、変化とは全て素粒子の位置変化だとして問題を解消する試みがあり得るだろう。しかしこれは全ての存在をビリヤードの玉のごとく運動する原子に還元しようとする陳腐な原始的唯物論の類型であって、クオリアについて全く何も語っておらず、問題を棚上げしているに過ぎない。

結局、絶対的な「ない」から「ある」を認めるのでなく、「有から有への変化」のみを認めようとしても成功しない。変化はいずれも端的に矛盾だということになる。

人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書いたりするけれど、世界に矛盾したものは実在しない。したがって変化とは錯覚のようなものであるとし、その実在性を否定したパルメニデスは正しいという結論に至る(もちろんその「錯覚」とは何なのかという重大な問題があり、それは本論のテーマの一つである)。

実はこの変化の矛盾に着目して、「時間」の不可能性をより厳密に論理的な形式で表現したのが、ジョン・マクタガートによる時間の非実在の証明である。パルメニデスがシンプルな詩で表した同一律による変化の不可能性は、現代時間論までつながる難問なのである。

時間の問題は後に論じるとして、とりあえず次節では意識内容の変化という問題が、哲学でどのように論じられてきたかを概観したい。

2 心の哲学における「変化」の説明

パルメニデスが変化の不可能性を主張して以降の哲学者は、変化する現象と不滅の実体とを調和させるため腐心した。プラトンは周知の通りイデア論を提唱した。不滅の実体とはイデアであり、人が感覚するものはイデアの似像のようなものであるとした。対して原子論の提唱者たちは、不滅の実体は原子のみだとし、人の意識内容の変化を原子の離合集散によって説明しようとした。なおデモクリトスは「魂の原子」も想定しており、意識内容の変化を魂の原子の作用として考えていた。

彼らの説明が成功していないことは明らかだろう。私が暗闇に美女の姿を思い描いたとする。そのイメージが「美女のイデア」の似姿だとしても、その似姿としての美女のイメージは確かに存在している。美女のイメージを思い描く前の暗闇のどこにも美女のイメージは存在しない。イデアなる実体を想定したとしても、変化とは現前する美女のイメージが「ない」状態から「ある」状態へと「なる」ことであり、矛盾である。原子論、また意識内容の変化を魂の作用だと考える立場にも同様の不合理がある。

英国経験論にはジョン・ロックから始まる「観念連合」のアイデアがある。しかしこれは諸々の観念がどのようなプロセスで現れるかという、観念と観念と隣接関係を解明しようとする試みである。なおロックは二次性質(心的なもの)は、一次性質(物的なもの)から生み出されると考えており、原子論の影響がある。さらにロックは意識の作用を担う実体として「魂」も措定している。そのロックに反してデイヴィッド・ヒュームは一次性質と二次性質の区分を廃し、さらに魂のような人格の同一性を担う主体も否定した。ヒュームの哲学において存在するものは絶え間なく現れては消えていく知覚のみである。しかしヒュームはその知覚がどのようなプロセスで現れるかという問題(知覚と知覚の隣接関係)を考究しているものの、その知覚がどのような原理で構成されるかという問題を棚上げしている。

心身問題の歴史は長い。しかしその議論の中心はあくまで心的なものと物的なものの関係の内実を巡るものであって、意識内容がどのような原理で変化しているのかを論じた者はほとんどいない。これは驚くべきことだろう。魂であれ原子であれ不滅の実体を措定したとしても、現前する意識内容、クオリアは変化する。或るクオリアをAとするなら、Aは非Aではない。ところがクオリアの変化とはAが非Aに「なる」ということである。これは矛盾である。歴史史上の哲学者の大半はこの現前する矛盾に着眼していなかったのである。

ところで現代の心の哲学においては、クオリアの存在論について、「還元」「創発」「汎経験説」などが提唱されている。その三つを概観してみよう。

・還元主義
還元主義には二種類ある。一つは心脳同一説であり、クオリアは脳の作用と同一であるとみなす。つまり脳状態と心的状態は、「落雷とは電荷の放電である」、「明けの明星と宵の明星は同一である」というように、同一の出来事の二つの概念、または同一のものの二つの見え方だと考えるものである。同一説は或るタイプの脳の状態と或るタイプの心的状態との同一性を主張するタイプ物理主義から、個別(トークン)の脳の状態と個別の心的状態との同一性を主張するトークン物理主義へと発展し、トークン物理主義は現代物理主義の主流的立場となっている。しかしこれらの説がクオリアの変化という不合理を解消するものでないのは明らかである。心と脳が「同一」であると仮定するならば「心的因果」の問題は解消するのだが、物的な脳の活動からいかにしてクオリアが生じるかという問題は置き去りにされているのである。なおチャーマーズによれば「落雷」とはアプリオリな知識(一次内包)であり、「電荷の放電」とはアポステオリな知識(二次内包)である。一次内包概念と二次内包概念は論理的につながらない。つまり二次内包概念の説明の延長によって一次内包概念を説明することはできない。また脳状態は分割可能であり、全体は部分の総和を超えることはなく、エネルギー保存則も守られている。しかし心的性質は分割不可能であり、全体は部分の総和を超え、エネルギー保存則を云々する意味がない。脳状態の変化に従って、なぜ「甘い」が「懐かしい」に変化し、「切ないメロディ」が「虫歯が痛い」に変化するのか、合理的説明など求めようもない。

もう一つの還元主義は消去主義的唯物論である。この立場では「信念」や「欲求」といった心的状態は錯覚であると考え、科学史上のフロギストンやエーテルといった概念と同種のものであり、脳についての理解が深まった際には捨て去られ、神経科学の用語に置き換えられるべき概念であるとする。最もラディカルな消去主義の論者は、クオリアもまた消去可能だと考える*9。しかしこの消去主義が稚拙なカテゴリー錯誤を犯しているのは明らかである。フロギストンやエーテルは現象を説明するために措定された存在である。それに対してクオリアは何かを説明するための仮定ではなく、何かを説明するための出発点であり、現実に人が経験しているものなのである。

人が経験するクオリアは多様である。山や海を見たときの一つの視覚風景には、形容しがたいほどの多様性がある。メルロ=ポンティはそれを現象の「無規定性」と呼んだ。ウィリアム・ジェイムズの「純粋経験」やアンリ・ベルクソンの「純粋持続」も同じ洞察に基づいている。人が言語によって表現できるのはその多様性のほんの一部なのである。さらに人が言語によって表現できるものは、数量化できるものと数量化できないものに分けられる。前者が「物的」と呼ばれ、後者が「心的」と呼ばれる。心的なものの豊饒性を捨てて世界を記述する現代科学の方法を、大森荘蔵は「自然の死物化」と呼んだ*10。消去主義的唯物論とは、人が現実に経験している多様なクオリアのうちから、言語化可能なもの以外を捨象し、さらに言語化可能なもののうちから数量化不可能なものを捨象し、数量化可能なもののみが「実在」であると主張するものである。これは人の認識論的事実に反しており、法外な形而上学である。

ヘレン・ケラーは視覚と聴覚がなかったが、サリバン先生から触覚を通じて言語を習得することができた。しかし、もし視覚と聴覚だけでなく五感すべてを失って、何のクオリアも得ることがなかったなら、何も学ぶことはできなかっただろう。クオリアは人の認識の出発点であり、それがなければ何も経験できないものである。そのクオリアという出発点から研究を始めて、物理主義的な方法である数量化にクオリアが適合しないからといって、クオリアの実在性を否定しようとするのは、小手先の辻褄合わせで本末を転倒させたコメディーである。

なおトークン物理主義を前提にした理論に表象理論(志向説)がある。ロックにおいては物質的対象に属するのは質量や延長量(一時性質)のみとされていたが、現代分析哲学の表象理論では色や音や味(二次性質)も物質的対象に属すると考える。しかしこの表象理論はクオリアがどのような原理で構成されるかを全く説明していない。

・創発説
創発説とは、物質が特定の配置を取ったとき、すなわち脳を構成したときに初めてクオリアが現れるという説である。創発(emergence)とは、システムの全体が実現する性質は、そのシステムを構成する個々の要素が持っていないということであり、システム全体の性質は個々の要素の総和を超えているということである。たとえば水の分子構造はH2Oである。しかし水の性質はH2Oという記号によっては表現できない。またH2Oは二個の水素原子と一個の酸素原子の結合を表しているが、H2Oが実現する性質は水素原子、酸素原子のいずれも単独で実現できないのである。H2Oの物理特性は構成要素の可算からは得られない。したがって「創発特性」なのである*11。創発説の論者は物的なものの優位を認める物理主義的な立場ではあるが、心的なものを物的なものに還元することを拒否し、還元主義とは一線を画している。

しかし創発説は同一説と同様に、クオリアの生成変化の説明をしていないのは明らかだろう。水素原子や酸素原子の性質はロックの分類によれば一次性質として説明可能である。そしてH2Oという分子も、創発とされる分子の性質も原子たちの振る舞いによって説明可能であり、それも一次性質として数学的・幾何学的に記述可能である。またH2Oがいくら集まっても、それらを構成する水素原子と酸素原子、さらにそれら原子を構成する電子や陽子の総量、エネルギー量は変わらない(エネルギー保存則)。つまり「創発」の実質とは、或る法則に従って振舞っていた個別の原子たちが、H2Oなどのマクロな状態になると別の法則によって振舞うようになったというだけのことである。要約すると、一次性質をいかに加減乗除・変形させても二次性質の創発は説明できないのである。創発説は肝心のクオリアが創発するメカニズムを全く説明できない。結局「創発する」という言葉は「魔法を使う」という言葉を超える合理性を持っていないのである。

・汎経験説
汎経験説とは、世界に遍く存在する「原意識」の組み合わせによってクオリアが生成されると考える。汎心論とも呼ばれる。還元主義に反対する性質二元論や中立一元論の立場から主張される。一時期のバートランド・ラッセルやチャーマーズがこの立場であり、心の哲学では唯一クオリアの変化という「不思議」を構成的に説明しようとする試みである。汎経験説では石や金属にも原意識があることを認める。チャーマーズによれば人が経験するようなクオリアは物質が特定の「機能」を持つときに発生する。したがってサーモスタットやトースターにも意識があると認めることになる。ちなみにチャーマーズ同様に還元主義に反対するジョン・サールは、「中国語の部屋」という思考実験によってコンピューターがクオリアを持つことはできないと主張したが、チャーマーズによればコンピューターは意識の「機能」を持つのでクオリアも持つことになる。

しかし原意識の組み合わせとは、結局のところクオリアを原子論的な方法で説明しようとするものである。つまり物事をよりミクロな根源的原理に還元して説明する物理学的な方法論を心的なものに適用している。そのため甚だしく直観に反した結論が導かれる。原意識の組み合わせという案を単純化して例えると、「赤」が三十七個集まれば「痛み」になるというようなものであり、「痛み」に「愛しい」を三つ足して「苦い」で割れば「郷愁」になるというようなものである。このような説明のどこにも論理はない。単純なナンセンスなのである。

クオリアは全一的である。「赤」や「愛」の二分の一など考えることも無意味である。人は赤い絵の具に白い絵の具を混ぜて「赤」を薄めたものを作れるだろうが、それは「ピンク」というものであって「赤」の二分の一ではない。また赤い板を割って二分の一にすることはできるが、それは「赤」が二分の一にされたのではなく、空間で隔たれた二つの「赤」が生まれたのである。これがクオリアの全一性である。どのようなクオリアも他の何かに還元して説明できない全一的性質を持っている。

結局、現代の心の哲学においてクオリアの生成と変化をどう説明するかという問題については、論理的とは言い難い稚拙なアイデアしか考案されていない。トマス・ハックスリーは十九世紀末に、「神経組織の活動によって意識状態という驚くべきものが出現することは、物語のアラジンが魔法のランプをこすれば魔人が現れることのようだ」と心的現象の不思議さを表現したが、百年以上経った現代でも、その不思議さは全く解消されていない。

残念なことに多くの哲学者や脳科学者は、おとぎの国の魔法使いが杖を振ればペガサスやユニコーンやエルフが出現するように、脳のニューロンが活動すれば美女や戦車や銀河系などのクオリアが出現すると考えているのである。おとぎの国においても少し賢い人物がいるなら、魔法使いが杖を特定の振り方をした時のみペガサスが出現し、別の特定の振り方をした時のみユニコーンが出現することを突き止めるかもしれない。魔法の杖の振り方とペガサスなどの出現の相関関係を見抜いたことによって、その少し賢い人物は高らかに宣言するかもしれない。いわく「謎は全て解けた」と。もちろんそれは大いなる的外れである。

ただチャーマーズが神経科学的な説明に満足せず、汎心論という甚だしく直観に反した主張をしたのは、クオリアの変化に対する哲学的驚愕(タウマゼイン)の裏返しであり、それが意識のハード・プロブレムの提唱につながっていると私は解釈している。

第1節で紹介した意識のハード・プロブレムの二つの問題を再掲する。
ハード・プロブレム1: 物質的な脳と心的なクオリアはどのような関係にあるのか(心脳問題)
ハード・プロブレム2: 個別のクオリアはどのような要素で構成されるのか(クオリアの構成原理)

チャーマーズは二つの問題について説得的な解答を案出することが出来なかったと私は考えているが、しかしクオリアは現代科学で説明不可能な摩訶不思議なものであるという問題を提起しただけでもチャーマーズは評価されるべきだろう。

チャーマーズは次のように述べている。
機能構成がシリコン・チップに実現されていようが中国の人々に実現されていようが、はたまたビール缶とピンポン玉に実現されていようが、そんなことは問題にならない。機能構成が正しいかぎり、意識を伴う経験は確定されるだろう。*12

このチャーマーズの主張についてサールは、「ばかげたこと」、また「神経生物学的に途方もない示唆である」と批判している*13。そのサールの批判に対し、チャーマーズは次のように応答している。
〔……〕そしてサールは、単純なシステム(サーモスタットのような)が意識のために要請される「構造」を持たないと述べている。しかしこれがまさに問題となっている主張であり、サールはその主張を支持するための議論をいっさい提供していない。(もしどんな種類の構造が意識のために要請されるのか知っていたならば、心身問題は半分解決されたことになるだろう)だから、われわれは出発したところに放置されている。汎心論は反直観的なままであるが、それを探求の始めから除外することはできない*14

このチャーマーズの主張はサールの「中国語の部屋」の思考実験を逆用したものと見ることもできる。「中国語の部屋」を簡略に説明すると次のようになる。――中国語を知らない英国人が、中国語が書かれたカードを英語で暗記したルールに従って、中国人とカードのやり取りをする。すると第三者には中国語によるコミュニケーションが成立しているように見えるのだが、英国人は実際には中国語の意味を理解していない――。これはまさに単純なシステムが意識を構成する条件を満たしていないことを示唆するものであった。

続いてチャーマーズは次のようにサールを批判している。
ひとたび、間違い、不正確な表現、そして感情を取り除くならば、われわれに残されているのはたんにサールの「脳が意識を引き起こす」という万能の批判である。この呪文(少なくとも十回は繰り返されている)は、明らかに大いなる知恵の源たることを意図されているが、問題をほとんど何も解決していない。その呪文は私の見解すべてとまったく両立可能である。われわれはただ原因と結果を区別し、その呪文が、脳だけが意識を引き起こすことを意味しない点に注意する必要がある。実際、サールの主張はたんに問題の言明なのであり、解決策ではない。もしそのことを受け入れるならば、本当の問いは次のようなものになる。なぜ脳は意識を引き起こすのか。脳のどの属性によってか。関連のある因果法則は何か。サールはこれらの問いについて何も言わない。*15

チャーマーズが、サールいわく「ばかげた」汎心論的な示唆をしたのは、そもそもクオリアの変化というものが「無からの生成」を含む摩訶不思議で「ばかげた」ことだからであり、その摩訶不思議に対するタウマゼインがあったからなのは明らかだろう。ひと度そのタウマゼインに知性が震撼したならば素朴な直観と常識に留まっていることはできない。しかし残念なことに、チャーマーズの汎心論は成功していない。

パルメニデスは「ある」と「ない」の絶対的差異から「なる」を否定した。パルメニデスの変化の否定に対し、後の哲学者たちは絶対的な「ない」から「ある」に変化するというのでなく、見かけの変化の根底に不変の基体があるとして変化を肯定しようとしたのだった。チャーマーズの汎心論は古代原子論者の発想と同じものである。しかしこの原子論的な方法でクオリアの変化を説明できないことは既述した通りである。またサールの説明も成功していない。チャーマーズは創発説の立場をとるサールに対し、「脳が意識を引き起こす」というのは「呪文」でしかないと反論している。この批判は全く妥当なものである。創発説は「無からの生成」を主張しているのだから。

サールとチャーマーズのユーモラスな議論は、クオリアの存在論が衝撃的なほどの難問であることを示唆しているように思える。また物理主義によるクオリアの還元的な説明は、前述のようにクオリアが構成される原理について何も説明しないのだった。意識のハード・プロブレムに解答するということは、クオリアが現れるプロセスでなくクオリアが構成される原理の説明なのだが、チャーマーズ以外の大半の論者がそれを避けているのは、物理的対象には可能な「構成」の説明方法がクオリアには適用できないことを直観しているからだろう。

ところで物理主義にも二元論にも反対し、心的なものと物的なものの関係の内実や、クオリアがどのような原理で構成されるかという問題は、現在の人類の能力で解明することはできないとする立場がある。これは「新神秘主義(New mysterianism)」と呼ばれ、代表的な論者にコリン・マッギンがいる。トマス・ネーゲルもこの立場に分類されることがある。マッギンは自分の立場を超越論的自然主義(Transcendental naturalism)と呼ぶ。「超越論的」とはイマヌエル・カントの超越論的哲学の意味である。カントは人の認識能力がア・プリオリな形式によって制限されているために、その制限を超えた認識はできないと考えた。カントと同様にマッギンは人に備わった認識能力では、ハード・プロブレムは解消できないと考えるのである。

マッギンの説明は一見、説得的に思える。現前するクオリアは常に変化している。しかしクオリアの変化は物理的対象には可能な構成による説明ができない。ならば人類の能力では解明できない未知の法則によってクオリアは変化し、また物的なものとの相関関係の内実も人類には知りえない未知の法則があるのだ、と思いたくなる。

しかしマッギンのアイデアはクオリアが変化するという「現前する矛盾」を解消するものではない。今一度、確認しておこう。赤信号が青信号に変化する場合、赤が「ある」のものならば青は「ない」ものである。従って赤が青になるのならば「ある」が「ない」に「なる」ということであり、これは矛盾である。変化の根底に不変の何かを措定しようと、未知の原理を措定しようと、現前する矛盾は解消できない。

問題なのは、現前する矛盾が「存在」だということである。これが「言葉」ならば矛盾していても不都合がない。人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書くことがよくある。したがって言葉の矛盾は人の認識の錯乱を表していると考えればよいだけである。しかしクオリアは存在である。私が赤信号を見ている場合、その赤のクオリアは確かに存在している。仮に「赤」という言葉で元のクオリアを的確に表現できていないとしても、言葉で表現される前の「赤のような何か」が存在していることは確かである。そして信号が青になれば「赤のような何か」は消えている。

「錯覚論法」と呼ばれるものがある。水を満たしたコップの中に真っ直ぐな形の箸を入れると、光の屈折で箸が曲がって見える。見えている曲がった箸は何なのか? それは実在しないといわれても、現実に見えている曲がった箸の心的イメージが存在することは事実である。幻であれ錯覚であれ、知覚経験(クオリア)は確かに存在し、その経験が錯覚か事実かは「後に」判断されるとするのが錯覚論法である。デカルトは全てを疑っても、疑っている「何か」の存在は疑うことは無意味だと考えた。錯覚であれ幻であれ、心的イメージ=クオリアの存在は疑い得ない。ヘレン・ケラーを例に挙げて論じたように、それは人の経験の出発点である。大森荘蔵は錯覚であれ幻であれ、心的経験を「最も原初的な意味での存在」だとしている*16。つまり錯覚だとか実在だというものは、原初的な存在である心的経験から分類されたものだとみなすのである。これは優れた洞察、というより端的に事実を指摘しただけである。

しかし世界に矛盾したものは存在しない。

クオリアの変化とは「言葉」ではなく「存在」としての矛盾である。存在は矛盾できないはずである。マッギンの説明は成功していない。未知の原理は確かにあるかも知れない。しかしそれはクオリアの変化という摩訶不思議を解消できるものではない。矛盾を肯定する原理などは存在しない。

哲学の歴史上、この現前する矛盾を深刻に受け止めた者は僅かである。チャーマーズ以前の哲学者としては、トマス・アクィナスやルネ・デカルトがその僅かな例として挙げられるかもしれない。彼らは神による「世界連続創造」を主張した。現在世界が存在しているからといって、未来にも世界が存在するはずだという信念には論理的根拠が見出せない。このことから時間の持続とは神による連続的な世界の創造だとみなした。つまり「変化」とは、神が瞬間ごとに新しい世界を創造することに他ならないということである。トマスは昼間の明るさが太陽からの光の連続した流入によって保存されるように、世界の存続は神による「存在を授けるという作用」の連続によるものであるとした。デカルトは方法的懐疑によって疑い得ない「私」の存在を確認したが、しかしその「私」が現時点に存在するという事実から、直前の瞬間に存在したこと、また次の瞬間に存在することは論理的に導けない。したがって「私」の持続を説明するために神の意志を措定した。世界が持続的に保存される作用は、神が世界を創造した作用と全く同じものであり、存在の持続・変化はその時々の創造にほかならないと考えた。

彼らの連続創造説が示唆するものは何だろう。それは変化というものがどうしても「無からの生成」という不合理を含むものであること、そして変化という摩訶不思議を解消可能なのは、無から世界を創造する神の権能しかないということだろう。

神でなければ変化の摩訶不思議は説明できない。しかし説明に神を持ち出すということは現代哲学の議論としては反則であり、何も説明しないということである。

この節の結論を出そう。現代心の哲学でも、私が暗闇に思い浮かべそして暗闇へと消した美女の行方は皆目見当がつかないということである。つまり「変化は不可能である」というパルメニデスのアポリアは、解決不能のまま2500年経った今も残っているということである。

3 実在論の無意味

私はこれまでクオリアが変化することの摩訶不思議と、変化がそもそも矛盾であり、不可能であることを論じてきた。以上の論考から導かれる結論の一つに、実在論がその意味を喪失するということがある。

一般人は自分の心の外部に実在する世界が広がっていると素朴に信じている。心的世界と、外部の実在世界を分けた方が生活の実践が上手く行くからである。この素朴な世界観を素朴実在論、または実用的実在論と言う。形而上学的実在論や科学的実在論とは素朴実在論の「実在」を、便宜的なものと看做さず「形而上学的に実在する」と主張する立場である。しかし形而上学的な実在というものを措定したとしても、意識内容が変化するという摩訶不思議は何も解消されない。

おそらく意識内容が変化することの不思議に最初に気付いた哲学者はジョージ・バークリーだろう。バークリーはロックが想定した物質の一次性質と二次性質の区分を批判した。一次性質とは延長、形、運動、数のように物体に固有の性質である。二次性質とは色、音、香、味といった人の知覚に固有の性質である。しかし物質固有の性質とされる一次性質も実際は知覚によってしか存在が確かめられないとバークリーは看破した。素朴実在論的に物質的実在と思っているものは、実は全て知覚でしかない可能性を認めるしかない。

また知覚によらず、理性の推論によっても物質の実在は証明できない。なぜなら夢や幻覚では心から独立の物理対象を知覚しているように思えるが、実際には感覚器官には何も与えられていない。このような洞察からバークリーは、かの有名な「存在するとは知覚されることである」という哲学原理を宣言することになる。

むろんバークリーに対しては轟々たる非難があった。「存在=知覚」ということならば、誰も月を見ていない時は月が消えることになり、誰かが月を見た時にまた月は生まれることになる。これは全く不合理なことであり、批判したくもなるだろう。しかしこのような批判に対するバークリーの反論は、理性が震撼せざるを得ないほど見事なものであり、哲学史上に輝く秀逸な洞察だと私は受け止めている。バークリーは『人知原理論』で次のように主張した(以下は私の意訳)。
反対論者は、私の説が事物を瞬間ごとに消滅させては創造する不合理に陥ると攻撃する。しかしこの不合理をもって私は既存の哲学原理を深く攻撃できる。私が瞼を閉じれば周囲のあらゆる事物が無に帰着することは不合理と考えられる。しかしこれは哲学者が次のような場合に共通に承認するところではないか。
光と色彩は知覚される以上に少しでも長く存在しない感覚にほかならない。

色彩も香りも音楽も人が知覚するのをやめれば消えてしまう。そして知覚された時のみ生まれる。物事が瞬間ごとに創造され、また消えるというのは信じ難いと思うのは当然であるが、実は人間が経験するものは全て、瞬間ごとに消えてはまた創造される不合理なものなのである。

このバークリーの秀逸な洞察を、後世の哲学者のほとんどは見落としている。実在論者がバークリーに対して、「私が月を見るのをやめたら月は消えるのか」と批判する素朴な心境は理解できる。しかしそれは不思議さの場所を見間違えた批判である。仮に月の実在を認めたとしても、私が月を見るのをやめれば月のイメージは消える。ならば月のイメージはどこに消えたのか? 

仮に月なるものが実在すると仮定しても、そんなものはクオリアが生成し、変化し、消滅するという摩訶不思議を説明するのに何の糞役にも立たないのである。

大森荘蔵は経験を超越した「実在」を措定する実在論を批判して次のように述べている。
経験に先立つ存在ということに意味がない、と結論せざるを得ないのである。〔……〕
歴史的にそういう意味が形成されたり制作されたことがない、という事実報告をしているのである。意味の歴史的不在を言っているのである。そしていわゆる(素朴)実在論者がこの報告に反駁する仕方はただ一つしかない。
先行存在の意味を了解可能な形で自ら制作してみせることである。
この事態に科学者、その大部分が自称実在論者である科学者が不安をおぼえる必要は毛頭ない。前節までに述べてきた存在の経験的意味こそ、科学者が実際に使用してきた実在論の意味だからである。科学者が必要とし、またその研究室で現在実用しているのは、存在のこの経験的意味なのであって、自分で願っているような先行存在の意味ではない。無いものを使える道理がないからである。*17

科学者たち、そして一般の人々が使っている「実在」という言葉の意味は、経験に先立つ世界にはないこと、そして形而上学的な実在というものを科学者たちは使用したことがないことを大森は指摘している。

形而上学的実在論を主張する物理主義者たちの多くは、知覚については表象主義者である。ロックは二次性質(心的なもの)は、一次性質(物的なもの)から生み出されると考えた。たとえば人がリンゴを見る場合、リンゴから反射された光が人の目に入り、リンゴの知覚像を作る。二次性質は一次性質を「表象」するものであるとする。これが表象説である。ロックの存在論は素朴実在論を敷衍した形而上学的実在論である。生成し消滅する二次性質を、不滅の一次性質を想定することで説明しようとしたわけであるが、この実在論では二次性質の変化が何も説明できないことはバークリーが指摘した通りである。

物理主義者は人が現実に経験する多様な現象のうちから、言語化可能なもの以外を捨象し、さらに言語化可能なもののうちから数量化不可能なものを捨象し、数量化可能なもののみが「実在」であると主張する。しかし実際に人が経験しているものたちは常に、視覚的なクオリアであり、聴覚的なクオリアであり、嗅覚的なクオリアであり、味覚的なクオリアであり、触覚的なクオリアである。思考的なものもクオリアの一種として分類できる。要するに人の経験は「全てクオリア」である。これは認識論的な事実である。

このような事実を再確認することから意識のハード・プロブレム(この場合は心脳問題)の解決法として、二元論ではなく、物的一元論(物理主義)でもない、もう一つの立場が有力な候補として登場することになる。それが心的一元論である。これは現象主義や観念論、あるいは唯心論と呼ばれる。

心的一元論に対しては、物的なものの実在を否定するものだという批判がある。しかしそれは素朴な誤解である。先に紹介した大森の文の主旨は、人が使用している「実在」という語の意味はあくまで経験世界内部にあるもので、「経験を超えた実在」を措定することは無意味だということである。たとえば私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消える。しかし目を開けると再びモニターが見える。――このようなクオリア経験の秩序や規則を説明するために制作されたのが実在という概念である。私が見ることができる「実在のモニター」は他人も見る事ができる。だからモニターが故障した場合は修理に出して他人によって直してもらうことができる。――このような一連の経験の連鎖のどこにも「形而上学的な実在」というものは登場しない。大森の言っているのはそういうことである。

ところでバークリーは、形而上学的実在が知覚経験を引き起こすという実在論の仮説に一定の理があることを認めている。しかし実在論を認めた場合は、必然的に心身二元論のアポリアを抱え込むことになる。実在論は「心にあるもの」と、「心の外部の実在」の二分法を前提に成り立っているからである。実在論とは、心的なものは物的なものに還元できるという一元論的な物理主義の主張であっても、後にジョン・サールが指摘したように還元しなければならないものを認めている点で、実は二元論の一種なのである。これは節約の原理(オッカムの剃刀)に反している。したがってバークリーは実在を否定し、「存在するとは知覚されることである」という観念論を徹底することになる。このバークリーの方法論的な現象主義はデイヴィッド・ヒュームに継承され、ヒュームは因果関係や自己の実在性まで懐疑するラディカルな主張を行った。近代の科学者であるエルンスト・マッハもバークリーやヒュームと同型の現象主義を主張した。そして後に詳述するが、大森荘蔵が提唱した「重ね描き」と「立ち現われ一元論」は現代現象主義の到達点といえる。

もちろん、心的一元論には重大な形而上学的含意がある。実在というものが諸々の経験に内在的なものだとするならば、それは私の経験、つまり「私の心」を離れて存在するものを否定する、または不可知であるとすることになる。私が目を閉じるとモニターは消え、目を開けると再びモニターが見える。モニターの知覚像は実在に分類されるものであっても、厳密に言うならば視覚的クオリアなのである。モニターを「他人」と置き換えても同じことになる。つまり実在とはクオリアの一種であるとするならば、他人たちも(私の)クオリアの一種ということになり、これは認識論的な独我論となる。これが心的一元論の重大な形而上学的含意である。

しかしそれは経験的事実であることを認めるしかない。「形而上学的実在」や「他人の心」というものを経験した人は誰もいない。それは原理的に経験できないものだからだ。

そもそも「実在」とは何であるか改めて考えるべきだろう。たとえばパーティー会場のテーブルにリンゴがある。或る人が食べようと思って手を伸ばしたのだが、リンゴを掴むことができなかったとする。その人はリンゴの視覚像が錯覚なのだと思うだろう。また仮にリンゴを掴むことができ、かじって味を味わうことができたなら、その人はリンゴの実在を疑わないだろう。しかし他の人たちにはそのリンゴが見えなかったらどうだろう? リンゴを食べている人に他の人たちは「何をしているの?」と聞く。その人はもちろん「リンゴを食べているんです」と答える。他の人々は「リンゴなんて見えません」と言う。その人は驚いて自分が齧るリンゴを改めて見直し、他の人々にリンゴを持つ手を差し出して「リンゴは確かにあります」と言う。他の人たちはその手を見てやはりリンゴがないのを確認し、そしてその手に次々と自分の手を重ねて、「やはりリンゴは見えませんし触れることもできません」と言う。するとリンゴを食べていると思っていた人は、さすがにリンゴの実在と自分の正気を疑わざるを得ないはずだ。

以上のように人の実在についての信念形成のプロセスを吟味してみると、結局のところ実在とは個別の知覚の「重ね合わせ」ということになる。存在は知覚によって確かめられるしかない。多くの知覚で確かめられる存在が実在的だということである。もちろんここには「他人」たちも知覚の一種であるという含意がある。或る存在を確かめる知覚の数とその存在の実在性の高さは比例するというだけである。実在というものに経験を超越した特権性など見つからない
※なお複数の知覚の「重ね合わせ」がなぜ成り立ち得るかという重大な問題はあるが、これは第6節で論じる。

「形而上学的実在」というものはオッカムの剃刀によって消去されるべき存在論的余剰物だと私は考えている。そんな意味不明のものを措定せずとも人の一連の秩序正しい経験は説明可能なのである。と言うよりは「秩序」こそが「実在」なのである。私の前のパソコンのモニターは、私が目を閉じると消えるが、再び目を開けると姿を現す――。この経験から推論できるのは、或る行為としてのクオリアには或る結果としてのクオリアが必然的に伴うという、クオリア経験の「秩序」の存在だけである。つまり秩序正しく現れるクオリアを「実在」と呼んでいるのである。「他人」というのも同様である。もちろん私が「他人とは知覚の一種である」と言ったとしたら、他人たちは「自分は実在している」と異議を唱えるだろう。しかその異議も「私の知覚」の一部である。これは認識論的な事実であり、疑うことは無意味である。

以上のような私の主張は現象主義、または現象一元論と呼ばれるものであり、また認識論的な独我論でもある。そのエッセンスは以下のようなものである。
現象主義: 確実に存在していると言えるのは現前する現象(クオリア)だけであり、他の物事の実在性は一連のクオリア経験から推測された仮説的なものである

これは心的一元論のテーゼというべきものである。同様のテーゼを主張したバークリーの観念論が独我論として批判されたゆえんでもある。しかしバークリーや大森の心的一元論が独我論だとしても、それは認識論的な事実を主張しているのみであって、彼らは存在論的なレベルで「他我は実在しない」と主張しているのではない。他人たちは私の知覚という形で現れる。その知覚像に「私」とは別の「心」が相関していたとしても矛盾ではないからである。結局の所「他我」とはその「相関可能性」ということになる。バークリーも大森もその相関可能性は疑わなかっただろう。私もそうである。心的一元論においては、自分とは別の心というものがあったとしても不可知であるゆえに、存在論の問題にはならないとするものである。認識論的事実としての独我論と、存在論的な形而上学としての独我論には断絶があるということである。

4 物理法則の内在性

心的一元論にはいくつかの難点が指摘されている。まずバークリーに対しては「存在=知覚」とするならば、事物を瞬間ごとに消滅させては創造する不合理に陥るという批判があった。しかしこのような素朴な批判に対するバークリーの反駁は見事なものであり、色や味や痛みなどの二次性質の生成と消滅は誰もが認めているというものだった。後世の実在論者たちは誰もこのバークリーの反駁に対する再反駁に成功していない。しかし心的一元論の難点は他にもある。

信原幸弘は心的一元論に対し、次のような主旨の批判をしている。*18
批判1: 目を閉じれば物は消えるが、目を開ければ再び見えるという「現れ」の秩序の存在が説明できない
批判2: 心的一元論では「無意識」という心的状態を否定するので、無意識的とされる人の行動が説明できない

批判1について、数や形といった一次性質の生成と消滅も認めるバークリーは、観念が去来する秩序を説明するために、自分が知覚していないときでも神が全てを知覚しているという仮定をしていた。しかし現代哲学の議論で神の存在を持ち出すのは反則であろう。

私の前のパソコンのモニターは、目を閉じると消えるが、再び目を開けると姿を現す。この経験から明らかになる「事実」とは、前節で論じたように決してモニターという物質的実在があるということではない。或る行為としてのクオリアには或る結果としてのクオリアが必然的に伴うという、クオリア経験の「秩序」の存在だけであり、換言すると現象が去来することに「規則性」があるということである。

この場合最も重要なことは、規則性とは現象(クオリア)たちの関係であり、したがって一連の現象に「内在」しているということである。たとえば視覚像の規則性は次のように表すことができる。
目を閉じる→視覚像の消滅→目を開ける→視覚像の出現→目を閉じる→視覚像の消滅→目を開ける→視覚像の出現→……

或る状況下で或る現象が起こったとする。次に同じタイプの状況下で同じタイプの現象が起こる。そのように規則的な現象を恒常的に経験する。そこから帰納的推論によってデイヴィッド・ヒュームは「自然の斉一性」を提唱したのだった。自然科学にはさまざまな「法則」があるが、それら法則はみな自然の斉一性を前提している。ヒュームの哲学において極めて重要な点は、科学の諸法則が「意識内在的」であるということである。

私がテーブルにサイコロを見たとする。サイコロは形而上学的な意味での「実在」ではなく、バークリーが言う意味での「存在(知覚・クオリア)」である。サイコロには経験によって確かめられた(もしくは確かめることが可能な)クオリアを現す法則が存在するからこそ、私が目を閉じてサイコロが消えても、再びサイコロが見えるという「秩序」がある。――このような解釈によって信原の批判1は回避できる。

私がサイコロを持ったとき手に感じる触覚的クオリアも「存在」である。その触覚的クオリアを現す法則は、最初見たサイコロの視覚的クオリアに内在していたものである。――ここで視覚的クオリアに触覚的クオリアの情報は無いはずだ、という指摘があるかもしれない。しかしサイコロの視覚的クオリアには触覚的クオリアを秩序正しく現す法則があることを人は「経験」によって知っている(もしくは知り得る)のである。したがって人が目で見たサイコロを掴んだ場合に、角ばったような触覚的クオリアが現れるのは必然的なのである。

ちなみに通常のサイコロは六面体であり、表と裏の目の数を足すと七になる。そしてサイコロの上の目が一であるとするなら、下の目は自動的に六であることになる。実際にサイコロの裏を見たなら六であるはずだ。決して裏を見た途端にサイコロが百面体になって百の目が見えたりしない。クオリアを秩序正しく現す法則は最初見たサイコロに内在しているのである。この法則は実在論で言う「物理構造」と対応するものである。そもそも物理構造とはクオリアを現す「法則の集合」のことであると考えても良い。

私が時速百二十キロメートルで走っている電車を見たとする。「走る電車」はバークリーの言う意味で存在している。一分後に電車はどこにいるかと私は計算し、二キロメートル先にいると推理する。なおこの場合「走る電車」とは静止した電車という「物」のクオリアと異なり、一定の距離を一定の時間で電車が移動したという「出来事」のクオリアである。その出来事は次の出来事を推理可能にする。現実にそのような推理は事故でもない限り当たっていて、私は一分後に二キロメートル先に電車がいるのを見る事ができる。つまり一分後にどのような視覚的クオリアが現れるかということは「走る電車」という視覚的クオリアに「内在」している法則によって決定されているのである。ここで重要なのは、バークリーのように「知覚=存在」とし、形而上学的実在を否定したからといって、決して一分後に三百キロメートル先に電車が存在し得るわけではないし、電車が飛行機に化けるわけではないということである。一連のクオリアを秩序正しく現す法則(物理構造)はクオリアに内在しており、その法則に反したクオリアが去来することはないのである。

つまり心的一元論では形而上学的な実在を否定するが、クオリアを去来させる世界の法則、つまり物理的構造の実在は肯定するのである。私が見るリンゴも椅子も電車も形而上学的には実在していないが、バークリーが言う意味での存在であり、その存在には自然科学によって確かめられた法則・物理構造が内在しているのである。

ところで物理法則の内在性についてはカントの認識論が関わってくる。この問題については既に「無限論」で論じたが、ここで改めて要約しておく。カントが言うように意識に現れる現象(クオリア)は全て、時間・空間という感性の形式と知性のカテゴリーという形式を伴っている。それらの形式はア・プリオリなものである。その「ア・プリオリ性」ゆえに物理法則は普遍的なのである。

カントによれば「感性」は時間と空間というア・プリオリな形式を持つ。「知性」はカテゴリーと、統覚(感性の形式とカテゴリーをまとめる能力)を持つ。なお知性のカテゴリーは以下のように細分化される。
分量: 単一性、多数性、全体性
性質: 実在性、否定性、限界性
関係: 実体性と付随性、因果性、相互性(相互作用)
様態: 可能性と不可能性、現実存在と非存在、必然性と偶然性

自然科学の知見とは全て、現象に伴うア・プリオリな感性の形式と知性のカテゴリーに基づいて、判断力と理性の推理によって探求されたものである(カントは「経験の可能性の諸条件が即ち経験の対象の可能性の諸条件である」と説明する)。

大森荘蔵は論点を三次元物体に限定しているが、次のように論じてカントの認識論とバークリーの存在論を整合させている。
〔……〕われわれが毎日使用中の三次元物体の意味をただ観察してさえみれば、その意味が知覚正面の無限集合であることがわかる。カントもフッセルもただその観察結果を記述しただけであって、哲学思考からひねりだしたのではない。
逆にこの日常生活の中で制作された意味が哲学を規制して或る哲学的見解を強制することになる。この強制する哲学的見解とは実在論である。
もしも三次元事物の意味が知覚正面から切り離されていたとしたならば、知覚正面という意識所与から三次元事物の存在への道は中断されて高々推論されるにとどまる。カントは『純粋理性批判』第一版の第四誤謬推理でこのことを指摘すると共に、彼の超越論的観念論では外的事物の実在性を推論する必要がないことを誇るのである。その理由は、知覚正面(表象)の無限集合である三次元物体(外的対象)はその要素である知覚正面と同等の現実性を持つからである。カントの言葉を直接引けば、「私が外的対象の現実性に関して推論を必要としないのは、私の内感(私の思考)の対象の現実性に関して推論を必要としないのとまったく同様である」(『純粋理性批判』A 271)。すなわちここではバークリィの「存在とは知覚なり」という標語がそのまま適用可能なのである。*19
※大森の言う「無限集合」とは、或る物が存在する場合、その物の全ての存在様相の集合である。 たとえば椅子はあらゆる角度や距離から見ることができるゆえに、椅子の「見え姿」は無限個あり得る。それが無限集合である。人が椅子を知覚した場合、それは無限の見え姿作成のアルゴリズムを知るということである。

カント哲学の革命性は、物理法則の普遍性の根拠というものを、現象(クオリア)を超越した「実在」ではなく、現象の「形式」に求めたことである。サイコロであれ走る電車であれ、心に現れる現象はア・プリオリな形式を持つ。形式はア・プリオリであるゆえに、諸現象たちは決してランダムで曖昧なものでなく、規則的かつ正確に現れてくる。ここに物理法則の普遍性の根拠がある。またその形式に基づく数学は普遍的に認識される。根本的に「超越論的観念論」の立場でありながらカントが「経験的実在論」を主張したのは、その現象の普遍性・実在性に基づいている。

物理法則が意識内在的であるという示唆はヒュームによって成された。カントはヒュームの「観念の恒常的相伴」を考究した結果、「現象のア・プリオリな形式」と置き換えて、物理法則の普遍性を保障したとみなすことができる。

第3節で引用した大森の言葉をここで再び引用しておく。
存在の経験的意味こそ、科学者が実際に使用してきた実在論の意味だからである。科学者が必要とし、またその研究室で現在実用しているのは、存在のこの経験的意味なのであって、自分で願っているような先行存在の意味ではない。無いものを使える道理がないからである。*20

科学者たちが研究や実験で使用している「存在」たちもまた、バークリーの言う意味での「存在」、またカントが言う意味での「現象」なのであって、形而上学的実在など使用されていないということを大森は主張している。これは端的に「事実」を指摘しているだけなので、大森に反駁することは無意味だろう。物理法則によって諸々の出来事が説明でき、また予測できるということは、時間・空間・カテゴリーというア・プリオリな認識の「形式」によって可能なのである。慣性の法則もエントロピーの法則も、相対性理論も量子論も、人が経験した一連の現象に伴っていた形式によって探求され発見されたのである。経験に先立つ実在などというものが使用されたことは一度もないのである。

信原の批判2である「無意識」の問題も、以上の考察を基にすれば解消可能なはずである。私が思索に耽りながら道を歩いているとする。そのとき私は無意識的に足を動かし、前方から自転車が走ってきたら無意識的に避けるだろう。

心的一元論の立場では「私の身体」も形而上学的な実在ではない。しかしバークリーの言う意味で「存在」しており、カントの言う意味での「現象」である。そして存在しているものは物理的構造を持つ。私の身体が存在し、身体が歩いているとするならば、それは一定時間後には特定の位置にいて、障害物があれば避けるということである。私の身体はそのような物理構造を持って存在しているということである。

自動車の構造として、車輪があり、エンジンがあり、ハンドルがあり、変速ギアがあるということは真理である。しかし直角三角形にピタゴラスの定理が成り立つことと同じタイプの真理ではない。直角三角形とは感性のア・プリオリな形式である「空間」に属するものだが、「自動車」の構造についての知識はア・ポステオリに見出されたものである。しかしア・ポステオリに見出されたその知識も、ア・プリオリな知性の形式であるカテゴリーによって見出されたものであるゆえに、「自動車」の概念が「車輪」や「エンジン」を含むことは必然的である(ここでは「自動車」概念の貫可能世界的同一性までは主張しない)。したがって自動車が存在するということは車輪やエンジンが存在するということと同じである。そして「走る自動車」の未来位置が予測できるように、「私の身体」もその内部構造によって行動が説明可能なのである。

ところで以上の私の説明はやや漠然としている感がある。上述の「構造」というものについては時間・空間・因果の存在論というメタレベルの問題が関わっており、更に詳しく分析する必要があるだろう。この点についてはカント哲学の独我論的性格と合わせて第7節で詳述したい。また人の経験や行動に関しては脳が決定的な役割を果たしているのだが、私は脳について語っていない。人の行動や無意識を心的一元論の立場から十分合理的に説明するためには、心と脳の関係の問題、そして心的因果の問題についても説明する必要がある。心脳問題は哲学の伝統的な難問であり、現代でも特に分析形而上学において活発に議論が続けられている。この難問を解消するヒントが、大森荘蔵の「重ね描き」にあると私は考えている。心脳問題を考察する前にまず重ね描きを解説しておこう。

・重ね描き
大森荘蔵は心的なものを物的なものの科学的記述に還元して説明しようとする心脳同一説を批判し、心的なものと科学的記述は重ねて描かれるべきだとする「重ね描き」を提唱した。これは心的一元論の一種であり、現象主義的な方法論である。

重ね描きでは、まず人が直接知覚する山やリンゴといったマクロなものが日常言語で描写される。そして知覚対象の分子・原子レベルの細密な構造が科学的に描写され、かつ知覚対象から光波が反射し人の網膜に入り、脳のニューロンが活動するという過程が科学的に描写される。それら二種類の描写を重ね合わせたものが、人の知覚経験の完全な描写だとする。たとえば私に痛みがあった場合は次のような記述になる。
知覚描写: 痛みについての日常言語による記述
科学描写: 痛みをもたらしている脳状態の科学言語による記述

以上二つの記述を重ね合わせたものが痛みの経験の完全な記述なのである。知覚描写は科学描写に還元できないとし、その逆の還元もできないとする。この還元不可能性の主張によって大森は論理実証主義によるセンスデータ論と袂を分かっている。
※ところで一口に「痛み」と言っても多様な種類がある。また芸術作品に対する感慨などは言葉によっては表現しきれないものがある。したがって日常言語による記述を科学言語に重ねたとしても、人の経験は完全に記述できないだろう。重ね描きとはあくまで理念的なものだと考えて良い。

重ね描きと心身並行説は似ていると思われるかもしれないが、並行説が心と脳は別のものだと見做す二元論であるのに対し、重ね描きは現象主義的一元論である。したがって根源的な「一つの実体」を想定する性質二元論や中立一元論とも大きく異なっている。「痛み」という一つの出来事は日常言語でなければ記述できない要素と、科学言語でなければ記述できない要素があるということである。そしてその二つの要素は「即ち」の関係、つまり必然的関係である。つまり科学的因果的説明とは、日常的描写の科学的描写による「重ねて」の説明である*21

重ね描きは物理主義的な還元主義に対し、人の認識論的な「事実」を記述するべきだという考え方である。実際に人が認識可能なのは、或る脳の作用には或るクオリアが必ず相関するという、脳とクオリアの恒常的な相関関係(神経相関)だけであり、クオリアが脳から「生まれる」ことが観測できるわけではなく、クオリアと脳の作用が「同一」であることを確認できるわけではない。したがって脳の作用の記述とクオリア体験の記述を重ねて描くべきだとする大森の主張は至極妥当なものである。

しかし重ね描きには難点もある。認識論的事実として人の経験には二つの記述方法があるとしても、心脳問題においてはその二つの記述対象の「関係の内実」が問題になる。つまり日常言語で記述されるクオリアと、科学言語で記述される脳の物理状態の関係である。重ね描きでは双方は「即ち」の関係だとされるが、どのような意味での「即ち」なのか具体的に説明されていない。これが物的一元論なら「落雷」と「電荷の放電」のように「即ち」であり、性質二元論なら「コインの表」と「コインの裏」のように「即ち」だと、双方の存在論的関係を説明できる。

要するに重ね描きは心脳問題と心的因果という存在論的問題について、具体的な解答を与えるものではないのである。仮に存在論的にも重ね描きされる二つの要素が実在的だとするならば、それはデカルトの実体二元論やスピノザの心身平行説と同じ困難を持つことになり、物的一元論と比較して節約の原理に反し、心的因果の説明もできないということになる。ただし大森自身もこの難点は承知していたようであり、晩年まで心と脳の関係の説明に苦闘していたようである*22。しかし私の見たところ、大森はついぞ心脳問題について十分合理的な解答を得ることができなかったと思われる。

これは大森と似た哲学的立場であるバークリーに対しても指摘できることであるが、現象主義者や観念論者は、人の経験あるいは現象や観念を去来させる規則に関して、脳が決定的な役割を果たしているように見える事実を上手く説明できないのである。これが還元主義的な物的一元論ならば脳の役割をほぼ完全に説明可能である。

ただし大森はその哲学活動の終着点において問題の完全解決にあと一歩という所まで肉迫していたと私は考えている。その大森の終着点を自らの出発点として私は心脳問題の解決を試みたい。それは重ね描きの改良バージョンというべきものになるだろう。

私が構想する心脳問題解決案を紹介する前に、現代心の哲学における諸説の問題点を次節にて確認しておきたい。

5 心脳問題

心脳問題の解明が必要なのは、単にそれが未知だからというだけではなく、この問題を解明することによって心的なものと物的なものの存在論的身分を見極めることができるからである。物的一元論、心的一元論、二元論、いずれの説を仮定するにせよ、或る仮説で全ての物事が整合的に説明できるならば、その仮説が妥当であるということである。いかに常識や直観に反していようと理に適う説は受け入れなければならない。

現代心の哲学での心脳問題における主要な立場を簡潔に紹介しておこう。一般に分類の仕方は論者の観点によって大きく異なる。以下はあくまで私の観点に基づく分類である。

まず認識論的な大分類として「素朴実在論」「表象主義」「現象主義」の三つに分けられる。一般的に人は実在している外部の世界を直接知覚していると考えている。たとえば赤いリンゴを齧った場合、リンゴの赤さは実在するリンゴの色であり、甘酸っぱいリンゴの味は実在するリンゴの味だと考える。これが「素朴実在論」である。しかし科学的に考えるとリンゴは粒子の集合体であり、粒子は色、味、香などの性質は持たない。ならばリンゴの色や味は何なのだろう? これが上手く説明できない。また「錯覚論法」という議論がある。水の入ったコップに箸を入れると光の屈折で箸は曲がって見える。素朴実在論が正しければコップの箸は曲がっていなければならないが、実際にコップから箸を取り出して見ると真っ直ぐである。ならば曲がって見える箸のイメージは何なのだろう? これが上手く説明できない。――これらの問題から人は外界を直接的に知覚しているのでなく、外界の情報を感覚器官が受け取って、その情報を脳が処理する過程で知覚が生まれるとする「知覚因果」という考えが主流になった。つまり知覚とは外界を「表象」するものだとみなすのが「表象主義」である。実在を間接的に知覚するという認識論なので「間接実在論」とも呼ばれる。この表象主義は現代の多くの哲学者が支持している立場である。

現象主義とは、人は表象や知覚、つまり現前する「現象」以外は知りえないと考える立場で、ジョージ・バークリーから始まる方法論である。ジョン・ロックは色、味、香などの性質を人の感覚特有の「二次性質」と呼んで、数や量といった物質の「一次性質」と区別した。しかしバークリーによれば「一次性質」も知覚によってしか知りえないのだから、二次性質と変わらないものとみなすのである。現象主義によれば形而上学的な意味での「実在」は不可知であり、確実に実在していると言えるのは現前する現象と、その現象を規則正しく現す「法則」だけだと考える。

ところで素朴実在論を哲学的に再構築した「直接実在論」という立場がある。この立場では人が錯覚や幻覚を見たという場合、実際には何も見ていなかった、あるいは実在物を見た場合と同じものを見ていたわけではないのだ、として錯覚論法を回避しようとする。しかしこれは哲学的に拙い立場である。人は暗闇では何も見えないことから明らかなように、物体から反射された光によって視覚経験をしている。すると直接実在論が正しければ、人が認識しているのは物体ではなく「光」である。同様にピアノの音が聴覚で経験されるときは、ピアノの音ではなく「空気の振動」を認識しているのである。結局人は光や空気の振動を媒介することでしか物事を知覚できないということであり、間接的実在論と本質的な差異がない。

直接実在論の致命的な難点は、私秘的な存在者であるクオリアが外在すると考える点である。直接実在論によると、リンゴの「甘酸っぱい味」はリンゴそのものの性質だというこであり、誰もリンゴを食べていないときでも「甘酸っぱい味」があるということになる。要するに「誰も感じない感覚」があるということで、これは単純な矛盾概念である。――ややこしいことに伝統的な表象主義から発展した「表象理論(志向説)」という説があって、この立場の論者の一部もクオリアの外在性を認めており、直接実在論に近い主張をしている。これらの立場は「ラディカルな自然主義」と言えるだろう。ラディカルな自然主義は自然科学の方法のみで認識論的な問題も存在論的な問題も解決できると考え、「クオリアの自然化」を企てる。しかし自然科学の方法論とは本来、客観的に観察可能な対象のみを扱うものであり、私秘的なクオリアは研究の対象から除外されていた。ラディカルな自然主義はクオリアを強引に自然科学の方法論に整合させるため、「客観的クオリア」という矛盾した存在を措定しているのである。

とりあえず三つの認識論的立場は以下ように要約できる。直接実在論と表象主義は「実在論」であり、現象主義は「反実在論」である。
■認識論的分類
├ 直接実在論: 人は外界の実在を、直接に知覚している(実在論)
├ 表象主義 : 人は外界の実在を、表象を通じて間接的に知覚している(実在論)
└ 現象主義 : 人が経験しているのは現象と、現象の規則性だけである(反実在論)

直接実在論はまともな考察に値しないと私は考えるので、以降は省略して論考を進める。認識論的分類は事実上、表象主義と現象主義の二つになる。

認識論的分類から存在論的分類が成されることになる。表象主義は「物的一元論(物理主義)」と「二元論」に分かれる。物的一元論においては、実在的なものは物的なものだけであり、心的なものの存在と性質は物的なものに還元して一元的に説明される。対して二元論ではその還元を認めない。二元論は、心的なものは物的なもの同様に実在的であるとみなす「実体二元論」と、心的なものと物的なものは同一の実体の二つの性質なのだとみなす「性質二元論」に分かれる。「中立一元論」は性質二元論とほぼ同様の立場である。

現象主義は観念論につながることがある。単に「現象主義」と言う場合は認識論的な立場を表し、「観念論」と言う場合は(バークリーやカントのように)存在論的な主張を含む場合が多いが、両者の境界は曖昧であり、現象主義と観念論は不可分の立場である。双方を一括して「心的一元論」と呼んでもいいだろう。

認識論的分類に基づく存在論的分類は次のようになる。心脳問題についての主要な立場は四つである。
◆存在論的分類
├(・表象主義)
| ├ ①物的一元論
| ├ ②実体二元論
| └ ③性質二元論(中立一元論)

└(・現象主義)
  └ ④心的一元論(現象主義・観念論)

上述した認識論的な二つの立場と、存在論的な四つの立場は更に細かな主張の違いによって、非法則一元論、消去主義、表象理論、トロープ説、生物学的自然主義など、多くの説を下位分類として並べることも可能だが、上述のものと本質的差異がないので省略する。

心脳問題はデカルト以来四百年にわたる議論でアイデアが出尽くしている感がある。今後画期的なアイデアが登場する見込みは薄いだろう。アイデアが出尽くしているのならば、既存のアイデアのどれかが正しいということになるかもしれないが、それぞれのアイデアには重大な難点がある。しかし逆に既存のアイデアたちは何らかの真理を捉えているようにも思える。

四つの主要な立場の問題点を確認していこう。まず心的因果の問題を検証する。そのことによって二元論の重大な難点と物的一元論の難点が明らかになるだろう。

歩き疲れている人物Aがいるとしよう。人物Aはどこかに座れる場所はないかと周囲を見回している。そして近くに椅子があるのを見た。人物Aは「あの椅子に座ろう」と思って実際に座り、疲れた肉体が開放されたような感覚を得た。――この場合、人物Aは椅子に座りたいと心で思ったからこそ、人物Aの身体は椅子に座ったわけである。つまり心的なものは物的なもの(身体)に作用している。これは「心的因果」と呼ばれる。心的因果は一般人には当たり前のことである。「心が身体を動かす」という一般人の素朴な信念を仮に「素朴な二元論」と呼んでおこう。

神経科学的にも、心的なものと物的なものには相関関係が認められている。しかし哲学的にその相関関係の内実を探求しようとすると一筋縄ではいかない。

人物Aの「あの椅子に座ろう」という思いを「クオリア1」とし、椅子に座って疲れた肉体が開放される感覚を「クオリア2」とする。そしてクオリア1と相関する脳の状態を「物理状態1」とし、クオリア2と相関する脳の状態を「物理状態2」とする。それらは以下のように推移する。
心的: クオリア1 → クオリア2
物的: 物理状態1 → 物理状態2

ここで「物理領域の因果的閉包性」という原理が大問題となる。物的なものは物的なもののみを原因として作用し、心的なものは物的なものに作用しない(より正確には、心的なものの作用を想定しなくても物的なもののみで因果関係の説明は完結する)という原理である。これは経験的にほぼ確かめられている。神経科学的な説明はニューロンの発火や神経伝達物質の作用など物的なもののみで完結している。また念動力のような超能力によって物体を動かすことに成功した人物は公式には確認されていないからだ。すると念動力、つまり「心」でボールを浮かしたりスプーンを曲げたりすることができないというのは、「心」で脳細胞を動かすことはできないというのと同じことになる。脳細胞もスプーン同様に「物的」なものなのだから。したがって心的なものは物的なものと異なると考えると、心的因果は不可能になる。

心的なものと物的なものは異なる実体だとみなす実体二元論に対し、性質二元論は心的性質と物理的性質が表裏の関係にあるとみなすことで、心的因果は可能だとする。しかしこの立場も因果的閉包性の問題を回避できるわけではなく、物理領域の因果的説明が「物理的性質」だけで完結してしまうならば、「心的性質」が果たしている役割はないということになり、本質的に実体二元論と変わりがないということになる。

二元論的な立場では、人物Aが座ったのは「あの椅子に座ろう」と思ったのが原因ではないということになる。因果的閉包性を前提に考えると、人物Aは座ろうという思いのクオリア1ではなく、そのクオリア1と相関する脳の物理状態1を原因として座ったということである。――これは一般人の素朴な二元論の直観に反している。さらに哲学的な二元論では、クオリア1とクオリア2の存在が宙に浮いてしまうことになる。物的な脳に作用することができないからである。これは「因果的提灯」とも呼ばれる*23

ただし心的なものが物的なものに「作用していない証明」はされていないことに留意する必要がある。つまり物的なもの同士で因果的な説明が完結していたとして、その上で心的なものの作用があると仮定しても論理的に矛盾だというわけではない。しかし人の行動は物的な脳の状態変化のみを原因として説明可能であるゆえに、更に心的なものの作用を認めると原因が過剰になってしまう。これは「因果的過剰決定」と呼ばれる問題である。この過剰決定を認めることは哲学的に困難である。結局心的なものは因果的に排除されてしまうしかない。因果的閉包性によって心的因果が説明できないことは、現代二元論にとって極めて深刻な問題である。

二元論に対する物的一元論では、心的なクオリアを物的な脳に存在論的に還元し、心的なものは物的な脳と「同一状態」として存在していると解釈できるために、因果的閉包性の原理に反することなく、心的なものは物的なものに作用することが可能だということになる。これが心脳同一説である。なお同一説には心的種類と物的種類の同一性を主張するタイプ同一説と、個別の心的状態と物的状態に限定して同一性を主張するトークン同一説がある。単に「心脳同一説」と言う場合はタイプ同一説を指すことが一般的で、これはタイプ物理主義と呼ばれ、機能主義や表象理論などが前提としているトークン同一説は「トークン物理主義」と呼ばれて使い分けられている。しかし双方とも心脳問題については「心的状態とは脳の物理状態である」とみなすので基本的に同じものである(以下はタイプ同一説とトークン同一説双方を「同一説」と略す)。

同一説にもいくつか欠点がある。同一説では、心的なものと物的なものは認識のされ方が異なるだけで、双方は同一なのだと説明する。同一説で挙げられる例としては次のようなものがある。
例1: 明けの明星は宵の明星と同一である
例2: 落雷と電荷の放電は同一である

例1は時点を異にして認識される存在者たちの同一性である。例2は複数の言葉・概念たちの指示対象の同一性である。

ところが、心的なものと物的なものの同一性問題は例1と例2のどちらにも当てはまらない。なぜなら同一説とは、同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一であると主張するものだからである。

自分の脳の状態をリアルタイムでスキャンしてモニターに映す fMRIがあれば、自分の脳の状態を見ることができる。単に自分の脳を見る場合同一説によれば、「脳の物理状態の視覚的クオリア」が経験され、その視覚的クオリアに対応した実在的な「脳の物理状態」があって、双方は全く「同一」のものなのだということになる。この場合はそう考えても問題がないように思える。

しかし、たとえば虫歯の痛みがあったとき自分の脳の状態を見たらどうだろう? そのとき経験されるのは「歯痛」と、「脳の物理的状態の視覚的クオリア(と対応する実在)」である。同一説ならば双方は同一なのだと主張するだろう。しかしそれは同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一であるとするナンセンスである。たとえば電車の窓外の風景を見て、「山と川があるがその二つは同一なのだ」と言うなら漫才にしかならないだろう。

例1のように時点を異にして認識される存在者たちの同一性を主張することは可能である。時間差があることによって認識のされ方が異なる双方の同一性が発見される可能性が与えられているからである。また例2のように異なる言葉・概念たちの指示対象の同一性を主張することも可能である。(指示対象を知らないならば)双方の同一性が発見される可能性が与えられているからである。しかし同時に認識される異なる存在者たちの同一性を主張することは、双方の同一性を発見する可能性が与えられておらず、端的にナンセンスである(ただしこれは同一性が論理的に成り立たないことの主張ではない)。

またここにはクオリアの私秘性という問題も関連してくる。クオリアは主観的にしかアクセスできない。物的な脳は第三者もアクセス可能である。私秘的存在者と公共的存在者が「同一」だとするのは、更に意味が不明である。クオリアの「自然化」を目論む物的一元論者はこの問題に腐心し続けているのだが、未だ二元論者を説得できる説を案出するには至っていない。

同一説には他にも問題がある。物理領域の因果的閉包性の原理によって、物的なものは物的なもののみを原因として動作するというのなら、心的なものが存在する必然性が見当たらないである。要するに「クオリアがなぜ存在するか」という説明ができないのである。チャーマーズによる「ゾンビ論証」はその必然性の欠如を浮き彫りにしようとしたものであった。心的なものが物的なものに付随(スーパーヴィーン)する必然性が見つからないならば、心的なものが欠けたゾンビ世界がどうしても思考可能なのである。

以上のように検証した結果、二元論と物的一元論が抱える問題は明らかにされただろう。二元論は因果的閉包性の原理によって心的因果が説明できない。物的一元論は心的因果を説明できるが、心的なものと物的なものの同一性を主張することはナンセンスなのある。

実は更に深刻な問題がある。二元論と物的一元論はともに認識論的に「表象主義」を前提としており、表象主義は「実在論」を前提としていることである。しかし物質的対象の形而上学的実在を認めることは矛盾につながるのである。これは「無限論」で論じたことであるが、ここで核心部分を要約しておこう。

形而上学的実在論は、物質的対象が「人の認識に先立って」、かつ「人に認識される通りに」存在するという主張である。たとえば長さ二メートルのテーブルを人が見る場合、そのテーブルは人が見る前から存在し、かつ人が見た通りに二メートルの長さを持って存在していたと考える。するとそのテーブルの二分の一の部分も人の認識に先立って存在していたと考えるしかない。更に四分の一の部分も、八分の一の部分も、十六分の一の部分も人の認識に先立って存在していたと考えるしかなく、結局「無限の部分が存在していた」と考えるほかはない。しかし「無限の部分が存在する」というのは矛盾である。「無限」とは「終わりがない」という「行為」に属する概念であって、「存在」に属する概念ではないからだ。「無限の何かが存在する」と言うのは「自然数が完結して存在する」と言うに等しい語義矛盾なのである。

つまり表象主義を前提とする二元論と物的一元論は、ともに一次性質の形而上学的な実在を認めているため、「形而上学的無限」の実在を認めるという矛盾した主張をしているのである。これが二元論と物的一元論の「致命的」と言える欠点である。ちなみに検証を省略した直接実在論も表象主義と同じ欠点を持つ。

一方、表象主義と対立する現象主義はどうだろうか? 現象主義が実在性を認めるのは、現前する「現象(クオリア)」と、その現象を規則正しく現す「法則」のみであった。現象主義ならばテーブルを見る場合、そのテーブルは人の認識に先立って存在することを認めない。もちろんテーブルの二分の一や四分の一の部分を認識することはできる。しかしその二分の一や四分の一という部分も、人の認識に先立って存在していたとは認めない。テーブルという視覚的クオリアは「可能的に無限に分割できる」と考えるのみである。したがって現象主義は形而上学的無限を回避できる。

無限という問題を根拠に私は現象主義を選択する。そして心脳問題については「重ね描き」を支持する。しかし心的一元論にも欠点があった。人の行動、あるいはクオリアを去来させる規則に関して、脳が決定的な役割を果たしているように見える事実を上手く説明できないということである(前節で紹介した信原の批判2)。これが実在論を前提にする表象主義なら脳科学の知見を整合的に説明できる。

ここで心脳問題における主要な立場の利点と欠点を簡略にまとめておこう。まず認識論的分類における二つの立場は次のようなものになる。
■表象主義
├ 利点: 脳が人の行動に関して決定的役割を果たしていることを説明できる
└ 欠点: 実在論を前提としているために形而上学的無限を認めざるを得ない

■現象主義
├ 利点: 反実在論を前提としているために形而上学的無限を回避できる
└ 欠点: 脳が人の行動に関して決定的役割を果たしていることを説明できない

認識論から分かれる存在論的な四つの立場の利点と欠点は次のようになる。もちろん各立場は認識論的分類における利点と欠点をそのまま受け継ぐことになる。なお「④心的一元論」は認識論分類から存在論的立場につながるので、利点と欠点は現象主義と同一である。
◆①物的一元論
├ 利点: 同一説を前提することによって心的因果が説明できる
└ 欠点: 心と物の同一性を主張することはナンセンスである

◆②実体二元論、③性質二元論
├ 利点: 心と物は異なるものだという素朴な直観に適合する
└ 欠点: 物理領域の因果的閉包性によって心的因果が説明できない

◆④心的一元論
├ 利点: 反実在論を前提としているために形而上学的無限を回避できる
└ 欠点: 脳が人の行動に関して決定的役割を果たしていることを説明できない

心的一元論は、脳が人の行動に関して決定的役割を果たしていることを説明できないことが欠点なのだが、それは表象主義から分かれた二元論や物的一元論に指摘されているような深刻な欠点ではないように思われる。したがって心的一元論の一種である「重ね描き」を改良し、それをベースにすることによって、認識論的な二つの立場と存在論的な四つの立場の利点を、全て取り込める理論を構築できるかもしれないというのが私の着想である。

つまり心脳問題は一種のパズルなのである。アイデアが出尽くしているなら後はパズルのようにそれらを組み合わせるだけである。問題は認識論的な二つのアイデアと存在論的な四つのアイデアはそれぞれ相互排他的な主張なので、そのままでは組み合わせることはできないということである。つまりこのパズルには六つのピースがあるが、その中には不要なピースが混じっているかもしれず、なおかつ整合しないピースたちの「形」を整形してやる必要があるということである。

私が考案したのは、物理主義の同一説を現象主義の立場からネガとポジを反転させるように見た「現象主義的心脳同一説」である。物理主義の同一説を前提とするならば、人の経験と行動の多くが整合的に説明できることは事実である。哲学においても科学においても多くの現象を上手く説明できる仮説は何らかの真理を捉えているはずだ。逆に同一説以外の諸説は心的因果の問題が致命的になると思われる。したがって、同一説は何らかの意味で正しいと考えざるを得ず、同一説の利点は必ず取り込まなくてはならない。

6 現象主義的心脳同一説

本題に入る前にまず前置きしておかなければならない重要なことがある。心脳問題とは、心的なものと物的なものとの関係だけの問題ではなく、時間と因果の問題につながるということである。つまり問題は重層しており、考究を深めていくと論点は心脳関係に留まることが出来ず、メタレベルの問題へとスライドして行くことが避けられないのである。

私は本論冒頭より変化の実在を否定してきた。それは変化の属性である時間と因果の実在性を否定していることと同じである。ならば心的因果の問題を中核とした心脳問題の解消を試みることは矛盾しているように思えるはずである。しかし因果関係というものは実在しないと私は確信するが、「因果関係に見えるもの」が実在していることまでは否定しない。ならば自らの形而上学と脳科学の知見とを整合させることは必要なのである。

ただしその整合性規範はカントの用語で言うと「経験的実在論」という原理から要求されるものであって、「超越論的観念論」の原理からは全く異なる心脳問題についての説明が必要となる。それはもはや心脳問題に留まらず、時間論と因果関係論、そして「究極の問い」にまでつながることになる。

要するに時間と因果が実在すると仮定した場合の心脳問題と、時間と因果が実在しないと仮定した場合の心脳問題は、異質な問題なのである。とりあえずこの節では「経験的実在論」に基づいて心脳問題の解消を試み、「経験的真理」を解明したい。次節において「超越論的観念論」に基づいた心脳問題の解消を試み、「超越論的真理」を解明したい(なおカントの用語を借用しているものの、以降の論述では必ずしもカント哲学に即した用語の使用ではないことは了承されたい)。

大雑把な素描の段階であるが、私が構想しているのは「現象主義的心脳同一説(phenomenalistic mind-brain identity theory 、以下PITと略す)」である。これは大森の「重ね描き」を改良したものであり、実在論の否定に基いた上で、心的なものと物的なものの同一性を主張するものである。この重ね描きをベースとした理論によって、表象主義、そして物的一元論と二元論の利点を取り込むことが可能であると私は考える。

PITは重ね描きの一解釈とも言える。重ね描きにおいては、心的なものについての記述と物的なものについての記述は「即ち」の関係でなければならないとするならば、それは現象主義的な心脳同一説と解釈することもできる*24)。

重ね描きの立場では、実在的なものは現前する現象(クオリア)だけだというのでなく、大森が主張したように知覚に「重ねて」描かれる科学描写も実在的である。

世界のどのような物事も普遍的な物理法則によって存在している。それらは科学的・数学的に記述可能である。たとえば「ロケットの打ち上げ」という出来事は、ロケットの形状、質量、エンジン推力、空気抵抗、燃料の化学反応など、様々な科学的要素の総合として記述可能である。「重ね描き」に即して言うと、「ロケットの打ち上げ」を知覚した場合の視覚や聴覚の経験を記述したものが日常言語による描写であり、「ロケットの打ち上げ」についての科学的要素の記述の総合が科学言語の描写である。以下では科学言語で記述されるべき物事の要素を「科学構造」と呼ぶことにする。

PITは物質的対象の実在性を否定し、物質的対象の科学構造のみが実在的だとみなす。この考えは近年の科学哲学で一部の論者が主張している「構造実在論」と類似の発想である。構造実在論は、物理的対象の実在は人にとって不可知であり、科学的・数学的に記述できる世界の構造のみが実在的であるとする立場である。これは科学的実在論の一種であるが、ラディカルな主張なので反実在論と近似的だとみなされることもある。構造実在論は科学的実在論に指摘される「悲観的帰納法」に対処するため、また従来の「実在」概念が量子論では通用しないことから提唱された。たとえばフレネルの光学理論は経験的に成功したがエーテルを措定していた点で間違っていた。ニュートン力学は経験的に成功したが絶対時間や絶対空間を措定していた点が間違っていた。これが悲観的帰納法である。しかしフレネルの方程式自体は後のマックスウェルの理論に受け継がれており、ニュートン力学の数学的構造は後の相対性理論や量子力学に条件付で受け継がれている。それらの例から世界の数学的構造は悲観的帰納法を回避可能であるとみなすことができる。また量子論で問題となる非局所性や観測問題も実在性を数学的構造に限定するなら回避できる。

ただし構造実在論が実在性を懐疑する理論対象は、あくまで電子やニュートリノのようなミクロな対象に限られ、太陽やリンゴといったマクロな対象の実在性は懐疑していない。しかしミクロの現象とマクロの現象が連動している以上、双方を峻別することはできない。ちなみに双方の不可分性を示そうとしたのが、かの有名な思考実験「シュレーディンガーの猫」である。したがって構造実在論の主張は必然的にマクロな対象の実在性の懐疑へとつながらざるを得ない*25。PITはマクロな対象に対してもその実在性を否定し、構造のみの実在を認める主張であり、「グローバルな構造実在論」と解釈することも可能だろう。

PITは科学言語で記述される世界の構造が、日常言語で記述される人の経験(クオリア)とともに実在的だとみなすものである。これは単に人の認識論的事実を記述すべきだという主張でもある。私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消えるが、再び目を開けるとモニターが見えることを私は知っている。この場合、私が知っている「事実」とは正確には何だろう? 決してモニターという物質的実在があるということではない。現象を正確に再現させる「秩序」があるということである。形而上学的な実在は不可知であり、確実に実在的なのはクオリアと、クオリアを現象させる秩序としての世界の科学構造のみである。

以上の説明だけでは「科学構造」の意味がやや不明瞭かもしれない。重要な概念なので明確にしておく必要があるだろう。構造実在論においては、電子やニュートリノなどの理論対象については、その実在性にコミットせず、構造の単なるノード(ネットワークの接点)へと還元的に説明する*26。――この考え方をマクロな対象に当てはめてみよう。
構造K: 自宅から時速 5キロメートルで歩けば 6分でローカルな駅に着く。その駅から新快速の電車に乗って、平均時速 90キロメートルで進めば 45分で神戸駅に着く。

この場合、「自宅」「ローカル駅」「電車」「神戸駅」といったものがノードである。そして自宅とローカル駅を結ぶ道路や、ローカル駅と神戸駅を結ぶ線路がネットワークであり、時速 5キロメートルの歩行速度や時速 90キロメートルの電車の速度が物理的パラメーターになる。もちろん、自宅や駅といった個別のノードも、それらを構成する更に細かいノードとネットワークに分解して説明することができる。

ノードとはネットワーク内における「記号」のようなものである。私が神戸市に行きたいと思った場合、自分が所定のプロセスを経ると神戸市に着くことを知っている。この場合の「知っている」という言葉が具体的に指しているのは、上述の「構造K」が存在しているということである。具体的には自宅から時速 5キロメートルで 6分歩けばローカル駅が「見える」ということであり、平均時速 90キロメートルの新快速の電車に 45分間乗れば神戸駅が「見える」ということである。換言すれば自宅、ローカル駅、電車、神戸駅といった知覚・クオリアを現象させる規則が「構造K」として存在しているということである。私は決して電車や神戸駅の「実在」など知らない。私が知っているのはあくまでクオリアの現れの規則だけである。「科学構造」とはクオリアの現れの規則を保障する世界の実在的な構造なのである。

念のため付言しておくが、「構造K」が実在的であるといっても、ローカル駅から神戸駅までの空間や時間の実在性を認めるわけではない。PITでは時間と空間をカントの言う通り直観の形式だとみなす。メートルや秒で表される空間と時間は抽象的な数値であり、物理的パラメーターなのである。300メートルや 40分という数値はノード間の相対的な関係を表しているのみであり、人がそれらに「長さ」を感じることによって初めて素朴実在論的な意味での「時間」と「空間」が現れるのである。

ところで物理学の理念とは、世界を構成する究極的にミクロの要素を探求解明し、それによって世界の全てを説明しようとするものである。究極的にミクロな素粒子は量子論の領域になるが、量子論では古典的な意味での「実在」概念が否定されている。世界を説明する基礎的要素である素粒子が古典的な意味で実在しないなら、リンゴや太陽のようなマクロなものも古典的な意味では実在しないということになる。物理学者の佐藤勝彦は次のように解説している。
巨大な月をミクロの物質と同列に語ることはできないかもしれませんが、量子論を突き詰めて考えれば、誰も月を見ていない場合、月はある一ヶ所にはいないことになります。誰かが月を見たときだけ、月の居場所は確定するのです。私たちの常識から見れば、量子論が述べるこうした物質観・世界観あまりに不可解ですが、アスペの実験*27によると、どうやらそれが真実らしいのです。
私たちはあまり疑うことなく「客観的な事実」というものが存在することを信じています。古典物理学でも、自然界のあらゆる事物は私たち人間と無関係に存在していて、私たちはそのようすを客観的に観測できるものだと考えていました。でも、量子論はそうした客観的事実の存在を否定しました。自然は観測によって状態が初めて決まるものであり、誰も観測していないときにはすべては決まっていない、確定した事実は何一つ存在しないというのです。*28

佐藤の解説が正しいのならばPITや構造実在論は現代物理学の世界観と親和的だとみなせる。
※ただし厳密には構造実在論が現前するクオリア外部の世界の「構造」も独立して存在することを認めるのに対し、PITでは現前するクオリアに「つながる構造」しか認めない。その理由は次節で解説するが、ここが実在論と反実在論の分岐点になる。

さて、世界のどのような物事も普遍的な物理法則によって存在している、というのが私の信念である。ならばクオリアにも科学的な構造があるということになるはずだ。そこでクオリアを立ち現わし、消滅させるまでの一連の科学的な法則の集合を、「クオリアの科学構造」と呼ぶことにする。

ただし「クオリアの科学構造」というのは一種の仮説である。クオリアは全一的である。色覚異常の人から「赤のクオリアとはどんなのものか?」と聞かれても、「赤い」と言うだけである。無痛症の人から「痛みのクオリアとはどんな感じか?」と聞かれても、「痛い」と言うだけである。クオリアは他の何かに還元して説明することができない。「赤」や「痛み」の科学構造と言っても何のことやら直観的にわからないだろう。しかしクオリアは幽霊や妖精のような意味不明のものではない。いや、幽霊や妖精の存在を仮に認めたとしても、それらが実在するならば何らかの法則や原理に基づいているはずである。それらは科学的に探求可能であり、解明されたその構造を「科学構造」と呼ぶことができるはずだ。

つまり「クオリアにも科学的な構造があるはずだ」という着想がPITの出発点なのである。

ここで物的一元論を支持する物理主義者なら、クオリアの科学構造とは脳のことに他ならない、と主張するに違いない。それは近似的に真だと認めるのである。

PITの核心は、クオリアの科学構造とは物理的な脳のことだと考えるものである。つまりクオリアとそれを現象させる科学構造としての脳は同一関係にある。ただし物理主義の同一説と決定的に異なる点は、物的対象の実在を否定し、物的対象の科学構造のみが実在的だとみなすことである。心脳問題については物質としての脳の実在を否定し、ただ脳の科学構造のみを実在的だとみなし、それをクオリアの科学構造だと考えるのである。したがって目に見える脳とは、脳の科学構造を「表象」した視覚的クオリアである。

なお「表象」という概念が、「写し」や「カメラモデル」と呼ばれていた知覚モデルと異なっている点は要注意である。カメラモデルでは視覚の場合、表象内容(クオリア)は表象対象(実在)を正確に写し取ったものだと考える。しかしPITでは、科学構造を「映像化」した視覚的クオリアが経験されるということである。脳などの物的なもののクオリアは一定の空間を占めて存在するが、これまで論じてきたように物質的実在や空間は実在しない。したがって科学構造とは一定の空間上に存在している物理的な機械のようなものではなく、抽象的な「科学的法則の集合」または「情報」であり、むしろ空間と時間の方がクオリアの形式として科学構造から生み出されるものである。これは「真理対応説」を拒否するものであり、カントの言う「物自体からの触発」のイメージに近い。

前節で言及したように同一説以外の説では心的因果の問題の解決が極めて困難である。クオリアと脳、つまり心的なものと物的なものは何らかの形で「同一」である必要がある。しかし物理主義の同一説は「同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一である」と主張するものでナンセンスである。したがってクオリアと脳、どちらかの存在論的身分を見直さなければならないのである。「歯痛」があるとき自分の脳を fMRIや鏡で見たとしよう。歯痛のクオリアは現前しているものであり疑うことが無意味な存在である。脳もまた視覚的に経験されるなら、脳の視覚像というクオリアは疑うことはできない。しかし脳という「物質的実在」はどうだろう? 物質的実在とは諸々の現象を説明するために措定された仮説的存在である。クオリアと脳という物質的実在――どちらが「疑わしき存在」であるかは明白である。脳という物質的対象の実在を否定し、それを科学構造だとみなすことによってのみ、初めてクオリアと脳は「同一」になり得るのである。

実在論で言う「実在」とは人の経験を超えて存在するものである。しかしPITでは人の経験(クオリア)が最も確実な実在である。その実在的なクオリアにも科学的な構造があると考え、その構造が脳だとみなすわけである。初めから物的な脳の実在を前提して、その脳からクオリアが生じると考える実在論とは思考の順序が間逆なのである。

以上の思考法によって物的一元論と二元論の「形」を整形することが可能になり、脳科学の知見と整合的な表象主義の利点を「重ね描き」というベースに取り込むことが可能となる。PITのエッセンスは次の通りである。
E1: 物質的対象の実在を否定する
E2: 物質的対象の科学構造のみ実在性を肯定する
E3: 感覚によって経験される物質的対象は、物質的対象の科学構造そのものでなく、科学構造を「表象」したクオリアだとみなす
E4: クオリアの科学構造とは脳の科学構造の一部である

PITでは、物的なものは人に経験されているときのみ(クオリアとして)実在的である。そして経験されていないときは(クオリアをもたらす)科学構造だけが実在的である。家や道路、心臓や手足、他人や外部世界も物的なものとしての実在性が否定される。それらは科学構造のみが実在的である。しかし「道路の科学構造」と「クオリアの科学構造」は大きく意味が異なる。クオリアの科学構造とは脳である。道路と脳の相違は、道路の科学構造が道路の視覚的・触覚的クオリアを立ち現す「原因」であるのに対し、脳はクオリアの科学構造「そのもの」だということである。

人がクオリアを経験していないときでも、非実体的な脳の科学構造が実在すると仮定すれば無意識の問題は回避できる。したがって「脳の科学構造」と「クオリアの科学構造」は区別される。後者は前者の一部である。

PITの肝要な点は上述のE3であり、自分の脳を fMRIで見たり、頭蓋骨を開いて鏡で見た場合、物質的な実在の脳を見るのでなく、また脳の科学構造そのものを見るのでもなく、脳の科学構造が部分的に「表象」された「脳の視覚像」というクオリアが経験されると考えることである。

脳は fMRIや鏡で見る(表象される)ことが出来たとしても、科学構造は「見た通りの姿」としては存在せず、ただ抽象的な構造のみが存在している。表象である「脳の視覚像」に対応した実在があるとするならば、それは決してクオリアと同一であることはできない。歯痛があるとき自分の脳の状態を fMRIや鏡で見たならば、そのとき認識されるのは「歯痛」と、歯痛を現象させているとされる「脳の視覚像」である。物理主義の同一説では双方は同一なのだと主張するが、それは電車の窓外の風景を見て、「山と川があるがその二つは同一なのだ」と言うに等しいナンセンスである。「同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一である」という主張をしているからである。しかしPITでは、「歯痛」と「脳の視覚像」という二つのクオリアがある場合、二つのクオリアを現象させる科学構造は、その科学構造を表象した「脳の視覚像」というクオリアとは異なると考える。したがって「同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一である」とするナンセンスを回避できるのである。

こう考えるとわかりやすいかもしれない。クオリアが意識の「現象的側面」であるとするなら、科学的・数学的に記述される脳の科学構造(の一部)は、意識の「科学的側面」である。ちなみに大森の「重ね描き」は脳とクオリアを「即ち」の関係だと主張するのみであるが、PITは脳をクオリアの科学構造とみなすので、より踏み込んだ形而上学的主張をしているわけである。

以下は歯痛があるとき fMRIや鏡で自分の脳を見た場合の心脳関係を図解したものである。

上の図で「脳の科学構造」を破線にしてあるのは不可視であることを表している。科学構造の内容として書いている記号や数式はむろん出鱈目なもので、イメージを掴むためだけのものである。「クオリアの科学構造」を脳の科学構造の一部として描いているのは、人の行動の多くは無意識的であり、その無意識を制御するのが脳だという科学的知見を受け入れているためである。そして「意識」は現象的側面(クオリア)と科学的側面(クオリアの科学構造)に分けられ、意識と脳の科学構造が重なる部分にクオリアの科学構造を描いて、心と脳の「同一性」を表している。

なお「表象」のプロセスについては、上図では fMRIや鏡を省略して描いているが、通常の知覚因果・科学的因果的説明が適用可能である。鏡で脳を見るならば、光が脳の表面に反射し、また鏡に反射して網膜に入り、視神経の活動電位が発生してニューロンが発火し、神経伝達物質が放出されて次のニューロンを発火させ、脳に複雑なニューロンの発火パターンが形成される、ということになる。その複雑なニューロンの発火パターンはクオリアの科学構造の「一部」であろう(未知の科学構造は当然あり得る)。クオリアの私秘性については、脳の視覚像というクオリア1を「表象させる構造」は脳の科学構造の特性であり、クオリア1は第三者も表象・観測し得ることになる。しかし「歯が痛い」というクオリア2については、第三者はただクオリア2の科学構造を観測できるのみということで、クオリアの私秘性を説明できる。

脳という科学構造は物理法則の集合とて存在している。ニュートンはリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見したという俗説がある。この場合「落ちるリンゴ」と「引力」の関係は存在論的に不可分である。リンゴという物が引力によって大地に引かれるから「落ちるリンゴ」という出来事が生じるのである。したがって「落ちるリンゴは見えるけど、引力はどこにあるの?」と聞くのは的外れである。「落ちるリンゴ」の科学構造の一部が「引力」なわけである。大雑把に言うと、「クオリアと脳」の関係も「落ちるリンゴと引力」の関係と類比的なのである。クオリアと脳の双方を実体的なものと考えて因果関係を問うことは完全なカテゴリー錯誤である。脳も引力も世界の構造を織り成す非実体的な科学構造である。

脳という科学構造は、既に脳科学によって多くが解明されているように、それ自体が複雑多様な法則たちの集合体である。そして脳という法則の集合としての「科学構造そのもの」は見る事ができない。ただし限定的に「表象」することはできる。紙に E=mc^2と書いたものが世界の物理法則の一つを表したものであるように、fMRIや鏡で「脳を見る」という行為も、紙に E=mc^2と書くのと類似の表象行為なのである。何らかのクオリアが現れた場合、そのクオリアを立ち現した脳を中心とする世界の科学構造は、構造実在論が言う意味で確かに実在する。しかし視覚化された脳は科学構造そのものではない。紙に書かれた E=mc^2が物理法則そのものではないのと同じことである。視覚的クオリアとして表象された脳が、見えた通りに「実在」すると思い込んで、「心的実在」と「物的実在」の関係を問おうとしたカテゴリー錯誤から心脳問題は生じたのである。物的な脳はその実体性を否定され、引力などと同様に世界の非実体的な科学構造だと仮定することで初めて、心的なものと「同一」であることが可能になる。

ニューロンも神経伝達物質も、それらを構成する原子たち、また原子を構成する陽子や中性子や電子は、人に直接または観測機械を通じて知覚(表象)されているときはクオリアとして実在的である。そのニューロンの発火や神経伝達物質の放出という現象たちの「関係」、つまり「法則」も実在的である。PITではその科学言語で記述可能な諸法則が、人に直接知覚されていないときでも実在すると考え、それが脳という科学構造だとみなすのである。――以上が「脳は実在しないが脳の科学構造(諸法則の集合)は実在する」という意味の内容である。

PITの利点は、心的なものと物的なものの同一性を有意味に説明でき、さらに同一性が必然的であることを説明できるということである。物理主義による同一説の困難は、「同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一である」とナンセンスな主張せざるを得ないことにあった。上の図でたとえると「クオリア1とクオリア2が同じものである」と言うようなものである。物的な脳の実在を前提しているのだからそう考えざるを得ないのである。しかしPITでは実在する脳をを見ているのでなく、表象された脳の科学構造を見ていると考えるために、「同じ時点に認識される異なる存在者たちが同一である」とみなす必要がないのである。この観点は素朴な二元論の直観にも適合し、同時に二元論の困難も回避できる。実体二元論とは(実在論を前提としているため)、クオリア1とクオリア2の相関関係を問うようなものであるが、PITはそれをカテゴリー錯誤として否定できる。なお性質二元論や中立一元論では、心的性質と物的性質を一つの実体の二つの側面として考えるが、心的性質が因果的に排除されてしまう困難は実体二元論と同様である。

なお物理主義による同一説では、部分を持ち数量化可能な物的なものと、全一的で数量化不可能なクオリアが同一だという説明に無理があった。たとえば数学的に記述できる「脳状態L」と、片想いの人に対する「恋しい」という思いが同一なのだと説明しても意味が不明である。それらは「明けの明星」と「宵の明星」が実は同一の星だった、というような同一性の説明と全く異なっている。しかしPITでは、部分を持ち数量化可能なものは、全一的なクオリアの科学構造、つまり意識の「科学的側面」とみなすのだから説明に無理がない。

さらに物理主義の同一説ではクオリアがなぜ存在するかという、心的なものと物的なものの付随性の必然性が論証できない。チャーマーズによる「ゾンビ論証」はその必然性の欠如を暴いたものであった。実際に物理領域の因果的閉包性の原理によって、物的なものは物的なもののみを原因として動作すると言うのなら、心的なものが存在する必然性が見当たらない。したがって物的なものだけが存在してクオリアが存在しないというゾンビ世界がどうしても思考可能になる。しかしPITでは物的な脳の実在性を否定し、それをクオリアの科学構造とすることで、心的なものと物的なものとの同一性の必然性を認めることができる。

ただ科学構造が貫可能世界的に同一であるか否かは不明であり、ゾンビ論証は否定できるが、脳状態がこの世界と同一でありながら、たとえば「赤」と「青」が反転している「クオリア逆転」の可能世界は否定できない。なお大森は論文「無脳論の可能性」において、脳がなくてもクオリア経験が可能的であることを示唆している。これは脳とクオリアの付随性に必然性がないことを主張するものであり、基本的立場は間逆だがチャーマーズのゾンビ論証と着眼点は同じで表裏の関係になっている。私の考えではどのようなクオリアにも科学構造があるはずなので、少なくともこの世界では無脳論の可能性は認められない。科学構造が無いのにクオリアが現象すると言うのは、引力が無いのにリンゴが木から落ちると言うようなものだ。もちろん万有引力がない可能世界は思考可能であるが、リンゴが木から落ちるならば何らかの法則があり、その法則が「引力」と呼ばれているだろう。科学構造は必然的なのである。

ここで一つ疑問が生じるかもしれない。クオリアに科学構造があるのは必然的だとしても、その構造が「なぜ見えるのか?」という問題である。脳やその他の物的なものの科学構造は不可視で、五感によってアクセスできなくてもいいような気がするのである。大森の「無脳論の可能性」はその可能性の示唆だとも解釈できる。――この問題は存在論の根本的な問題につながることは間違いない。しかし今はあえて問題に深く立ち入らずに、心脳問題に限定して考究を進めたいが、とりあえず次のように考えることができるのは確かである。実在論的な表象主義では物的なものの「実在」が表象されるとして、実在が表象される理由を進化論的・発生的観点から説明する。ならばその「実在」を「構造」と置き換えて、構造が表象される理由を進化論的に説明することが可能なはずである。

PITは物的一元論の利点を取り込んでいるので、物理領域の因果的閉包性の原理を回避して心的因果を説明できる。以下は心的なものと物的なものの推移である。
心的: クオリア1 → クオリア2
物的: 科学構造1 → 科学構造2

心的なものと物的なものが「重ね描き」されることは必然的である。どのようなクオリアにもそれを立ち現す科学構造がある。クオリア1を原因としてクオリア2が生じるということは、即ちクオリア1の科学構造1を原因としてクオリア2の科学構造が生じるということと同じである。勘違いしてはいけない点は、科学構造を「原因」としてクオリアという「結果」が生じるのではないということである。クオリアが立ち現れるということは「即ち」科学構造も立ち現れているのである。したがってクオリア1からクオリア2への移行と同時的に、科学構造1から科学構造2への移行が観測されるのは当然なのである。

科学構造はクオリアと同時的に立ち現れている。したがって科学構造1を原因として科学構造2が生じるように「見える」のは当然である。私の脳を観察している第三者がいるなら、(表象された)科学構造の状態移行のみが観測されるだろう。もし観察者が物理主義者ならば、物理的なものしか観測できないのだから、世界に実在するのは物的なものだけだと主張し、二元論者ならば心的なものは見えないが実在的なものだから、物的なものとは性質が異なる、あるいは別の実体だと主張するだろう。

しかし私は物理主義者や二元論者に対して次のように主張する。あなたたちが見ているのはクオリアを立ち現す世界の科学構造を視覚的に表象したもの、つまりクオリアの一種であり、科学構造そのものではないのだ、と。

――ところで、「クオリアの科学構造」という形而上学には正直微妙な座りの悪さを感じざるを得ない。万有引力や相対性理論などの物理法則と、脳という物的なものとは根本的に異なるはずなのである。物理法則とはあくまで或るタイプの現象と別のタイプの現象の間に恒常的に成り立つ「関係」であるのに対し、脳は「関係」ではないように思えるからである。

こう考えることはできる。確かに目に見える「脳の視覚像というクオリア」は「関係」とは言えない。しかしPITでは目に見える脳とは対応する実在を持たず、あくまで科学構造――クオリアを立ち現し、消滅させるまでの一連の科学的な法則(関係)を「表象」したものとだとする。その科学構造は万有引力や相対性理論と本質的に同じであり、異なる点は脳の場合諸法則の「集合」だということである。実際に脳はニューロンも神経伝達物質も、それらを構成する分子も原子も、法則の集合である。

要するにクオリアの科学構造とは、クオリアを現象させる一連の法則のことなのであるが、その法則とは脳というミクロな法則たちの集合だということになる。――「クオリアの法則とはミクロな法則の集合である」とするのはやはり座りが悪い感が拭えないのだが、こう考えればどうだろう。化学の法則には色々あるが、その法則たちはミクロ原子たちの集合によって成り立つ。そして原子とは強い相互作用や弱い相互作用によって陽子や中性子が結びついたものである。そして陽子や中性子は「複合粒子」とされ、究極的な粒子は「場(物理量を持つ場所)」とみなされている。要するに化学法則とは原子というよりミクロな法則の集合であり、原子というミクロな法則たちも粒子という更にミクロな法則たちの集合である。そしてミクロなものはマクロな状態を構成するとそれまでになかった性質(法則)が創発する。このことがクオリアの科学構造の類比になるかもしれない。――しかし類比になっていないかもしれない。

違和感を完全に拭えないのは事実だが、にも関わらず私がクオリアの科学構造を措定したのは、現象主義の立場から物的一元論に対抗する必要があったからである。物的一元論は形而上学的無限という矛盾したものを含意していること、また心的なものと物的なものの同一性を主張することがナンセンスであることから、却下せざるを得ないものである。しかしそれらの難点を棚上げして仮に物的一元論が正しいと前提すれば、脳科学をはじめ世界の物理的諸事象は全て整合的に説明できてしまうのである。だから大多数の心の哲学者は物的一元論を支持している。この物的一元論の「強度」に対抗するため現象主義を前提として脳科学の知見と整合的な形而上学を構築する必要があったわけである。そして私が案出したPITは、心脳問題を他のどの説よりも整合的に説明できるはずである。(なお、クオリアの科学構造についての違和感は次節で解説する「超越論的観念論」に基づくアプローチで解消を試みる)。

次にPITによる世界観をコンピューターのプログラムにたとえて、科学構造というものが如何なるものかわかりやすく説明してみよう。

・プログラムとしての世界
コンピューターゲームをしている場合、モニターに出力される映像や音声だけがゲームソフトの作業ではない。バックグラウンドでは多数のプラグラムが動作している。このバックグラウンドに着目することが重要である。

私の住んでいるこの世界は、実は映画『マトリックス』のようなバーチャルリアリティーの世界(以下「VR世界」と略す)だと仮定する。本当の私はカプセルの中にいて、脳がコンピューターと電極でつながれている。コンピューターは脳に信号を送って私にどんな感覚でも与えることができる。するとVR世界で実在的だと言えるのはクオリアとプログラムだけだということになる。VR世界はPITの世界観と似ているのだ。PITでは、実在的なのはクオリアと科学構造だけである。つまり科学構造とはプログラムのようなものだと考えても良い。

VR世界では、私が街を移動するに従って街の風景が変わり、多様な人物たちが代わる代わる登場する。この場合、新しい街の風景と新しい人物が映像として出力されるだけでなく、風景を秩序正しく変化させ、人物たちを個別に規則正しく行動させるためのプログラムがバックグラウンドで動作している。だから風景は突然火星の荒野になったりしないし、人物たちが突然恐竜になって殺しあったりしない。

私は特定の女性に話しかけることができる。たとえば「一緒にお茶してくれる人がいないくて困っているんです。助けてくれませんか?」と。するとバックグラウンドでプログラムが動作し、その女性は適切な表情と音声で応える。たとえば「私、他の男性を助ける約束してて待ち合わせ中なんです」と。決してその女性はいきなり機関銃を取り出して「はい、一緒に火星人と戦いましょう」などと言ったりしない。秩序はプログラムとして存在している。現実世界でも実在的な科学構造が、プログラムのようにクオリアを秩序正しく現象させているのである。

また極端な話だが、VR世界で私はデートの誘いを断った女性の頭を斧で割って殺すことができる。ではその女性の頭の中に入っているのは何だろう。もちろん脳である。ではその脳とは何だろう? 脳こそがその女性の行動を制御していたプログラムを「表象」したものである(プログラムそのものではない)。つまりVR世界に登場する個別の人物たちは、彼らを制御するためのプログラムを一つずつ持っているのである。これは現実世界と類比的である。

さらに脳を顕微鏡で見るとしよう。神経細胞が見えるだろう。さらに神経細胞は多様な分子からなり、分子は原子からなり、原子は陽子、電子、中性子からなる。――神経細胞以下の微細な物理構造は何のためにあるのだろう? それらは脳の動作を制御していたプログラムの「部分」と考えることができる。

脳と個別の神経細胞たちの関係は、「メインルーチン」と「サブルーチン」の関係と類比的に見る事ができる。サブルーチンとはプログラムのソースコードにおいて、繰り返し利用されるルーチン作業をモジュールとしてまとめたものである。呼び出す側の主であるソースコードをメインルーチンと呼び、それに対してサブルーチンと呼ばれるのである。また世界における物質的なものは全て、百種類以上ある原子で構成されている。つまり原子とは汎用性が高く世界の様々な部分において多数使用されているものである。これはプログラミング用語で言う「ライブラリ」に対応するものと見ることができる。リンゴや椅子や石といったものも分子や原子から成るのだから、それらは独立した一種のプログラムであり、他のプログラムとネットワークを通じて情報を交換(相互作用)しながらVR世界を構成しているのである。

ところでリンゴのプログラムとはどんなものだろう? それは赤さ、丸み、香り、硬さ、重さ、甘酸っぱい、などリンゴの諸性質の情報を提供するものである。それらの情報――赤さと丸みという情報は光によって、香りは化学物質によって、硬さと重さは手の神経によって、甘酸っぱいは舌の神経によって、脳というプログラムへと伝達されるのである。そして脳の情報処理過程がクオリアの現象過程と一致する。――これは伝統的な表象主義と類似の発想である。ただし表象主義と決定的に異なるのは、リンゴの持つ諸性質は一次性質も二次性質も実在ではなく、プログラムによって提供される「情報」だと考えることである

そして世界の究極的な粒子とは、最も根源的な「語」であるはずだ。VR世界を創るのがノイマン式のコンピューターだとすると二進法であり、「0」と「1」という根源的な語の組み合わせからなっている。どのようなプログラミング言語の文字や記号も最終的には「0」と「1」に変換される。現実世界の究極的な素粒子は未知であるが、十二種類のフェルミオン粒子と五種類のボゾン粒子からなるとする仮説がある。それが事実だとしたら、世界は十七の根源的な語の組み合わせで記述されているということである。

ところでVR世界の脳や神経細胞は、あくまで「プログラムそのもの」ではないということは忘れてはならない重要な点である。脳を見る場合に見えているのは、脳というプログラムを視覚化したものであり、個別のニューロンを電子顕微鏡で見る場合は、ニューロンというプログラムの部分を視覚化したものであるということだ。現実世界でもプログラムのソースコードはエディターで開いて見る事ができる。しかしエディターで見たソースコードは「プログラムそのもの」ではない。プログラムとは半導体などのハードウェアに記録された情報なのである。現実世界で脳や神経細胞を見る場合も実は同じことである。それら視覚像は脳や神経細胞の科学構造そのものでなく、科学構造を視覚化したもの、「表象」したものなのである。

以上のようなVR世界のたとえで「科学構造」というものが理解できただろうか。――この現実世界もVR世界と同じようなものなのだ。「プログラム」とクオリアを立ち現す「科学構造」は同じようなものだとみなすのがPITである。

なお科学構造をプログラムのような実在とみなすならば第3節で言及した「知覚の重ね合わせ」がなぜ成り立つかという問題も解消する。バークリーの観念論の最大の弱点は実在論を拒否したために、五感によって捉えられた観念はそれぞれ独立した存在者だと考えたことである。目に見えるリンゴを掴んだ場合、視覚的クオリアと触覚的クオリアはそれぞれ一定の「空間」を持つが、視覚的空間と触覚的空間は重なっておらず別のものだということになる*29。しかしリンゴのプログラムが実在すると考えるならば、リンゴが提供する視覚的空間も触覚的空間も同一プログラム内のパラメーターと考えることができるので、空間の重なりが説明でき、また五感によってリンゴを知覚することを合理的に説明できるのである。

コンピュータープログラムは普遍的である。或るプログラムが動作してAという出力結果が得られたとする。同じタイプのプログラムが同じように動作したなら必ずAという出力結果になる。もちろんプログラムは乱数を生成する rand関数を使用することでランダムな処理をすることもできるし、WEBプログラムではアクセス過多で高負荷となった場合、CPUの処理能力が追い付かなかったり、データベースが破損したりして異なる結果が出力されることもある。しかし同じタイプのコンピュータープログラムは、何百台のパソコンで何百回動作させようと、完全に同一の動作をしたなら必ず同一の結果が出力される。この普遍性は物理法則の普遍性に基づいている。同様に私の脳状態がB1である場合にQ1というクオリアがあったとするなら、再び脳状態がB1になれば必ずQ1というクオリアが再現する。このような考え方は物理主義と親和的である。PITは物理主義の優れた側面を、実在を科学構造に限定することによって取り込めるのである。

元よりこの現実世界はVR世界のようなものである。モニターが私の前にある場合には何百回まばたきしようとモニターが見える。これはコンピューターゲーム内で、特定の操作にはそれと対応した特定の結果が出力されることが決定されているのと同じことである。ためしに以上のことを念頭に置いた上でコンピュータープログラムを操作してみれば良いだろう。プログラムがランダムな処理をするのでなく同じ処理を繰り返すなら、何百回やろうと必ず同じ出力結果が得られる。私はそのプログラムの普遍性に不思議な感慨を覚えて、同じプログラムをひたすら同じように動作させ続けたことがあった。ヒュームが「自然の斉一性」を主張したのはこのような感慨があったからかもしれない。自然の斉一性は誰しも当然のことと思って疑念を挟まないが、実は論理的必然性が無く驚愕すべきことなのである(ちなみにこの洞察からヒュームは因果関係には必然性がないとみなした)。

私は件のような感慨を基に、この現実世界はプログラムと全く同じではないかと思うようになった。実際全ての物事は厳密に物理法則と相関して存在している。小石を持ち上げてから手を離せば小石は地に落ちる。それを何千回と繰り返すことができるのは物理法則の「同一性」によるものである。それは「同一」のプログラムが繰り返し同じ動作することと何の相違もない。私が歩くたびに街の見え方は変わる。これはゲーム内でキャラクターが移動する度、バックグラウンドで動作したプログラムがキャラクターの移動に合わせた映像を出力しているのと何の変わりもない。

私は歩きながら「自分は歩いていないのではないか?」と感じることがある。ゲーム内のキャラクターがそうであるように、脚の動きに合わせて周囲の映像が変化しているだけなのだという疑念が消えないのである。実際そう考えても何の不都合もないだろう。見知った方向に足を動かせば見知った映像が見える。見知らぬ方向へ足を動かせば見知らぬ映像が見える。それだけである。時々素晴らしい映像を見ることがある。そんなときこう思うことがある。「ほら、見知らぬ方向へ足を動かし続けたらこんな素敵な映像が出力されたよ!」と。もちろん視覚だけでなく触覚、嗅覚、味覚も同じことなのである。「実在」などというものはない。あるのは「実在的なプログラム」だけど私は考えている。プログラムの普遍性は物理法則の普遍性と同じである。この現実世界の物理的諸事象は物理学・科学言語によって記述可能である。その記述を「プログラム」という言葉で置き換えても何ら不都合がないのである。

ところで量子力学の確率解釈を巡っては「シュレーディンガーの猫」という思考実験がある。量子論に言及するのは勇み足の感もあるが、現実世界はプログラムのようなものだと考える私のような立場からすると、シュレーディンガーの猫の生死を決定するのは rand関数を用いたもののようにランダムな処理をするプログラムだと考えれば良いことになる。ここにもPITと構造実在論との親和性がある。

「存在=知覚」とするバークリーに対しては、「私が月を見るのをやめれば月は消えてしまうのか?」というような批判があった。バークリーに近い立場を取る私はそのような批判に対し、「月はプログラムとして存在している」と応えるだろう。私が目を閉じれば月は消える。しかし再び目を開ければ月は見える。これは月の映像を出力するプログラムが実在しているからである。

物的なものたちの実在を否定し、それらをプログラムのような科学構造と考え、「脳」というネットワークの終点部分がクオリアそのものの科学構造と考えることによって初めて、物的なものと心的なもの、つまり脳とクオリアを「同一」とみなすことができる。現前するクオリアが最も原初的な存在であり、実在とされる脳はそのクオリアの科学構造として重ね描きされる――これがPITである。

念のため補足が必要だろう。物的な脳をプログラムとして見るということは、物理主義の立場の一つである「コンピューター機能主義」と類似の発想だと思う人がいるかもしれないが、全く異なっている。コンピューター機能主義は脳と心の関係を、コンピューターのハードとソフトの関係に等しいと考え、脳は心的表象(クオリア)という記号を操作する機械とみなす。これは「コネクショニズム」と呼ばれる立場も同様である。しかしPITでは「脳そのもの」がクオリアの科学構造であり、コンピューターのような記号操作はその科学構造の一つの機能とみなすのである。

ところでPITは物的なものの実在を否定することを前提としているため、独我論と不可分の立場である。しかし上述のように、現実世界をVR世界同様のプログラムのようなものだと解釈した場合、他人の脳というプログラムがイコール他人の心であるとみなすこともできる。次節にて論じる因果と時間の非実在の議論にコミットしなければ、PITは哲学的自然主義から大きく乖離した形而上学にはならないと思われる。

また世界をプログラムとして見ることができるなら、世界は有限の文字列で記述されたプログラムだと考えることで、ゼノンのパラドックスもカントのアンチノミーも回避可能である。そして「円周率」や「2の平方根」などの無理数の存在について合理的に解答できるだろう。「無理数はアルゴリズム(計算様式)として実在している」のである(実際円周率や平方根を計算するプログラムは存在している)。つまり或る種の計算様式に基づいた計算を可能的に無限回できるということである。

7 時間・因果の非実在

ここから私は自然主義と袂を分かち、メタレベルの形而上学へと進むことになる。

前節冒頭において私は、時間と因果が実在すると仮定した場合の心脳問題と、時間と因果が実在しないと仮定した場合の心脳問題は、全く別の問題であることを述べた。前節ではカントが言う「経験的実在論」に基づいて心脳問題の解消を試み、「経験的真理」を主張した。この節においては「超越論的観念論」に基づいて心脳問題の解消を試み、「超越論的真理」を主張したい。

「超越論的真理」として私が主張したいものを要約するならば、そもそも「構造」や「法則」というものはそれ自体で実在せず、ただ「構造や法則のように見えるもの」の実在性のみが認められる、ということである。つまり構造や法則とは人の認識の形式に従って現れた対象である。

カントにおいては、「物自体」は不可知であるゆえに世界は観念であるが、経験される現象は全て感性の時間・空間、そして知性のカテゴリーというア・プリオリな「形式」を伴っている。strong(){「経験の条件」である時間と空間は無限に延長することが可能である。「科学構造が実在する」ということをカント哲学に即して言い換えるならば、経験によって発見された諸法則に基づいた「経験の可能性」が科学構造として実在する、ということになる。}前節では「科学構造は実在する」と述べていたが、その「実在」とはあくまで「経験可能性」なのである。

これは未来に対する経験可能性だけではない。私の脳にリンゴの視覚的クオリアが存在している場合、その原因を脳のニューロンの発火パターンから順番に過去へと遡って、個別のニューロンの発火、神経伝達物質の放出、視神経による光の受容、リンゴ表面の光の反射、……と、過去の因果連鎖が「可能的に無限に」探求できるということである。経験可能性はこのように実在しており、これが「科学構造の実在」イコール「経験可能性の実在」ということである。

経験可能性の実在は「経験的実在」として「経験的真理」である。――もちろんこの場合は経験の枠内の真理であって経験を超えた真理ではないという含意がある。それゆえに「超越論的真理」は「経験的真理」とは別の問題となる

六面体のサイコロがあるとする。サイコロの或る面が見えた場合、他の面が存在していることはア・プリオリに真であり、これは空間という感性の形式に基いている。サイコロの構造は直接空間に現れ、現れた時点でその構造の見えない部分が判断できる。ところが科学構造や物理法則とはア・プリオリな真理ではなく、ア・ポステリオリに見出された真理である。

自動車にエンジンがあり、ハンドルがあり、変速ギアがあるということは真理である。しかしそれは直角三角形にピタゴラスの定理が成り立つことと同じタイプの真理ではない。数学や幾何学の命題が無時間的な真理であるのに対し、「構造」や「法則」とは必ず「時間」を隔てて「因果」の関係として見出せるものであるからだ。

構造や法則のようなア・ポステリオリな真理とは、結局のところは時間と空間上の「規則性」ということに還元される。自動車の内部構造のような真理は、現象が規則的に現れることから確かめられるということになる。つまりドアを開ければハンドルが見えるという現象があり、ボンネットを開ければエンジンが見えるという現象があり、エンジンを分解すれば個別の部品が見えるという現象がある、というような時間と因果という認識の形式に依存した「現象の関係性」「現象の規則性」に、構造の真理は還元される。

そして、その「現象の関係性」「現象の規則性」に必然性はない。

「法則」とはこういうものである。地面に転がっていた小石を持ち上げる。放せば小石は地に落ちる。百回繰り返しても同じである。自然において、或るタイプの現象と別のタイプの現象に恒常的に成り立つ「関係」から「規則」を見出して、それを人は「法則」と呼んでいる。仮に小石が二分の一の確立でしか落ちなければ万有引力の法則は否定されるだろう。法則とは帰納的に見出されたものであり、論理的必然性はない。物理法則が明日消えてしまうことは思考可能である。しかし論理法則が消えることは思考不可能である。数学や幾何学の命題は論理的に真であるが、物理法則は論理的なものでなく、必然性が欠如している。

この問題にはウィトゲンシュタインによって提起され、ソール・クリプキやネルソン・グッドマンによって再構成された「規則のパラドックス」も関わることになる。たとえば「2,4,6,8,10,……」と 2の倍数が並んでいるなら、10の次は 12であると思いたくなるが、14であってその次は 18であっても、「10以下は 2の倍数で、10以上は 4の倍数」という規則であると解釈するならば理に適っている。もちろん 4の倍数もいつまで続くかわからない。規則は有限の経験から一意に定めて無限に演繹することはできないのである。結局規則とは全て帰納的に見出されたものであり、論理的必然性がない。必然性の欠如が示すことは何だろう? 規則とは人の認識に存するものだということである。

或る人が道を歩いていると、小石が一つ転がっていたとする。更に歩くと小石が二個あり、更に歩くと三個あり、更に歩くと四個あり、更に歩くと五個あるとする。その人は小石の配列に規則を見出して、今度は小石が六個あるに違いないと思うだろう。――この場合重要なのは、道に転がっているのは「小石」であって「規則」ではないということである。「規則」「関係」「法則」といったものは人の認識にのみ存するのである。

私がクオリアの「科学構造」と言ってきたものも同じことである。脳という科学構造は諸法則の集合である。しかし「構造」も「法則」も人の認識に存するものであって、それ自体では実在していない。

「構造」や「法則」は必ず「時間」を隔てて「因果」の関係として認識されるのだが、その認識を成り立たせる条件である「時間」や「因果」は、カントが洞察した通り人の認識の形式であって、それ自体で実在していない。私は本論冒頭より「変化」の実在を否定してきた。変化の実在を否定することは、変化の属性である時間と因果を否定することである。私の形而上学はカントの認識論と整合していることになる(ただし時間と因果を否定するのは変化以外にも理由がある。それは後述する)。

しかし「構造」や「法則」というものはそれ自体で実在しないとしても、「構造や法則に見える現象」は実在しているのである。つまり因果は実在しないとしても「因果関係に見える現象」は実在しているのである。時間は認識の形式であるが、その時間軸上の各ポジションにカントの言う意味での「現象」は規則正しく存在している。――これが「法則」や「科学構造」という意味の実質と考えてよい。

・透視因果
PITは表象主義を限定的に認めるのだが、実在論的な表象主義が前提としている知覚因果説とは正反対のものである。知覚因果説ではリンゴを見る場合、リンゴに光が反射し、その光が眼に入り、神経を伝播して脳細胞が活動し、リンゴの映像というクオリアが生じると考える。

PITでは因果系列の向きが逆転している。まずリンゴの視覚的クオリアがあり、その原因として脳の状態が求められ、その原因として神経の伝播が求められ、その原因として光が眼に入るということが求められ、その原因としてリンゴに光が反射するということが求められる。さらに光の原因、そのまた原因……と因果関係の連鎖は可能的に無限に求めれれる。このように因果の連鎖を「逆向き」に見ることを大森荘蔵は「透視因果」と呼んだ。&footnote(『時間と存在』pp.232-5)。大森が透視因果を主張したのは知覚因果を否定しているためである。

大森によれば、人の視覚風景の構造は次のような「見透し」になっている*30
…脳→視神経→網膜→眼球→近景→中景→遠景→…

「→」は遠近順序を示している。なお脳や視神経は視覚に入っていないと思う人もいるだろう。しかし大森によれば脳や視神経は「透明に見透かされている」のである。それゆえに脳に異常が生じれば視覚風景も変化するのである。これは赤メガネをかければ、その赤メガネが「赤く見える」ことと透視的に重なって「風景が赤く見える」ことと同じである。つまり風景が赤く見えるのは赤メガネをかけていることと同じであるように、視覚風景が変化することは脳が変化することである。ただし脳変化は風景変化の「因果的原因」ではない。大森は脳変化を「前景因」と呼び、次のように説明する。
例えば、爆発→光の進行→眼球→網膜→視神経→脳、という因果系列を、今現在という一瞬に「逆透視」したのが今現在の視覚風景である。それゆえ、その系列の一部の変化はすなわち、それ以遠、以前、の系列部分の変化なのである。それゆえ、上の爆発の発端とする因果系列の最後尾の脳変化に更に続けて、……脳→爆発閃光の知覚、とする必要はないのである。もしそうしたならば、付加された矢印の意味付けに困惑して、心身因果とか投射とか意味不明の言葉を口走るはめになる。そうしないでただこの系列を逆に「透視」しさえすればいいのである。〔……〕因果系列での結果に先行する過去原因を、結果を「透して」この一瞬に見ているのである。*31

もちろん視覚だけでなく、触覚や聴覚など他の感覚も当然透視構造があることを大森は主張している。

このような大森の議論の背景には「重ね描き」と「立ち現れ」一元論がある。「重ね描き」では、科学理論による説明とは複雑多様な知覚風景を科学という一手法によって描写したものである。したがって「描写されたもの」が原因で知覚風景が生じていると言うに等しい神経生理学の考えは本末転倒である。また神経生理学的な説明は、物的なものと物的なものの関係として完結していて心的なものが介在する余地がない。この洞察は心の哲学において主張される物理領域の因果的閉包性と同じものである。つまり神経生理学的な過程のどこからも知覚は生じることは出来ず、また科学的な説明をいくら積み重ねても知覚にはつながらない。したがって大森は脳を原因として知覚が生じることを明確に否定している*32

「立ち現れ」一元論とは、心的現象や物的現象がさまざまな思いや構造を持って立ち現れるとし、その現象外部のものについては不可知であるとするものである。「現象一元論」と考えて良い。バークリーの観念論に近い立場であるが、異なる点はシュリックやストローソンが主張した認識主体としての自我を否定する「無主体論」と呼ばれる思考型であり、また知覚的なものだけでなく「重ね描き」において科学言語で記述されるものも「存在」に含めたことである。更に「立ち現れ」一元論では「過去」や「他我」といったものもその実在性に対する判断は停止される。現前する「立ち現れ」のみが確実な存在であり、それ以外は不可知なのである。つまり大森の哲学では、知覚因果の内実とされる神経生理学的な過程は、知覚と同時に一挙に立ち現れており、立ち現れたものは日常言語により描写されるべき要素と、科学言語により描写されるべき要素があり、それらが「重ね描き」されるということである。大森の哲学は単に物質的実在を否定するだけでなく、時間・因果についても現前する現象から見出されるものとするので、認識論的に「強い独我論」だと言える。

PITによる知覚の因果的説明は、超越論的には「透視因果」である。私は本論冒頭より変化の実在性を否定し、また実在論も否定してきた。変化を否定することは変化の属性である時間と因果の実在を否定することである。それゆえに私の立場は大森の「立ち現れ」一元論と近似的なものにならざるを得ず、PITによる因果系列も「透視因果」でなければならないのである。

透視因果においては、現前するクオリア(大森の場合「立ち現れ」)こそが全ての出発点である。或るクオリアの立ち現われと同時に、そのクオリアを立ち現す脳や外部世界という物理的な「構造」も立ち現れるということになる。このような考えには、世界を瞬間ごとに生成させては消滅させるものだというバークリーに対する批判と同じような批判があるだろう。しかしそのような批判に対するバークリーの反論は哲学史上に輝くものであった。私が付け加えるものはない。

ここで「人格の同一性」の第6節で紹介したマッハの自画像を再掲する。

マッハの自画像は、自分が固有のパースペクティブでしか世界を認識できないことを上手く表している。マッハの自画像は空間のパースペクティブを表現したものなのだが、実は時間と因果関係についても同じことが主張できるのである。時間は「今の私」から(可能的に)無限に開かれており、因果系列もまた「この私」から(可能的に)無限に続いているのである。空間も時間も因果関係も、それら自体がまずあって「私」が存在するのでなく、「私」が世界に現れると同時に、空間も時間も因果関係も現れるのである。

以上の説明は一般の人々の直観に反していることは確かだろうが、しかし自らの諸経験を慎重に反省してみると、実は単純に人の認識論的事実を主張しているだけだと理解できるはずである。「因果的説明」というもの自体が今の「私」から探求され説明されたものなのである。「私」の存在自体が最も根源的でそれ以上遡行できない「ナマの事実」であり、因果的に説明される他の全ての物事は、「私」の存在から推理された「仮説」であるというのが認識論的事実なのである。「私」は「結果」でなく「原因」である。同様に先行する或るクオリアを原因として今のクオリアが現れているよう感じたとしても、その「原因」と「結果」自体が(透視因果として)「今このクオリア」である「私」に内在しているのである。

透視因果はカント哲学との親和性を見出すこともできる。カントによれば現象(クオリア)はア・プリオリな時間と空間という形式を伴って立ち現れる。つまり或る現象が存在するということは、その現象の原因を「可能的に無限に」遡行できるということと同じである。決してその現象に先立って、原因となる諸現象が存在すると考えてはならない。それは直観の形式である時間と空間を、世界の「統制原理」と見るものではなく「構成原理」と見るものであり、アンチノミーにつながる純粋理性の誤謬推理である。――カントは因果関係の「経験的実在性」を認めるわけであるが、「私の経験」を根源的なものとしている点で、大森の「透視因果」と近似的だと見ることができる。カント哲学に独我論的傾向があることは明らかだろう*33
{※ただしカントは大森や私と異なり、「物自体」を措定していた点で「現象一元論」とは決定的に異なっている。実在論者から見れば「物自体」と言っても不可知で「真理対応説」が否定されているのだから、カントの観念論と現象一元論の違いなどわからないかもしれない。決定的相違は次の点である。カントによれば「表象」は物自体からの触発によって生じる。この主張の肝要な点は、人の意識に現象を去来させる「規則」や「法則」が、現象から「外在」しているということである。それに対して現象一元論では、その規則や法則も現象から見出されたものであると考えることである。現象一元論者からすると、カントは法則の外在性を認めている点で、或る意味実在論者なのである。

ところで私が因果関係を否定する理由は、変化というものが矛盾しているからというだけではない。「因果」と「時間」と「変化」は不可分の概念であるが、それぞれ問題性は異なっている。仮に「変化」の実在が認められたとしても、それは即「因果」と「時間」の実在を認めることにはならない。

「変化」「時間」「因果」の三つの概念は次のように、木の幹と枝の関係のようなツリー構造として存在している。
 ・変化
  └――・時間
     └――・因果

「変化」こそが根幹であり、「変化」から「時間」が枝分かれし、更に「時間」から「因果」が枝分かれするということである。根幹である「変化」が否定されるなら「時間」も「因果」も否定される。逆に末端の枝である「因果」を否定しても「時間」と「変化」を否定することにはならない。なお「変化」を認めても枝である「時間」と「因果」を認めることにはならない。三者の関係はそのようなツリー構造として存在する。

ここではあえて「変化」の実在性問題を棚上げする。そして「時間」と「因果」に焦点を当ててその実在性を検証してみよう。それによって時間と因果が含む固有の問題が暴かれるはずだ。

・時間の非実在
時間が実在するならば、宇宙には以下の三つのモデルがあり得る。なお私は「実在世界」を否定しているので以下の「宇宙の時間」を「意識の時間」と読み替えても構わない。

まず「究極原因型」がある。宇宙の起源として神やビッグバンのような究極の原因を想定し、そこから出来事の連鎖が無限の未来へと続いていくというモデルである。
①: 究極原因型

究極原因 → 出来事1 → 出来事2 → 出来事3 → ……無限の未来へ

次に「無限後退型」がある。宇宙は無限の過去から存在し、時間は現在を起点として過去へと無限に遡ることができるとするモデルである。
②: 無限後退型

現在 → 過去1 → 過去2 → 過去3 → 過去4 → ……無限の過去へ

次に「循環型」である。サイクリック宇宙論やニーチェの永劫回帰のように循環する宇宙がこれに該当する。出来事Aを原因としてBが生じ、Bを原因としてCが生じ、Cを原因としてDが生じ、Dを原因としてAが生じるという無限ループの形式である。
③: 循環型

A → B

↑   ↓

D ← C

ところで上述の三つに「永久主義」という時間論に基づく四つ目の宇宙モデルを加えるべきだと主張する論者がいるかもしれない。物理学の分野では特殊相対性理論の記述方法であるミンコフスキー空間を実体的に考える学者がおり、その実体化されたミンコフスキー空間は「四次元多様態」や「ブロック宇宙」と呼ばれる。このブロック宇宙内部では全ての事象は四次元時空の特定のポジションに固定されており、消えることも生まれることもない。ブロック宇宙とは変化と時間の実在を否定し、全ての事象は永久的であるとする形而上学である。ところがややこしいことに現代分析形而上学の時間論では、マクタガートの時間論を巡る議論において、ブロック宇宙を前提として「永久主義」を主張し、「存在が永久的であることによって時間と変化の実在性が説明できる」と主張している論者がいる。それがいわゆるB系列支持者である。しかし「永久」は「変化」の反対概念であり、B系列支持者の主張は転倒していると私は考えている。これは「人格の同一性」第5節でも論じたことであるが、ブロック宇宙とは文字通り一種の「ブロック(塊)」であり、その内部に変化はありえない。ブロック宇宙とは次のようなものである。
④: 永久型(ブロック宇宙)

[1] ― [2] ― [3] ― [4] ― [5]

他の宇宙モデルでは「→」で時間の矢を表したが、ブロック宇宙では全てのものは永久的に存在しているのだから「―」で時間の矢が存在しないことを表している。仮にこのブロック宇宙に変化が起きるとしよう。変化には以下の三タイプがあり得る。
タイプ1: ブロック宇宙を鳥瞰する者が[1] から[2]へ、 [2]から[3]へと視点を移動させる
タイプ2: ブロック宇宙全体が移動する
タイプ3: [1]が[2]に「なる」というように、それぞれのものが変化する

タイプ1は各時点の事象を鳥瞰する通時的主体が想定されているが、鳥瞰する存在者がいなければ変化はない。タイプ2とタイプ3はブロック宇宙自体の変化なのでブロック宇宙の定義に反する。結局、ブロック宇宙内部にはいかなる変化もない。実際ブロック宇宙という形而上学を支持している物理学者の多くは変化の実在を否定している*34。永久主義を時間モデルの一種とすることはできない。永久主義とは実質的に時間の反実在論であると私はみなしている。

永久主義を阻却した上で他の三つのモデルを検証しよう。

①の「究極原因型」と②の「無限後退型」はカントがアンチノミーとして論じたものである。この問題は「無限論」で論じたので解説は最小限に留めておく。無限後退型は過去の形而上学的無限を認めているので明らかに矛盾である。一方究極原因型は一見矛盾律に反しているわけではないよう思われる。しかし仮にビッグバンや神を「時間の始まり」の原因として認めるならば、やはり「時間の始まり以前」ということが考えられてしまう。もちろんアウグスティヌスのように信仰篤い者ならば、「神によって時間が創造される前は時間はなかったのだ」として無限後退を回避しようとするだろう。しかしこのような論法は一種の「デウス・エクス・マキナ」であって、「時間の始まり以前」について何も説明していない。確かに「時間が始まる前は時間はなかった」という言葉は、文法的には「私は生まれる前は私はいなかった」と言うのと同じように正しい。しかし存在論的には、「時間が始まる前は時間はなかった」と「私は生まれる前は私はいなかった」という言葉は全く異なる。そもそも「始まる」や「前」という語に既に時間概念は浸透しているからで、マクタガートのように言うならば「前」はB系列の時間を使っており、「始まる」はA系列とB系列の時間を合わせて使っている。換言するならば「時間が始まる前は時間はなかった」という言葉は、「時間の始まる前の時間には時間はなかった」という矛盾した言明なのである。結局、究極原因型は「究極原因」の以前を考えないというだけであって、無限後退型の一種なのである。

またこのような問題もある。仮に究極原因から出来事の連鎖が始まったとしよう。ならばその出来事たちは「無限回」生じているから矛盾だということになる。なぜなら究極原因は持続的に同じ出来事を生じさせているはずだからである。もし別の出来事の連鎖を生じさせたり、出来事を生じさせることを止めたりしたなら、究極原因の「内部の原因」に変化が生じたことになり、その内部原因の原因、そのまた原因と無限後退に陥るからであり、ならばもはや「究極原因」ではないのである。

③の循環宇宙モデルが形而上学的無限を回避できるか否かは、厄介な問題かもしれない。まず「無限回循環するとしたら矛盾である」と直観的には思える。しかし循環する宇宙を鳥瞰して循環回数をカウントする神や別の宇宙の知的生命のような「鳥瞰的観察者」がいなければ、「無限回」ということに意味はないようにも思える。それでも鳥瞰的観察者が現に「思考可能」であるならば、やはり「無限回」と考えなければならないのではないか? ――結局、鳥瞰的観察者が思考可能であることは、循環宇宙モデルが形而上学的無限を帰結させることになると私は結論する。それは次のような理由による。「時間が実在する」ということは、人または鳥瞰的観察者の「認識に先立って」循環宇宙の時間が存在するということである。観察者の認識に依存しなければ宇宙は循環しないと考えることはできない。それは観察者が時間を認識しなければ宇宙は止まっていると言うようなものだからだ。観察者の認識に先立って循環宇宙の時間が実在するならば、その宇宙の「循環回数」は観察者の認識如何に関わらず、観察者がカウントするに先立って決定していなければならない。ならば循環回数が十回であることは出来ず、百回であることも出来ず、千回であることもできない。結局「無限回」と考えるしかないことになる。ここに形而上学的無限という矛盾が顕在化する。

以上の考察によって、時間は三つのどのモデルでも形而上学的無限を帰結させ、つまり矛盾を含むものであることが確認された。

ところで時間が人の意識にのみ存する場合、世界が有限の出来事(あるいはクオリア)の集合であり、特定の出来事が「現在」であって、その現在がランダムにジャンプするという宇宙モデルがあり得るだろう。たとえるなら人が大きな絵を見ているとして、特定の部分に視点を当てているのだが、次に別の部分に視点を移し、また次に別の部分に視点を移すといったイメージである。マクタガートの「C系列」は多様に解釈されているが、このような宇宙モデルかもしれない。マクタガートによればC系列は時間ではないので、宇宙には「変化」は実在しても「時間」は実在しないということになる。しかしこのような宇宙モデルは理論内部に深刻な不整合があるように思える。まず「現在」というのは必ず有限の「幅」を持っていなければならない。でなければ人は何も感じることができないはずである。ならば時間をどれだけの長さで区切るのだろう? また「時間の矢」の問題がある。時間は常に過去から未来へと不可逆的に進行しているように感じられるし、そう考えた方が出来事の系列も整合的に説明できる。実際A系列支持者もB系列支持者も時間の矢の存在は疑ってもいない(ただし物理学では時間の矢が説明ができないことは留意すべきだろう)。このような問題を棚上げして、仮にこの宇宙モデルが可能であったとしよう。それでも矛盾を回避することはできないだろう。鳥瞰的観察者が思考可能であることは循環宇宙モデルと同様である。したがって変化が実在するならば、次々とジャンプする「現在」の「移動回数」は観察者の認識・カウント如何に関わらず決定していなければならない。ここからやはり形而上学的無限が帰結することになる。結局この宇宙モデルは循環宇宙モデルのバリエーションの一つであろう。

ここでマクタガートによる時間の非実在の証明について言及しておこう。マクタガートの主張を要約すると次のようになる。――時間には「過去である」「現在である」「未来である」と変化を表す時制述語によって出来事を説明する「A系列」の時間と、「~より以前」「~より以降」と、順序を表す関係語によって出来事を説明する「B系列」の時間がある。A系列とB系列は峻別できるものでなく相互に補完し合って人の時間理解を成り立たせているが、「変化」を現すA系列こそが時間にとって本質的であり、B系列とは派生的な概念である。しかしA系列は矛盾している。つまり或る出来事は「過去である」「現在である」「未来である」という三つの属性を持たなければいけないが、それら三つは排他的であり、したがって時間様相は矛盾しているから時間は実在しない。

もちろん素朴な観点からは、それら三つの属性は「同時に」でなく「順番に」持つのだから矛盾ではないと主張したくなる。しかしその主張には既に「順番に」というB系列の時間概念が用いられており循環論法になっている。――このマクタガートの論証は、私が本論第1節で論証した変化の矛盾と同じ洞察に基づくものである。

変化とは「ない」ものが「ある」ものになることであり、「ある」ものが「ない」ものになることである。「なる」という変化の本質とは、「ある」と「ない」とが同一だとする矛盾したものである。――このような主張に対して、素朴な観点から時間・順序を異にして「ある」ものは「ない」ものに「なる」のだから矛盾ではない、と反論したいのだけれど、その反論には既に「時間・順序」という「変化」の属性概念が用いられている。要するに「変化するから変化するのだ」だという同語反復に等しく、循環論法である。そして変化は人の意識にのみあるのだと考えることもできない。「変化を認識する」と言うことは「意識状態が変化する」と言うことに等しく、変化を説明するのにやはり変化を用いており、これもまた循環論法である。

以上のようにマクタガートによる時間の非実在の論証は、「あるはある、ないはない」という同一律に基づいて変化を否定するパルメニデスの論証と同根のものである。異なる点は、マクタガートは循環論法や無限後退を用いてより厳密に「矛盾」を論証しているということである。

第1節で論じたように「変化」は同一律に反しており矛盾である。そして仮に変化の矛盾を棚上げしたとしても、「時間」は「無限」という特有の矛盾を孕むことになる。したがって「変化」と「時間」の下位概念である「因果」も実在性を認めることができない。

ところで私が「因果」の実在を否定する理由は、「変化」と「時間」が矛盾しているからという理由だけではない。「因果」は更にその実在性を否定する特有の理由があるのである。

ここではあえて上述した三つの時間モデルの矛盾を棚上げしよう。そして三つの時間モデルに基づく宇宙が実在可能だとしよう。しかしそれでも「因果」の実在は認めることはできない。もとより「時間」と「因果」は不可分の概念ではあるが、問題性が異なっているので、次に「因果」に焦点を当てて検証してみたい。

・因果の非実在
前述した①の究極原因型宇宙では、神のような「究極原因」を措定することはとりあえず可能だとしよう。しかしその場合究極原因そのものの存在の原因が問われることになる。もちろん究極原因に存在の原因などないと主張することはできる。しかしそれならば世界の全ての存在者は「原因のないものを原因として存在している」ということになる。この言葉の意味は実質上「全ての存在者には存在の原因がない」というのと同じことである(これは後述する「究極の問い」につながることになる)。

ただ「原因のないものから原因が生じる」という主張は一見論理に反しているわけではないように思える。西欧の歴史において神による世界創造が信じられてきたのは、究極原因の措定によって無限後退を回避できると思われたからだろう。しかし究極原因型の問題は、最初の段階「究極原因」→「出来事1」という、最初の出来事が生じることが不可能だということである。究極原因自体はアリストテレスが想定したように「不動の動者」でなければならない。もし単なる「動者」であるならば最初の出来事より以前の出来事が想定されて、究極原因ではないということになる。しかし究極原因が「不動」であるならば、最初の出来事は「原因がない」が「原因」であるということになる。しかしそれは矛盾である。つまり「原因」という言葉には既に「作用」「運動」といった概念が含まれているからである。要するにアリストテレスが時間の無限後退を避けようとして苦し紛れに想定した「不動の動者」自体が、便利だけれども矛盾概念であるということである。

②の無限後退型宇宙では、「時間」は無限の過去へと遡行可能ということになる。この宇宙モデルが「因果」の実在を否定するものであることは明らかだろう。現在の或る存在者の原因を過去の出来事に求めることができるとしても、その過去の出来事の原因は更に求められるしかなく、更にその原因、そのまた原因と「無限後退」に陥るからである。

③の循環宇宙型では「時間」は循環していることになるが、この宇宙モデルも「因果」の実在を否定するものであることは明らかである。或る存在者の存在原因を求めるならば「循環論法」になるからである。

④の永久型宇宙はそもそも時間の非実在を主張するものであるから、「因果」の実在も否定することは明らかである。或る物事を「原因」として何かの「結果」が「生じる」という考え方はできない。

以上のようにどの時間モデルが実在すると仮定しても、因果の実在は認めることができないということになる。

もちろん因果が実在しないという主張には反論がある。反論者は充足理由律を挙げる。世界において原因を有さない物事が観測されたことはないという事実が充足理由律を裏付けているように思われる。しかし充足理由律は帰納的に見出されたものである。対して私が証明した因果の非実在は全て論理的なものである。論理法則は帰納法で得られた信念に優越する。

確かに世界の全ての存在者は物理法則によってその存在の原因が探求できると考えられている。しかし「物理法則そのものが存在する原因」というものはない。全ての存在者が原因のない物理法則によって存在するのならば、全ての存在者には存在する原因がないということになる。いや正確に言うと「原因」というのは「みかけ」のものにすぎないということになるのである。

ここから問題が更にメタレベルへとスライドすることになる。「因果」の問題は「宇宙にはなぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という「究極の問い」とつながっているからである。この問題は「究極原因型」の時間モデルとも関わりがあるが、異なる点は「究極の問い」は時間的なものではなく、本質的に無時間的な問題だということである。

・「究極の問い」
「究極の問い」に解答がないのは明らかである。上述したように時間には三つのモデルがある。仮に三つの時間モデルのいずれかが正しく時間が実在するとしても、「なぜその時間モデルの宇宙が存在するのか」と問えるからである。もちろんその問いに解答があったとしても、その解答自体が再び問われる対象となる。換言すると、或る存在者が存在する根拠に対する解答とは別の存在者に依拠せざるを得ないのだが、それは或る意味「存在するから存在する」というトートロジーであり、解答にならないわけである。――このように原理的に究極の「解答」を拒否するのが「究極の問い」の基本構造であって、それゆえに無時間的・論理的に解答がない問題なのである。これはデカルトが方法的懐疑によって見出した「疑い得ない疑うもの」と類比的に見ることができる。少しでも疑い得るものは疑ってみたとしても、疑っている何かが存在することを否定することは無意味である。なぜなら「否定」とは否定する何かの「存在」を意味するからだ。「究極の問い」が解答されることを拒否するのは、方法的懐疑によるコギト命題と同型の無時間的な問題なのである。

「究極の問い」に解答がないということが示唆しているものは何だろう? それは「根拠」の概念自体が問われなければならないということである。「究極の問い」はライプニッツにより定式化されて以来、多くの哲学者が論じている。その中でもショーペンハウアーとハイデガーは、この問いが「根拠」自体の何たるかを問うものであることを看破していた。ショーペンハウアーは『充足根拠律の四方向に分岐した根について』において根拠を主題として論じ、また主著『意志と表象としての世界』でも主要なトピックとして論じている。ハイデガーは講義録『形而上学入門』において「究極の問い」を「形而上学の根本問題」として再定式化した。ハイデガーは後に『根拠律』において根拠の問題を主題として論じているが、前期の代表作である『存在と時間』にも、既に「究極の問い」と「根拠」についての問題意識は表明されていた。ハイデガーは次のように書いている。
存在問題を了解するさいの哲学的な第一歩は〔……〕「いかなる物語りも語らない」ことにある。すなわち、存在者を存在者と規定するのに、その存在者の由来をたどって他の存在者に連れもどすことはしない、ということだ*35

ハイデガーは存在者の根拠を他の存在者に求めることを「物語り」として峻拒している。いかなる存在者も他の存在者に還元し得ない性質がある。それは「存在者が存在する」ということである。これが「存在者」と「存在」の差異、ハイデガー哲学の真髄である「存在論的差異」である。ハイデガーの哲学には、全ての存在者が「根拠」なく存在しているということに対する哲学的驚愕(タウマゼイン)がある。

私は「変化」「時間」「因果」を個別に論じてきた。「変化」は「無からの生成」を認めるものであり、また同一律に反したものであり実在性を認めることができない。そして仮に「変化」の矛盾を棚上げしても、「時間」には「無限」という固有の矛盾があって実在性を認めることができない。そして仮に「時間」の矛盾を棚上げしても「因果」には無限後退、循環論法、究極の問いという固有の問題があって、やはり実在性を認めることができないということである。

このような言い方もできる。「変化」の非実在については論理的な証明が可能である。そして仮に「変化」が実在すると仮定しても「時間」の非実在については論理的な証明が可能である。そして仮に「時間」が実在すると仮定しても「因果」の非実在については論理的な証明が可能だということである。「変化」「時間」「因果」はツリー構造を成しているのだった。「変化」は不可能であり、「時間」は「変化」より更に不可能であり、「因果」は「時間」よりまた更に不可能だということである。

「因果」の実在は全く認めることができない。デイヴィッド・ヒュームは、因果関係とは人が或るタイプの出来事に続いて別のタイプの出来事が生じることを繰り返し経験することから見出したものであり、「必然性」はないとみなした。これはまさに驚異的な慧眼であった。

因果関係が実在的ではないとはどういうことだろう? それは、世界の全ての存在者は端的に「無根拠」に存在しているということである。

今、私の前のテーブルにはコーヒーが入ったカップがある。コーヒーがあることには何の理由もないのである。これは私にも信じ難いことである。コーヒーがあるのは自分が飲むために自分でコーヒーを入れたからである――そう思いたいのだが、論理的に考えるとそれは間違いだということである。「自分でコーヒーを入れた」ということを原因とするなら、その原因が更に求められ無限後退に陥る。また究極原因を措定して物理法則による因果的説明を認めたとしても、その究極原因と物理法則が存在する原因はない。したがって私の前のテーブルにコーヒーが存在する原因はない。

もちろん存在に原因がないのはコーヒーだけではない。金閣寺が存在することにも原因はない。タイタニック号の沈没にも原因はない。今窓外の空に飛行機雲を引きながら飛んでいるジェット機にも原因がない。十年前私が足を捻挫したのは転んだのが原因だと思っていたが実は何の原因もなかった。今日買い物をしてレジで 1027円を出したのはレジ係の店員が「1027円になります」と言ったからではなかった。――これは一体どういうことだろう? 因果関係の実在を否定するのは我ながら正気の沙汰とは思えない。

いっそ因果の担保となる「未知の原理」があるのだと仮定して、因果関係を認めてしまったらどうだろうか。そうすれば常識と整合して正気が保てるはずだ。しかしそれはできない。因果というものが実在するなら論理に反するからである。私は「変化」「時間」「因果」の三つを個別的に検証してそれらの実在を否定した。因果関係は三重の論理で否定されるのである。「自然の斉一性」には論理的必然性がない。また「規則のパラドックス」で示されたように、物理法則が明日変化したり消えてなくなることは思考可能である。しかし論理法則は無時間的な真理であり、明日変化したり消えてなくなることは思考不可能である。論理法則は物理法則や常識に優先する。

しかし私は「因果」の実在を否定するのだけれど「透視因果」の存在は肯定している。通常「因果関係」とは、或る物事を「原因」として、或る物事が「結果」として生じるという関係である。そのような関係は実在しないのだが、しかし「因果系列とみなせる」関係は存在するのである。要するに人が因果関係だと思っていたものは、実は「因果」の関係ではなく、別の関係だということである。

「テーブルにコーヒーカップがある」ことと「私がコーヒーを入れた」ことには「関係」がある。その「関係」の内実とは或る「原因」を理由として或る「結果」が「生じる」ということではない。その「関係」の実質を、既存の概念を用いて可能な限り正確に表現するならば、「時間と空間上における存在者たちの隣接関係」、あるいは簡潔に「存在者の在り方」ということになるだろう。テーブルにあるコーヒーカップは、私がコーヒーを入れたから存在しているのではない。「私がコーヒーを入れた」というのは「存在の理由」ではなく、コーヒーカップという「存在者の在り方」なのである。つまりコーヒーカップは「私がコーヒーを入れた」という出来事を属性として持って存在しているということである。

無限論」で用いた比喩を再掲しよう。――「因果関係」とは、一つの現象を「原因」と「結果」に分割して得られた概念である。たとえば或る人が一枚の板を二つに割って捨てたとする。その二枚の板を拾った哲学者は不思議に思うかもしれない。二つの板の割れ目はぴたりと合うので重要な関係があるに違いないが、その関係に必然性が見当たらない、と。「因果」は人によって見出されたものであり実在ではないとしても、「連結」は現象の事実としてあるのである。

このように「因果」の関係にあると思われていたもの全てを、存在者たちの「隣接関係」存在者の「在り方」として見ることによってのみ、透視因果における因果系列は理解できる。――感覚器官が外界の情報を受け取り、活動電位が発生してニューロンが発火し、神経伝達物質が放出されて次のニューロンを発火させ、ニューロン群の複雑な時間的空間的発火パターンが形成され、そのニューロンの発火パターンが「赤」のクオリアである。――この科学言語による記述は正しい。しかしそれは常識的な「因果」の概念に適合する関係としてあるのではない。「赤」のクオリアの「在り方」として、透視因果として観察できるということであり、因果系列とは「赤」のクオリアの「属性」なのである。

念のため付言する必要があるだろう。「因果」の実在が否定されるということは、直ちに透視因果が理論として妥当性を認められるということではない。「変化」「時間」「因果」の各概念はツリー構造を成しているのだから、「因果」を否定することは直ちに「時間」の否定にはつながらないのである。仮にこの世界は上述した三つの時間モデルのうち「循環宇宙型」だったとしよう。するとこの循環宇宙自体は何の「原因」もなく存在しているということになるのだが、宇宙内部の「時間」は実在しているということになる。つまり宇宙内部の存在者全ては何の原因も持たずに存在しているのだが、その原因を持たない存在者たちは全て、「時間の矢」を有し因果系列を成しているかのように運動しているということである。したがって因果を「逆向き」に見る透視因果は、厳密には「因果」の非実在に加えて「時間」の非実在が論拠になる。そして冒頭から論じてきたように「変化」は矛盾であるから変化の属性である時間は実在しない。仮に変化の実在を認めたとしても時間が実在するとすれば形而上学的無限が帰結するので、やはり時間は実在しない。ゆえに透視因果は妥当な因果関係論だということになる。

ただ透視因果というものがあると言っても、膨大な物事が緊密に連結し合っているように見えるこの世界が、通常の意味での「原因」を持たずに「ただ存在しているだけである」とするのは、途方もない形而上学であることは間違いない。しかしこのような形而上学が受け入れ難いのは、フランシス・ベーコンの用語を借りて人という「種族特有のイドラ」が原因だろう。

仮に素粒子 1個だけが存在する別の宇宙があったとする。人は大して不思議に思わないだろう。しかし素粒子が 7777777個存在する( 7が 7つ並んでいる!)別の宇宙があったなら人は非常に不思議に思って、そんな宇宙が偶然存在するわけはなく、存在を合理的に説明できる「原因」がなければならないと思うだろう。「7とは神の数字だ」と言い出す輩もいるかもしれない。――人の知性はそのように不思議さの場所を見間違えてしまうのだ。世界に存在する天文学的な数の物事が全て原因を持たず「ただ存在しているだけである」という主張は、種族特有のイドラに馴致され、常識に支配された人の知性には受け入れがたいのである。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における次の言葉は、そのような人々の常識に対する拘泥をアレキサンダー3世がゴルディアスの結び目にそうしたように、鮮やかに断ち切って達観してしまったような風がある。
世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現しはしない。(6.432)
神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(6.44)

ところで、人は誰しも次のような問いを発したことがあるはずだ。
私は一体、なぜ存在しているのだろう?

この問いに対する解答は明らかである。「私」は何の原因もなく存在しているのである。おそらくハイデガーも私と同じ結論に到達したはずである。ハイデガーの「存在論的差異」は宗教批判につながっている。存在者は全て原因―結果の関係で理解される。このような思考の枠組み(「作為構造」と呼ばれる)の地盤となったものが、神を創造主として存在者たちを被造物だとする宗教である。この作為構造の下では「存在」自体が創造主の膝下に置かれて問いの主題とされない。これが「存在棄却」である。――この「宗教」はもちろん「科学」と置き換えることも可能である。人は宗教や科学で存在者の「物語」を語って、存在を忘却してしまうのである。

ハイデガーは『根拠律』において、アンゲルス・シレジウスの「薔薇はなぜなしに咲く。薔薇は咲くがゆえに咲く」という詩句を引用して論じている。ハイデガーによれば薔薇は「なぜ」なしに咲くのであるが、「ゆえに」なしに咲くのではない。「咲く」ことが「咲く」ことの根拠である。――ハイデガーの示唆は難解であるが、間違いのない解釈が一つあり得る。人は「存在者の在り方」を探求することはできるが、「存在の根拠」を探求することはできないということである。ハイデガーは次のように述べている。
《有には根拠が属する》とは、大略次のごときことを言っている。すなわち、有は有として基づけつつあると。このことの帰結として初めて、有るものはその都度その都度根拠を持つのである。
〔……〕有は本質において根拠である。それゆえに有は、有を根拠付けるべき更にもう一つの根拠を決して用いない。それゆえに根拠は有から離れ去っている。根拠は有から抜け去っている。根拠が有からかくのごとく抜け‐去っているという意味において、有は脱‐底で《ある》。有が有としてそれ自身において基づけつつ有る点において、有それ自身は無根拠に留まっている。《有》は根拠の命題の支配圏に入って来ない。その支配圏に入って来るのは、有るものだけである。*36

「私」をシレジウスの詩句になぞらえて言うならばこうなるだろう。
私はなぜなしに存在する。私は存在するがゆえに存在する

前節で「経験的実在論」という原理から説明した存在者たちの「原因」および「結果」とは、実質的には全て「存在者の在り方」なのである。私に先祖が存在することは、私の在り方、または属性であって、私の存在の原因ではないのである。私は何の目的もなく、何の原因もなく存在している。私はこれまでの人生で多くの経験をしているが、全ての経験は何かを原因として生じたわけではなく、ただ「ある」だけだったのである。――このような説明を受容できない人は、「存在者が存在する」ということについてのタウマゼインが足りないのである。

宇宙には何もないのではなく、何かがある

この摩訶不思議は以下のように様々に別言することが可能である。――宇宙には何もないのではなく東海道新幹線がある。宇宙には何もないのではなく映画『ローマの休日』がある。宇宙には何もないのではなくペルシャ戦争の記録がある。宇宙には何もないのではなく拳銃がある。宇宙には何もないのではなく誰かの痛みがある。――世界は神秘とタウマゼインが横溢している。 存在者たちの由来を辿ることによってその存在の理由を説明し、存在の神秘を雲散霧消させたいなどという心境は質の低い理性の迷走である。存在の謎は分厚い哲学書を紐解いて学ぶものではない。路傍にひっそりと咲く一輪の花でさえ存在の神秘を雄弁に語っている。路傍の花と語り合える哲学的精神の持ち主ならば、存在者の「物語」をでっち上げて存在の神秘に蓋をするような無粋なことはしないだろう。

私は花咲き乱れる庭園を気ままに舞うひとひらの蝶を見て世界はただあるだけなのだと撃たれたように直観したことがある。世界に因果があるように見えるのは人が因果の色眼鏡をかけているからである。蝶には人の心はわからない。あるいは別の色眼鏡で世界を見る仙人のような者がいるかもしれない。人にはその仙人の心はわからない。蝶が見る世界と人が見る世界と仙人が見る世界のいずれかが正しいということはない。世界をどのように見るかということと、世界がどのようにあるかということは、所詮別のことなのだから。

世界の全ての存在者が存在するということは、それ以上原因を遡行不可能なナマの事実として受け入れる必要がある。しかし因果系列というものは全否定されるものではない。時間と空間上において、存在者たちの隣接関係に法則性があるのならば、その法則に反した存在者は存在しないということになる。ちなみにその法則を探求する学問こそが「科学」である。したがって「因果関係」というものは形而上学的に実在しないとしても、実用的な意味でその語を用いることは可能なのである。

因果関係が実在しないということは宇宙がカオスだということではないのである。仮にこの宇宙は神が描いた一枚の絵だとしよう。絵画には様々な技法がある。神は時間・空間・因果といった技法でこの宇宙を描いたのである。科学によって確認されたその技法こそが宇宙の秩序をもたらしているものなのである。――ただし、明日からは新たな技法で宇宙が描かれていたとしても何の不思議もないことになる。やはりヒュームの洞察は正しいのである。

私は何の原因もなく存在している。しかし「原因に見えるもの」、あるいは原因だと「認識可能なもの」はあるということなのだ。人の実存にとってはその「原因に見えるもの」があれば十分だろう。

以上の説明で私が本節冒頭で述べた、「超越論的真理」という言葉の主旨が理解されたはずである。「構造」や「法則」とは人の「知性」の形式に従って現れた対象である。「構造」も「法則」も、またそれらの根拠である「時間」や「因果」も、人の認識に依存するものであって、認識に先立って実在するものではないのである。――このように考えれば前節の言及したクオリアの科学構造が脳であるということの違和感も解消するかもしれない。「この世界」では、脳というものがクオリアの科学構造であるように「見える」というのが真理である。科学構造は人の認識が見出したものなのである。

時間と因果が実在すると仮定した場合の心脳問題と、時間と因果が実在しないと仮定した場合の心脳問題は、異質な問題である。「経験的真理」であるPITは、時間と因果が経験的に実在するという前提において、心脳問題について説得的な説明を与えるものである。それに対し「超越論的真理」としてのPITとは、時間と因果の非実在を主張することによって、むしろ心脳問題を解体してしまうものである。

既に私は第3節においてクオリアの不思議さを根拠にして実在論の無意味さを論じた。ここでも同様に実在論の無意味さを主張できる。
実在論の無意味1: 物質的実在を措定しても、クオリアが生成し、変化し、消滅するという摩訶不思議を説明するのに何の役にも立たない
実在論の無意味2: 物質的実在を措定しても、それは「因果的説明」にはならず、クオリアという「存在者たちが存在する」という摩訶不思議を解消するのに何の役にも立たない

そもそも実在論とは、実在物を措定してそれから一連の因果的プロセスによって知覚が成立するという「知覚因果」を仮定することによって、クオリアの生成と消滅という不思議を解消しようとするものであった。しかし因果が実在しないなら知覚因果も実在しない。

宇宙には何もないのでなく、何かがある。――この場合の「ある」とはクオリアを指している。現前するクオリアこそが最も原初的な意味での「存在」なのであり、クオリア以外のものは全てクオリア経験から推論されたものだというのが認識論的事実である。実在論とは、クオリアという存在者の「物語」を制作して、クオリアが存在するという神秘に蓋をしようとする哲学である。

実在論者の多くは、月や太陽はマクロなもので根源的なものだから突然生まれたり消えたりするのは不合理であるが、人のクオリアはミクロでトリビアルなものだから突然生まれたり消えたりしても不思議ではないと思うのだろう。そのような俗な存在観に毒されている人に、ウィリアム・ブレイクの「無垢の予兆」にある次の詩句を処方薬として提供したい。
一粒の砂に一つの世界を見
一輪の野の花に天国を見る
手のひらに無限をつかみ
ひと時の内に永遠をとらえる

この詩句を解説するような野暮なことはしないでおく。

私の主張は物理主義を否定するものであるが、物理学・自然科学を否定するものではない。物理主義とは「物的なものだけが実在的である(唯物論)」とする形而上学的実在論に基づくものであって、実用的実在論に基づく物理学・自然科学とは本質的に異なるものである。PITは素朴心理学的には途方もない仮説かもしれないが、仮に形而上学的にPITが正しいとしても、現在の物理学や脳科学、また認知科学は何の影響も受けないのである。脳の特定の部位が損傷すれば意識の状態も変わる。このように経験的に確かめられた神経科学の知見はぴたりとPITのセオリーに整合する。

PITは現象主義であり、現象一元論、またはクオリア一元論と言っても良い。しかし全てのクオリアは立ち現れた時点で科学構造を伴っている。自然科学はその科学構造を探求するものである。つまり実在的な科学構造によって立ち現れた物的なもののクオリアが研究対象である。自然科学は形而上学的な物質的実在など研究していない。大森いわく「ないものを使える道理がない」からである。

8 無時間論の可能性

PITの論証が成功しているのならば、私は意識のハード・プロブレムの半分(心脳問題)を解決したことになるだろう。しかし残りの半分がある。それはクオリアがどのような原理で生まれ、そして消えるのかというクオリアの構成原理である。

私は暗闇に美女や戦車や銀河系を思い浮かべ、次にはその美女も戦車も銀河系も消すことができる。しかし変化とは「ない」ものが「ある」ものになることであり、「ある」ものが「ない」ものになることである。これは「無からは何も生じない」という原理に反する矛盾であり、魔法や奇跡としか形容しようのない不思議なことである。

また私の思い浮かべたものが「美女→戦車→銀河系」という変化と順序があるならば、時間もあるということになる。しかし既に論じたように時間には「究極原因型」「無限後退型」「循環型」という三つのモデルがあり得るが、いずれのモデルも形而上学的無限という矛盾が避けられないのだった。つまり時間が実在するとした場合、以下のように二つの矛盾が生じるということである。
変化に基づく矛盾: 変化とは「ある」と「ない」という相互排他的なものが同一であるとする矛盾である
無限に基づく矛盾: 時間が実在するなら、時間は無限に分割・延長可能であるが、無限の実在とは矛盾である

理論対象に一つの矛盾があるだけでもその理論は崩壊するはずだ。矛盾が二つもあるのならそれは「鉄壁の矛盾」とでも形容すべきものであり、理論は完全崩壊すると考えるべきだろう。時間は実在しない。これが論理的な結論である。

時間・変化の非実在という結論から新たな問題が始まる。現に体験しているように思われるクオリアの変化、つまり「時間・変化に見えるもの」をいかに説明するかということである。時間の謎とクオリアの謎は同根である。たとえば「青信号が赤信号になる」という出来事をマクタガート風に言うと、「出来事は排他的な性質赤と青を持つ」ということなのだから、意識のハード・プロブレムの核心問題(クオリアの構成原理)は時間の問題と同じである。

クオリアが変化するということは非論理的であり、矛盾している。しかし非論理性がクオリアの本質だとして、それが結論であるとするわけにはいかない。世の中には論理的でない矛盾したものがある、というのは言葉の上では簡単であるが、そのような諦念は哲学には有害である。ではクオリアが変化しているように見える事実はどう解釈すればいいのか。汎経験説や創発説をともにナンセンスな仮説と否定するなら、現に突然生じるクオリア、消えていくクオリアをどう考えればいいのだろう?

消去法的に考えれば、クオリアは「生じない」し「消えない」と考えるしかないのではないか。クオリアが生まれたり消えたりするのは論理に反している。しかし「生まれたり消えたりしている」ように見えるクオリアを一個の存在者と見て、それが不生不滅だとするならば、論理に反しないのである。事実として、私は変化を感じているように思っているのだが、実際に経験しているのは「変化」そのものではなく、「変化しているような感じ」なのである。

たとえば「私は1、2、3と数えた」という言葉があった場合、そこには「1」から「2」へ、それから「3」への変化が表されているよう思うのだが、実はその言葉が表現しているのは、「私は1、2、3と数えた」というひとつらなりの思考、ひとまとまりのクオリアが存在したということのみであり、クオリアの変化は表現されていない。

つまりクオリアAが出現し、次にクオリアAが消えるのならば論理に反しているのだが、「クオリアAが出現し、クオリアAが消える」というものが、ひとまとまりのクオリアだとするならば、論理に反していないということである。要するに「AはAである」「BはBである」とAとBの存在を同一律で固定してしまえば、AがBに「なる」という変化は不可能である。しかしAとBが個別に存在することを否定して、「AがBになる」というものが存在すると考えるなら、同一律に反しないのである。

以上の発想は分析形而上学で主張される「四次元主義」の「ワーム理論」と基本的に同じである。四次元主義では、物体は時間的に延続しているものであり、三次元空間に現れるのは瞬間的部分に過ぎず、四次元時空の中にこそ完全に存在すると考える。私の主張が四次元主義と異なるのは、物質的対象の実在を否定する反実在論であること。また四次元主義が「変化」の実在を肯定するために存在者は「時間的幅」を持たなければならないとするのに対し、私は変化と時間の実在を否定するために、個別的に見えるクオリアたちは「全一」でなければならないとすることである。

しかし現実に体験しているクオリアは、どうしても次々と変化しているよう思えてならない。それら多様なクオリアがひとまりの、全一的な存在者だというのはどのようにイメージすればいいのだろう?

私はその全一的なクオリアも、クオリアの性質として説明するしかないと考える。たとえば「赤」のクオリアの性質とはどんなものかといえば、「血の色であるそれ」であり、「痛み」のクオリアの性質とはどんなものかといえば、「転んで足を打った時のそれ」という表現でしかクオリアの性質は表現できない。

心の哲学において、チャーマーズは機能的意識と現象的意識(クオリア)の違いに着目し、現代の心の哲学や脳科学は意識の機能面の研究しか行っておらず、意識の本質である現象的側面を置き去りにしていると批判した。「マリーの部屋」の思考実験の応用でこの問題を説明すれば、モノクロの部屋で育ったマリーは、「赤」を体験する際の脳の状態と人の行動をいくら勉強しても「赤」のクオリアを体験することはできない。外部の世界で「青」という語がどのような用いられ方をしているか、「青」がどんな機能を果たしているかなど、「青」についての科学的・機能的な知識を全て得ても、マリーは部屋から出て実際に澄んだ空や海を見た時には、新しい体験をするはずである。その新しい体験こそが「青」というクオリアの本質である。

「クオリアAが出現し、クオリアAが消える」というクオリアの本質とは、「青」の本質がマリーの経験した「青」のクオリアであるように、「クオリアAが出現し、クオリアAが消える」というクオリアなのである。

世界には数多のクオリアがある。美女の出現も消滅もそれらクオリアの一種として説明しようということである。以下にいくつかのクオリアを並べてみる。
Q1: 「青」のクオリア
Q2: 「痛み」のクオリア
Q3: 「美女」のクオリア
Q4: 「暗闇に美女が出現した」というクオリア
Q5: 「美女のクオリアが出現し、次にその美女のクオリアが消え、次に戦車が出現した」というクオリア

「青」の「青」としての性質は他の何かに還元して説明不可能であるように、「美女のクオリアが出現し、次にその美女のクオリアが消え、次に戦車が出現した」という性質は、他の何かに還元して説明することは不可能なのである。

別の方法で説明してみよう。知覚にはゲシュタルト構造があることが知られている。誰かが楽譜を見ながらピアノの鍵盤を一回叩いた場合、一つの音が聞こえるだけである。しかし十回叩けば十の音が聞こえるだけとは限らない。何度目かの音で人は「メロディ」を感じることができる。それが「全体は部分の総和を超える」というゲシュタルトの性質である。メロディは個別の音に還元して説明することはできない。それと同様に、私が「美女」「戦車」「銀河系」を次々思い描いて消した場合、それらは個別のクオリアとして存在したのではなく、全てが繋がった「一個のクオリア」として、「一個のゲシュタルト質」のように存在したかもしれない、ということである。

前述したように、「私は1、2、3と数えた」という言葉があった場合、それには「私は1、2、3と数えた」という、ひとまとまりの意識現象が存在したということしか表現されない。その「現象」が数秒の出来事ではなく、何年、何十年の出来事であったとしても論理的には同じことである。つまりは人生の体験が丸ごと、ひとまとまりの現象であることは論理的に可能になる。

このようにして変化の実在を否定しながらも、クオリアの「変化している感じ」は説明可能であるように思える。

一秒間の音と五秒間の音。――両者の違いは何だろう。「長さ」が違うのだと素朴に思いたくなる。それは一面の事実であるが、本質的な違いは音の「印象」だろう。「長さ」とはその印象から切り取られた性質なのである。人生は「長さ」としてあるのではなく「印象」としてあるのである。人生は諸々の印象のつらなりである。ベルクソンの用語を借りて言うなら「質的多様性」である。

人生はよく儚い夢にたとえられる。「邯鄲の夢」の故事は有名である。人生が夢にたとえられるのは、人生の「多数の体験」が、実は「一個のクオリア」であることを論理的に否定できないからである。

私の考えは、現象の変化と時間は錯覚のようなものであるとするエレア派の立場に近い。類似の立場に「永久主義」と呼ばれる哲学的時間論がある。しかし既述のように現代分析形而上学における永久主義者は、変化と時間の実在を否定するのでなく、世界がブロック宇宙として永久的であることにより、変化と時間の実在が説明できると考える。この考えは転倒している。したがって私は変化を否定する自分の考えを単に「無時間論」と呼んでおく。無時間論はブロック宇宙説ともと整合的である。もちろんその「宇宙」とは「私」の経験としての「全一的なクオリア」であり、不可知である「他人のクオリア」は含めていない。

ところで、ブロック宇宙を文字通りコンクリートのブロックのような静的な塊だと思ってはいけない。ヒュー・プライスが言う通り、時間はブロックのなかに含まれているのだから、ブロック宇宙を静的と言うのは、それを動的ないし可変と言うのと同程度に間違っている。ブロック宇宙とは普通の意味での存在物ではない。*37

・「純粋持続」と「出来事」の存在論
私は本論冒頭から変化とはそもそも矛盾であることを繰り返し論じてきた。しかし現代分析形而上学ではマクタガートの問題提起を受けて「時間の矛盾」は議論されても、「変化の矛盾」は議論の対象になっていない。変化は自明な前提とされて、A系列とB系列ではどちらが変化を合理的に説明できるかという議論になっているのである。時間は変化の属性なのだから、変化の問題とは時間論の中核に置いて論じるべきものである。しかし哲学史上、変化の矛盾というものについて深く考究し合理的な解答を与えた人物は、私の知る限り皆無である。

しかし、アンリ・ベルクソンと植村恒一郎は、変化の矛盾というものについてある種の解答を試みている。

ベルクソンについては「人格の同一性」第8節で解説したので、ここでは要約だけに留める。ベルクソンは「純粋持続」の概念を提唱し、数学的に表現される時間は空間化されたものであり、運動そのものは表現されていないと指摘した。時間とは動的なものであるが、空間とは静的なものである。いくら紙に詳細な運動の数式を書いても、それは運動そのものではない。たとえば「ドレミファソラシド」というメロディーを聴いた場合、それは本当はひとつらなりの聴覚的現象(音のクオリア)であるのに、人は時間経過を認識するため反省的に「ド」「レ」「ミ」の間に存在しなかった「、」を入れて区切って、空間同様に時間の「長さ」を決める。さながら画用紙を物差しで計って線を引くように。そのように純粋な持続を分割出来たかのように錯覚することが「時間の空間化」なのである。純粋な持続・運動変化そのものは決して分割できない。メロディーの印象は線を引ける画用紙とは全く異質である。持続内の多様な諸性質は互いに外在的でなく相互浸透し合っており、持続は純粋に「一」なる存在として「質的多様性」を持つ。「純粋持続」とは時間の性質の内、空間的に表現できない側面であると考えても良い。

植村は著書『時間の本性』で、ベルクソンの「純粋持続」と類型の「出来事」の概念を提唱する。植村によれば「出来事」とは、「変化」や「生成・消滅」の概念を含む最も根源的な概念であり、人の「知覚」はそれ自体「出来事」である*38。その上で「出来事」の概念には「それを引き起こす何か」というものが前提されているため、無からの創造が否定され、さらに「因果性」と「出来事」は互いに依存し合う概念であり、人の最も原始的な直観に属するものなので、他のさらに明確な概念によってそれを定義することは望めないと説明している*39。また植村は人の経験は全て「現在」から成り立っているゆえに、「現在」とは「自分の人生の長さ」の全体だとする。これは人生全体を純粋に持続する「体験の流れ」とし、生まれる前を「過去」、死後を「未来」とみなすものである*40。ここには「人生全体」が一つの「出来事」だという含意がある。

ベルクソンと植村の洞察は、「変化」と「無からの生成」という不合理を深刻に受け止めた上で、その不合理の解消法を見出している優れたものである。彼らの「純粋持続」や「出来事」は、私が提案した「人生全体が一個のクオリア」と類比的なものと看做すことも可能である。しかし私の考えとは決定的な相違がある。彼らは時間の実在性を否定していない。そして植村の場合は「出来事」を、「個人の人生の長さ」に限定している。ベルクソンの場合は「個人の死」を一旦認め、その個人の死に支えられている「生命全体」を「純粋持続」と同一視しているようである。つまり彼らの論理によると、個人の死か宇宙の終焉で、「出来事」または「純粋持続」は消滅することになる。それゆえに、彼らの説明では「変化」の矛盾、また時間の実在を認めた場合に帰結する形而上学的無限という矛盾を完全に解消できない。

基本的な原理を確認しておく。「ある」ものは「ない」ものにはならず、「ない」ものは「ある」ものにならない――「無からは何も生じない」。これは疑うのも無意味な原理である。

ここで「無」の概念には二種類あることを理解しておく必要がある。ひとつはパルメニデスが、「ないものを織るわけにはゆかないし、指摘するわけにもゆかない」と言ったような、「ある」と対置させられる「ない」であり、これは「絶対無」とでもいうべきものである。もうひとつはベルクソンが「究極の問い」に関連して論じたもので、「無」とは「存在」の観念に「否定」の操作が加えられて作られた観念だとしたものである。つまりベルクソンの「無」は事物を「否定」する機能を持った一個の観念である。これはパルメニデスのいう「ある」ものの一種であり、「擬似無」とでもいうべきものである。

「絶対無」と「擬似無」を峻別すると、ベルクソンと植村の時間論の問題が明らかになる。変化や消滅の概念を含む「出来事」が根本概念だというのは、認識論的に正しくても存在論的に重要な問題が派生する。存在論的には、「出来事」は不可能な物事を含むことはできないからだ。

つまり「出来事(または純粋持続)」に含まれている消滅や無への転化とは「擬似無」でなければならない。もし「絶対無」が含まれているなら持続した「出来事」にはならない。それは絶対無により切断されているからだ。しかし「出来事」が持続を続け、無矛盾で全一的な存在者だとしたら、それは絶対無から生じたことになり不合理である。「ない」ものが「ある」ものになったからだ。逆にもし絶対無から生じていないというなら、擬似無から生じたことになるのだが、それだと人生(または生命全体)が始まる前から「出来事」は間断なく持続していることになる。また人生が終わるとともに「出来事」の持続も終わるというなら、それは絶対無なること、つまり「ある」ものが「ない」ものになるということであり、やはり不合理である。逆にもし人生の終わりが擬似無であるというなら「出来事」は持続するしかないはずである。

結局、ベルクソンと植村は時間の実在性を否定しないことから、「ない」ものが「ある」ものになるという矛盾と、形而上学的無限という矛盾を抱え込んでいると私は考える。そのような不合理を解消するには、やはり変化の実在を否定する無時間論、あるいはブロック宇宙の立場を取る以外ないと思われる。

ブロック宇宙では、過去にはさまざまな出来事があったというのでなく、未来にはさまざまな出来事があるだろうというのでもなく、今現在は進行しているというのでもない。過去現在未来の出来事は全ては「ある」ということになる。ブロック宇宙とは、人には無限に思えるのだが、実際は有限である。宇宙の全てはただ「ある」だけである。

エレア派のゼノンは「アキレスと亀」などの背理法によって、パルメニデスの「一があるのであって多があるのではない。多があるとすれば運動は不可能である」という論理を擁護し、存在が「多」からなるとするピタゴラス学派を批判した。連続体は無限に分割可能であるゆえに、世界が「多」なら無限小のものが無限個あるということになるが、無限小のものをいくら加算しても有限のものにはならない。出来事・存在とは「一なるもの」であって、「多」とは基本的な実体である「一」の分割概念として存在するということである。

あるいは彼らエレア派の論理によってブロック宇宙を「一なるもの」、あるいは「ある」ものと換言すれば、ブロック宇宙の合理性を理解しやすいかもしれない。「ある」ものとは、ひとまとまりの「純粋持続」であり、「出来事」なのである。エレア派の一元論とは、過去現在未来の全ての出来事が、純粋に持続した、ひとまとまりの「一なるもの」、「ある」ものとして永久に存在しているという哲学である。

私は目を閉じて闇の中に美女を思い描くことができる。次にはその美女を消すことができる。ならば、先ほどまでいた美女はどこに消えたのか? 

消えていない、というのが結論である。全一的なブロック宇宙内部に、美女は永久に存在しているはずである。

以下パルメニデスの断片8から、印象的な部分を抜粋する。
かくして「生成」は消し去られ「消滅」は聞かれなくなった。
さらに「ある」ものは分割されない。全てが一様であるから。
全ては「ある」もので満ちており、「ある」ものは「ある」ものに密着しているのだから、全ては連続的である。
だが究極の限界がある以上、「ある」ものはあらゆる方向に玉なす球の塊のように完結している。
それはあらゆる方向において自分自身と等しく、限界の中で一様均質のあり方を保つ。

9 補足

本論で私は「変化」というものの矛盾を解消しようと試み、少なからず真理を捉えた感がある。しかし同時に、前節における私の論述には重大な瑕疵があるように思える。「美女は永久に存在している」そう結論したのだが、現実問題として今の私の脳裏には美女はいない。いや変化は矛盾なのだから論理的には消えていないはずであり、ベルクソンが言うように美女は純粋な持続である今の私の意識にも浸透しているはずである。――なのに消えているように思える。

先ほどコーヒーを飲みながら、窓外の青空にぽっかり浮かぶ綿のような雲に見とれていた。その雲が「ある」と言えるものならば美女は「ない」と言わなければならないはずである。「純粋持続」「出来事」「全体が一個のクオリア」と様々な理屈をこねても現に美女は消えている。これはどういうことだろう? 正直私は嘆息して次のように呟かざるを得ない。

一体、なぜこんな摩訶不思議なことが起こっているのだろう?

また私の思い浮かべたものが「美女→戦車→銀河系」という変化と順序があるならば、時間もあるということになる。時間が実在するとした場合、以下のように二つの矛盾が生じるのだった。
変化に基づく矛盾: 変化とは「ある」と「ない」という相互排他的なものが同一であるとする矛盾である
無限に基づく矛盾: 時間が実在するなら、時間は無限に分割・延長可能であるが、無限の実在とは矛盾である

二つの鉄壁の論理を妖精のようにすり抜けて美女は謎の彼方へと消えて行く。

本論を再検証した結果、問題の所在はおよそ見当がついた。「今・ここ」の「私」が世界を固有のパースペクティブで表象して存在しており、その「私」が世界の開闢点だとする独我論的主張と、四次元時空に全ての事象が永久的に存在しているとするブロック宇宙説・無時間論が整合していないのである。いや、ブロック宇宙内の全事象を「一つのクオリア」だとみなして、全ての事象をつなげて整合させたつもりだったのだが、実は全事象はつながっておらず一体化していないように思われるのである。

どこかに錯誤あるいは不足がある。現象一元論的な独我論と無時間論はどちらも正しいように思えるのだが、双方はそのままでは整合しない。心脳問題で試みたようにそれらの説を整形する必要があるのかもしれない。

私の哲学にはまだ先がある。元より哲学の道に終わりはないのだが、これから先は尋常一様ではない険しい道となるだろう。それでも私は謎の彼方へと消えた美女を求めて更に歩を進めなければならない。


  • 参考文献
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Alexander R. Pruss「Ex Nihilo Nihil Fit: Arguments New and Old for the Principle of Sufficient Reason」2002年
  • 参考WEBサイト


最終更新:2016年06月05日 12:16

*1 Alexander R. Pruss 2002

*2 『心身問題』pp.265-6

*3 『時間は実在するか』pp.16-7

*4 『時間と自我』p.24、『時は流れず』p.91

*5 『時間と存在』p.67

*6 『時間と存在』pp.44-5、『時は流れず』p.93

*7 『時間と存在』p.67

*8 参考:齋藤暢人「時間意識の現象学と時間の形而上学」

*9 ポール・チャーチランドがこの立場であり、ダニエル・デネットは行動主義者とされているが同様の主張をしている

*10 大森荘蔵『知の構築とその呪縛』p.15

*11 以上の説明は河村次郎『心の哲学への誘い』pp.27-8 を参考にしている

*12 『意識する心』p.309

*13 『意識の神秘』p.189

*14 前掲書 p.198

*15 前掲書 p.199

*16 『物と心』p.123

*17 大森荘蔵『時間と存在』p.186

*18 信原幸弘『意識の哲学 クオリア序説』第1章3節より要約

*19 大森荘蔵『時間と存在』pp.108-9

*20 大森荘蔵『時間と存在』p.186

*21 大森荘蔵『流れとよどみ』p.244

*22 『時間と存在』に所収の論文「無脳論の可能性」、「脳と意識の無関係」にその苦闘の痕跡が伺える

*23 二元論的な立場では心的因果が説明し難いことは、太田雅子『心のありか』で詳しく解説されている

*24 実際、廣松渉はそのような指摘を行っている(『心身問題』p.86

*25 同様の指摘があることが、野内玲「科学的知識と実在~科学的実在論の論争を通して~」5.2.3で紹介されている

*26 これは「存在論的構造実在論」の説明である

*27 アラン・アスペによるベルの不等式を検証する実験。これによりEPR相関(量子の非局所性)の妥当性が認められた

*28 佐藤勝彦 監修『「量子論」を楽しむ本』pp.185-6

*29 このバークリーの困難を大森荘蔵は『新視覚新論』第一章で批判し、克服を試みている

*30 『新視覚新論』p.134

*31 前掲書 pp.133-6

*32 『言語・知覚・世界』 p.286

*33 カント哲学の独我論的性格については中島義道『カントの自我論』pp.72-4を参照されたし

*34 ヘルマン・ワイル、ポール・デイヴィス、ブライアン・グリーン、ジュリアン・バーバー他。デイヴィス著『時間について』に物理学者たちの見解が紹介されている。他はグリーン『宇宙を織りなすもの』、アダム・フランク『時間と宇宙のすべて』などを参照されたし

*35 ハイデガー著 熊野純彦 訳『存在と時間(一)』p.89

*36 『根拠律』p.105

*37 ヒュー・プライス『時間の矢の不思議とアルキメデスの目』p.16

*38 植村恒一郎『時間の本性』p.122

*39 前掲書 pp.134-5

*40 前掲書 pp.111-2