ピーター・ストローソン


ピーター・フレデリック・ストローソン(Peter Frederick Strawson, 1919年11月23日 - 2006年2月13日)は、日常言語学派後期のリーダー的哲学者。日常言語の論理的特徴について非形式的な哲学分析を行った。また、カント的な方法でユニークな形而上学も構築した。主著は『個体と主語』である。

ストローソンによれば、われわれが「心的」や「物理的」という概念を使用できるのは、「人格(person)」という根本的概念を使用できるからである。自己と他者の概念も人格の概念に依存している。それが心的なものと物理的なものの区別に繋がるのである。すなわちデカルトの推論とは全く異なり、主観性と客観性の問題は心身問題に先立つと考えたのである。

では一体、われわれはどうして「自己」という概念を持ちうるのか。ストローソンは経験には多種多様なものがあり、「自己」は経験のうちの一品目であるとした上で、なぜそれが全ての経験の「所有者」になりうるのか、と以下のように問題を提起する。
なぜある人の意識状態は、そもそも何ものかに帰属せしめられるのか、という問いだけでなく、なぜそれらはある物体的諸特徴、ある物体的状況等が帰属せしめられるものとまさに同じものに帰属せしめられるのか、という問いをも有する。これらの問いが相互に独立しているとは考えられないのである。(『個体と主語』p107)

ただひとつの身体だけが、各人の経験のあり方を決める役割を果たしていることは事実のようである。ある身体が傷つけられると、その身体のみが痛みを感じるよう思われる。つまりそれぞれの人格にはただ一つの身体だけが存在する。ある人格がどのような経験を持つかは特定の一身体に依存している。ただし、そのような事実が証明するのは、経験と個々の身体の関係は論理的でなく因果的であるということである。これは哲学的に重要な点であり、経験と身体が論理的な関係で無いということは、身体が経験の所有者ともいえないし、身体が経験そのものともいえない、ということになる。また、ある人格はある身体であるとも、ある人格はある身体を持っているともいえないのである。

以上のような考えから、ストローソンは無主体論、または「非所有説」と呼ばれる立場に接近する。彼は一時期のウィトゲンシュタインやモーリツ・シュリックは無主体論の立場だったと考える。たとえばウィトゲンシュタインは、「私は歯が痛い」という時の「私」は「この身体」という言葉に置き換えることが妥当だと考えた。その場合の「私」は「所有者」を指さないからであり、また自我は「痛い」ことには含まれないからである。(ウィトゲンシュタインにとって「主体」は語りえないものだからである。)

とはいえストローソンは『個体と主語』において、「人格の概念は、意識状態を帰属させる述語と身体的特徴や物的状態などを帰属させる述語の両方が、ともにひとつのタイプの個物に適用できる存在者である」述べており、この考えからすると中立一元論の立場ともとれる。

いずれにせよストローソンは、人は人格の概念によって意識主体を個別化できると考える。彼の結論を簡単にいうと、たとえば「痛み」があったとき、厳密に実証主義的な立場からいえるのは、「痛み」の感覚なるものがあるというだけである。しかし人は特定の身体だけがその痛みと因果関係をもっていることを見出す。そこから諸経験の帰属先としての「私」という人格が発見される。「自己は経験のうちの一品目である」とはこのことである。そして、「私」の発見は「他者」の発見と同じことである。人格の概念は自己・他者の概念に先立つのである。

人がある意識状態を他人に帰属させて考えるのも、自分に帰属させて考えるのも、同じ能力によるといえる。その能力が経験となる主体を識別させる。ストローソンにとっては、デカルトの二元論や「魂」の概念、また自己の概念も、人格の概念に依存しているということになる。これは「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」というウィトゲンシュタイン、また彼の影響を受け「私は私の痛みを間違えることは無い」という大森荘蔵の独我論と対照的である。


  • 参考文献
P.F.ストローソン『個体と主語』中村秀吉 訳 1978 みすず書房
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999 勁草書房