二元論


概説

心の哲学における二元論(dualism)とは、心と身体を別の存在として考える立場のことである。心身二元論ともいう。多元論(pluralism)の一種といえる。対立する立場は一元論である。

二元論の考えは紀元前から見られ、例えばプラトンは人間の精神というものは身体と同一ではありえないと主張している(霊肉二元論)。そして古代インドのサーンキヤ学派やヨーガ学派などにも同様の考えが見られる。

歴史上初めて心身二元論を今日まで続いているような形で定式化した人物は17世紀の哲学者ルネ・デカルトである。彼は空間を占める身体は物質的なものであり、精神は非空間的であるゆえ異なる実体だとした。これが実体二元論(Substance dualism)である。そして機械論的な存在である物質的肉体と、自由意志をもつ精神(魂)を対置し、両者は相互作用すると考えた。なお彼の哲学では各個人がそれぞれ「魂」のような「主体」を有していることが前提になっており、精神現象を魂の作用と見る点で後述の性質二元論とは存在論的に全く異なっている。

実体二元論と対比させられるのが性質二元論(Property dualism)である。性質二元論では魂のような主体は前提されず、かつ心的な性質は物理的な性質と相互作用せず、両者は同一の実体の両面であると考える。つまり心的性質を脳の物理状態に還元することはできないものとみるが、かといって脳と独立して存在する別の実体であるとは考えない。性質二元論は精神と脳の状態を同一の実体の両面と見ているため、存在論的には一元論の範疇に入る。

二元論は心と物質の関係について、物理主義的な一元論と対極の考え方である。二元論の出発点には、心的現象とは非物理的なものだという見解がある。心身二元論をもっとも早く定式化したヒンズー哲学のサーンキヤ学派やヨーガ学派(紀元前650年前後)では、世界をプルシャ(精神)とプラクルティ(物質的実体)の二つに分けている。具体的には、パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』が心の本性について分析的に論及している。

二元論と宗教

二元論のいくつかは熱心なキリスト教徒によって主張されてきた。まずデカルトがそうである。またジョン・エクルズやリチャード・スウィバーンもそうである。二元論が唯物論に対抗して神や魂の「居場所」を確保するために主張されてきたという側面は事実としてあるだろう。しかし二元論とキリスト教は、理論として互いに独立していることは理解すべきである。二元論は魂が存在しないとしても成立しうるし、また無神論としても成立しうる。なお、魂の不死の教義は聖パウロ以前のキリスト教には現れておらず、紀元後四世紀の聖アウグスティヌスによってキリスト教に導入されたものである。肉体の死後も非物質的な心が行き続けるという教義はキリストの教えではなかった。キリストは最後の審判の日における生身の身体の復活を説いたのである。

二元論擁護論

二元論を擁護する論証のうち最も大きなものは、哲学的なトレーニングを受けていない人々の大多数の人々の持つ常識的な直感――素朴実在論的な世界観に受け入れやすい、というものである。心とは何かという問題には、眼に見えない精神現象や魂といったものを連想する者が大半であり、心とは脳のことであるといった機械論的な唯物論を受け入れられる者は少ない。

二元論を擁護する論証のうち主要な第二のものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、両立し難い部分が沢山あるように見える、ということである。心的出来事は客観化できず、私秘的である。また必ずしも時間と空間に還元できない。「愛」や「美」といった観念に面積や時間は含有されていない。それに対して物理的な身体はデカルトが「延長」と呼んだように時空間に還元可能な性質をもつ。

心の哲学は、心的出来事の主観的側面を現象的意識、またはクオリアと呼ぶ。痛みを感じたときの「痛み」や、澄み渡った青空を見たときの「青い」や「澄んでいる」という感覚がそうであり、こうしたクオリアは物理学的に説明しがたい性質がある。


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