動物の心


(以下は管理者の見解)

動物にも何がしか「心」のようなものがあるというのは大半の動物学者が認めていることである。根拠のひとつは振る舞いが人間と似ているということである。動物には自分の心の状態を報告する人間的な言語を持たないが、猫でも石が当たって怪我をすれば人間のように痛みを感じているよう振る舞って泣き声を上げる。もうひとつの根拠は人間同様に目、耳、鼻といった感覚器官をもち、神経構造もまた人間と似ているということである。特に哺乳類の場合は人間と類似した構造の脳――意識活動に十分と推定できる脳細胞を持っている。それらから動物にも心のようなものがあると類推することができる。

成長したチンパンジーの知能は一般的に人間の三歳児ぐらいといわれる(科学的な根拠は不明)。人間の一、二歳児に心があると認めるならチンパンジーに心がないと考えることの方が難しいだろう。しかし動物にも心があると仮定した場合、二つの大きな問題が生じてくる。

ひとつはトマス・ネーゲルが『コウモリであるとはどのようなことか』で提起した問題である。コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握しているが、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか、という問題である。クオリアは主観的・私秘的な現象であるため、人間はその答えを知る術は持ってはいない。この問題が浮き彫りにするのは、人間の知らない未知のクオリアがおそらく存在しているだろうということである。

もうひとつは自我についての問題である。動物といっても霊長類のように神経構造が複雑な種なら心があることを類推することは難しくない。猫やウサギもおそらくは心があるだろうと受け取れる行動を示し、またそのような神経構造をもっている。しかし、もっと単純な神経構造しかない種ならどうだろう。たとえばカタツムリやアリなら。さらにいえば微生物や細菌などはどうだろう。

地球上の生物の種の数は約175万種といわれ、まだ知られていない生物も含めた地球上の種の総数は500万を超えるという説もある。ここで問題になるのは、神経構造が複雑な種から比較的単純な種まで夥しい種類の生物がいるが、神経構造の複雑さの順に並べてみれば、霊長類を頂点として最下位の単細胞生物までなだらかに並んでおり、ある段階で構造に決定的断絶があるよう見えないということなのだ。

以上の問題から、クオリア現象的意識といったものは、単純な種には存在せず、ある種の段階から突然に生まれるという考えと、単純な種にも何らかのクオリアがあり、複雑な種にはより複雑なクオリアおよび現象的意識があるという考えの、二つの立場が浮上する。心の哲学においては、(大雑把な解釈であるが)前者の考えを創発説といい、後者の考えを汎経験説という。

しかし創発説は堆積のパラドックスが生じるはずである。なぜ物質である脳が、あるレベルの大きさと構造をとった時、突然クオリアが出現するのかは合理的な説明が不可能であるよう思える。汎経験説は創発説の不合理を回避しているかのように見えるが、自我と自己の概念に深刻な問題が生じるはずである。たとえばウィトゲンシュタインは『論考』5・64で、
ここにおいて独我論は徹底的に遂行されると、純粋な実在論と一致することを見て取ることができる。独我論の私というものは、広がりを持たない点へと縮退し、その私と対応する実在がそのまま残る。
と、自身の独我論を述べる。彼においては個別の表象がデカルト的なコギトとイコールでなのである。(詳細はウィトゲンシュタインの独我論を参照のこと)またウィトゲンシュタインの影響を受けた永井均は、「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と述べ、またなぜ永井均が〈私〉であり、徳川家康や犬のポチが〈私〉ではなかったのかという問題提起をして、彼独自の独我論(独在性)を展開する。

しかしデカルト的なコギト、自我の存在を措定するなら、やはり堆積のパラドックスが生じるはずである。永井均も〈私〉の入れ替わり可能性を犬までに限定している。これはミミズやバッタでは〈私〉と呼べるような自我を想定し得ないため無意識に避けたのだと思われる。もちろん、まっとうな哲学者であれば、動物の心についてはわからないとする懐疑論的立場を取るだろう。独我論者なら「他人」と同様に動物の心の存在もわからないとするだろう。しかしこの場合重要なのは、動物にも心がある可能性が「想定し得る」ということなのである。カマキリやメダカなどに、たとえば「赤」や「痛み」のクオリアがあることは思考可能である。しかしそのようなクオリアを反省的意識で対象化するだけの脳細胞があるとは思えない。では、カマキリやメダカなどにあるクオリアは、「私」と呼べるようなもの、即ちウィトゲンシュタインが主体とイコールの表象とした独我論的体験と呼ぶに値するものかと、疑問が生じることになる。

このような問題を回避する最も合理的な方法は、無主体論と呼ばれる立場を取ることである。無主体論では、クオリアなどの「所有者」を想定しない。つまり自我や「私」というものは概念的な存在であり、たとえば「私は痛い」という表現は日常言語としては間違いはないものの、存在論的には痛みを感じている「私」などは存在せず、単に「痛い」というクオリアだけが存在していると考える。

昆虫や微生物にも自我、もっと極端にいえば「魂」を持っている可能性は確かに否定できないものの、「私」というような概念や意識の超難問は、反省的な意識の作用によってのみ生じるとする心理学的な立場の方が、堆積のパラドックスを回避でき、合理的であるよう思える。

現代の心の哲学には、その無主体論の正しさを間接的に裏付けるような理論がある。それは意識の境界問題きめの問題と言われているものである。われわれ人間の身体と脳は昆虫などに比べて遥かに複雑である。なら身体や脳の各部分で個別にクオリアが生じていても不思議はない。にも関わらず、われわれの意識体験は統一的である。これが意識の統一性問題と呼ばれるものだ。あるいは、われわれが思考する際の脳には、何百何千というクオリアや現象的意識が生じているかもしれない。しかしその中で、「意識」をメタレベルで意識する反省的な自己意識のみが「私」、つまりデカルトのコギトといえるのかもしれない。その自己意識はもちろん、脳内にある無数のクオリアとは相互排他的であり、ゆえにそれ自体で完結した、全一性のある独我論的体験となる。そのコギトである自己意識は統覚の働きによって作られる(ただしカントのいう統覚と異なり、無意識の作用としての統覚と考えていいと思う)、そう解釈すれば人間の複雑な意識作用も、単純な神経構造の生物のクオリアも、合理的に説明できる。

このような解釈はデイヴィッド・ヒュームの哲学に前例を見ることができる。ヒュームはジョージ・バークリーを批判して、自我の存在を否定した。「自分」といわれる存在の中を見回しても、あるのは「感覚の束」だけだというのがヒュームの考えである。カタツムリやミミズにも何らかの感覚があると仮定したとしても、自我も備えていると考えることは神経構造の単純さから難しい。ならば、人間のような複雑な種が備えている自我なるものは何か。進化の過程で突然生まれたと考えることはできるが、それは進化の過程で突然神様から「魂」をもらったと考えるのに等しいのではないか。

バークリーは抽象概念の存在を否定していた。抽象観念ともいう。抽象観念とは、具体的な観念、机やパソコンから抽出された机一般の観念やパソコン一般の観念、つまり「普遍」である。自我の概念も、個別の感覚や観念から抽出された抽象観念にすぎないのかもしれないのだ。その可能性こそが、ヒュームが自我の存在を否定した理由なのである。つまり、統一的意識――独我論的な自己意識とは、「赤」や「痛み」のような単純なクオリアには存在せず、ヒュームがいうような一個の観念であり、統覚のような高度な精神活動によってのみ構成されると考えた方が、現代の自然科学との折り合いが良いのである。

とはいえ、ウィトゲンシュタインが観た独我論的な「私」は、問題性をより下位の精神活動へと還元していく過程の、いったいどの段階で消滅するのかという「逆の堆積のパラドックス」といえる問題が派生することは認めざるを得ない。生物学者のジェラルド・エーデルマンは、ロブスター(エビ目)あたりで境界を引き、ロブスターには意識現象は無いが、それ以上の高等な生物には意識があるという立場である。

※参考までに、デカルトは動物には心が無いと考えた。それは動物が思考や感情を表現する言語を持たないことが証拠のひとつにされた。動物も怪我をすれば痛そうに鳴くこともあるが、デカルトからすれば、そこから心を類推するのは錯覚である。彼にとって意識を持つのは身体と魂が結びついた人間だけである。なおこの場合、人間の身体に意識があるわけではないことが含意されていることが重要である。猫などの動物は魂と結びつかない身体しか無いから痛みも心も無いのである。


  • 参考文献
スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』山形浩生 森岡桜 訳 NTT出版 2009年
S・プリースト『心と身体の哲学』河野哲也・安藤道夫・木原弘行・真船えり・室田憲司 訳 1999年
  • 参考サイト