意識の超難問


概説

意識の超難問(harder problem of consciousness)とは、オーストラリアの人工知能学者ティム・ロバーツが提起した問題で、「なぜ私は他の誰かではないのか?」というような、高度な自己意識(自我体験)に関するものである。

第一回と第二回のツーソン会議デイヴィッド・チャーマーズが、意識のイージープロブレム( easy problem of consciousness )と意識のハードプロブレム(hard problem of consciousness)の問題提起をして大きな影響を及ぼした。ティム・ロバーツは1998年の第三回ツーソン会議で、意識のハードプロブレムよりも、さらに難しい問題として「意識の超難問」を以下のように提起した。
たとえいわゆる意識の「難問」――すなわち、いったい全体なぜ主観的経験というものが脳から生じるのか――を解くことができたとしても、より巨大で根本的な問題が残ってしまう。「いったいなぜ私はある特定の個人の脳に生じる主観的経験のみ経験できるのか?」言い換えれば「なぜ特定の意識する個人がたまたま私なのか?」という問題である。

神経生理学者ジョン・エックルスは『脳と実在』において超難問的な体験を以下のように語っている。
この意識的に経験している自己の本質は何か。しかもその自己が、特定の脳にこの独特な仕方で関わってるのはどうしてか(中略)私はこの考えを18歳のとき以来、抱き続けている。その年、この問題を、いわばハッと思いつき、その興味と衝動に駆られて、それ以来私は生涯を神経系の研究に費やすことになったのである。

トマス・ネーゲルは、超難問を、
私がそもそもある特定の人物(たまたまトマス・ネーゲルなのであるが)であることはいかにして可能なのか?
と表現する。そして人格の同一性の問題については、未来においてある経験をもつ誰かと自分との同一性や非同一性は、記憶、性格の類似、物理的連続性など、どのような分析によっても汲み尽くすことのできない内容をもっており、そのような分析は同一性の必要条件さえ与えていないよう思われる、という。そして、トマス・ネーゲルを含む世界についての完全な描写が与えられたとしても、なぜトマス・ネーゲルが「私」なのかという絶対的に本質的なことが抜け落ちていると考える。

日本では永井均が、この問題を「独在性」という言葉で表現し、独自に探求している。

心理学的分析

自己意識の心理学的研究の出発点になったウィリアム・ジェイムズは、個人の自己意識を描写して「二重構造」であるとした。目的とする自己と、主体たる自己である。彼は、知っている自己、すなわち、私( I )と、知られている自分、すなわち、私( me )を区別した。主格の私( I )は純粋な自我( ego )である。それにひきかえ、目的格の私( me )は私が意識しているかも知れぬたくさんのもののうちの一つであって、三つの要素からなっている。ひとつは物理的な、あるいは物質的なそれ、ひとつは社会的なそれ、さらにひとつは精神的なそれ、である。ジェイムズは注意深く指摘する。これら二つの自己は「異なっている二つのもの」ではなくて「自己が差別された結果の二つ」である、と。

渡辺恒夫の解釈では、自我体験は、「私」自身を具体的経験的個人としての自己とはぴったり重なり合わないものとして体験することである。内省的自己意識の水準では自己は、意識される自分(私1)と意識する自分(私2)へと分裂して体験される。ただし私2は私1のように明確に把握されることは無い。対象として意識されればただちに、私1へと組み入れられてしまう。だからこの分裂は、自分でも意味のはっきりつかめない問いかけや違和感として、体験される他ないのである。ここから「私はなぜ私なのか」「私はなぜ他の誰かではないのか」という独我論的問題意識が生じる。私2に私1のような実体的自己同一性を与えることによって違和感を解消しようとするのが「超越的解決」で、これには「魂」の概念が相当する。

分析哲学からの批判

意識の超難問は擬似問題であるという批判がある。「私」という指示詞と固有名詞を存在論的に異なるものと捉えることから生じる錯覚問題であるというものだ。

大庭健は、まずフレーゲの言語哲学を援用し、「語の指示対象」と「語の意義(センス)」を区別する。たとえば「『坊ちゃん』の著者」と「夏目漱石」は指示対象は同じでも意味が違う。これが語の意義の違いである。その上で「私」という語と、その語を発した「大庭健」という語の、それぞれの意義は異なるという事実を、「私」と「大庭健」とでは、それぞれの指示対象が違う、というスリかえによって(意識の超難問のような)間違った推論が生じるとする。これは「私」というメタ言語によって、自分についてメタ・レベルの思考を行うことから、自分の「内なる自己」、つまり「私」が、自分という人物とは区別される存在であるような感覚が生じるからである。しかし「私」という語は常にその語を発した者を指す。これは自分が記憶喪失に陥った場合でも同様であり、指標語である「私」は指し間違うことがなく、指示対象を同定する必要もないのである。なおデカルトの「我思う、ゆえに我あり」については、「我思う」という意識内容はやはり同定の問題が生じず、よって厳密に表現すれば、指標語「私」は心理的述語を伴って用いられる時には指し間違いがありえないということである。

三浦俊彦は、超難問はチャーマーズの意識のハードプロブレムに論理的に還元可能であるとし、また超難問は問いのタイプとトークンを重ねた多義性の誤謬か、真理値をもたない命題関数を「なぜ」の対象とした文法違反に過ぎない、とする。また超難問とは、たとえで言うと、サイコロを振って*の目が出たことを確かめた後で、「なぜ*の目なんだ?」としきりに不思議がる、いわゆる「事後確率の誤謬」の一種だともいう。

人格の同一性問題から派生する意識の超難問

(以下は管理者の見解)

意識の超難問には、私が人格の同一性派生問題で論じたような、意識のハードプロブレムには還元できないような問題があるよう思う。それは永井均が「独在性」という用語で提起している問題と重なる。

「独在性のアポリア」というべき問題は、以下のように三段階の思考実験によって提起できる。

(1)「私」は人物Aであり、人物Aには「私こそが本物の私である」という特定の現象的意識(あるいはクオリア)がある。仮に「私」である人物Aが消えて三時間後、スワンプマンのように人物Aと物理的性質が同じであり、また心的にも同じように「私こそが本物の私である」という現象的意識がある人物Xが現れたとする。それは広義の心脳同一説を前提とした物理主義の立場では、「私」と同一の存在だとみなせるはずである。あるいは「私」そのものである、とみなしても構わないかもしれない。なおこの場合、人物Xの出現場所がどこであっても構わないよう思える。「私」である人物Aは場所を移動しながらも推移的に「私」であり続けることが可能だろうし、また人物Aの存在する場所が日本であってもアメリカであっても、「私こそが本物の私である」という特定の現象的意識があるなら場所による相違はないはずである。

(2)しかし同時刻に「私」である人物Aと、物理的性質も心的性質も同じである人物Bがいたとする。その人物Bも「私」と同じように「私こそが本物の私である」という現象的意識がある。にもかかわらずその人物Bは「私と同一」とはいえない。「私」にとっては端的に人物Bは「他者」だからである。この場合、難解な問題が派生してくるように思われる。つまり人物Bは物理的性質も心的性質も「私」と同質であるにも関わらず、端的に「他者」であるゆえに、「私」の本質とは物理的性質や心的性質に還元できない何かである、と主張することが可能かもしれない。トマス・ネーゲルや永井均の問題意識の核心はこの部分であるよう思われる。

もちろん物理主義的な立場から、「人物Aも人物Bも空間を異にして同じ性質の物理現象と現象的意識があるだけだ」と考えることはできる。しかしそう主張した場合、(1)の物理主義的な解釈と矛盾する問題が(3)の思考実験で派生する。

(3)同時刻に「私」である人物Aと物理的にも心的にも同じ存在者人物Bがいたが、その両者が同時に消えたとする。そして三時間後に人物Aと物理的に同じであり、また心的にも同質である人物Xが現れたとする。その人物Xにはもちろん「私こそが本物の私である」という現象的意識がある。では、その人物Xは「私」であった人物Aか、それとも「他者」であった人物Bか、あるいはどちらでもないのか、という同一性についての困難な問題が生じるのである。

その問題は、意識のハードプロブレムに還元して解答することは不可能なはずである。物理的性質も心的性質も人物Aと同じであるにも関わらず、人物Aと同一であるといえないからだ。また逆に同一ではないと証明することもできない。意識の超難問を批判する三浦俊彦や大庭健はこのような問題を考慮していないよう思われる。

端的に「私」であるという事実は、物理的性質や心的性質などには決して還元しきれない本質があるのである。しかし、「私」には意識のハードプロブレムに還元できない「何か」が確かにあるのだが、パーフィットのスペクトラムの思考実験を応用して検証すれば、その「何か」は存在することが不可能にも思える。パーフィットの思考実験は「人格」概念を個別の意識現象に還元するものであったが、私はその個別の意識現象であるクオリアや現象的意識をスペクトラムの思考実験の対象とする。個別のクオリアはそれ以上の何かに還元不可能に思えるが、にも関わらずそのクオリアと対応関係にある物理状態としての脳は空間的・質量的に還元可能である。先に挙げたような「私こそが本物の私である」という現象的意識が人物Aと人物Bにあったとする。それらの現象的意識やクオリアは、人物Aと人物Bの脳細胞と因果的関係があるとするのが素朴実在論や科学的実在論を前提とした考え方である。ならばその人物Aと人物Bの脳細胞を、 SF映画の転送装置のようなもので1%だけ交換したらどうだろう? 1%ぐらいの交換では「私」は入れ替わらないように思える。しかし 90%を置き換えれば「私」も入れ替わってしまうように思える。では、30%なら、あるいはちょうど半分の50%ならどうだろう? やはり、このような問いに合理的に答えるのは困難である。

即ち意識の超難問を認める独我論的な主張と、それと相反する立場の主張が同時に正しいよう思えるのである。この矛盾した状態が示すのは、そもそもの思考の前提――複数の人物がいれば、人物の数だけ肉体と精神があるとする素朴実在論・科学的実在論が間違いだということなのだ、と私は考える。

※意識の超難問から実在論を否定せざるを得ないことを、人格の同一性の派生問題として詳述している。よろしければ参照されたし。


  • 参考文献、論文
大庭健『私はどうして私なのか』 講談社現代新書 2003年
渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 世界観の心理学で独我を超える』ナカニシヤ出版 2002年
トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』 永井均訳 勁草書房 1989年

三浦俊彦 「意識の超難問」の論理分析」2002年 『科学哲学 35-2』
http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968&cdvol=35&noissue=2&startpage=69&chr=ja
  • 参考サイト