無主体論


概説

無主体論(英:No ownership theory / No subject theory)とは、意識作用について、思考したり知覚したりする「主体」を想定する必要はないとする説である。

たとえば感覚などは、一般的には「私は痛い」というように表現するが、実際の痛みは現れた時点で誰のものであるか決定しており所有関係を問うことは出来ない。つまり「私は痛い」という文の「私は」という語は、何の機能も果たしていないため、不要であると考える。これはルネ・デカルトが懐疑主義的方法の果てに見出した「我思うゆえに我あり」を批判的に検証し、認識の主体である「我」の存在を必要としないとするものである。認識の所有者の存在を否定するため「非所有論」とも呼ばれる。デレク・パーフィットが人格の同一性問題において、「還元主義」と呼ぶ立場も無主体論に近い。

「無主体論」という用語は、M.シュリックが「意味と検証」において、『論理哲学論考』以降のウィトゲンシュタインの考え方をそう呼んだことから始まり、P.F.ストローソンの『個体と主語』に受け継がれたものである。

直接経験は無主体であるという発想は一種の「思考型」といえるものであり、同種の考え方はデイヴィッド・ヒューム、エルンスト・マッハ、バートランド・ラッセル大森荘蔵、西田幾多郎にも見出すことができる。ただしシュリックやストローソンは言語哲学の立場から主張したものであり、直接経験の帰属先として暗に「肉体」が主体として想定されている。それに対しヒューム、マッハ、大森は現象主義という形而上学的な立場から心身二元論を否定しており、全く性質が異なる。彼らの立場は「形而上学的無主体論」というべきものである。

非人称表現

"It rains." の "It" は非人称表現であり、それは具体的な何かを指しているわけではない。「非人称」とは一人称でも二人称でも三人称でもなく、人称「以前」であり、「誰」とか「何」とか明確な主体(主語)が立ち上がってない状態である。デカルトの「我思う」も本当は非人称表現、すなわち「我」を消去し、単に「思う」や、「思っているということがある」と、主語を省く方が正確な表現であるとする。懐疑の果てにそれでも残っている思考は「誰が」という人称を与えられないものであり、それは「思考が生じている("It thinks."又は"There is some thinking.")」という非人称表現がふさわしいと、形而上学的な無主体論者は考える。なお身体の実在性を否定しない言語哲学における無主体論者では、「思考が私の(身体)にある(it thinks in me)」という表現になる。

直接経験

例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。

直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。

デカルト的自我との対比

デカルトにおいては心的現象は自我の所有物である。しかし無主体論者は「私」という主体が意識状態を所有するという考えは無意味であるとし、主体など存在しないとする。その理由は、「主体による何かの所有」ということが意味を持つのは、その「何か」を別の主体へと譲り渡すことが論理的に可能な場合だけだからである。たとえば私がカバンを「所有する」ということが成り立つのは、そのカバンが他の誰かに所有されることが可能だからであり、私とカバンの所有関係は壊れる可能性があるからである。

しかしデカルト的な自我と意識状態の関係はそうなっていない。意識状態を他の誰か(主体)に譲り渡してしまうことは論理的に不可能である。意識状態は最初から分離不可能なものとして現れ、現れたときには既に所有関係を問うことはできない。たとえば「痛い」「懐かしい」「愛おしい」といった、いかなる心の状態も持たない純粋な「自我そのもの」など考えられないということである。

無主体論は、意識状態に所有主体や帰属先があると考えるのは「言語的な幻想」にすぎないとし、直接経験・意識状態・心的経験等を非人称的で無主体のものと考えることによって、特権的、デカルト的な「私」という主体を立てることに反対する。

シュリックの無主体論

シュリックの無主体論は次の二つの主張から構成されている。

①直接経験・始源的経験のもつ特徴としての非人称性・無所有者性を説く主張
これは「実証主義」の基礎となる直接経験・始源的経験は、一人称の、所有者の存在する経験でなく、ニュートラルなものであるとし、所有者としての「自己」もまた、直接経験からの構成物であるとする考え方である。ラッセルの感覚与件論の影響が強い。シュリックの目的は、直接経験を基礎とする実証主義を、独我論と類似のものとみなす指摘に反論するものである。シュリックからすれば自我を想定しない点において、実証主義は独我論と対極であるということになる。

②一人称代名詞を通常とは異なるルールの下で使用することから生じる非人称性・無所有性を説く主張
これは独我論的主張が無意味であることを指摘するものであり、ウィトゲンシュタインの影響が強い。例えば独我論の「私は私の痛みしか感じることはできない」という言明に対し、感じられる痛みは「私」の痛みなのだから、「私が私の痛みを感じる」というのは、「私は痛みを感じる」ということに等しく、さらにそれは、ただ「痛みがある」ということに等しいのであって、独我論でいう「私」という言葉は痛みの所有者を指示せず、何の意味も無いとみなす。独我論は一人称を二人称・三人称と対比させるルールの下で用いておらず、それゆえ一人称(私)の使用に意味を与えていないとシュリックは指摘する。

以上のように直接経験の「無所有者性」「無主体性」を説くことがシュリックの反独我論的な立場であり、独我論の使用する一人称(私)の「無所有者性」「無主体性」は、矛盾を含んだ批判すべき言語だというのである。

ウィトゲンシュタインの無主体論

『論理哲学論考』には以下のような記述がある。
5.63 私とは私の世界である。
5.631 思考し表象する主体は、存在しない。
5.632 主体は世界に属するのでなく、それは世界の限界である。
5.64 ここにおいて、独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致するということを見て取れることができる。独我論の私というものは、広がりを持たない点へと収縮し、その私と対応する実在がそのまま残る。

ウィトゲンシュタインにおいて「私」とは表象と同一視されており、それゆえに超越論的な主体としては認められないものの、「私とは私の世界である」という形で「私」という主体を認めているといえる。そこにはカント哲学との類似性があるものの、重大な相違もある。物自体は認識できないとするカントによれば、人が認識する経験世界は悟性の統覚の働きによって創られた世界であり、それゆえにカントは「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない」というのである。ウィトゲンシュタインはカントの措定した主体としての悟性を消去し、ただ「私と対応する実在がそのまま残る」と結論する。ここには、いかにして表象が現れるか、という「認識論」がない。

哲学者のM.シュリックやP.F.ストローソンはウィトゲンシュタインの考えを無主体論だとみなした。しかし入不二基義の解釈によると、ウィトゲンシュタインの考察においては、直接経験が無主体であるのは、それが「誰の」ものでもなくニュートラルだからでもない。直接経験には「隣り合う対照項」など存在せず、「それが全てでありそれしかない(全一性)」という独我論的な経験だからである。これをウィトゲンシュタインは、「私の個人的な経験というものがあり、またそれには最も重要な意味での隣人というものがない」と表現する。

「私の直接経験」と言っても「私の」には示唆的な機能はない。「この痛みは私のものである」というような言葉は意味をなしていない。「痛い」とだけ言えばよい。直接経験は「誰の」ものであるか検証の必要が無いからだ。従って「私の」と記す必要もない。つまり独我論的な「私」は、言語において無主体であることと等しくなる。

ウィトゲンシュタインの場合は他の「無主体論」と異なり、直接経験は「非人称的」だから無主体なのでなく、むしろ「超人称的」、「一人称以上に私的」であるからこそ無主体なのである。「私」は強力で特異であるとみる点で、ウィトゲンシュタインは独我論とベクトルを共有し、一般的な無主体論とは決定的に異なっているのである。

ラッセルの無主体論

ラッセルは論理的原子論の立場を取り、相対性理論や量子力学の知見も取り入れ、「主体」や「個物」を全て「出来事」に還元する独自の形而上学を構想した。

詳細はラッセルの自我論を参照のこと。

派生問題

(以下は管理者の見解)

シュリック、ストローソン、ウィトゲンシュタインともに、暗黙の前提として「身体」を直接経験の帰属先、または主体として想定していたことは留意すべき点である。確かに直接経験は特定の身体に因果的に依存している。直接経験と特定の身体との因果関係を認めたとすると、人格の同一性について重要な問題が派生する。その特定の身体は、脳細胞を含めて日々変化している。人間は五歳の時と二十歳の時では別人といっていいほど肉体的にも人格的にも変化している。社会学的にはその人物の肉体が時間・空間的に継続し、記憶も継続しているなら「同一人物」とみなせるのだが、哲学的、特に無主体論的にはそうはみなせなくなる。

心的現象には、どんなに短い知覚であっても、時間的な幅がある。特に持続的な意識がある場合、どこからどこまでを、個別的で無主体の意識として区切るのか、という問題が派生するはずである。一秒ずつ区切ればいいのか、あるいはプランク長単位で区切ればいいのか、合理的な解答が困難であると思える。

また、「身体」を直接経験の帰属先と想定する無主体論の場合、五歳の時と二十歳の時とでは身体が全く変化しているのだから、五歳の時の直接経験と、二十歳の時の直接経験は全く別の直接経験、つまり五歳の「私」と二十歳の「私」は全く別の存在である可能性は否定できない。あるいは、ウィトゲンシュタインはその問題に気づいていたから『青色本』において以下のように述べたのかもしれない。
私は私の独我論を、「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。
上記の、「(あるいは今見えるもの)」という部分が重要であり、これは過去に見たもの、または過去にウィトゲンシュタインという人物が見たかもしれないものは「真に見えたもの」ではなかったかもしれないことを含意して、時制を限定して慎重な表現にしていると解釈できるからだ。つまり過去の「私」と現在の「私」は別の存在である可能性を示唆しているともとれる。

そしてヒュームやマッハ、大森荘蔵はそのような問題性を解消するために、現象主義の立場から二元論を否定し、それぞれ形而上学的な立場から一元論的な無主体論を主張したのだと思う。

なお、ウィトゲンシュタインの独我論はさまざまに解釈可能であり、彼は過去の「私」と現在の「私」は同一であると考えていたとするのが、一般的なウィトゲンシュタイン解釈であるよう思う。彼は戦友から「福音書の男」とあだ名されるほど熱心なクリスチャンであった。そのことからも、彼の独我論の最深部には「魂」が想定されており、それが、心身が常に変化していながらも、人格の同一性を成り立たせている根拠であるとしていたと解釈するのが妥当であると思う。


  • 参考文献・論文
入不二基義『ウィトゲンシュタイン「私」は消去できるか』NHK出版 2006年
入不二基義「無主体論の可能性 -独我論と類比-」山口大学哲学研究 3, 41_a-58_a, 1994年
大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年
大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年
大森荘蔵『知の構築とその呪縛』ちくま学芸文庫 1994年
木田元『マッハとニーチェ――世紀転換期思想史』新書館 2002年
野矢茂樹『大森荘蔵――哲学の見本』 講談社 2007年
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』岩波新書 2005年
B.ラッセル『心の分析』竹尾治一郎 訳 勁草書房 1993年
B.ラッセル『哲学入門』高村夏輝 訳 筑摩書房 2005年
デイヴィッド・ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎 訳 中公クラシックス 2010年
L.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹 訳 岩波文庫 2003年
L.ウィトゲンシュタイン『青色本』大森荘蔵 訳 ちくま学芸文庫 2010年
  • 参考サイト