イマヌエル・カント


概説

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国出身の思想家で大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書が有名である。認識論における「コペルニクス的転回」という方法論は、経験そのものでなく経験を成り立たせている条件を考究するものであり、「超越論的哲学」と呼ばれる。「超越論的」を「先験的」と訳すこともある。また認識の構造と形式だけを扱うので「形式主義」とも呼ばれる。ドイツ観念論の哲学者たちは超越論的哲学を引き継いでおり、カントは近代において最も影響力の大きな哲学者の一人である。

カントはイギリス経験論、特にデイヴィッド・ヒュームの懐疑主義に強い影響を受けた。そしてライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学を「独断論のまどろみ」と呼んでその影響を脱し、合理論と経験論、そして懐疑主義を綜合する哲学体系を構築する。そしてその認識論をもとに倫理学や美学などを発展させ、政治哲学においては『永遠平和のために』において、後の国際連盟の思想的基盤となる世界市民法と自由な国家の連合を構想した。

物自体と認識の形式

人間に経験可能な現象の世界と、経験不可能な物自体の世界を峻別し、現象を経験可能にさせる条件・形式を考察するのがカント哲学の基本である。

カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリ(先験的)にそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 十二種類の純粋悟性概念(カテゴリー)が含まれる。意識はその感性と悟性にしたがってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しないものは原理的に人間には認識できない。たとえば、物質と認識されるものには全て空間という形式を伴い、感覚と認識されるものには全て時間という形式を伴っている。時間と空間という形式をもたないものは人間には知覚できないのである。カントが生得観念をめぐり論争していた英国経験論と大陸合理論を綜合したといわれるのはこの点にある。時間や空間が感性の形式であるという意味は、それが経験によって構成されたものではなく、あらゆる経験を可能にする条件としての生得的な知覚の形式だからである。

カントは経験の背後にあって経験を成立させるために必要な条件として、実体としての「物自体」を仮定した。感覚によって経験されたもののみが知りうるとしたヒュームの認識論を受けて、カントは経験を生み出す物自体は前提されなければならないが、その物自体は経験することができないと考えた。物自体を仮定したのは一見ジョン・ロックの二元論に逆戻りしたと見えるし、事実ドイツ観念論からは中途半端であると批判を受ける。しかしカントの物自体はロックの物質概念と全く異なる。ロックが物質に属するとした一次性質――個性、延長、形状、運動、静止、数も、実は彼のいう二次性質、つまり我々の知覚の性質だとカントは考えるのである。これは物自体を不可視の「ブラックボックス」とするものであり、極端に考えれば物自体は非物質的な霊魂であってもよいし、時間と空間をもたないような存在であってもよいことになる。物自体というものに必要とされている能力は、ただわれわれの経験を成り立たせる、ということのみなのである。

したがってカントの認識論は、現象主義的な視点を維持したまま自然科学と相克せずに経験世界を自然の世界として説明できるし、また物自体が仮にエレア派的な「唯一」の存在だったとしても矛盾しないので、観念論とも相克しないということになる。後述するアンチノミーの議論は明らかにゼノンのパラドックスを意識しており、カントの『純粋理性批判』がエレア派の哲学の影響を強く受けていることが伺える。なお柄谷行人はカントをパルメニデスの後継者とみなしている(『哲学の起源』)。

ショーペンハウアーはカントの認識論を引き継ぎ「世界は私の表象にすぎない」とみなしたが、表象をもたらす物自体を「意志」と規定することによって、「意志としての世界」という世界観を構想する。その意志の優越を説く思想はニーチェに引き継がれており、さらにニーチェを経由してハイデガーの実存主義的な存在論に引き継がれたと考えることができる。

統覚

統覚とは知覚表象などの意識内容を自己の意識として総合し統一する能力である。デイヴィッド・ヒュームルネ・デカルトを批判し、コギト=自我そのものの存在を解体した。「自分」と呼ばれるものを詳しく見ればそこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。さまざまな観念の束にすぎないものが「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的経験に過ぎないものたちから、経験の原因である「主体」なるものを想定した結果、作られたのがコギトという抽象概念だという。

ヒュームのデカルト批判を受けてカントは「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない」と考えた。そして「私は直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである」とヒュームが否定した経験の原因を肯定した。つまり多様な表象を結合する能力こそが「統覚」であり、それをカントは悟性のもつアプリオリな能力であると考えている。言い換えるとヒュームが個別の知覚に分解したデカルトのコギトを、それぞれの知覚に「我思う」という統一を与える能力として復活させたのが悟性の統覚である。そしてカントは、統覚の統一という原則こそ一切の人間認識の最高原理であると考える。

なお、悟性の統覚の能力は後のフィヒテらのドイツ観念論によって超越論的自我と定義され、「魂」と同義とみなされる。しかし宗教的な意味での魂の概念とは大きく異なり、それは世界の内部に物質と同様にあるようなものでなく、世界を自我の内に対象化する力であり、極端にいえば客観世界そのものを(表象として)創り出す存在なのである。

アンチノミー

物自体は認識できないとするカントからすれば、世界は事実の総体ではなく、経験的な知の総体である。人間の知性は決して世界それ自体(物自体)には及ばない。しかし人間理性は推論の能力の拡大によって世界それ自体にまで達しうるかのように錯覚する。しかし推論は二つの極に分かれ、いずれも原理的に確証が得られない独断に陥るとするのが、カントのアンチノミーの核心である。例えばゼノンのパラドックスなどは、「無限」という経験不可能なものを、経験的な知と同等に扱うことから生じる、純粋理性の誤謬推理なのである。

カントにとって、以下のものに関連する四つのアンチノミーが存在する。

1. 時間と空間に関する宇宙の限界
2. 全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論
3. 普遍的な因果性に関する自由の問題
4. 必然的な存在者の実在

これらそれぞれについて、純粋理性は経験的なものに対して、正命題と反命題として、矛盾を提出する。 この矛盾は現象体 (phenomenon) と英知体 (noumenon) の領域の混同から生じている。実際、いかなる合理的な宇宙論も可能でないとカントは考える。

※なおカントは「無限の何かがある」という表現を語義矛盾であるとして峻拒している。既にカントの時代の数学では微積分法で「無限小」が用いられていたのだが、そのような数学的無限は現実には当てはめられないということである。カントにとってわれわれに経験される現象世界は有限であって、無限なのは物自体の世界なのである。カントの数学的無限と現実的無限の区別は、アリストテレスの可能的無限と現実的無限の区別に対応するものであり、後のヒルベルトやウィトゲンシュタインも無限についてのカントの区別を受け継いでいる。

補足

カントの認識論は、認識作用の原理を経験可能な対象でなく、経験そのものを成り立たせている条件に求めたのは哲学史上において画期的な意義がある。経験を成り立たせる「条件」とは換言すれば「法則」ということができ、ヒュームの自然の斉一性原理と併せて考えれば、異なる人々が互いに認識を共有でき、また私秘的な現象的意識を公的言語に変換し、かつコミュニケーションが成立している理由も、同一の自然法則によって経験が生じていると仮定すれば合理的に説明できるからだ。このことは実在論論争ににも関わってくる。経験の条件が法則にまで還元できるなら、物自体を措定したカントの意図に反して「実在」というものを措定する必要がない、ということもできるからである。科学哲学において実在対象を措定しない立場を取るのが規約主義、道具主義、存在論的構造実在論である。