独今論

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#contents ---- *概説 独今論とは[[永井均]]の用語であり、存在論において時間の実在性を否定する主張のことである。われわれが感じる変化や時間の流れは実在ではなく、ただ「今」だけがあり、全ては一挙にこの「今」に現れていると考える。過去や未来はその特権的な「今」の内部の一様態に過ぎないとする。 独今論的な主張は古今東西のさまざまな哲学者に見られる。哲学の歴史で初めてこの主張を行った人物は[[パルメニデス]]である。彼は「変化」というものが矛盾を含んでいることからこの結論に到達し、変化を否定する独自の一元論を主張した。インドの[[ナーガルジュナ>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9]]、キリスト教哲学者の[[アウグスティヌス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8C%E3%82%B9]]も同様の主張を行っている。近代では時間が実在しないことを論証しようとした[[ジョン・マクタガート>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88]]が有名であり、彼の時間論は現代哲学の時間論に大きな影響を与えている。日本では[[大森荘蔵]]がマクタガートとほぼ同じ見解である。 *独我論との関係 永井均によると、〈今〉という問題は[[独在性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_9be9d4d1]]における〈私〉という問題と論理的な構造は同じである。独我論と独今論は同じ構造をしている。認識論的独我論が、全ては私への現れだと主張するのと同じように、認識論的独今論は、全ては今への現れだと主張する。つまり、過去とはいま存在する思い出にほかならず、未来とはいま存在する予想や期待にすぎない。これに対して、存在論的独今論は、でもその今とはいったいいつのことだ? と問わずにいられない。認識論的独今論は、どの今に関しても成り立つだろう。そうした今一般のなかに「この今」という特別な時点があること、たまたま何年何月の何日であることに驚くとき、存在論的な問いが始まる、という。 なお永井は、特別な存在であるかのような「この今」も、沢山ある「今」のうちの一つに過ぎない、とみなす立場を「共今論」と呼んでいる。 *派生問題 #right(){(以下は管理者の見解)} 独今論という言葉は時間の実在性を否定するにも関わらず、「今」という時制表現を含んでいるので、これは矛盾した言葉だと思う。独今論とは逆の時間の実在性を肯定する立場では、「過去」とは無くなったものであり、「未来」とはまだ無いものであり、「今」だけが実在するものであると考える。この特権的な今のみの実在を認める立場こそ「独今論」と呼ぶべきだろう。そして時間の実在性を否定する立場は「無時間論」と呼ぶべきである。永井均が独今論という用語を案出したのはアウグスティヌスの時間論が念頭にあったと思われる。アウグスティヌスにおいては、「過去」や「未来」は特権的な「現在」と同等の存在として扱われ、「過去という現在」、「未来という現在」というように、「現在」との類比でそれらの存在が表現されている。(ただしアウグスティヌスにおいて、過去現在未来という時間は心の中にのみあるゆえに実在ではなく、実在するのは神のみである) 以下は独今論を無時間論と言い換えて論を進める。 無時間論が批判するのは、まさに「今」という概念である。時間の実在性を肯定する立場では、今という特権的な存在についてアポリアがあるはずだ。「この瞬間こそが今である」と特定しようとしても、その瞬間なるものは直ちに飛んで消えてしまい、決して特定できない。特定できるのは、[[大森荘蔵]]が指摘したように、科学的記述である線形時間における、数学的「点」としての在り方のみである。むろん時間的幅を一切もたないその点とは実在しない概念的存在である。今や点の幅が1秒であったり2ミリであったりすることはできない。どのように小さくても幅があるのなら更に分割できる。従って今や点の幅は無限小でなければならない。そして無限小の幅とはゼロと一致する。無限小とゼロは概念としては異なっているが、存在論的には同じである。もし無限小がゼロと一致しないなら、それは幅をもつことになり、定義として無限小ではない。また、もし実在物として点を取り扱うならば[[ゼノンのパラドックス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9]]に陥ることにもなる。 「点」と同様に、「今」というものは時間軸上に実在しないというのが無時間論の議論の出発点である。時間の実在性を主張する立場では、「過去」と「未来」は実在ではなく「今」だけが実在するとしている。しかしその今の実在が否定できるなら、時間は全て存在しないことになる。しかし過去現在未来が全てが存在しないというのはおかしい。世界は端的に存在しているからだ。つまり無時間論とは、「時間」を否定するものであるが「存在」を否定するものではないということである。では時間を否定するならば、世界はどのような在り方をしているのだろう。 「私は今文章を書いている」というような日常言語における「今」とは、常に一定の時間的な幅をもった、ひとまとまりの出来事を指している。無時間論とは、時間ではなくそのような出来事の存在を主張するものである。「過去」にはさまざまな出来事があったというのでなく、「未来」にはさまざまな出来事があるだろうというのでもなく、「今現在」は進行しているというのでもない。過去未来現在の出来事は全てあるというのが無時間論の主張である。 運動変化の不可能性を「アキレスと亀」などの背理法で主張したエレア派のゼノンに対し、自分が歩いてみせることで反論した人物がいるという逸話がある。この人物は無時間論について大きな勘違いをしている。無時間論が否定しているのは無限小の点の集合として理解される時間である。その人が歩くという出来事は存在するというのが無時間論の考えである。ゼノンが示したのは、その出来事が無限に分割できるということである。つまり始めに点があって、その集合として出来事があるというのでなく、ひとまとまりの出来事があり、それが思考によって無限分割できるということである。 ゼノンの背理法は師であるパルメニデスの、「一があるのであって多があるのではない、多があるとすれば運動は不可能である」という論理を擁護し、存在が「多」からなるとするピタゴラス学派を批判する目的であった。あるいは彼らエレア派の論理によって、「今」という言葉の意味を「あるもの」と換言すれば、独今論=無時間論を理解しやすいかもしれない。「ないもの」をいくら足して乗じても「あるもの」にはならない。またそれは「あるもの」は「ないもの」にならないという論理と表裏である。「過去」があるならそれは「ないもの」にならず、「ないもの」である「未来」が「あるもの」にはならない。「あるもの」とは実在しない無限小の点の集合ではなく、ひとまとまりの出来事なのである。無時間論とは、過去現在未来の出来事全てが、「あるもの」として存在しているという主張なのである。 ---- ・参考文献 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房 1998年 永井均『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』岩波書店 2001年 中島義道『「時間」を哲学する』講談社現代新書 1996年 プラトン『プラトン全集 4 パルメニデス ピレボス』田中美知太郎 訳 1975年 ・参考サイト ゼノンのパラドックス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 ----
#contents ---- *概説 独今論とは[[永井均]]の用語であり、われわれが感じる変化や時間の流れは実在ではなく、ただ「今」だけがあり、全ては一挙にこの「今」に現れていると考える。過去や未来はその特権的な「今」の内部の一様態に過ぎないとする。 永井均によると、〈今〉という問題は[[独在性>http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_9be9d4d1]]における〈私〉という問題と論理的な構造は同じである。独我論と独今論は同じ構造をしている。認識論的独我論が、全ては私への現れだと主張するのと同じように、認識論的独今論は、全ては今への現れだと主張する。つまり、過去とはいま存在する思い出にほかならず、未来とはいま存在する予想や期待にすぎない。これに対して、存在論的独今論は、でもその今とはいったいいつのことだ? と問わずにいられない。認識論的独今論は、どの今に関しても成り立つだろう。そうした今一般のなかに「この今」という特別な時点があること、たまたま何年何月の何日であることに驚くとき、存在論的な問いが始まる、という。 なお永井は、特別な存在であるかのような「この今」も、沢山ある「今」のうちの一つに過ぎない、とみなす立場を「共今論」と呼んでいる。 ※「独今論」という語は、時間軸上のある一点のみの実在を認め、他の時間の実在を否定する「ここ今主義(here-now-izm)」にニュアンスが近い。これは[[時間と空間の哲学]]では「現在主義」の一種である。 ---- ・参考文献 永井均『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書 1996年 永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房 1998年 永井均『転校生とブラック・ジャック――独在性をめぐるセミナー』岩波書店 2001年 ----

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