人格の同一性

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#contents ---- **1 過去とのつながり 年始に親戚回りなどをしていると、稀に十年以上会っていなかった人物に再会することがある。前回見たときは五歳だった少年が、今は中学生になっている。当然、昔の面影は全く消えていて別人に見える。 五歳の時の少年は色白く内気な感じで、いつも携帯ゲーム機をいじっており、私が話しかけてもゲームをしながら「うん」「いいや」とガスが抜けるような気のない返事をするだけだった。ところが中学生になった少年は身体が五倍大きくなり、野球部に入って逞しく日焼けし、私が話しかけると真っ直ぐ私の眼を見て、溌剌としたスポーツマンの声でしっかり受け答えをする。 あの色白で内気だった五歳の少年と、今の中学生になった少年はもはや別の人間なのかもしれない――。だがこのような懐疑は、私にとってそう見えるというだけのことであって、少年本人からすると、自分は精神的・肉体的に変化したのだから別人になったのだという思いなど微塵もないだろう。自分は五歳の頃から持続的に一つの意識を持ち続けてきたのだという信念があるはずだから。 しかしここで疑念が生じることになる。精神的に大きく変化しているにも関わらず、なぜ持続的に一つの意識を持ち続けてきたと言えるのだろう。或る精神が変化したならば、それは別の精神ではないか。また人は眠っているとき、ノンレム睡眠の状態では意識は途切れているとされる。ならば昨日の少年の意識と今日の少年の意識は別のものと考えられるのではないか? このような疑念は当然、自分自身にも当てはまる。幼い頃の自分と、大人になった今の自分は、身体も精神も別人としか形容しようのないほど変貌している。いや、別人ではないと考えてはいけない理由を探すことの方が難しくなる。せいぜいDNAが一致するとかいう科学的根拠が見つかるぐらいのものだ。しかし今の私はには幼い頃の自分と、DNA以上の重要な「つながり」がなければならないと、昔の出来事を思い出すときに強く感じる。 私は七歳の時に引越しをした。住み慣れた家と、物心ついた頃からずっと共に過ごしていた兄弟のような親友と別れざるを得ないこととなった。幼い心には辛すぎる別れだった。泣きながら引越しに反対して親を困らせたが、どうにもならなかった。辛いのは親友も同じであった。別れを惜しみ合いながら互いの大切なものを一つづつ交換しようということになった。私は人形をプレゼントした。当時人気のあったテレビ番組のヒーローのものであった。親友はキーホルダーをプレゼントした。彼が博覧会に行った記念に買ったものであった。互いに生きながらの忘れ形見であった。 ――それから数十年の歳月が流れた。 今。私のテーブルの上に古いキーホルダーがある。七歳のときに親友からもらったものだ。古いキーホルダーを見るたび、私はおぼろげな幼い友の顔と、別れの際の胸の痛みを思い出す。もし今の私と七歳の私に何のつながりもないならば、私は古いキーホルダーを見ても何も感じないだろう。 ところが困ったことに、その肝心のつながりの正体というものを探索してみても決定的なものが発見できない。今の私は七歳の頃からずっと同じ意識状態を保持してきたわけではない。「気が変わった」と言うまでもなく人の精神はいつも変化している。また意識は眠っている時には途切れていたはずである。ならば七歳のときの「胸の痛み」という現象と、今古いキーホルダーを見て「痛みを想起する」という現象とは、それぞれ別個の意識現象なのだろうか。それとも何か隠れたるつながりがあって、両者は「同一の心」と言えるものだろうか? まず素朴に、それら二つの現象は同一の「私」によって経験されたものだと考えたくなる。しかし哲学的に問題なのは、何を根拠にして同一の「私」の経験だと言えるのかということである。これが一筋縄ではいかない。 記憶というものこそが私の知りたいつながりの正体なのだ、という考え方もあるだろう。世間的(素朴心理学的)にはそのような記憶を根拠に、「同一の心」がずっと持続してきたのだと受け止められるものである。 しかし哲学的に考えるならば、記憶とは想起される時にのみ存在すると言えるものであり、そして想起とは現在の精神現象の一種なのである。換言すると「過去形の現在経験」なのであり、それ自体が過去の私の心とつながっているとは言えない。つまり記憶を根拠にして、今の私は七歳の頃から「同一の心」をずっと維持してきたとみなすことはできないのである。 科学的にはこう説明するだろう。意識をもたらす脳の物理状態に因果的なつながりがあるから、胸の痛みの想起もできるのだ、と。しかしその因果関係とは、現在の意識がどのような脈絡で存在しているかを説明するものであっても、過去の意識と現在の意識のつながりの有無や同一性を説明するものではない。それに私は外から見てわかるつながりだけを問題にしているのではない。 一体、七歳の私の心と、今の私の心にはつながりがないのだろうか。そもそも七歳の私と今の私とは、なぜ「同一の私」だと言えるのだろう。あるいは両者は別人と考えるべきなのか? 哲学における「人格の同一性」という問題は、そんな疑問から始まる。 「汝自身を知れ」という格言がある。「私とは何か」という問題と同じである。それらの問題は文明の歴史と同じだけ古い。人格の同一性という問題は、それら歴史的な哲学的課題に挑む問題である。 同一性(identity)とは、変化しながらも存在し続ける個の基本的性質である。ちなみに論理学の「同一律」とは同一性の律である。自己同一性(self identity)と言うときは、或るものがそれ自身(self)と等しくある性質をいう。 人格の同一性(personal identity)とは、或る人物が生涯を通じて心身ともにさまざまに変化するにも関わらず、なお同じ人格であり続けているとみなすための十分条件とは何かという問題である。人格の自己同一性とも言われる。この問題には、そもそも「人格」および「自己」とは何であるかという哲学的な問いも含まれている。 人格の同一性が難問である理由は、「自己」「時間」「変化」「因果関係」「心脳問題」「実在」といった伝統的な形而上学的問題の多くが関わっているからである。同一性の問題とは、時間を通じての同一性のこと(「通時的同一性」や「貫時間的同一性」と言う)であるから、そもそも「時間とは何か」という問題を避けて同一性を問うことはできない。そして時間の問題とは「変化」や「因果関係」の問題と直結する。また人格の同一性の基準を物的なものと考えるか、心的なもの(クオリア)と考えるかに関わらず、それらの「実在性」の問題を避けて同一性を問うことはできない。これは唯物論(物理主義)、そして心身二元論の妥当性を問うことにもなる。このように人格の同一性問題は哲学のあらゆる領域に及んでいく。 なお「同一性」とは、「差異性」および「非同一性」の対概念である。或るものと、時点を異に存在する或るものが同一であると論証することは、非同一性を論証することと同じである。ところが非同一性とは論証困難な問題である。これは人格の同一性問題の落とし穴でもあり、繰り返し論じることになる。 「変化」と「同一性」は相反する概念である。物事が変化したなら別の物事になり同一ではない。しかし異なる時点において別の物事が並んでいるだけなら変化とは言わない。時点1ではFであり、時点2ではGであるとするなら、「FはFである」「GはGである」と言うべきである。FがGに「なる」と言う場合、それは人の推理を表しているのであって、変化は世界の事実とは言えない。このような厳密な同一律を根拠に変化の実在を否定したのが紀元前の哲学者パルメニデスであった。廣松渉は、変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を持っていると指摘している&footnote(『心身問題』pp.265-6)。 素朴に考えると、変化とはある主体(主語)における属性(述語)の相違として理解することができる。しかし十九世紀の哲学者ヘルマン・ロッツェは、そのような素朴な観点を「主体は同一である」という論点の先取だとして退けている&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』pp.170-1)。問題となるのは変化しながらも同一だと判断する根拠なのである。たとえば、ある画家が風景画を描いたとする。その画に何か物足りないものを感じた画家は、一羽の鳩を描き加えたとする。この場合、鳩が描かれる前の画と描かれた後の画は別の画だと考えることができる。しかし描かれる前の画を主体とし、鳩を属性とするなら一枚の画が変化したのだと考えることもできる。ところが逆に、鳩を主体として他の要素を属性と考えてはいけない理由がないようにも思える。つまり問題なのは何を主体だと想定するにせよ、変化というものを合理的に説明する必要があるということである。 哲学では、時空的かつ質的に連続しているということは同一性の十分条件とはみなされない。D.M.アームストロングは極端なたとえとして、神がある人物を消滅させ、その直後同じ場所に、別の神が瓜二つの人物を創造した可能性があり得ることを主張している&footnote(前掲書 p.399)。つまり時空的な連続性とは論理的なものではないということである。バートランド・ラッセルの「世界五分前創造説」も同様の示唆を含んでおり、これは記憶と、その記憶の対象である過去は、論理的に別のものだということである。アームストロングやラッセルによれば、私が模索していた今の自分の心と過去の自分の心との「つながり」は、決して論理的なものとしては見出されないということになる。 現代においては、特に分析哲学において人格の同一性問題が活発に議論されている。これは二十世紀後半からの脳科学や分子生物学の劇的な発展に触発されたものである。以降は主に分析哲学での議論を紹介し検討することになる。 私の身体は何十年か前に生まれた時から時間・空間的に連続している。とはいえ、脳を含めた私の身体を構成している分子は絶えず入れ替わり、幼児の頃とはすっかり異なっている。法学的な観点からすれば、私が時間・空間的に身体が連続し、精神という機能も少しづつ変化しながらも連続しているということは、固有名で指示される「人物」の同一性の必要十分条件を満たしていると言える。しかし哲学的には、それらは人格の同一性の必要条件の一つであると論証するのも難しい。 同一性の問題については、まず以下の二つを峻別しなければならない。 >認識論的問題: 或る時点の存在者と、それと異なる時点の存在者が、同一であるか否かを人がどのように認識しているか、またどのような基準で同一だと認定すべきかという問題 >存在論的問題: 或る時点の存在者と、それと異なる時点の存在者が、実際に同一の存在であるか否かという問題 もちろん認識論的問題は存在論的問題とつながっている。その昔、明けの明星と宵の明星は異なるものだと認識されていたが、天体観測の技術が進んだ今、両者は同じ星だということが判明している。しかし認識論的問題が同一性を認定するための「規約」をどのように定めるのかという恣意的な問題が中心になるのに対し、存在論的問題は厳密に論理的な問題であり、恣意性が許されない。たとえば「同一のものが同時に二つある」と言うことは矛盾だからである。明星の例のように同一性の存在論的問題とは、異なるものとして認識されている対象たちが、存在としては同一のものであるか否かということである。 また人格の同一性という問題は、法哲学や倫理学と不可分の問題である。今の自分は一年前の自分とは性格が変わっているから別の人格だと主張することは出来るだろうが、だからといって一年前に犯した殺人事件の罪を負わなくてよいということにはならない。法律的には指紋やDNAによって人物の同一性が確定される。しかし人物として同一だからといっても、被告の人格が事件当時から大きく変貌している場合、それが量刑に影響を与えることもある。 人格の同一性問題を最初に哲学の俎上に載せた人物はジョン・ロックであるが、ロックは主に実用的な法哲学と倫理学の観点から人格の同一性を論じている。逆に存在論的問題は形而上学的問題であると考えてよい。存在論的問題は意識の現象的側面(クオリア)の存在論と不可分の問題となる。 &sizex(-1){※本論では法哲学や倫理学の問題でなく、存在論的問題を中心に扱うのであらかじめ了承されたし。} 古代ギリシャ哲学には「テセウスの船」の問題がある。テセウスの乗っていた船は古い木材部品を徐々に新たな木材部品に置き換えていき、やがて建造当時の元の木材はすっかり無くなってしまった。ではこの全て新しい部品で作られたテセウスの船は、以前のテセウスの船と同一と言えるのだろうか。もし取り除いた元の古い部品を合わせて船を作った場合、どちらがテセウスの船なのか? このテセウスの船の問題は認識論的問題に尽きている。古い方と新しい方、どちらをテセウスの船と呼ぶべきかは恣意的に決めてよいことであるし、両方は以前とタイプ(種類)として同一で、トークン(個物)として別物と考えればよいだけのことである。この同一性の問題は、同一性のイージープロブレムと呼んで差し支えないだろう。 なお&strong(){タイプ的な同一性は「質的同一性」と呼ばれ、トークン的な同一性は「数的同一性」と呼ばれる。この区別は重要である。}人格の同一性で問題になるのはもちろん数的同一性の方である。 同一性の認識が「他者」の視点に依存するテセウスの船の問題と違い、人格の同一性には格別の問題がある。人間には客観的に観察したり規定したりできない内在的性質がある。つまりクオリアの問題である。クオリアは主観的にしかアクセスできないために同一性を認識することが難しく、また同定基準を考えることも難しい。この問題は同一性のハードプロブレムと呼ぶべきだろう。ここには認識論的問題と存在論的問題がある。ロダリック・チザムは意識の主観的性質を重んじ、テセウスの船のように多数の部分からなる概念的存在を「他による存在者」とし、人格は「それ自体による存在者」だとしている。&footnote(ロダリック・チザム 中堀誠二 訳『人と対象』pp.168-9) 「スワンプマン」という思考実験がある。仮にこの私が沼で雷に打たれ、同時にその雷によって汚泥が不思議な化学反応を起こし、私と原子レベルまで同一の人物が出来上がったとする。加えて雷に打たれた私が一命をとりとめていたなら、一見私が二人いるように思えるだろうが、この「私」はどちらか一方のはずだ。同様の思考実験に「脳分割」がある。脳科学的には人間の左右の脳は分割しても生命を保つことができるという。ならば私の左右の脳がそれぞれ別々の脳死患者の頭部に移植されたとしたなら、一体どちらの人間が「私」になるのだろう? これらの場合テセウスの船のように、二人のうちどちらが本物の「私」であるかは恣意的で規約の問題だとすることはできない。人格・自己と人物の関係、つまりどの人物が「私」であるかは論理的に一対一対応でなければならないように思えるからだ。 脳分割のように一人の人物が分裂していく想定を「人物分岐」と呼ぶ。類似の思考実験に自分の脳細胞を他者の脳細胞と徐々に交換していくことを想定する「スペクトラム」と呼ばれるものがある。それら極端な思考実験はパズルを解くのに似ているので「パズルケース」とも呼ばれる。それら思考実験は人格の同一性についての人の信念が、どのような根拠によって成り立ち得るものかを明らかにしようとするものである。 人格の同一性については様々な議論領域がある。主な領域は次のように分類できる。 >■大分類: 認識論的問題と存在論的問題 >├分類1: 記憶説と身体説 >├分類2: 還元主義と非還元主義 >├分類3: 物理主義と反物理主義 >├分類4: 三次元主義と四次元主義 >└分類5: 独我論と実在論 各分類同士は必ずしも互いに対立するものではなく、問題性と論点が異なるものであることに留意する必要がある。たとえば分類1の記憶説と身体説の双方に対して、分類2の還元主義を主張することが可能である。分類3の物理主義と反物理主義はクオリアの存在論をめぐる対立であるが、これは当然他の領域にも関わってくることになる。また分類5の独我論からは意識の超難問(独在論)が派生するケースがあるが、それは分類2の非還元主義とつながるケースがある。大分類である認識論的問題と存在論的問題は当然全ての領域で議論の対象となる。なお認識論的問題には下位分類として「私」という指標詞をめぐる語用論を加えることも可能だろう。指標詞「私」は、それを含まない表現に還元して表現することは不可能だという主張がある。この主張は分類2の非還元主義につながるケースがある。 人格の同一性の議論は、認識論と存在論のあらゆる領域に及んでいる。各議論領域が何を争点とし、また各議論領域同士がどのようにつながっているのかを見極める必要がある。 次節より、まず記憶説と身体説から始まる人格の同一性についての論争史を概観していく。 **2 記憶説と身体説 人格の同一性についての議論はジョン・ロックから始まった。ロックは意識状態の継続するシークエンスこそが人格の同一性にとって本質的な要素だと考えた。ロックは「人(man)」と「人格(person)」を区別し、「人格とは思考する知的な存在者」と定義し、これを哲学的概念のみならず法廷用語ともみなした。 ロックの議論において重要なのは、彼が通時的に人の同一性を成り立たせるための、意識の作用を担う実体としての「魂」を認めながらも、その魂を人格の同一性の根拠としなかったことである(ロックは実体として神・霊魂・身体の三つを想定していた)。つまり同一の実体や魂があったとしても、人は五歳の時と七十歳の時では人格が劇的に変貌しており、このような場合は同一の人格とはみなさないのである。経験主義者のロックにおいては、魂や実体とは意識作用を説明するために措定したものであり、経験的に確かめられないものである。したがって人格の同一性は意識の同一性、つまり記憶だけで決定すべきだと考えた。これが「記憶説」である。また同一性の基準を身体でなく心理状態に置いているため、「心理的基準」とも呼ばれる。 ロックの人格の同一性についての議論は法哲学と倫理学に重心を置いている。或る人物が過去の或る人物と人格的に同一だと認められるということは、一個の理性的存在者として同一であり、法的責任を担い得ると認められることである。賞罰の正当性は人格の同一性に基づかなければならない。その同一性は意識と記憶の連続性が根拠とならなければならない。一ノ瀬正樹はこのようなロックの人格同一性論を、「意識説」であると同時に「法廷用語説」であると解釈している&footnote(『人格知識論の生成 ジョン・ロックの瞬間』)。 しかし人の記憶や心理的性質は月日が経つに従って徐々に変化していくのが常であり、同一性の基準をどのように決めるのかが問題になる。 ロックの記憶説に対して、人間が記憶を喪失することや錯誤することから、記憶を同一性にとって本質的な要素とみなすことは出来ないという批判がある。トマス・リードはロックの記憶説はパラドックスに陥ると指摘している。たとえば人物Aは、十五歳のときは六歳のときを憶えているから、六歳のときと同一人物だとする。また五十歳のときは十五歳のときを憶えているから、やはり同一人物だとする。しかし五十歳のときに六歳のときを憶えていないなら同一人物ではないことになる。つまり人物Aが六歳のときをA1、十五歳のときをA2、五十歳のときをA3とすると、A1=A2かつA2=A3、しかしA1≠A3という推移律の不成立が生じるということである。 バーナード・ウィリアムズは人が偽の記憶を持てることからロックを批判する。ウィリアムスは、自分がガイ・フォークス(英国の歴史的な有名人)だと詐称するチャールズという人物が登場するケースを想定する。チャールズはフォークスの記憶を全て持っているとする。ならばチャールズはフォークスと同一と言えるのだろうか。また別の人物が現れて自分もガイ・フォークスだと主張し、同様にフォークスの記憶も持っていたらどうだろう。二人ともフォークスだと考えるのは不合理である。 同一性の基準を心理状態に置く場合、心理的性質の激変は人格の変化とみなされることもある。フィネアス・ゲージという人物の有名な臨床例がある。鉄道工事中の事故で鉄の棒がゲージの脳を貫通した。奇跡的にゲージは一命をとりとめたものの、彼の人格はすっかり変わってしまったという(この場合は「同一の人」の人格が変化したとみなされている)。 バーナード・ウィリアムズは記憶説に反対し、たとえ全ての記憶を失っても、世界に何十億といる人間たちの中で、怪我をして痛いのは「自分」だけであるという観点から、物理的連続性を本質的なものとする「身体説」を主張した。同一性の基準を物質的な身体に置くため「物理的基準」とも呼ばれる。 ちなみに記憶説は心理状態によって人格の同一性を判断するため二元論的傾向があるが、必ずしも二元論と一致するわけではなく、また身体説は物理的な身体によって人格の同一性を判断するため物理主義的傾向があるが、必ずしも物理主義と一致するわけではないことは留意すべきである。 物質的なものの同一性は時空的連続性によって認識可能である。それに対し記憶や性格といったものは、他の類似したものとの区別が困難であり、人格の同一性の基準にはなり得ないとウィリアムズは考えた。ただし、人は体の一部を失ったり臓器を移植したりすることが可能である。交換不可能なのは脳だけであり、このことからウィリアムズの身体説は脳が「主体」であるという主張を含意させている。 しかし脳を主体と仮定した場合、身体説は記憶説に接近するのではないかという疑問が生じる。脳と心的現象の相関関係は証明されており、脳の一部が損傷すると記憶の一部が喪失することも確かめられている。物理主義の立場では心的状態と物理的状態は認識のされ方が異なるだけで、実は同一の出来事なのだという「心脳同一説」が主張されるが、その同一説を否定する二元論者でも心と脳の相関関係を否定している者はいない。記憶とは脳に依存するのである。また分子生物学者の福岡伸一によると、人の身体は約六十兆個の細胞で構成されているが、その細胞を構成する分子は絶えず入れ替わり、半年から一年も経てば、脳を含めて人の身体を構成する分子は完全に入れ替わってしまうという&footnote(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』pp.162-3)。これは「代謝回転」と呼ばれる。 思考実験として、人物Aと人物Bがいるとする。人の脳細胞の構造は日々少しずつ変化し、脳細胞を構成する分子も入れ替わっているが、もし一年後、偶然にも人物Aの脳細胞の構造が一年前の人物Bの脳細胞の構造と同じになり、かつその時点で人物Bの脳細胞の構造が一年前の人物Aの脳細胞の構造と同じになったとしたら、これは記憶説でも身体説でも人物Aの人格は人物Bになり、かつての人物Bは一年前の人物Aと同一の人格になっているとみなすことが出来るはずである。もちろん身体の時空的な連続性に基準を置く立場では同一だとはみなさないだろうが、しかし代謝回転によって、かつて人物Aの脳細胞を構成していた全ての分子が、一年後人物Bの脳細胞になっていたとしたらどうだろう? 人格の同一性問題は、記憶説にせよ身体説にせよ堆積のパラドックスに似た困難に陥ることになる。そこで人格の同一性問題そのものを「虚構」とみなす考えが現れる。 デイヴィッド・ヒュームは魂のような精神的実体を否定し、人格の同一性問題に対してニヒリズムの立場を取った。ヒュームは個別の知覚(クオリア)たちは全て別個の存在であり、知覚たちに結合はないと考えた。つまり人は持続的に世界を知覚しているが、知覚は常に微妙に変化しており、僅かでも変化した知覚は以前とは別の存在だということである。従って知覚たちに通時的な同一性を見出そうとするのは無意味だということである。 ヒュームからすれば、過去の私の心と今の私の心に「つながり」などないということになる。人格の同一性とは虚構(a fictitious one)であり、人が見出すのは虚構の知覚の結合であり、ただ諸々の知覚が「私のもの」として統一されているように「感じる(feel)」だけである。ヒュームにとって人格の同一性とは、知覚の結合ではなく、観念の類似性と因果性によって想像されたものなのである。ちなみにこのようなヒュームの考え方が論理的に成り立つことを論証したのが、第1節で紹介したアームストロングやラッセルの思考実験である。 &sizex(-1){※ただし個別の知覚たちが全て別個の存在であること、かつ知覚たちに結合が見出せないこと――この二つの原理をヒュームは矛盾したものと考えていた。この問題は後述する。} 次節ではヒュームから始まる還元主義と、それに反対する非還元主義の論争を概観する。 **3 還元主義と非還元主義 デレク・パーフィットは、人格の本質については対立する二つの見解があるとして、ヒュームを代表とする「還元主義」と、デカルトを代表とする「非還元主義」に分ける。 還元主義とは、人格の説明について「人格」そのものの存在を前提としない立場である。つまり人格とは魂のような不変の実体ではなく、ヒュームが想定したような知覚の束など、他の要素によって成り立っているものであるとする。還元主義では、「私」や「自己」といった言葉は、持続的で不変的な実体を指すものではなく、生成消滅し変化し得る心理的、または物理的な出来事を指すものであり、概念だけの存在であると考える。この立場においては、それらの出来事のうち、通時的に一定の心理的関係が成立していることに人格の同一性概念を適用するのが心理的基準で、物理的関係が成立していることに適用するのが物理的基準になる。 非還元主義とは、人格の同一性は単に心理的連続性や物理的連続性だけでなく、それら以外の根本的な「何か」により成り立っているとする立場である。経験の主体は脳や身体、それらによる一連の肉体的・心理的な出来事から離れて存在する魂のような不変の実体であると考える。 パーフィットは現代における還元主義の代表的な論者であり、物理的・心理的連続性とは切り離されて存在することが仮定される非還元主義的な実体を、物理的基準でも心理的基準でも同定されえない「無特徴のデカルト的見解」と呼ぶ。物理主義的な立場の論者もこの還元主義を支持することが多い。しかし物理主義の立場では、「クオリアは存在論的に物的出来事に還元できる」という物理主義的還元主義を前提に、人格の同一性についても還元主義を主張するのに対し、パーフィットの主張は「個別の人格は個別の心理状態(クオリア)に還元できる」という主張を超えるものでなく、クオリアの存在論とは距離を置いている。したがって還元主義の次の二つの立場は厳密に区別する必要がある。 >人格の同一性についての還元主義: 人格はクオリアに還元できる >物理主義的な還元主義     : クオリアは物的出来事に還元できる 還元主義と非還元主義の議論は、記憶説(心理的基準)と身体説(物理的基準)の議論とはカテゴリーを異にするものである。還元主義は記憶説と身体説双方に対して主張することができる。ただし非還元主義では「魂」のような不変の実体を想定するため、身体説とは整合しない。 近代哲学においては、ロックのように存在を「基体と性質の複合体(アリストテレスの哲学に由来する)」と考える立場と、ヒュームのように「性質の束」と考える立場の二つの存在論があり、非還元主義は前者を、還元主義は後者を前提にしている。ロックが基体を想定したのは諸性質を支える何かが必要だと判断したからであり、ヒュームが基体を否定したのはそれが経験できないからである。 ヒュームに代表される還元主義は、デカルト的な主体としての自我を否定するため、「無主体論」と呼ばれる哲学と軌を一にしている。無主体論では、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」という考察に対し、知覚などの直接経験は現れた時点で既に帰属先が決定しているため、「思う、ゆえに思いあり」と表現し、「我」は必要ないと考える。「思う」を「我」の所有物とみなさないため、「非所有説」とも呼ばれる。特に形而上学的な立場から無主体論を選択するならば、「人格」や「私」という言葉は名前だけの存在とみなされ、それらの指示対象は実在しないと考えるので、存在論的には人格の同一性は問題にならない。 ところで還元主義や無主体論が否定するデカルト的な主体(コギト=我思う)については注釈が必要であろう。デカルトのコギトについては哲学史上さまざまな解釈があるが、以下の二つの解釈は決定的に異なるものである。 >解釈1: 「我あり」の「我」とは、「我思う」を指すものである。つまりデカルトは全てを疑っても疑う「何か」が存在することは否定できなかったが、その「何か」を「我」と呼んでいる >解釈2: 「我あり」の「我」とは、「我思う」という思考作用から推論された「実体」である。つまりデカルトは思考作用が存在することから、思考する実体を想定している 無主体論が否定するのは、もちろん解釈2の方である。解釈1は論理的に真なのだから否定のしようがない。なおデカルト自身はまず絶対疑えない解釈1を発見し、そこから解釈2を推論しているので、二つの解釈はデカルト解釈として共に間違いではない。 ヒュームやパーフィットの他、バートランド・ラッセル、モーリッツ・シュリック、ピーター・ストローソン、大森荘蔵、また一時期のウィトゲンシュタインや西田幾多郎が無主体論者であるとみなせる。ただし「実在」を否定する形而上学的な無主体論を主張するヒュームと大森以外は、認識作用の帰属先として暗に「身体」を想定している点が重要な相違である。 無主体論の立場を取るならば、交差点の信号が「赤」から「青」になった場合、「赤を見た私」と「青を見た私」は別の存在ということになるかもしれない。この点を徹底して考究したのがラッセルの刹那的な独我論の可能性である。ラッセルは次のように述べている。 >テーブルを見つめて茶色が見えているまさにその時、きわめて確実であるのは、「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」である。もちろんこれは、茶色を見ている何か(あるいは誰か)を含んでいる。しかし「私」と呼ばれている、多少なりとも存在し続けている人物を含んでいるわけではない。直接の [経験が持っている] 確実性が示す限りでは、茶色を見ているものがきわめて刹那的で、次の瞬間に別の経験をする何かと同一ではない可能性が残る。(バートランド・ラッセル著 高村夏輝 訳『哲学入門』p.25) このラッセルの考察は、個別の知覚(クオリア)たちは全て別個の存在だとしたヒュームの考察と相関している。ヒュームからすればデカルト的な自我は存在しない。自我なるものはそのつど生起する個別的な知覚の束である。ヒュームは知覚の原則として、 >原則1: 知覚たちは全て別個の存在者である >原則2: 別個の知覚たちに結合はない という二つを挙げた。しかしヒュームはそれら二つの原則が矛盾したものと考えて、人格の同一性について「迷路に巻き込まれた」と告白している。ただし、それら二つの原則は論理的な意味で矛盾しているのではない。ヒュームが直観した矛盾とは、個別の知覚たちが独立した存在者でありながら、他の知覚たちと明らかに相関しているという事実であろう。たとえば音楽の場合、メロディーは個別の音の連なりから成り立っているが、一つ一つの音の知覚が全て別個の存在者だとするならば、人はなぜメロディーを感じ取れるのだろう? 実はこのような意識の性質に着目して、ヒュームに反し、意識は途切れることのない純粋な「持続」であると考えたのがベルクソンである。このベルクソンの持続については後述する。 還元主義(無主体論)と、非還元主義(仮に「主体論」と呼ぶことにする)では、想定する認識の在り方は次のように異なる。 >非還元主義=主体論 : ( [川が見える] → [山が見える] → [私は川と山を見た] ) = 「私」の体験  >還元主義=無主体論 : [川が見える] → [山が見える] → [私は川と山を見た] 非還元主義=主体論では、通時的な「私」という存在者が、川を見る経験をし、次に山を見る経験をし、次に「私は川と山を見た」と想起している。逆に還元主義=無主体論では、川を見る経験、山を見る経験、それらの想起である「私は川と山を見た」という経験は、全て別個の経験(クオリア)であり、通時的に存在している「私」という主体はないと考える。 とりあえずラッセルが言うように、ヒューム的な還元主義=無主体論が論理的に成り立つことは事実として認める他はない。このように生成消滅するクオリアたちは全て別の存在者であると考える立場からするならば、数あるクオリアの内に個別のクオリアたちの紐帯となる「我思う」というような反省的なタイプのものがあると考えれば、それが人格の同一性を成り立たせているとみなすことができる。 一般的に人格の同一性は、一人の人間には一つの心というように、精神と身体が一対一対応関係にあり、かつ時空的に継続していることが前提とされている。しかしヒュームのような無主体論的な還元主義ならば、精神と身体が一対一対応であることや、時空的な継続を前提する必要がない。この立場は通時的な主体や魂といった「不変のもの」を根拠とせずに人格の同一性を説明でき、物理主義と親和性があるだろう。 物理的に見れば、私の身体を構成している分子は生まれた時から絶えず入れ替わりを続けている。心理状態も幼児の頃からずっと継続しているわけではなく、ノンレム睡眠の際には途切れており、もし仮死状態などになれば完全に途切れるはずである。また個別のクオリアは、個別の脳の作用と相関関係にあることが脳科学的に証明されており、その点でも「人格」を個別のクオリアに還元する方法は自然科学と親和的である。 逆に特権的かつ不変の自我や魂のような、通時的に人格の同一性を成り立たせる「何か」を想定する立場では、脳細胞を含む身体が日々変化していること、その変化に対応してクオリアも変化していること――この二つの事実があることから、その「何か」を自然科学の見地から見出すのは困難となるように思える。 ところが、現代の分析形而上学における議論では、還元主義の論者と非還元主義の論者の双方が、脳科学の知見を援用して自説を主張しているのが興味深い点である。つまり認識論的にはヒューム的な還元主義が実用的であるとしても、存在論的には非還元主義的な「主体」の可能性が排除できないということである。 ここで現代における還元主義の代表であるパーフィットと、非還元主義の代表であるスウィンバーンの説を紹介しておく。 パーフィットが強く否定するのは「単一理論」である。単一理論とは、或る人物は「私」であるか「私」ではないかのいずれかであり、或る人物が部分的に「私」であるということはない、というものである。この単一理論を成り立たせる要件は、「全か一(オール・オア・ナッシング)要件」と呼ばれる。そして単一理論と反対の立場が「複合理論」であり、これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。パーフィットは脳科学の知見を前提としたさまざまな思考実験により、非還元主義ではオール・オア・ナッシング要件が成り立たなくなることを論じ、還元主義の妥当性を主張する。 脳科学の知見によれば、人間は脳の左右いずれか半分を失っても理論上は生存可能である。そこでパーフィットは、「私」の左右の脳が分割されて二人の人間の頭蓋骨に移植され、ライティとレフティという二人の人物になることを想定する。この場合、スウィンバーンのような非還元主義の立場では、二人のうちどちらが「私」になるのかという問題には合理的解答が困難である。しかしヒューム的な還元主義の立場では、そのような問い自体が「空虚」であり、もし二人に同様の心理的連結性や心理的継続性があれば、二人とも「私」とみなしてもよいし、どちらも「私」でないと考えてもいい。規約の問題に過ぎないということになる。 もちろんライティとレフティの両者が同一の「私」だというのは矛盾している。それはあくまで規約という認識論的問題に限定した議論であり、存在論的観点から「私」が複数存在すると、数的同一性を主張しているわけではない。「スワンプマン」の思考実験を例にして考えれば、私が雷に打たれて私の複製体が出現しても、どちらか一方が端的に「この私」であるという事実がある。「私こそが本物だ」という思い――内在的なクオリアが「私」の単一性の根拠であるように思える。このように人格の同一性が外在的要因によって決まらないという考えは、「第三者排除原則(Only x and y principles)」とも呼ばれる。1980年代にハロルド・ヌーナン、デイヴィッド・ウィギンズが主張した&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』p.258)。 しかしパーフィットの立場からすると、魂のように内在的な通時的主体が存在しないということは、人格の同一性問題が存在論的には「空虚」な問題だという前提がある。したがって人格が「一対多」の関係に成り得て、なおかつ多人数に心理的連続性も成り立ち得ると考えても不都合がないわけである。パーフィットにとって人格とは、あくまでヒュームがいう「知覚の流れ」の一部に人が任意に見出す「規約」であって、客観的事実ではないのである。「私」とはヒュームの言うように「国家」の概念と似たようなものである。国家はその構成員が日々入れ替わっているが、通時的に同一の国家であり続けている。それと同様に「私」は知覚の束であり、知覚が変化しても通時的に同一の「私」であるとみなされているだけである。「国家」と同様に「私」は実体的なものではないというわけである。ならば時点を異にして存在する或る人物が「私」であるか否か、存在論的に厳密な数的同一性を問うことは無意味だということになる。 パーフィットは更に非還元主義を否定するためのスペクトラムの思考実験を行っている。例えば「私」の脳細胞を手術によって他者の脳細胞と少しづつ置き換えることを想定する。脳科学的には脳細胞の移植は可能であり、実施された例もある。このような手術を行った場合、脳の一パーセントぐらいの置き換えなら「私」は変化しないよう思えるが、九十パーセントを置き換えた場合、とても「私」が継続しているとは思えないだろう。では何パーセントまでの置き換えまでは「私」が維持できて、何パーセント以上の置き換えによって別の人格になってしまうのであろうか? 身体、および身体と相関関係をもつクオリア以外に、「私」の同一性を成り立たせる「何か」の存在を想定する非還元主義の立場では、このような問いには合理的に答えられない。「私」が「私」でなくなるボーダーラインのようなものを想定するのは不合理である。脳分割の思考実験に続き、ここでも「オール・オア・ナッシング要件」が否定される。ヒュームが想定した「知覚の束」以外に、「私」についての重要な「何か」はないということである。 パーフィットは人格について、形而上学的な非還元的主体を阻却した上で、ロックの記憶説を改良した実用的な人格の同一性基準を提唱する。通時的な主体がないならば、人格とは心理状態が時間に従って漸進的に変化するのみである。しかしその前提におけるロックの記憶説に対してトマス・リードが指摘したのは次のような問題だった。――人物Aは十五歳のときは六歳の時を憶えているから六歳のときと同一人物である。また五十歳のときは十五歳のときを憶えているからやはり同一人物である。しかし五十歳のときに六歳のときを憶えていないなら同一人物ではない。したがって、六歳のA=十五歳のA、かつ十五歳のA=五十歳のA。しかし六歳のA≠五十歳のA、と推移律の不成立が生じることになる――。 このような記憶説の困難について、パーフィットは同一性の基準を緩めることで対処しようとする。パーフィットは人が過去の時点の経験を今思い出せる時、その過去と現在の二時点の心理的状態の間に直接の「記憶の連結」があるとし、また過去のある心理的状態がそのまま現在の心理的状態に影響している時、二時点の間に直接の「心理的連結」があるとする。ただし、この心理的連結はそのままでは人格同一性の基準にはならない。たとえば三歳の私と九十歳の私に心理的連結性は見出せないからだ。しかし私は三歳の時から常に心理的連結性を維持して生きてきたことは確かである。三歳のときと四歳のとき、五歳のときと六歳のとき――というような個々の時点の直接的連結は、時間経過によって薄れたり失われたりしながらも、それら連結の全体を見たならば一つの推移的な系列を成しているはずだ。この系列をバーフィットは「心理的連続性(psychological continuity)」と呼び、これを人格同一性の基準とすればよいと考えた。このようなパーフィットの理論は「緩やかな記憶説」とも呼ばれる。 パーフィットは人格の同一性問題を通時的な「何か」の同一性問題から、類似性と関係の問題へと置き換えた。この理論によって人物分岐のパズルケースを考えるならば、心理的連続性は「現在の一人と未来の一人」だけでなく、「現在の一人と未来の三人」の関係にも成り立ち得ることになる。このことは倫理的に大きな問題を引き起こすことになる。 パーフィットの理論を敷衍して解釈すれば、昨日寝る前の自分と今日起きた自分との同一性も恣意的な問題だということになる。六十歳の人物Aがいる場合、人物Aが五歳だったときと心理的により近いのは、六十歳の人物Aではなく、現在五歳である別の人物Bかもしれない。「私」の同一性が規約に過ぎないならば、「類似性」によって五歳の頃の人物Aと同一なのは五歳の人物Bである。別の見方をすると、五歳のときの人物Aは死んでおり、今の人物Aは別人である。しかし五歳の頃の人物Aは人物Bとして再生しているとも解釈できる。つまり通時的な「主体」を措定しないということは、死ぬべき「主体」も考えないということである。パーフィットはこのような自らの人格論に基づいて功利主義的な倫理学を展開する。 森岡正博はパーフィットの倫理学を次のように解説している。 >私と他者の間には越えがたい溝があると言われている。しかし、もし人格の同一性が重要ではないのなら、私と他者の断絶は、今の私と将来の私を隔てている断絶と、同じ種類のものであると言える。 >〔……〕 >従って、他者であろうと将来の自分であろうと、今の私と心的に連続している程度に比例して倫理的な配慮をすることが基本的に推奨される。この場合、私の人生の時間軸上における心的な連続性の薄まりと、私と他者の間の心的な連続性の薄まりとの間に、本質的な区別はない。このような立場を取る点で、別個独立な人格の存在に基礎を置くロールズ流の倫理学とたもとを分かつと言われるのである&footnote(森岡正博「デレク・パーフィットと死の予感」1988年)。 とはいえ存在論的問題については、或る特定の時点において人物Aと人物Bが同一人物であるとすることはできないので、パーフィットの理論においても核心的な問題は解消されていない。その点を突いたのがリチャード・スウィンバーンである。 スウィンバーンはパーフィットに反し、人格の同一性について非還元主義的な「魂説」を擁護している。そしてスウィンバーンもパーフィット同様に脳科学の知見を援用している。科学的に脳は左脳と右脳に分割可能であると考えられている。もし左右の脳を分割した場合、次の四つのパターンが考えられる。 >パターン1: 左脳が私である >パターン2: 右脳が私である >パターン3: 両方とも私ではない >パターン4: 両方とも私である いずれのパターンも不合理であるとして、スウィンバーンは同一性の根拠を物理的な脳に帰することを拒否する。もし重大な事故などで自分の肉体が激しく損傷し、無傷であった自分の脳の半分が別の身体に移植されるとする。手術が成功したらとりあえずその人物が「私」であると人は直観的に思うだろう。しかし残った元の自分の身体と脳が奇跡的に救ったらどうだろう? 先に移植に成功した脳が「私」であり続けるか否かが、他の肉体の手術に依存することになる。これは不合理である。したがって「私」が現在作られている物質も記憶も「私」にとって本質ではない。人格の同一性の本質はもっと「根源的(ultimate)」なものだとスウィンバーンは考える。 仮にいかなる実体も存在するための二つの始まりを持つことはできないという前提なら、ある人間が存在をやめたならばその人が再び存在するようになる論理的可能性はない。しかし二つの始まりを持つことはできないという原理を採用する十分な理由がない。つまり「私」が千年後、一万年後といった遥か未来に存在する可能性は論理的に否定できない。その可能性は人格の同一性の本質が「根源的」なものであることを示している。またそのことから、ノンレム睡眠時や肉体の死の後でも、魂が存在し続けていることが推論できるとスウィンバーンは考える。 スウィンバーンにとって物理的な脳とは、魂が作動するための条件なのである。したがって魂のみが身体から分離される可能性も認められることになる。これはデカルト的な実体二元論を前提するものである。そしてこの非還元主義の立場からパーフィットに対して、還元主義が非人称の仕方で記述できるとする心理的な出来事は、実際には人格同一性を前提している、という批判を行っている。つまり心理的統一性とは、ある人格が諸経験を所有していることだとみなすものである。ある時点で「私」がもつ諸経験を統一しているのは、それらがすべて「私」の経験であるという事実によるのであり、諸経験が通時的に一つの人生に統一されるのも、それらが「私」のものだからであるとスウィンバーンは考える。 以上、パーフィットとスウィンバーンの説を簡潔に紹介したが、双方共に難点があるのは明らかだと私は考えている。パーフィットはヒュームの還元主義を前提にしており、人格については存在論的に通時的な数的同一性が成り立たないとして、現在における「私」と未来の「私」の類似性しか認めないのであるが、それは双方の「私」が同一であり得ないという「非同一性」の証明を抜きにしているのが難点である。一方スウィンバーンの非還元主義は、まさにその非同一性の論証ができないことに着目し、「私」が未来において再生される可能性を否定できないことから非還元主義を擁護するのであるが、魂というものを措定した場合、やはり人物分岐のケースにおいて魂がどちらに移動するかという問題で、不合理な解答になるように思える。 参考までに、トマス・ネーゲルは還元主義者ではないものの、スウィンバーンのような非還元主義には懐疑的である。仮に人格の同一性を保存する魂のような形而上学的な自我があったとしても、その自我が時間を越えてそれ自体の同一性をもつ持続的な個体であると言うなら、それについてもまた「その自我は依然として私であるのか?」と同様の問いが立てられるものでしかないからである。その自我の同一性は、それがもつ経験は全て私のものであるという事実にのみ基づいており、何がそれらの経験を全て私のものにさせるのか、という問題を説明する力はないとネーゲルは言う&footnote(トマス・ネーゲル著 永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』pp.311-2))。 このようなネーゲルの洞察は、独我論と意識の超難問につながっていくことになる。これは後述し、そこで引き続きパーフィットとスウィンバーンの難点をより詳細に論じることにする。 ところで記憶説と身体説、また還元主義と非還元主義、いずれの立場を取るにせよ、最終的にはクオリアの存在論にコミットせざるを得ないはずである。心の哲学ではデカルト以来、物的なものと心的なものの実在性を巡って膨大な議論が積み重ねられてきた。仮に物的なものだけが実在的であるならば、人格の同一性の基準を心理的なものに置く立場は、その基盤が揺らぐことになるはずであるし、逆に心的なものだけが実在的であるならば、身体説の基盤が揺らぐはずである。 次節では心の哲学における物理主義と、物理主義に反対する諸説の、人格の同一性に関連した部分を概観して行きたい。 **4 物理主義と反物理主義 心の哲学における物理主義とは、クオリアなどの心的な現象は物的な実在に還元できるという主張である。物的なものと心的なものは認識のされ方として異なることは認めるが、物的なものだけが実在的であるとする。これが存在論的還元である。逆に二元論ではその還元を認めない。 物理主義と二元論の対立の源は紀元前にまで遡ることができるが、近代的な議論はデカルトから始まっている。デカルト以降の議論を整理するならば、心の哲学における主要な立場は以下の四タイプに集約できる。 >Position_1: 物的なものだけが実在である >Position_2: 心的なものだけが実在である >Position_3: 物的なものと心的なものは、双方が実在である >Position_4: 物的なものと心的なものは、一つの実在の属性である Position_1は物理主義や唯物論である。Position_2は現象主義や観念論である。Position_3はデカルトの実体二元論である。Position_4は中立一元論や性質二元論である。現代の二元論者には実体二元論の立場を取るものは少なく、単に「二元論」と言う場合、中立一元論や性質二元論を指しているケースが多い。 ところで物理主義の立場でも、同一説では物的なものと心的なものを「同一」とみなすので、物的なものが実在的ならば、それと同一状態にある心的なものも実在的だとみなす考え方もある。いずれにせよ物理主義とは、世界の全ては物理的に記述でき、心的なものは物理的なものに還元できるという立場である。 物的な現象のみが実在すると考えるか、それとも心的な現象も実在すると考えるかは、存在論の根本問題でもある。人格の同一性問題は、同一性の基準を心理的なものに置く立場でも、物理的なものに置く立場でも、この存在論の根本問題を避けて論じることはできないはずである。 物理主義の考え方では、実在しているものは物的なものだけなのだから、物的なものの時空的連続性によって人格の同一性を考えれば良いことになる。これは身体説・物理的基準に近い。ただし時空的連続性や因果関係とは、存在者がどのような脈絡によって存在するかを説明するものであって、同一性を説明するものではない。したがって物理主義者でもシドニー・シューメーカーのように、同一性の基準を心理的なものに置く者はいる。シューメーカーによれば、心理的基準は物理主義とも二元論とも両立可能なものである&footnote(リチャード・スウィンバーン、シドニー・シューメーカー著 寺中平治 訳『人格の同一性』p.220)。いずれにせよ物理主義では、パーフィットが定義した「複合理論」を採用し、「単一理論」は否定することになる。魂のような単一の非還元主義的な主体は、物理学の枠組みを逸脱したものだからだ。 柴田正良によると、同時に複数の「自分」を作れば、彼らは皆自分とみなすのが素朴な物理主義(folk physicalizm)である&footnote(柴田正良『ロボットの心』pp.19-20)。したがって「スワンプマン」のような自分の複製体が出現した場合、二人の私はいずれも「同じ私」であるということになる。ただしこの素朴物理主義は存在論的に厳密な数的同一性を主張するものではない。既述したように人の身体を構成している分子は絶えず入れ替わっているので、人は素粒子のレベルまで同一性を維持したまま生きることはできない。換言すれば、現在の「私」とは常にそれ以前の「私」のコピーであると考えることができる。ならばスワンプマンのような「私」のコピーが作られても、それは規約の問題として「私」であると考えることができるというわけだ。つまり「私」とは個体(トークン)としては常に変化し続けるものであるけれど、種類(タイプ)としては同一であり続けるというのが、素朴物理主義による人格の同一性の説明である。 なおスワンプマンの思考実験を行ったドナルド・デイヴィッドソンは、外的な事物と志向的な関係をもつためには、その事物との因果的なつながりが過去になければならないとする「歴史主義」の立場を取り、スワンプマンを自分と同一とは認めていない。 物理主義の最大の特徴は、クオリアは存在論的に脳状態に還元できるとする還元主義にある。還元主義では、たとえば人物Aの脳状態がB1であり、そのときにクオリアQ1があった場合、B1とQ1は認識のされ方としては異なるが、存在としては同一なのだと考える。これが同一説である。同一説は物的タイプと心的タイプの同一性を主張する「タイプ同一説」から始まり、物的トークンと心的トークンの同一性に範囲を限定する「トークン同一説」へと発展した。「機能主義」や「表象主義」など、現代の物理主義的な立場の多くはこのトークン同一説を前提としている。トークン同一説は心脳問題についての物理主義の標準見解と言ってよい。ところで現代では単に「同一説」と言う場合はタイプ同一説を指し、トークン同一説は「トークン物理主義」と呼ばれて使い分けられているのだが、双方は心脳関係論としては基本的に同じものである(以下双方を「同一説」と略す)。 同一説の最大のメリットは、クオリアが脳の物理状態と同一であるとすることで「心的因果」の問題を解消できるように思えることである。二元論ではクオリアの存在論的還元を認めないのだが、しかし物理的出来事の原因は物理的出来事のみであるとする「物理的領域の因果的閉包性」という原理があるために、クオリアは物理的世界に何の影響も与えないという指摘がある。これが現代二元論の最大の難点であるが、同一説ではクオリアは脳の物理的状態と同一なのだから、物理的出来事と同一であることによってクオリアが因果的に作用していると物理主義では考えることができる。 しかし心的なものと物的なものは同一の出来事だと考えても、物理的出来事の連鎖は全て物的なものだけで説明できるのならば、クオリアなど心的なものは仮に存在しなくても物理的世界は何も変わらないということになるかもしれない。その問題を指摘したのがデイヴィッド・チャーマーズによる「哲学的ゾンビ」である。 哲学的ゾンビとは、物理状態は人間と同じで人間同様に行動したり会話したりするにも関わらず、クオリアなど心的なものが欠如した存在と定義される。実際、物理主義では心的なものが物理状態に因果的に作用することはないとされているのだから、物理状態が人間と同じならば、クオリアが欠如したゾンビが人間同様の言動をすることは論理的に可能だと認めるしかないことになる。もちろんチャーマーズ自身も、また物理主義を批判する他の哲学者たちも哲学的ゾンビが現実に存在可能だと考えているわけではない。哲学的ゾンビの思考実験とは、「物理主義が正しいなら哲学的ゾンビが存在可能である」とする一種の背理法であり、また脳の物理状態とクオリアの相関関係が必然的なものではなく、偶然的なものであることを示すものである。ちなみにこの相関関係の偶然性についての論証は 1980年のソール・クリプキ『名指しと必然性』(1970年代の講義集)によってなされており、チャーマーズの哲学的ゾンビはクリプキの議論を飛躍させたものである。 チャーマーズやクリプキの議論は強力なものであるように思えるが、物理主義の立場は次のように反論する。脳の物理状態とクオリアは確かに異なった認識のされ方をしているが、それは双方が「非同一」であることの論証ではない。科学が発展すれば、かつては異なった星だと思われていた明けの明星と宵の明星が、実は同一の星であることがわかったように、脳の物理状態とクオリアが同一であることもわかるかも知れない、と。 確かに双方の非同一の証明は難しいかもしれない。しかし脳とクオリアには、かつて科学が明らかにしてきたものたちの同一性とは根本的に異なった要素があるように思える。明けの明星と宵の明星は同一の星だったというような同一性の発見は、人の認識において科学的に記述できる現象たち、つまり物的なものと物的なものの関係に限られている。 私は子猫を見ると「可愛い」という思いを抱く。もちろんその思いは脳の物理状態と相関しているだろう。その脳の状態は fMRIなどで客観的に見ることができ、科学的に記述できるかもしれない。しかし「可愛い」という思いは第三者が見ることができず、科学的に記述できない。 私が子猫を見るときに経験する現象を次のように並べるとわかりやすいかもしれない。 >現象1: 子猫の知覚像と、fMRIで見ることができる脳の物理状態 >現象2: 「可愛い」という思い 客観的に見ることができて科学的に記述できる現象1が「物的なもの」と呼ばれ、主観的にしか経験できず科学的に記述できない現象2が「心的なもの」と呼ばれる。そして物理主義者は物的なものだけが「実在」だとして、心的なものは物的実在に還元できると主張する。 しかし自分の経験をよく反省してみればわかることだが、現象1も現象2も、ともに自分が経験する現象(クオリア)ということでは何ら差異がない。現象1は物的なものとは言っても、それは私が視覚的なクオリアとして認識したものである。 ここでクオリアという語の解説をしておこう。クオリア(qualia)はラテン語の「qualitas」に由来し、「質感」という意味である。歴史的にはクオリアと同様の意味で「表象」「知覚」「現象」「直接経験」などが用いられてきた。素朴心理学的に用いられる「意識」も類似の意味であり、ジョン・サールはクオリアと同じ意味で意識という語を用いている。しかし現代では意識という語は多面的であり、「アクセス意識」「機能的意識」「現象的意識」「無意識」などと使い分けられているので、混乱を避けるため、また「質感」という意味に重きを置くため、私はクオリアという語を用いることにする。なお感覚と思考を別ものとして扱う論者は、クオリアと思考を区別する場合もあるが、思考内容には常に固有の質感が伴っているはずだ。サールは次のように述べている。 >もしあなたが二足す二は四に等しいと考える場合、そこに質的な感覚がないと考えるなら、それをフランス語やドイツ語で考えてみよう。たとえ、 2 + 2 = 4 という志向内容が英語の場合とドイツ語の場合とで同じだったとしても、「zwei und zwei sind vier」と考えることは英語で考えるのとはまったくちがう感じがする。&footnote(ジョン・R・サール 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』p.179) 茂木健一郎もサールとほぼ同様の見解を示している。 >「ギラギラ」や「ピカピカ」といった、質感そのものとも言える〈あるもの〉はもちろんのこと、数字や記号、言葉といった、一見質感そのものとは独立した抽象的な形で私たちの意識の中に存在するかのように見える〈あるもの〉もまた、それが意識の中で〈あるもの〉として感じられる以上、一つのクオリアである。&footnote(茂木健一郎は『意識とはなにか――〈私〉を生成する脳』 pp.030-1) 私が経験しているものたちは常に、視覚的なクオリアであり、聴覚的なクオリアであり、嗅覚的なクオリアであり、味覚的なクオリアであり、触覚的なクオリアであり、思考的なクオリアである。要するに、私の経験は「全てクオリア」である。これは認識論的な事実である。 人は自分が経験するクオリアたちのうち、或るタイプのものたちを物的なものと分類し、別のタイプのものたちを心的なものと分類する。&strong(){クオリアは「物質」の反対概念であるかのように理解している人が多いが、それは大きな錯誤であり、クオリアの反対概念とは物質ではない。一連のクオリアの経験から存在が推測された「実在」というものなのである。} 私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消える。しかし目を開けると再びモニターが見える――。このようなクオリア経験の秩序や規則を説明するために作られたのが「実在」という概念である。その実在を前提にした生活の態度が「素朴実在論」と呼ばれるものである。 しかし哲学的にはその実在なるものを安易に容認することはできない。それは人が原理的に経験できないからである。また仮に実在というものを措定せずとも、諸々のクオリアの経験は説明できてしまうからである。――私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消える。しかし目を開けると再びモニターが見える――。これら一連の経験から推論できるのは、或る行為としてのクオリアには或る結果としてのクオリアが必然的に伴うという、クオリア経験の「秩序」の存在だけであり、「実在」などというものは見つからない。このような洞察から物質的実在を否定して、現象(クオリア)とその秩序の存在だけが確実だと考えたのがジョージ・バークリーの現象主義である。なお現象主義とは対極の立場として、存在論的に実在というものを認めようとするのが形而上学的実在論や科学的実在論になる。 ここで膨大な議論の堆積する実在論論争を詳述することはできないが、少なくとも物質的実在というものは推測されたものであり、それは「仮説」だということは事実である。したがって、上述の現象1と現象2に「実在」と「非実在」の区別をするのは論理の飛躍である。また現象1のどこを探しても現象2はない。にもかかわらず両者が「同一である」とか、現象2が現象1に「還元できる」という主張は飛躍の上に飛躍を重ねていることになる。 ところで物質的実在という仮説を前提されたものに「意識の断絶」や「無意識」というものがある。素朴実在論的な観点からは、私はノンレム睡眠状態では意識が断絶していると推定されるし、考え事をしながら歩いているときの足の一歩一歩の動きなどは無意識の動きであるように思われる。しかしそれらもまた仮説である。バークリーやヒューム、大森荘蔵のように経験主義を徹底した立場からすると、確実に存在していると言えるものは、現実に経験しているもの、というよりは「経験そのもの」であるクオリアだけである。物質的実在や意識の断絶や無意識は、クオリアから推定された仮説だというのが事実なのである。 今一度、上述の現象1と現象2を見比べてみよう。現象1であるクオリア、つまり脳のような物的な存在は部分を持つ。しかし「可愛い」という現象2のクオリアは部分を持たない。部分を持たず、他の何かに還元して説明できない性質のことを「全一性」と言う。しかし脳は全一的でなく、何百億という細胞から構成されており、さらに細胞は分子から構成されている。最終的には素粒子にまで還元できる。このように部分から構成されるものと、部分を持たない全一的なものを同様に扱うことはカテゴリー錯誤である。仮に部分から構成される脳と全一的なクオリアが「同一」だとするならば、脳細胞が一つでも欠けたら全一的なものはどうなるのだろう。また脳細胞を一つだけ他人の脳細胞と交換したらどうなるのだろう? ここに堆積のパラドックスが生じることになる。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」――この事実を物理主義者は軽視している。 物的なものと心的なものは、どのように観察しても相関関係しか見つからない。事実はこれだけである。その相関関係を因果関係と解釈するのは既に飛躍であり、存在論的に還元できるという主張は、もはや別次元の空疎な形而上学であると私は考えている。 もちろん、物理主義の立場が還元を主張するのには重大な根拠がある。それは前述した心的因果の問題である。物質的な脳の状態にクオリアを還元して考える同一説ならば、心的因果が無理なく説明できる。しかし同一説を否定する二元論や現象主義では、どのように考えても物理的領域の因果的閉包性のために、心的なものは物的なものに何の影響も及ぼすことができない。ここから帰結するのは「随伴現象説」、あるいはスピノザが主張した「心身並行説」ということになる。それらは同一説と比較して理論がシンプルでなく、節約の原理(オッカムの剃刀)に反しているように思われる。 ただし重要な点であるが、物理主義と同一説には大きな前提がある。それは、この世界には「因果関係」というものが実在する、というものである。もちろん素朴な観点からは因果関係の存在は当然であろう。たとえば缶コーヒーを自動販売機で買った場合、自動販売機にコインを入れたのを「原因」として、缶コーヒーが出てきたという「結果」が生じたということを疑う人はいない。しかしこのような因果関係の説明には強力な批判がある。デイヴィッド・ヒュームによれば、因果関係とは或る出来事には後続して或る出来事が伴うということを、人が繰り返し経験することから推論された仮説にすぎない。因果関係とみなされている「原因―結果」の関係とは、実は必然的な関係でなく偶然的な関係であるかもしれない。因果関係とは世界の事実としてあるのでなく、人の認識の在り方にすぎないかもしれない、とヒュームは懐疑した。 仮に因果関係が実在するならば、物理主義が主張するように心的なものは脳状態に還元されるしかないように思える。脳状態と「同一」でなければ物的なものに因果的に作用することはできないからだ。しかし、ヒュームの言うように因果関係が実在しないならどうだろう? その場合、心的なものと脳状態は因果関係があるように見えるが、実は或る心的なものには或る脳状態が伴うという、恒常的な「相関関係」のみがあるというのが事実となる。 ヒュームの因果関係論を根本的な部分で肯定したのがイマヌエル・カントである。カントの哲学は物理主義に対する強力な批判と受け取ることができる。 カントは時間、空間(および空間的な存在である物質)、そして因果関係の実在を否定した。カントによれば、時間、空間、因果関係が実在するならば、いずれも限界を想定することはできないから、それらは無限に存在しなければならない。しかし「無限の存在」とは「限りがない」という意味での無限の概念と矛盾している。無限とは行為や操作に属する概念であって、存在に属する概念ではない。従って時間、空間、因果関係は実在(物自体)ではなく、人の認識の形式である。――これがアンチノミーの論証である。このカントの論証は強力であり、未だ反駁に成功した哲学者はいないと私は考える。カントの論証が正しければ物理主義の大前提である「物質的実在」と「因果関係の実在」は阻却される。つまり物理主義は根底から間違っているということになるかもしれず、心的因果の問題も再考を迫られることになる。 ともあれ、カント哲学は問題性が大きすぎるので、ここではこれまで概説してきた分析形而上学とは異次元の形而上学があることを紹介しておくに留めておく。 ここで話を人格の同一性に戻すことにする。物理主義的な還元主義が正しいか否かはともかくとして、心的なものは全て物的な脳と相関して存在していることは二元論者も現象主義者も否定しない。「私」も特定の物理状態と相関して存在しているということである。物理法則は普遍的なので、もし「私」と相関するその特定の物理状態が、もし未来において再現されたなら、この「私」も再生されるということになる。 しかし同一の物理法則によって、未来に複数の「私」が誕生したならばどうなるだろう。ここでパズルケースが生じることになる。物理主義的には、それら複数の「私」はタイプとして同一だがトークンとして異なるだけだと考えることができるかもしれない。しかしタイプとトークンの区別だけで解消しない難問がここにはある。未来における二人の「私」のうち、どちらが現在の「私」と同一なのか? と問うことができるからだ。 ここで「どちらも時間的に離れているから別のトークンだ」と考えたくなるかもしれない。しかしそれは認識論的問題に過ぎない。存在論的には「非同一性」という問題があるはずである。時間を隔てて存在する「私」が非同一であることを、一体どうやって証明するのだろう? この難問の根源には物理主義的な方法論では解消しないクオリアの存在論がある。クオリアは主観的で一人称的にしか記述できないものだからこそ、時間を隔てて存在する同タイプのクオリアが、トークン存在として異なっているのか、それとも同一なのかという問題が物理主義的方法では分析できないのである。第3節で紹介したように、それらの問題を理由にスウィンバーンは、人格の同一性は経験的な事実では分析不可能だとし、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性から、非還元的主体を肯定している。 私はスウィンバーンの立場を全面的に肯定しないが、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性は事実であると考える。そしてその事実から物理主義の綻びが見えると考えている。 しかし、全く異なる観点から上述の難問を解消しようとする「四次元主義」という試みがある。四次元主義は相対性理論を前提としているため物理主義と親和的である。この立場では既述した人物分岐のパズルケースも上手く説明できるとされている。次節では四次元主義を概観し検証してみたい。 **5 三次元主義と四次元主義 四次元主義は W.V.O.クワインやデイヴィッド・ルイスなどによって提唱された。三次元主義では、物体は三次元空間の中に完全に存在(wholly present)しており、これが時間を越えて存続(endurance)し続けると考える。これに対し四次元主義では、物体は時間的に延続(perdurance)しているものであり、三次元空間に現れるのは瞬間的部分(一時的内在的性質)に過ぎず、四次元時空の中にこそ完全に存在すると考える。 三次元主義では一つのものが相反する複数の性質を持つことはないと考える。たとえば「丸く、かつ四角いものはない」というように。これは常識的な見方でもある。しかし四次元主義では一つのものは時間的な幅をもった存在であり、性質は時間によって異なるのだから、一つのものが相反する複数の性質を持つことができると考える。 ヘラクレイトスは「同じ川に二度入ることはできない」と言ったが、四次元主義の立場からすると「川」とは瞬間的な諸状態の和である。したがってクワインはヘラクレイトスの主張を分析し、同じ「川の段階(river stage)」に入ることはできないが、同じ「川」に入ることはできると考えた。この場合の「同じ川」とは、瞬間的な川の段階に対して、「川の過程(river process)」が同一だということである。&footnote(W.V.O.クワイン『論理学的観点から』pp.84-5) 四次元主義は相対性理論から導出された「永久主義(eternalism)」を理論的支柱としており、「ブロック宇宙」こそが真の実在であると考える。ブロック宇宙とは数学的概念であるミンコフスキー空間を実体化したような四次元時空の「塊(ブロック)」である。ブロック宇宙内部では世界の過去・現在・未来の出来事が全て対等に存在しているとされる。つまりブロック宇宙の過去の或るポジションでは恐竜は生きており、別の或るポジションではナポレオンはセントヘレナ島に幽閉されており、別の或るポジションでは地球が赤色巨星となった太陽の影響で消滅している。時空上の全ての出来事は永久に存在しているするこの考えが永久主義である。 永久主義の反対概念は「現在主義(presentism)」である。一般の人は「過去」とは消えてしまったものであり、「未来」とはまだ存在しないものだと理解している。これは素朴な時間論と言える。なお三次元主義は現在主義と親和的であるが、両者は必然的に結合するわけではない。現在主義とは永久主義と対立する形而上学である。 四次元主義では、現実に存在しているブロック宇宙というものの特定のポジションに、過去の出来事も未来の出来事も全てが存在すると考えるので、それまでの時間・人格の同一性の議論と比較すると、極めて革命的な主張であると言える。 相対性理論では時間と空間は不可分であり、双方を「時空」として一つのものとして扱う。デカルト的に分類すれば、物質は空間的な領域を持つものとして規定できるが、精神は空間的に位置を特定できず純粋に時間的存在である。しかし四次元主義では物体が空間的な領域を持つならば時間的な領域も持つということになり、物体も精神も時間的である。つまり四次元主義では人格の同一性の基準は時空的連続性ということになる。 四次元主義は相対性理論を前提としているので、物理主義的傾向が強い。ただし物理主義者や物理学者全てが四次元主義を支持しているわけではない。相対性理論によって記述される四次元時空に実在性を認めず、それは単なる記述方法、あるいは規約とみなす立場もある。その立場では当然ブロック宇宙や永久主義という形而上学は拒否することになる。 ここで近年の時間の哲学を簡潔に紹介しておく。二十世紀以降の時間論はアインシュタインの相対性理論と、ジョン・マクタガートの時間の反実在論がベースになっている。マクタガートは時間を以下の三つのタイプに分けている。 >A系列: 出来事たちを「過去である」「現在である」「未来である」と、変化を表す時制述語によって説明する時間 >B系列: 出来事たちを「~より以前」「~より以降」と、順序を表す関係語によって説明する時間 >C系列: 出来事たちは無秩序に存在している(時間は実在しない) マクタガートの主張の核心は、「変化」の概念を含むA系列こそが時間の本質であるが、A系列は矛盾しているので時間は実在しないというものである。つまりA系列においては、或る出来事は「過去である」「現在である」「未来である」という三つの属性を持たなければいけないが、それら三つは排他的であり、したがってA系列は矛盾しているということである。しかしB系列が時間の本質だとするわけにもいかない。B系列は年表のようなものであり、人が現実に体感する変化の感覚が描けていないとマクタガートは主張する。 ここでマクタガート時間論を巡る議論の詳細は解説できないが、マクタガート以降の哲学者はA系列を支持するか、B系列を支持するか、それともマクタガートによる時間の非実在の論証を認めるかの、およそ三つの立場に分かれる事になる。 B系列は相対性理論と親和的である。全ての時点を対等に扱う相対性理論では、「現在」に特権的な地位を与えることが出来ず、或る出来事は他の出来事より「以前」とか「以降」という関係語で時間を表すことになる。もちろん特定の時刻を「現在」として出来事を記述することは出来るが、それは「他の現在」と相対的な現在となり、A系列が想定する特権的な現在ではない。従って永久主義者はB系列の時間を前提としているということである。 &sizex(-1){※ところでB系列イコール永久主義というわけではない。B系列とはあくまで時間の記述方法が永久的だということである。永久主義とは記述される存在も永久的だと考える形而上学である。} 「変化」と「同一性」は相反する概念であり、変化とは「同一でありながら異なるもの」という矛盾概念であった。四次元主義の大きな利点はこの矛盾を解消できるように思えることである。四次元主義では、一つの存在が時間的幅を持ち、かつ時点によって異なる一時的内在的性質を持つとすることで、変化と同一性を矛盾無く説明できるのである。 四次元主義ならばライプニッツの法則、つまり「不可識別者同一の原理」と矛盾せず人物の同一性を説明できることになる。ライプニッツの法則とは、AとBの全ての性質が同一であり、区別が不可能ならばA=Bが成り立つとするものである。しかしこの原理を厳密に解釈するならば、立っていた私が椅子に座っただけで「座っている私」は「立っている私」と別の存在だということになる。 人は身体を曲げて座っていることがあれば、真っ直ぐ立っていることもある。この場合「身体が曲がっている」や「身体が真っ直ぐである」といった性質は、ある特定の時間帯のみに対応した内在的な性質であると四次元主義では考える。 「真っ直ぐである」形状と「曲がっている」形状とは両立しないので、デイヴィッド・ルイスは変化というものを説明する以下の三つの方法があると考えた。&footnote(参考:小山虎「時間的内在的性質と四次元主義」、セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』pp.172-3) >現在主義: 永久主義に対し、本当の時間はただ一つ「この現在」だとし、内在的性質はこの現在のみが持っていると考える。過去において持っていた内在的性質は、既に存在していない。つまり私の身体は、この現在「真っ直ぐである」というだけである。かつて曲がっていたことは事実であっても、このことから私の身体が「真っ直ぐである」、かつ「曲がっている」という矛盾した帰結は引き出されない。これは三次元主義の一種である。 >関係主義: 形状は内在的性質ではなく、存続(endurance)する対象と特定の時点との間に成り立つ関係だと考える。一つのものはそれぞれの時点に完全に現前している。私が身体を曲げる場合、私は或る時点に対し「曲がっている」関係を持つ。別の時点においては「真っ直ぐである」関係を持つ。この関係主義も三次元主義の一種であるが、現在主義と異なり、全ての時間を同等のものとして扱うので、永久主義を含意していると考えられる。 >四次元主義: 四次元主義では、内在的性質を持つのは対象自身ではなく、対象の時間的部分であると考える。「真っ直ぐである」「曲がっている」といった両立不可能な内在的性質は同じ時点に属するわけではない。異なる時間的部分において両立しない性質を持つことは、延続(perdurance)している対象自身が両立しない性質を持つことを意味しない。私が身体を曲げたりする場合、一時的内在的性質(temporary intrinsic property )として「曲がっている」という時間的部分を持つということである。 ルイスは現在主義と関係主義を否定する。現在主義は「現在」以外の時間の実在を否定することで持続そのものを否定することになる。物体が現在にしか存在しないならば変化は存在せず、次の時点におけるその物体と今現れている物体との同一性さえ問うことができない。そして一時的内在的性質を否定する関係主義も現在主義と同じ問題を抱える。よって四次元主義が正当だと結論される。 また四次元主義は「段階説」と「四次元ワーム理論」に分けられる。ただし両者は必ずしも対立し合うものではない。段階説とはワーム理論を前提にした理論である。 ワーム理論では、持続物は瞬間的な段階の組み合わせから成るのではなく、時間的に延続した時空ワームであり、それが基礎的な存在であると考える&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』p.336)。ワーム理論によれば「人格」とは「道路」のようなものである。一本の道路は幅や路面が微妙に変化しながらも続いている。人物分岐のパズルケースについては、一本の道路が二本に分かれる場合、三叉路で三つの道路がつながることになるように、分岐した人物たちも時空上で重なっていると考える。 段階説は、パーフィットがさまざまな思考実験を根拠に主張した「心理的連結性」や「心理的継続性」を認め、人物とその身体は同一であるとし、それは瞬間的な段階(momentary stages)の集合体であると主張する。段階説によれば、ある人格がある時点において一つの身体を占めている時、かつその時のみが、その人格の「段階」ということになる&footnote(前掲書 pp.336-9)。つまり「人格」とは人格的統一(personal unity)関係と言えるような多数の段階で構成されているということである。なおその「段階」は瞬間的なものであり持続しないため、今と未来の段階は同一ではないということになる。たとえば今の私と三秒後の私は微妙に変化しているため、数的に同一でないということである。段階説は人格の同一性の問題を、心的または物的な何かの同一性から、段階と段階の関係に置き換えたものである。 段階説とワーム理論の相違点は、段階説の「段階」とはワームから切り取られた諸々の段階を指示しているということである。 以下は四次元主義の段階説とワーム理論による人物分岐の説明図である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_1.gif) 図1では、人物Aが脳分割によってレフティとライティに分裂していくケースを描いている。段階説では各時点に各人格があり、別の時点の人格とは存在論的に異なり、そして人格の同一性は段階同士の関係ということになる。対してワーム理論では時間的に延続した人格があって、人物分岐時点では人物Aとレフティーとライティーが重なっていることになる。 以上のような四次元主義の説明は、一見人物分岐のケースにおける人格の同一性問題を上手く解消しているように思えるが、それは認識論的問題が中心であり、存在論的には曖昧さがある。既述のように人格の同一性が難問なのは、人には第三者が観察できないクオリアという内在的な性質があるからである。四次元主義は物理主義的傾向が強いため、やはりクオリアの存在論がないがしろにされている。 四次元主義の立場から「痛みのクオリアは時間的に延続している」と言うのは容易いだろう。しかし、例えば私が十秒間痛みを感じた場合、その痛みのクオリアは十秒間同じ状態にあるわけではない。最初は激しい痛みがあったとしても、その痛みは徐々に和らいでいくだろう。では最初の一秒間の激しい痛みと、最後の一秒間の和らいだ痛みは「同一」なのだろうか?  ワーム理論ならば十秒間の痛みを一つの存在者と考えるだろう。しかしこの立場は人物分岐のケースでアポリアが生じることになる。或る人物が脳分割によってレフティとライティ分岐した場合、両者は分割前の人物と共通の時空部分を持っているので、どちらも分岐前と「同一」と考えることができるが、それは認識論的な「規約」の問題にすぎず、存在論的な数的同一性問題を置き去りにしている。特にクオリアは主観的な存在者なので、或るクオリアを「私」とするならば、同時に存在している別のクオリアは必ず「他者」でなければならない。ワーム理論はテセウスの船のように、対象の概念的な同一性問題を扱うには適しているが、厳密に存在論的な同一性問題を扱えるものでないだろう&footnote(参考:前掲書 pp.32-4、351-4、358-9、395-6)。 仮に「私」と相関する脳が分割され、レフティとライティになった場合、次の三つのケースが考えられる。 >ケース1: レフティが「私」である >ケース2: ライティが「私」である >ケース3: どちらも「私」でない >ケース4: どちらも「私」である レフティとライティがタイプ的に同一ならば、ケース4は規約の問題としてはあり得るだろう。しかし存在論的にはケース1、ケース2、ケース3はありえても、ケース4はあり得ない。つまりワーム理論は質的同一性を規定するには優れた理論だが、数的同一性の問題を解消するには不十分だということである。 一方、段階説ならば(ヒュームが知覚について考えたように)クオリアは僅かでも変化したならば数的に異なる別の存在者だとすることで解決できるように思える&footnote(前掲書 p.351)。しかしその別個のクオリアたちは明らかに相関関係をもって存在している。私の十秒間の痛みは、最初は激しい感覚だが徐々に和らいでいき、やがて何も感じなくなる。さながら十秒間の痛みが一つの存在者であるかのようにクオリアには統一感と持続感がある。各瞬間ごと、たとえば 0.0000001秒ごとに独立した別個のクオリアが生起するとしても論理的矛盾はないのだが、その統一感と持続感が説明し難いように思える。だからヒュームは人格の同一性問題について「迷路に巻き込まれた」と告白したのだろう。 ただし四次元主義では、個別の部分たちが和を構成するか否かという問題(メレオロジー)において、各段階は四次元時空においてつながり合い、和を構成していると考え、各段階は異なる時点に因果的につながった時間的対応者を持つと説明する。したがって独立しているように見えるクオリアたちの相関関係を、「和の構成」として説明するかもしれない。しかしその「和」とは人によって認定される規約的なものにすぎないのであり、同一性についての存在論的問題ではない。クオリアの数的同一性について何も説明しないし、クオリアたちの統一感と持続感の問題を解明する手掛かりにさえならない。 もっとも四次元主義は物理主義の一種のようなものだから、物質的実在を否定したヒュームと異なり、クオリアをもたらす脳の物理的状態が連続的・瞬間ごとに変化しているのに対応して、クオリアたちも瞬間ごとに変化しているのだと考えれば不都合はないように思える。またラッセルもヒューム的な還元主義――刹那的独我論が論理的に成り立つことを主張していたのだった。 しかし、ここにも「非同一性」という難問が到来する。クオリアは僅かでも変化したなら別のクオリアであり、今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアは別の存在者なのだと考えることは可能であるし、そう考えた方が人物分岐のケースも上手く説明できるように思える。しかし徐々に変化していく私の十秒間の痛みが、僅かでも変化したならば「非同一」であることを証明できるだろうか? 「十秒間の痛み」や「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」が、それぞれ時間的幅を持ったクオリアとして、一つの存在者であってはいけない理由がないように思える。 音楽を聴くとメロディーを感じる。メロディーは多数の音が連なり、一つの「全体」を構成する。持続的なメロディーのクオリアは、ベルクソンが強く主張したように、一つの持続的な存在者として考えるべきであるように思える。これは節約の原理にも適合しているだろう。0.0000001秒ごとに個別的なクオリアが生起して、それが何百億と集まってメロディーを構成していると考えることも不可能ではないが、それは理論としてあまりに無駄が多すぎる。 仮に時間が連続的だとすると、一つのクオリアは時間的に無限小の存在者だということになるが、そもそも「無限小」とは実在しないものなので不合理である。また時間にはプランク時間のような最小単位があると仮定しても、それは 5.4×10の-44乗秒というような途方もない極微の時間だということになる。プランク時間ごとに別個のクオリアが生起すると考えるのは直観と節約の原理に反するのはもちろん、現に持続している意識の説明になるのか疑わしい。それは結局ベルクソンが言うように空間化された時間の上に意識を定位させて、物理学と整合させるためにクオリアを細切れにして説明するようなものだからだ。 仮にクオリアが刹那的な存在者であり、全てのクオリアが四次元時空の特定のポジションに永久に固定されているならば、クオリアの「動性」は説明不可能ではないか。なぜ私はメロディーを感じることができるのだろう? これはゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスを連想させる。飛んでいる矢が止まっているように、流れているメロディーも止まっている。これをベルクソンは「死の永遠」と呼んだ。 この辺りに四次元主義の最大の難点が露呈していると私は考える。四次元主義は物理主義的傾向が強いために、前節で物理主義に対して指摘したクオリアの存在論の不在という問題を引き継ぐことになる。そしてスウィンバーンが主張したような、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性を四次元主義は否定できていない(この問題は「独在性」とも関係しているので、第7節でさらに論じることにする)。 ここで論点は異なるが、もう一つ四次元主義の大きな問題点を指摘しておきたい。それは「変化と同一性」という矛盾した概念を認識論的に説明するために、存在論的に大きな派生問題を受け入れざるを得ないことだ。ブロック宇宙、そして永久主義を採用したため、変化と因果関係の実在を否定するしかないのである。もし変化と因果関係の実在を否定することが不合理であるならば、四次元主義は不合理だということになる。 ただし四次元主義者自身は変化と因果関係の実在を否定するわけではない。たとえばサイダーは次のようにラッセルの議論を援用している。 >この火かき棒は、二〇〇〇年六月二十九日の木曜日には熱い。 >この火かき棒は、二〇〇〇年六月三十日の金曜日には冷たい。 >この二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである。&footnote(前掲書 p.42) &sizex(-1){※「時制の還元主義者」とはマクタガートが定義した「B系列」支持者のことである。} また四次元主義を批判するジュディス・トムソンに対し、サイダーは次のようにも述べている。 >分別のある四次元主義者であれば、現時点における時間的部分が存在するようになったのは、直前の時間的部分によって引き起こされたからだと主張するだろう。この過程を支配する法則は、おなじみの運動法則以外の何ものでもない。運動法則とは、ある時間的部分に対して、それより未来の時間的部分が存在することを保証する法則に他ならないのである&footnote(前掲書 p.383) このサイダーの議論は認識論的なレベルに留まっている。各時点における火かき棒の状態は永久に変化しない。それが永久主義である。しかし人が各時点を一挙に鳥瞰するならば、熱い火かき棒が冷たい火かき棒に変化しているように「見る」ことは可能だろう。運動法則が各時点の部分を引き起こし、各時点の存在を保証するという考えも同様のものである。だがそれらの変化とは認識論的なものに過ぎないのである。永久に変化しない各時点の火かき棒に人が因果関係を「見出す」ことで変化を認識しているに過ぎない。 永久主義では各時点の存在は永久にそのままなのだから、変化と因果関係は人の認識には存在しても世界の事実としては存在しないことになる。つまり四次元主義では人における変化と因果関係の認識を説明するために、世界における変化と因果関係の存在を否定せざるを得ないはずである。 ところで特殊相対性理論では「因果的順序」が保存されるという理由で、永久(B系列)と因果が両立するという考え方もある&footnote(参考:中山康夫『時間論の構築』第8章)。つまり特殊相対論では同時性は相対的であり、宇宙に絶対的な「今」は存在しないとされるのだが、出来事Aが出来事Bの原因ならば、どんな観測者にとっても出来事Aは出来事Bより「以前」に起こったように観測される。ゆえにB系列と因果の両立が見出せるということである。しかしここで証明されている「因果」とは人の認識論的事実であっても、存在論的な世界の事実ではない。 仮に可能世界Wに、次のようなマークが永久的に存在していたとしよう。 >W: [1] → [2] → [3] → [4] → [5] このマークを人が見たならば、最初に[1]、次に[2]、次に[3]と、「順序」を認識するだろう。しかしその順序は人の認識にのみ存在するのであって、世界Wの事実としては存在しない。&strong(){各マークは永久に存在しているのだから、[1]を原因として[2]が「生じた」わけではない。また[1]が[2]に「なる」という変化も世界Wにはないのである。} 全てが永久に存在しているというブロック宇宙の立場では、四次元時空の或るポジションを「原因」として、次のポジションが「生じる」という考え方はできない。「永久」と「因果」は存在論的に共存し得ない概念である。サイダーは火かき棒を例に、「二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである」と言う。これはラッセルを始めとするB系列支持者の標準的な見解なのであるが、マクタガートが(ラッセルの時間論批判として)指摘したように明らかな間違いである。火かき棒の「変化」とは、「通時的主体」である人が「熱い火かき棒」と「冷たい火かき棒」に「同一性」があると認識することによって見出せるものである。火かき棒自体は変化していない。これは上述の可能世界Wのマーク[1] や [2]が永久的に変化せず、またマークの全体も永久的に変化しないことに対応している。したがってブロック宇宙では、その宇宙外部にあって変化を認識する通時的主体が存在しなければいかなる変化もない。確かに宇宙内部の観測者は或る出来事を原因として別の出来事が生じたように「感じている」だろう。しかしその「感じている」という出来事も永久的に四次元時空の或るポジションに固定されているのだから、存在論的な事実として、世界にはいかなる変化もないのである。 実際にブロック宇宙説を支持している物理学者の中には時間と因果関係の実在を否定し、四次元の宇宙では何も生起せず、全てはただ「ある」だけだと主張する者もいる ヘルマン・ワイルはミンコフスキーと同様に、宇宙は空間と時間が分かちがたく結びついた四次元連続体だと捉えていた。ワイルはこう言った。 >世界は生起しない、ただあるだけだ&footnote(ポール・デイヴィス著 林一 訳『時間について』p.107) 物理学者のポール・デイヴィスは次のように述べている。 >生起、生成、時間の流れ、出来事の展開――ワイルを信じるなら、これらは全て虚構である。アインシュタインはそう信じた。&footnote(前掲書 p.107) >ゼノンの論法を現代風にいえば、飛んでいる矢は空間の「ブロック」を一つづつ占めているだけであり、いかなる変化もない。世界は凍り付いている。&footnote(前掲書 p.360) 物理学者のブライアン・グリーンは次のように述べている。 >〔……〕出来事は、どの視点から見ていつ起こったものでも、ただそこに存在している。出来事はすべて存在しているのである。それらは永遠の時空内の決まった場所を占め続け、流れるものは何もない。あなたが1999年の大晦日に、真夜中の鐘を聞きながら楽しいひとときを過ごしたのなら、あなたは今もそのひとときを過ごしている。なぜならその出来事は、変化しようのない時空内の場所だからである。〔……〕昔ながらの時間概念が逃げ込める場所は、人間の頭の中しかなさそうなのである。&footnote(ブライアン・グリーン著 青木薫 訳『宇宙を織りなすもの 上』 pp.235-6) 物理教育者の橋元淳一郎は、マクタガートの時間の非実在の論証を擁護して次のように述べている。 >われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには空間的広がりや時間的経過というものはない。&footnote(橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』p.116) >この宇宙は、ただ存在するだけの相対論的C系列(一覧表)である。ミンコフスキー空間という時空に描かれた一枚の絵といってもよいだろう。&footnote(前掲書 p.132) 高村友也はブロック宇宙説を支持するヒュー・プライスに対し、次のような指摘をしている。 >時間自体に向きがないブロック宇宙の世界では,私たちが過去や未来と呼んでいる方向の区別は,因果関係において特に意味を為さない. >時間の流れというものを,意識がそのように見せているだけの主観的なものとして退けるということは,残された物理的な時間にはもはや,流れる方向であったところの未来や,その逆である過去といった区別も存在しなくなることを意味する,&footnote(高村友也「マルコフ過程と時間の矢」) 以上、多くの論者が指摘しているように、四次元主義は永久主義を前提としているために、巨大な派生問題を受け入れざるを得ないはずである。 もっとも、変化と時間の実在性を否定する議論は紀元前からあり、因果関係の実在性の否定はヒュームによるものが有名である。カントの超越論的観念論のようにそれらの実在性を否定した上で世界を説明しようとする試みもある。従ってそれらの問題は四次元主義が克服すべき課題ではあっても、重大な欠点というわけではないだろう。 四次元主義の最大の欠点は、やはり物理主義同様にクオリアの存在論をないがしろにしている点にある。四次元主義は相対性理論がそうしているように、どの時刻も平等に扱い、神のような視点で時間と空間を一挙に見渡して論じるものである。しかし人は常に「今・ここ・私」からしか世界を見ることができない。それが意識――クオリアの主観的な性質である。そのクオリアの性質は数学的に記述できない。当然ミンコフスキー空間上にも記述ができない。ここに四次元主義とクオリアの相克が明白になる。 サイダーは論文「人の同一性」で次のように述べている。 >今日では、脳の特定の部位が特定の心理的効果とどのように結びついているかまで知られている。心理的状態と脳状態が完全に対応づけられるのはまだまだ先の話だが、これまでの進展からすれば、そういう対応づけがあるという仮説は理にかなっている。つまり心は脳に宿っており、魂は存在しない。そう結論することには筋が通っているのである。&footnote(アール・コニー+セオドア・サイダー著 小山虎 訳『形而上学レッスン』pp.14-5) ここでサイダーは心の哲学の物理主義を明確に支持しているわけではないのだが、「心は脳に宿っており」と物理主義的な還元主義の妥当性が示唆され、かつ「魂は存在しない」と人格の同一性についての非還元主義が否定されている。四次元主義と物理主義が同根の立場であることが示唆されている。 私には、今の私の心は七歳のときの私(だったはずの人物)の心と同一のものだという思いがある。その思いもまた一個のクオリアである。では実際にそのクオリアは、七歳ときの私と相関していたクオリアと「つながり」があるのだろうか? 私が知りたいのはそのことである。四次元主義では物理主義と同様にクオリアの数的同一性について答えられない。 クオリアの探究には、物質的なものを探究するのとは全く異なる困難がある。クオリアとは、固有のパースペクティブによって世界を表象する。いや、クオリア自体がひとつの「世界」を開闢しているとも言える。転んで足を挫いた場合、私は「痛み」のクオリアに支配されるだろう(無主体論的には「痛み」=「私」である)。私の視点からは、その時世界に存在するのは「痛み」だけであるように思える。しかし他者の視点から私の「痛み」が見えるわけではない。世界についての主観的な一人称記述と客観的な三人称記述は対立する。物理主義も四次元主義もこの意識の主観性の重要さに着眼していない。 クオリアの存在論は、主観性と客観性の対立をどう考えるかという問題と不可分である。その問題については独我論と実在論では全くアプローチの仕方が異なることになる。次節以降ではその点を論じたい。 **6 独我論と実在論 独我論にはいくつかのタイプがある。ジョン・R・サールは以下の三タイプに分けている。 >独我論1: 心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎない >独我論2: 他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできない(認識論的独我論) >独我論3: 他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれない(「逆転クオリア」の可能性など)&footnote(ジョン・R・サール著 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』 p.37) 永井均は独我論を以下の二つに分ける。 >認識論的独我論: 或る一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないという問題 >存在論的独我論: 世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均がこの「私」なのかという問題(これは「意識の超難問(The harder problem of consciousness)」とも呼ばれる)&footnote(永井均『〈子ども〉のための哲学』pp.123-5) まず確認しておくべきなのは、事実問題として認識論的独我論は正しいということである。素朴心理学的には、人は自分の心の外部に存在するものを見たり触れたりしていると考えている。これが素朴実在論である。月を見る場合、目を閉じると月は消えるが、再び目を開けると月は見える――この現象を説明するために要請されたものが「実在」である。月が実在しているから自分が目を閉じても月は消えることなく、再び目を開ければ月は見える。このような素朴な考え方から「心の中」と「心の外」の区分けがされることになる。 ところが自分の経験をよく反省してみると、実在というものを一度も直接経験したことが無いのはすぐにわかるはずだ。第4節でも物理主義に対する批判として述べたことであるが、私が経験しているものは常に、視覚的なクオリアであり、聴覚的なクオリアであり、嗅覚的なクオリアであり、味覚的なクオリアであり、触覚的なクオリアなどである。これに思惟というクオリアを加えても良い。要するに、私の経験は「全てクオリア」であるというのが事実である。従って「心の外部は認識できない」とする認識論的独我論は正しいということになる。 実在とはクオリアが去来する「規則」から推定されたものであり、実在というのは虚構であって、実はクオリアが去来する規則しかないのではないか? ――形而上学的見地からはそう懐疑することができる。そこから進んで存在論的に、実際に実在というものは無いのだと主張する立場や、上述したサールの独我論1を主張する立場は現象主義や観念論と呼ばれる。逆に素朴実在論を形而上学的見地から肯定する立場は、形而上学的実在論や科学的実在論と呼ばれる。 エルンスト・マッハは科学者であるが認識論的独我論の事実を重んじ、現象主義の立場を取っていた。マッハは感覚要素が世界を構成する究極の単位であると考え、「実在」や「因果関係」などの形而上学的要素を排除しようとし、ただ一つ経験に与えられる基本的事実である感覚要素の、その相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的であるべきだとした。これは現象学的物理主義とも呼ばれ、後に論理実証主義の感覚与件論へと発展した。以下はマッハが自分の左目で見た視覚体験を描いたユニークな自画像である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/Mach.jpg) マッハの自画像は、自分が固有のパースペクティブでしか世界を認識できない独我論的存在だということを上手く表している。この観点を世界全体の認識へと拡大したらどのような図になるだろう? 以下は抽象化した実在論と独我論の世界像である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_2c.gif) 図2では世界全体を大きな円で表し、個別の人物をその内の小さな円で表している。いずれの世界像でも人物Cが「私」だとする。独我論的世界像では世界そのものが「私の心」であり、「私の身体」は「私の心(世界)」の「開闢点」であることを表している。逆に実在論的世界像では個別の人物内部に「心」があることを表している。独我論的世界像の方では自分以外の人物の内に「?」で、他者の心は不可知であることを表している。 もし独我論的世界像の方が存在論的に正しいならば、少なくとも「私」の人格の同一性は問題にはならないだろう。自分の身体がどのように変化し、心理状態がどのように変化しようとも、それら変化は全て「私」内部の性質変化として起こっていることだからである。 ところで世界そのものが「私の心」だとする独我論の「私」についても、以下のような還元主義と非還元主義の立場があることは留意すべきである。 >非還元主義的独我論:「私」の内部でさまざまなクオリアが生起している >還元主義的独我論 :さまざまなクオリアが生起している状況が即ち「私」である 非還元主義的独我論がバークリーの立場であり、通時的な主体というものを想定している(第3節のデカルト解釈2)。その主体を否定する還元主義的独我論がヒュームや大森荘蔵である(第3節のデカルト解釈1)。ヒュームのような立場では、「昨日転んだときは痛かった」という想起があった場合、その想起の対象である「痛み」のクオリアが実際昨日あったとしても、それは「昨日転んだときは痛かった」という想起のクオリアとは別の存在かもしれないということである。ちなみに、ヒュームの立場を一旦認めた上で、昨日のクオリアと今日のクオリアには何か「つながり」があるはずだと考えているのが私の立場である。 トマス・ネーゲルは独我論者ではないものの、『どこでもないところからの眺め』において興味深い問題提起をしている。 >トマス・ネーゲルを含んだ全ての人がいる世界を、隅から隅まで、特定の視点に立たずに描ききったとしよう。そのとき、一方で、何かが描かれていない、何かどうしても不可欠なものがまだ明記されていない、すなわち、その中の誰が私なのかということが抜けているように思える。しかし他方では、無中心の世界に、そのようなさらなる事実を入れる余地があるようには思えない。つまり、どの視点からでもない世界は完全で、そのような追加を受け入れられないと思われるのだ。それは全世界であり、トマス・ネーゲルにかんする事実も全て、すでにその中にある。だから問いの最初の半分はこういうことだ。特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界の中の多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにして私であることが可能なのか。&footnote(トマス・ネーゲル著 中村昇 他訳『どこでもないところからの眺め』pp.86-7) ネーゲルの提起した問題は意識の超難問とつながるのだが、それは後述することにして、ここでは主観的な一人称的記述と客観的な三人称的記述が相克する点について論じたい。 図2を見ればわかるように、実在論的世界像の方にはどの人物が「私」かということが書かれていない。それが「客観的」かつ三人称的な記述だからだ。たとえ世界についてどれほど詳細に記述しようとも、三人称視点で記述する限りは「私」が抜け落ちてしまう――これがネーゲルの主張である。 先に私は認識論的独我論が「事実」であることを説明しておいた。実在論的世界像は「私」が書かれていないということで、その事実に反した記述なのである。これは単なる語用論の問題ではない。事実として私は前掲したマッハの自画像のように、固有の視点から世界を眺めているのだが、その事実が描かれていないということである。 ネーゲルの提起した問題を要約すると次のようになる。 >ネーゲルのテーゼ: 世界の「全て」を記述しても、そこには「私」が描かれていない これが矛盾しているのは明らかである。「世界」には「私」も含まれているのだから、世界の「全て」を記述したなら「私」も記述されているはずである。 たぶんこう思う人が多いのではないか。ネーゲルが間違っているのだ、と。そして次のように考えたくなるはずだ。確かに人々はそれぞれ固有の視点から世界を眺めているだろう。ならばその固有の視点からの記述も客観的な記述に書き加えれば良いのだ、と。 つまりこういうことである。 >一人称的・独我論的世界記述: 世界は S_Descriptionである >三人称的・実在論的世界記述: 世界は O_Descriptionである >一人称+三人称的世界記述 : 世界は O+S_Descriptionである O+S_Descriptionこそが世界についての完全な記述である、そう主張する人がいるはずだ。しかしこのようなアイデアに対し、やはりネーゲルはそれでも「私」が描かれていないと主張するように思われる。その理由は、前掲の図2を見ればわかるはずだ。O+S_Descriptionは図2の実在論的世界像と独我論的世界像の、どちらに属する記述だろう? もちろん実在論的世界像の方である。「私」である人物Cが世界の内部に「他者たち」と対等に記述されているからである。つまり O+S_Descriptionは一人称的記述と三人称的記述を合わせたつもりであっても、実は三人称的記述 O_Descriptionに過ぎなかったのである。 あるいはこう考える人がいるかもしれない。実在論的世界像の「人物C」の後に「(私)」と書き加えればいいのだ、と。しかしそれで上手くいくわけはない。なぜなら人物Aも人物Bも同様のことを主張し得るのだから。人物Aも人物Bもやはり「(私)」と書き加えるだろう。さらにまた人物Cの後に「(本物の私)」書き加えようとも同じことである。人物Aも人物Bも同様に「(本物の私)」と書き加えるだろう。 このように自分だけが特有の視点を持つ特権的な存在であるという主張が、他者からも同様に主張され続けられる構造を、永井均は独在性についての「累進構造」と呼んでいる。この累進構造がある限り、なぜ自分だけが「特別な私」であるかということは、決して公共言語で語り得ないということである。 逆に自分だけが「特別な私」であることを書き加えずに済ませることもできない。重ねて主張するが、認識論的独我論は「事実」なのだから、その事実が記述されていない限り世界について「全て」を記述したことにはならない。 ジョン・サールは意識の主観性を重視し、「主観的」という語は認識様態を指示するものではなく、存在論的カテゴリーを指示していると捉えている&footnote(ジョン・サール著 宮原勇 訳『ディスカバー・マインド!』p.152)。サールは主観性というものを次のように分析している。 >痛みの主観性からの帰結としては、痛みはどんな観察者に対しても同等にアクセス可能だというわけではない。その存在は、一人称的存在と言ってよいかもしれない。それが痛みであるためには、それはだれかの痛みでなければならない。これは、たとえば脚はだれかの脚でなければならないと言うときの意味よりも、強い意味で、である。脚の移植は可能である。その意味では、痛みの移植は可能ではない。 >〔……〕 >世界そのものは視点を含まない。しかし、意識状態を通した世界へのわたしのアクセスは、つねにパースペクティブ的であり、つねにわたしの視点からのものである。 >〔……〕 >わたしは他の人の意識そのものを [外から] 観察することは決してできない。むしろ、わたしが観察するのは、その人と、彼の行動と、彼と行動と環境の間の関係である。それでは、わたし自身の内部で進行している出来事についてはどうか。それらは、観察できないだろうか。主観性という、まさにその事実こそ、わたしが観察しようとしていることなのだが、その事実がそのような観察を不可能にしているのだ。なぜか。意識を伴う主観性に関する限り、観察する作用と観察される対象との区別はないのだ。つまり、知覚する作用と知覚される対象との区別はないのだ。視覚のモデルは、見られるものとそれを見るものとの区別があるという前提の上に働いている。しかし内観(introspection)については、単純に言って、そのような区別を行うことは決してできない。わたしが自分自身の心的状態にもつどんな内観も、それ自身意識状態なのだ。 >〔……〕 >わたしたちが主観性を受け入れ、折り合いをつけるのが難しいと思うのは、究極的には実在は完全に客観的であるにちがいないというイデオロギーの中で育ったからだけでない。〈客観的に観察可能な実在〉という考えが、〈それ自体、消去できないほど主観的である観察〉という概念を前提しているからである。そしてその観察自体、世界の内に客観的に存在する対象や事態がそうであるような仕方では、観察の対象となりえない。要するに、わたしたちが自分の世界の一部として主観性を思い描く方法がないということは、いわば問題となっている当の主観性自体が思い描く主体であるからである。&footnote(前掲書 pp.152-7) このサールの分析でとりわけ秀逸なのは、「〈客観的に観察可能な実在〉という考えが、〈それ自体、消去できないほど主観的である観察〉という概念を前提しているからである」という部分である。サールは観念論者でも独我論者でもないものの、その洞察は「客観」という概念の本質を「主観としての客観」と快活に喝破したショーペンハウアーと観点を同じくしている。 そしてサールは、世界がいかなる主観性からも独立に存在しているという前提で世界について完全に客観的な説明を与えようとしたならば、意識を記述することが不可能になることを指摘する&footnote(前掲書 p.160)。これはネーゲルの洞察と通じるものがある。 森岡正博は永井が提起した独在性の問題について、以下の四つの原則が成り立つと分析している。 ><独在性の4原則・B> >原則1: 独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私を一意的に指し示している>と言うことはできる。 >原則2: 独在的存在者とは何であるかを、明示的に語ることはできない。 >原則3: 独在的存在者が何であるかを把握することはできる。しかし、それを把握できる人はひとりだけでなければならない。かつ、そのひとりの人が誰であるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者が何であるかを把握しているひとりの人とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私である>と言うことはできる。 >原則4: 独在性とは何であるかを、明示的に語ることはできる。&footnote(森岡正博「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味」) ネーゲル、永井、サール、森岡の洞察に共通のものがあることは明らかだろう。 ウィトゲンシュタインは前期の哲学活動において、独我論者であった。彼は『論理哲学論考』においで、眼が視野に属さないように、主体は世界に属さないことを論じている(5.632-5.6331)。また「世界は私の世界である」(5・641)と、「世界」イコール「私」であることが主張される。これは図2の独我論的世界像であると思える。主体としての「私」は世界を限界付けるもの(図2では世界の境界線)なのだから、世界の内部でどのように「私」を記述しようとしても成功するわけがない。鏡で自分の眼を見ようとしても所詮鏡像は視野に過ぎないように、主体は世界の中に記述できないのである。このウィトゲンシュタインの洞察もまたネーゲルらの洞察と通じるものがある。 &big(){・ウィトゲンシュタインと永井均の独我論} ところでウィトゲンシュタインと永井の独我論には補足の説明が必要である。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における独我論についての論述(5.62~5.64)は、実質的には「自我と表象」の関係が論点であって、無主体論を導出する試みである。したがって「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」という 5.64の文は正しくない。ミニマルな実在論とは、表象から独立した実在があり(外部世界の実在説)、かつ表象はその実在を正確に写している(真理対応説)というものである。したがって独我論を徹底しても決して実在論とは一致しない。ウィトゲンシュタインは実在を巡る論争にコミットしていないので概念規定が緩いという印象がある。ちなみに野矢茂樹訳の『論理哲学論考』では、巻末で野矢が、ウィトゲンシュタインの言う独我論は現象主義的独我論ではないように思われる、という主旨の解説をしている&footnote(p.209)。 ウィトゲンシュタインの独我論は概念規定の緩さゆえに複雑なものである。ウィトゲンシュタインの文を語義通り受け取るならば、図2の独我論的世界像になる。しかし実際にはウィトゲンシュタインは現象主義者ではなく、実在論者だと思われる。そして上に引用した「眼が視野に属さないように、主体は世界に属さない」や「世界は私の世界である」という文中の「世界」と言う語は、正確には&strong(){現象主義的独我論の「世界」ではなく、他我の実在を前提にした表象主義的実在論の「表象世界」と解釈すべきである。}だから「独我論は語りえない」のである。他我を顧慮しない真の独我論ならそもそも語る必要がない。 一般に実在論では、人が(クオリアによって)経験している世界は、実在する世界を正しく表象したものであると考える。これが表象主義である。対して現象主義では人の経験は意識に現れる現象(クオリア)だけであり、実在世界などは不可知であるゆえに、現象は実在世界の表象だとはみなさない。 現象主義的独我論では「世界=私」である。一方ウィトゲンシュタインの独我論(正確には自我論)では「表象世界=私」ということである。永井の独我論(独在論)も、ウィトゲンシュタインの独我論を出発点としたものである。 ウィトゲンシュタインでは「表象世界=私」なのであるが、その表象世界は実在世界の特定の身体に相関するので、ウィトゲンシュタインが他者と会話するときの「私」とは、実在世界の身体を指すのでなければならない。つまりウィトゲンシュタインと永井においては、二種類の「私」――図2の独我論的世界像の「世界=私」と、実在論的世界像の特定の人物である「私」があるということである。いわば認識論的独我論と実在論の混在である。これが問題を輻輳させることになる。 実在論を前提に「表象世界=私」を私1、その私1と相関する実在の身体を私2としよう。実在論を前提するなら他者の心の実在を認めることになる。他者に心があるならば、他者もまた私1、私2と自分を分類するだろう。しかし私の私1と、他者の私1は同じカテゴリーにあるものではなく、「質的同一性」さえ認められないものである。&strong(){なぜなら私の私1と他者の私1には「自我と他我」という根源的な相違があるからである。} したがって、私1や私2という言い方で表現しても、他者がその意味を理解した時点で、既に元の意味とは変わってしまっているのである。「理解」とは自分の私1の延長線上で他者の私1を理解することだからである。これをたとえるなら、「他人の痛み」を理解するということは「自分の痛み」と同じものが他人にもあるだろうと類推することに等しいのだが、その類推したものは所詮自分の痛み(私1)に過ぎないのである。まさにウィトゲンシュタインや永井が言うように、「独我論は語りえない」のである。 &sizex(-1){※ところで永井は必ずしも実在論を前提しているわけではない。永井本人に伺ったところ、「実在することを前提にしたほうが理解を容易にする」という理由で他者の心について語っており、形而上学的な実在を巡る論争は「私にとってはどうでもいい」とのことであった。&footnote(2016年2月25日のtwitterでの対話) &big(){・「私」という指標詞} ここで「私」という指標詞を巡る語用論について少し紹介しておこう。 大庭健によれば、ネーゲルや永井が主張する問題は、「私」という指示詞と固有名詞を存在論的に異なるものと捉えることから、固有名詞を持つ人物から離存する(魂のような)何かを想定してしまう錯覚問題である。 大庭の議論の前提は無主体論である。「私」と「車」の関係は所有関係である。しかし「私」と「大庭健」の関係は所有関係ではない。それを所有関係と見誤ることから「魂」という話に誘惑される。&footnote(大庭健『私という迷宮』pp.32-5) 大庭は指標詞「私」が固有名で置き換え不可能なことを一旦認めている。その上で、「私は大庭健であるという事実は、固有名を用いた文によって表される事実とは異なって、違う種類の特別な事実である」という推論は間違っていると指摘する。&footnote(大庭健『私はどうして私なのか』pp.137-9) 永井は「この私」を指すためには通常の「私」とは異なる表現が必要だと考え、〈私〉という表記法を案出した。しかしその〈私〉もまた他者たちが同様に用いることができる(累進構造)。したがって「この私」は語り得ないという結論に到達しているのだが、この永井の見解を大庭は次のように批判している。 >しかし、そうした特別の表記法は、役に立たないだけでなく、必要ですらない。 >〔……〕 >「私は大庭健である」という文が真であるのは、私が語ったとき、かつそのときに限る。「私は村上龍だ」と私が語っても、これは偽な文だし、あなたが「私は大庭健である」と語っても、それもまた偽な文である。〔……〕世界に何十億の人がいようとも、「私」という語によってこの私を指すことができるのは、私だけなのである。&footnote(大庭健『私という迷宮』pp.60-1) 永井の独在論によれば、〈私〉は心理的連続性も物理的連続性もそのままでありながら、他の人物に移行することが論理的に可能である(世界の開闢点が変わるということである)。しかし大庭によれば、仮に大庭健が大庭みづほという人物に固有の身体や記憶や信念をもって世界を眺めるようになったならば、それは大庭みづほその人に他ならない。&footnote(前掲書 pp.96-7) 大庭はフレーゲの言語哲学を援用し、「語の指示対象」と「語の意義」を区別する。たとえば「『坊ちゃん』の著者」と「夏目漱石」は指示対象は同じでも意義が違う(語の意味のうち指示対象以外の部分が意義である)。その上で「私」という語と、その語を発した「大庭健」という語の、それぞれの意義は異なるという事実を、「私」と「大庭健」とでは、それぞれの指示対象が違うというようにスリかえ、「もし私が他の誰かであったら」という反事実的条件文を誤用する事によって、(意識の超難問のような)間違った推論が生じると言う。これを大庭は「「私」という語の水脹れ」と呼んでいる。&footnote(大庭健『私はどうして私なのか』pp.162-8) 大庭は「私」というメタ言語によって、自分についてメタ・レベルの思考を行うことから、自分の内なる自己としての「私」が見出され、「私」が自分という人物とは区別される存在であるかのような錯覚が生じると分析している。&footnote(前掲書 pp.180-3) このような大庭の議論は、ネーゲルや永井が提起した問題を捉え切れていないと私は考える。近代哲学の非還元主義は、存在を「性質と基体の複合体」と考えることから主張されていたのだった。スウィンバーンにおいても「魂」は意識・クオリアの作用の担い手として措定されたものである。スウィンバーンが魂を措定した理由は、脳分割などにより人物は分岐する可能性があり得るものの、「私」が分岐する可能性はあり得ず、にも関わらず「私」は未来に存続する可能性が否定できないからである。分析形而上学ではこのような人物分岐のパズルケースについて活発に議論されているが、大庭の議論はそこまで網羅していない。 永井の〈私〉の概念も人格の同一性問題と不可分であり、スウィンバーンの主張に近いものである。永井は『転校生とブラックジャック』ではパーフィットの思考実験を逆用して〈私〉の還元不可能性を主張している。しかし大庭はそのような人格の同一性問題の重要な議論に言及せず、人物分岐のケースなどで数的同一性が通時的に成り立たないことを論証していない。これは言語哲学のみでは人格の同一性問題を分析できないことを示唆しているように思える(ちなみにサールは言語哲学は心の哲学の一部に過ぎないことを主張している)。 またネーゲルの提起した問題は、一人称記述と三人称記述の相克の問題でもある。これは実在論論争とも関わっているのだが、大庭の議論はそこまで及んでいない。ここであらためてネーゲルの主張を確認しておこう。 >ネーゲルのテーゼ: 世界の「全て」を記述しても、そこには「私」が書かれていない これは矛盾している。ならば一体、どこが間違っているのだろう? 大庭のように「「私は大庭健である」という文が真であるのは、私が語ったとき、かつそのときに限る」と「私」を特定の人物と固定して表現したつもりでも、そのような「私」が世界の固有名詞を持つ人々と同じ数だけ並んだ記述は、前述のように一人称的記述と三人称的記述を合わせて O+S_Descriptionとしたつもりであっても、実は三人称的記述 O_Descriptionに過ぎないのである。 世界の「全て」などは元より記述不可能なものなのだ、と主張することができるかもしれない。しかし懐疑主義ならばともかく、実在論ではそう主張できない。「私」の心から独立した世界があって、その世界内に「私」がいると主張するなら、客観的にその世界を記述できなければならないはずだ。実在論の「私」は、ウィトゲンシュタインの「私」のように世界を限界付けるものではなく、あくまで世界の内部に位置を規定できるものなのだから。それこそが前掲図2の実在論的世界像の構造なのである。特に実在論を前提とした物理主義では、心と脳の同一性が主張される。これが同一説であった。同一説では「心」の位置は「脳」である。したがって全ては客観的な視点で記述可能でなければならない。 ヒラリー・パトナムとジョン・サールは、形而上学的実在論とはどういうものかという問題について、ほぼ共通の見解を示している。 パトナムによる形而上学的実在論の特徴付けは以下のようなものである。 >P1: 世界は、心から独立な対象のある固定された総体から成っている。 >P2: 「世界の在り方」についての真で完全な記述がただ一つ存在する。 >P3: 真理は、語または思惟記号と外的な事物や事物の集合との間のある種の対応関係を含んでいる。&footnote(ヒラリー・パトナム著 野本和幸 他訳『理性・真理・歴史』p.78) サールによる形而上学的実在論の特徴付けは以下のようなものである(以下はサールの議論を中山康雄が要約したものである)。 >S1: 実在は、私たちの表象とは独立に存在している。 >S2: 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。 >S3: 信念や言明という表象は、事物が現実においてどのようなものかを表象するためのものである。表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。&footnote(中山康雄『科学哲学入門』pp.163-4) P1とS1、P2とS2、P3とS3がそれぞれ同じ見解であることは明らかである。ここで問題となるのはP2とS2になる。近年の分析哲学では自然主義が主流となっている。これは自然科学の知見を前提に哲学を行おうという方法論である。パトナムとサールによる形而上学的実在論の特徴付けも自然科学の方法に倣ったものであろう。自然科学では出来事を記述する際に、主観的な一人称記述を採用することはない。したがって世界全体を神の視点から鳥瞰したような、「唯一の世界の記述」が論理的にあり得ると考えるのは当然でもある。 しかし実在論的記述方法では世界を完全に記述できない。重ねて主張するが認識論的独我論は正しい。前掲図2の、実在論的世界像と独我論的世界像のうち、事実として私の視点が属しているのは独我論的世界像の方である。その事実を記述することができない実在論的世界像は間違っているということになる。ちなみに、O_Descriptionでは人が感じる時間特有の「変化」が記述できないことから、P2とS2を拒否して認識論的に反実在論を主張したのがマイケル・ダメットである。マクタガート時間論における O_Description的な記述とはB系列であり、逆に S_Description的な記述がA系列になる。ダメットはA系列が時間にとって本質的であると考えたわけである。 結局の所、S_Descriptionと O_Descriptionのどちらかが正しい、あるいは両方間違っているということはあり得ても、両方正しいということは記述についての矛盾であって、あり得ないということになる。ネーゲルの提起した問題は、経験可能な独我論的世界像 S_Descriptionに軍配を上げることで決着させるしかないはずである。経験不可能な三人称的記述 O_Descriptionは、いわばイデア的なものなのである。 私は実在論を拒否して反実在論の立場を取る。つまりマッハの自画像で示唆された図2の独我論的世界像の方を選択すべきだと考える。もし実在論が正しいならば他の人々の視点から見た世界像も書き加えなければならないが、それは前述のように O+S_Descriptionとしたつもりでも、結局は O_Descriptionに過ぎないのである。 矛盾した前提からは矛盾した解決不可能の問題が出てくる。たとえばゼノンによる「アキレスと亀」は「無限の何かが存在する」という矛盾した前提から生じるパラドックスである。無限とは何かの行為や操作に「終わりが無い」という意味であって、存在についての概念ではないのである。 ネーゲルの提起した問題も同様である。相克するS_Descriptionと O_Descriptionのどちらも正しいという矛盾した前提から彼の問題は生じるのだと私は考える。 ただし世界記述の問題とは認識論的問題であり、上述のサールのS2、パトナムのP2を否定したに留まる。実在論的世界像では世界を完全に記述できないからといって、ただちに存在論としての実在論――形而上学的実在論を完全に阻却できるわけではない。また認識論的独我論が世界記述において正しいからといって、ただちに存在論的に心の外部の世界が実在しないこと――観念論の証明になるわけでもない。 要するに、私が特定のパースペクティブでしか世界を認識できないのならば、世界はその特定のパースペクティブでしか存在できないはずだ、ということにはならないのである。 しかし仮に存在論的に実在論を採用した場合には、永井均によって提起された独在性、および意識の超難問が深刻なアポリアとして生じると私は考える。そして独在性の問題は物理主義と実在論が破綻する可能性を示唆するはずだ。次節ではその独在性のアポリアについて論じたい。 **7 独在性のアポリア パーフィットによる非還元主義批判は説得的であり、通時的に人格の同一性を成り立たせるような「何か」は到底居場所を確保できないと私は考える。私の脳が左右に分割されて二人の他者に移植される思考実験では、「魂」のような通時的な主体が存在すると仮定すると、「私」がどちらに移動するかわからなくなる。仮に魂が一方に移動するとして、もう片方にも生命と意識はあるのだから、神がそちらに新しい魂を吹き込んだとでも考えるしかないだろう。だがそのようなことは信じがたい。したがって魂のような主体など存在しないと確信するしかない。 しかし無主体論と還元主義の立場を取ったとしても、人格の同一性問題が全て解消されるわけではない。スウィンバーンのような非還元主義者は、魂というような経験不可能なものを論点先取的に仮定したことが間違いであると私は考える。問題の本質を顕にするためには無主体論を徹底して、論点を魂や「私」からクオリアへと還元しなければならない。そしてクオリアの同一性こそを問わなければならない。 もし仮にスワンプマンのような私の完全な複製体が、私と同じものを見て、同じことを考えているとしたら、そのとき複製体にある心的現象――クオリアは「私」と同一であるのかと問うことができるはずである。パーフィットの一連の思考実験では問題を個別的なクオリアにまで還元しておらず、魂のような主体を否定するに留まっている。仮に私を人物Aとし、複製体を人物Bとして、人物Aにはクオリア A-mindがあり、人物Bにはクオリア B-mindがあるとする。A-mindと B-mindが、例えば同タイプの「私こそが本物の私である」というクオリアだとするならば、「A-mind = B-mind」と言えるのか、と問うことができるはずである。これには二種類の解答がありうる。 >解答1:  同じタイプのクオリアが二つのトークンとしてある >解答2:  片方が「私」であるゆえに、クオリアのタイプの如何に関わらず異なる存在である 解答1は同一説を前提とした物理主義的な答えである。客観的に両者を見れば(クオリアは客観的に見れないものであるが)両者は同じものであると言える。 解答2は二元論的な答えであり、クオリアの主観性によって判断している。私の複製体が同じことを考えていても、それは「私」ではない(※ここでは「私」という語でクオリア A-mindそのものを指している)。それゆえ「同じクオリアが二つ」とは言えない。つまり「私」は唯一であり、「唯一であるものが複数ある」と言うことは矛盾である。また次のようにも主張することができるだろう。A-mindと B-mindは「私」と「他者」という根源的な相違があり、それを無視してクオリアとしてのタイプ的同一性によって人格の同一性を判断しようとするのはナンセンスである、と。 ここから、一種のアポリアが生じることになる。まずライプニッツの不可識別者同一の原理が成り立たない。「私」である A-mindの性質を全て同様に有していても、B-mindは端的に他者であるからだ(※もっともライプニッツの「モナド」は、同じものは一つとしてなく、必ず差異があり、固有のパースペクティブをもって世界を表象するものとされる)。つまり A-mindと B-mindはライプニッツの原理から存在論的に同一だと考えることができ、同一であるにも関わらず「私」と「他者」という根源的な差異が実際に生じていることになる。 つまり人格の同一性問題を個別的なクオリアまで還元して考えると、パーフィットが取りこぼした問題が明らかになる。それは意識の超難問と必然的に接続し、「私」というものが有する、物理的性質にも心理的性質にも還元することができない性質が顕わになる。これが永井均が主張してきた「独在性」の核心問題と考えられる。永井が主張する独在性は、問題性を個別の人物から個別のクオリアまで還元すれば明瞭になる。 私は「独在性のアポリア」として以下のように問題を提起する。 >アポリア1: 人物Aには「私こそが本物の私である」という特定のクオリアがある。そのクオリアを「私」と呼ぶことにする。そして人物Aと同時刻にスワンプマンのような複製体である人物Bがいて、その人物Bにも「私こそが本物の私である」というクオリアがある。物理主義的に考えると、人物Bは物理的性質も心理的性質も人物Aと同じである。にも関わらず、人物Bは端的に「私」ではなく「他者」であるゆえに、「私」の本質とは物理的性質や心理的性質に還元できない何かである、と主張することが可能である。 しかし物理主義者ならば、人物Aと人物Bは同じタイプのクオリアを、それぞれ個別のトークンとして持っているのだ、と主張するかもしれない。その主張には次のように反論できる。 >アポリア2: 人物Aとその複製体である人物Bが消えたとする。そして十年後、人物Aの複製体である人物Xが作られたとする。その人物Xにも「私こそが本物の私である」というクオリアがある。この場合、その人物Xは「私」なのかと問うことができるはずだ。物理主義の立場は、人物Aと人物Xは物理的特徴が同じであり、かつ心的タイプも同じであり、ただトークンとして異なっているだけだと主張するだろう。しかしそれは間違いになる。人物Xが「私」であってはいけない理由が存在しないからだ。つまり人物Xのクオリアが「私」と数的同一でないという非同一性の証明ができないのである(これがスウィーンバーンが指摘した「私」が未来に存在し得る論理的可能性である)。逆に同一性も証明できないのだから、人物Xが人物Bである可能性も否定できない。もちろん「私」でも人物Bでもない第三者である可能性も否定できない。クオリアの同一性については、物理主義的方法では合理的な解答が不可能である。したがって物理主義の還元主義・同一説が間違っているということである。全く同じ物理現象・物理法則から根源的に異なる存在者――「私」と「他者」が生じている可能性があるからだ。これは「自然の斉一性原理」が破れていることになる。 またパーフィットが人格について行った混合スペクトラムの思考実験が、クオリアに対しても適用できるはずである。 >アポリア3: 「私こそが本物の私である」というクオリアが、私である人物Aと私の複製体である人物Bにあったとする。あるいはもっと単純に、両者に「痛み」というクオリアがあったとしてもよい。それらのクオリアは人物Aと人物Bの脳細胞と相関関係がある。仮に人物Aのクオリアを「私」と呼ぶことにする。そして人物Aと人物Bの脳細胞を、SF映画『スタートレック』の転送装置のようなもので一パーセントだけ交換したらどうだろう。一パーセントぐらいの交換では「私」は入れ替わらないように思える。しかし九十パーセントを置き換えれば「私」も入れ替わってしまうように思える。では三十パーセントなら、あるいは丁度半分の五十パーセントならどうだろう。合理的に解答するのが困難である。クオリアは全一的であり、部分をもたない。にも関わらずクオリアと因果関係をもつ脳細胞は部分から構成されており分割可能である。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」という事実からアポリアが生じる。ここでの問題は堆積のパラドックスが生じるということではない。脳細胞交換を続けた場合、一定の割合に達したら「私」が入れ替わると考えても致命的な不合理ではないからだ。しかし問題なのは、入れ替わるその「私」とは何かということである。魂のような非還元的主体は脳分割の思考実験で否定された。ならば、この脳細胞交換で入れ替わるものは何なのだろう? 同タイプの「痛み」のクオリアが二つあっても、両者は端的に「私」と「他者」という点で異なっている。魂のような主体は存在しないにもかかわらず、細胞交換の過程で入れ替わる「何か」があるということになる。これは不合理である。 パーフィットは人格についてのこのようなスペクトラムの思考実験によって、「人格」が「魂」のような不変の実体であることは困難とみなし、人格をヒュームが想定した知覚の束のように、他のものから成り立っているものとして還元することが合理的だと考えた。しかし、知覚やクオリアはそれ以上何かに還元することが不可能であると思える。 ここで一旦、スウィーンバーンが主張してきた非還元主義的な主体が存在し得ることは認められるべきだろう。 しかし非還元主義的主体を措定しなければ、独在性のアポリアは解消できないというわけでもない。私は独在性のアポリアに対して取りうる以下の四つの哲学的立場があると考える。 >魂説   : リチャード・スウィンバーンの立場である。この魂説では、前述の人物Aと人物Xの同一性は、同じ魂を共有しているか否かで決定される。後述する永井均の立場もこれに近い。 >イデア説 : プラトンのイデア論とは異なるが、クオリアは空間的に位置を特定できないため、イデア界のような別の次元、あるいは世界に普遍的に存在すると考える立場があり得る。この立場では人物A、人物B、人物Xの「私こそが本物の私である」というクオリアは、同じタイプであるがトークンとして異なるというのでなく、唯一のクオリアがそれぞれの人物と相関していると考えることができる。この立場では独在性のアポリアは生じない。 >四次元主義: 四次元主義は永久主義を前提としている。この立場では全ての出来事はミンコフスキー空間上の特定のポジションを占めるものであり、人物A、およびその複製体である人物B、人物Xは、異なるポジションを占めているゆえに、彼らと相関するクオリアもそれぞれ異なる存在者だと主張することが可能である。 >反実在論 : 現象主義、または観念論である。図2の独我論的世界像が存在論的にも正しいと考える。この立場では空間や物質といったものの実在性を否定するので、人物A、人物B、人物Xなどは「私」に現れる現象(クオリア)に過ぎない。そして「私こそが本物の私である」というクオリアについてはイデア説同様に、唯一のものと考える。この立場でもパーフィットの思考実験についてアポリアは生じない。 以上、四つの立場にはそれぞれ利点と欠点があるだろう。 魂説は脳分割の思考実験に対して合理的に解答することはできない。仮に人物Aの脳分割が行われて二人の脳死患者に移植され、ライティとレフティの二人の人物に分離した場合、人物Aの魂がライティに移ったとする。ではレフティには魂はないのだろうか。新しい魂が神よって与えられると考えることも出来なくはないものの、やはり魂説は合理性に欠ける。 イデア説は論理的に否定できないものの、実在論がもつ不合理を継承することになる。前節で指摘したように、実在論では世界についての完全な記述があり得ると考えるしかないが、ネーゲルが言うように「私」を記述できない。加えて、実在論には知覚のカメラモデルという難点が指摘されている。たとえば薔薇を見る場合、本物の物質的な薔薇があって、なおかつ自分の脳にも本物そっくりの表象(クオリア)としての薔薇があると考える。これが表象主義である。その表象は物質に還元できるという物理主義でも、還元しなければならないものを認めている点で、ジョン・サールが看破したように二元論の一種である。イデア説は実在世界と表象世界の二つを認めるため、二重世界論と言ってもよい。二元論の困難をそのまま受け継ぐことになる。 四次元主義の「ワーム理論」は魂説と同様の困難がある。しかし「段階説」は諸々の瞬間的な段階たちを個別の存在者と考えるので一見アポリアは生じないように思える。スペクトラムについても細胞交換の各段階ごとに異なった存在者が現れると考えればよい。セオドア・サイダーはパーフィットによる人物分岐の思考実験について、還元主義を前提に、人格の同一性が重要ではないとするパーフィットを擁護して次のように述べている。 >「人の同一性」は実際には数的な同一性では全くなく、どんなささいな変化からも、数的に異なる人物が実際に生まれるのかもしれない。だとすると、枝分かれがあると人の同一性は失われると言う必要はない。&footnote(アール・コニー+セオドア・サイダー 小山虎 訳『形而上学レッスン』p.27) 物理主義的な立場から、最も合理的に独在性のアポリアを解消できる可能性があるのが、四次元主義の段階説であることは間違いないだろう。 しかし形而上学的実在論に指摘されたような、世界の全てを記述しても「私」は記述できないという、ネーゲルの問題は四次元主義でも解消されない。また第5節でも四次元主義の難点として指摘したことであるが、クオリアは空間的に位置を規定できないものなのだから、時間と空間を合わせたミンコフスキー空間上にも記述ができない。記述できないもの同士の同一性を問うことはできないということになるはずである。 もっとも同一説を前提にして、各瞬間ごと、0.0000001秒ごとに別個のクオリアが脳状態と同一のものとして時空上に存在すると仮定しても論理的矛盾はないだろう。しかし今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアは別の存在者なのだとするのは直観と節約の原理に反している。また今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアが「非同一」であることは証明できないはずである。そして「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」が、 0.0000001秒ごとに存在する何億のクオリアから構成され、かつ全てのクオリアが四次元時空の特定のポジションに静的に固定されているならば、クオリアの「動性」は説明不可能ではないか? ゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスを想起すべきである。飛んでいる矢が止まってしまうように、流れているメロディーも止まってしまう。 クオリアには統一感や持続感がある。ベルクソンが主張したように、「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」は、それぞれ時間的幅を持った一つの存在者として考えた方が、統一感や持続感を説明しやすいように思える。 あと一つ、四次元主義の記述方法について難点を指摘しておこう。四次元主義はブロック宇宙説と永久主義を前提としているのだが、ブロック宇宙を静的な塊として理解することは間違いである。ブロック宇宙とはあくまで四次元時空を説明するための地図のようなものだからだ。ヒュー・プライスはブロック宇宙について次のように述べている。 >ひとはときどき、ブロック宇宙は " 静的 " であるという。だが、これはややもすると誤解をまねきやすい。ある時間的枠組みがあって、そのなかに四次元のブロック宇宙が終始同じ状態で存在する、というような言い方だからだ。もちろん、そんな枠組みなどありはしない。時間はブロックのなかに含まれているわけだから、ブロック宇宙を静的というのは、それを動的ないし可変というのと同程度に間違っている。ブロック宇宙はそんなものではない。なぜなら、それはふつうの意味での存在物といえるようなものではない。&footnote(ヒュー・プライス『時間の矢の不思議とアルキメデスの目』p.16) このプライスの洞察は、時間というものを空間的なイメージで理解し把握することを「時間の空間化」と言って批判したベルクソンの慧眼と通じるものがある。人が把握する空間とは静的なものである。対して時間とは動的なものである。形而上学的実在論は世界についての唯一の特権的な記述があり得ると考えたが、そのような記述には時間特有の動性が欠如していることから、形而上学的実在論を拒否したのがダメットであった。ブロック宇宙を静的な個体のイメージで理解し、その個体内に物理的な出来事たちを固定的に位置づけ、更にクオリアはその物理的な出来事に還元できると考える四次元主義は、根本的な所で間違っているかもしれない。 四次元主義ではクオリアの存在論が不在であり、それゆえに独在性のアポリアを解消することはできなと私は考える。その四次元主義の難点を反事実的条件法を用いた様相論法によって次のように指摘することができるだろう。 仮に人物Aがいて、AにクオリアQがあるとする。そのクオリアを〈私〉と呼ぶことにする。そして同タイプのクオリアを持つ人物Xがいるとする。その場合「もし人物Aの脳細胞の八十パーセントが、人物Xの脳細胞と交換されていたとしたら、〈私〉は存在していないだろう」と言うことができるはずだ。そして人はその言明を真だと認めることができそうである。しかしそれならば、「もし人物Aの脳細胞の二パーセントが、人物Xの脳細胞と交換されていたとしたら、〈私〉は存在していないだろう」と言うこともできる。しかし人はこの言明を真だと認めることができるだろうか? &sizex(-1){※ここで反事実的条件法を用いたのは、四次元主義がパーフィットの思考実験による人物分岐のパズルを最初から回避しているためである。} ある程度の脳細胞交換で人物Aである〈私〉は人物Xと入れ替わってしまうように思える。還元主義では非還元主義的な「何か」を否定したはずなのに、入れ替わる「何か」がここに浮き彫りにされてしまう。もちろん段階説では、各段階が唯一の存在者なのだから、サイダーの「どんなささいな変化からも、数的に異なる人物が実際に生まれるのかもしれない」という示唆の通りに、二パーセントの細胞交換でも数的に異なるクオリアになると考えることはできる。しかし、ならば脳細胞を構成する分子の二パーセント、または分子を構成する原子の二パーセントを交換しただけでも数的に異なるクオリアになるのだろうか。仮にそのクオリアが〈私〉ならば、もし〈私〉と相関している脳の原子一個、あるいは素粒子一個交換されていたなら、〈私〉ではなかったのだろうか? ここに堆積のパラドックスが生じるはずである。 部分から構成される脳と全一的なクオリアが「同一」だとする同一説の難点については第3節で論じた。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」――この事実を物理主義者と同様に四次元主義者も軽視している。 結局、独在性のアポリアを最も合理的に説明できるのは反実在論の立場であると私は考える。反実在論は証明不可能だという欠点はあるが、逆に致命的な欠点もない。 こういう言い方もできるだろう。物的なものと心的なものが決して調和しないならば、それらのうち片方のみを採用するしかない、と。物理主義が採用したのはもちろん物的なものである。しかし物理主義が破綻することは上で論じたように明らかなはずだ。したがって私は心的なもののみを採用する立場を取る。 独在性のアポリアを解消するためには、図2の独我論的世界像を、認識論的にだけではなく、存在論的にも採用するしかない。私は認識論的独我論を前提とした方法論、つまり現象主義を採用すべきだと考える。 現象主義の立場では、人に経験されるもの全ては現象(クオリア)である。大森荘蔵が「脳産教理」と批判したような、物的な脳が心的なクオリアを「産出する」という通俗的な見方は否定される。物理主義批判として既述したように、脳についての科学的知見を肯定したとしても、それは或るクオリアと或る脳の作用とが「相関関係にある」と言えるだけで、そのクオリアが脳の「所有物」であるとは言えないし、脳の作用がクオリアを「産出している」とも言えないのである。この脳とクオリアの「相関関係」を「所有関係」と見誤っている思想や哲学はとても多い。クオリアの反対概念は物質ではなく、クオリアから存在が推測された「実在」というものである。実在は不可知である。現象主義では「他者」という存在もまたクオリアである。そのクオリアとしての他者に心があると仮定することはできない。ただしそのクオリアに他の心(他のクオリア、つまり他我)が相関していると考えても矛盾ではないので、現象主義は他者の心を完全に否定するわけではない。あくまで実在や他者の心というものは不可知であり、語ることは無意味だという方法論が現象主義である。 前節で探究したネーゲルの問題は、つまる所、認識論的独我論を認めながら、存在論的には実在論を主張することから生じるものである。この点は永井均が主張する独在性の問題も同様である。永井は次のように述べる。 >他者は私の「世界に対する態度」の一部ではない。それはむしろ、そうなることを徹底的に拒むところにこそ存在するものなのだ。なぜならば、他者は物のような世界の一部ではなく、そこから(も)世界が開けている、世界の原点だからである。世界の中にある物と世界を開く他者とでは、その存在の意味はまったく異なっているはずなのである&footnote(永井均『(魂〉に対する態度』p.201) >世の中に人間がたくさんいて、多くの脳が意識を生み出していることは不思議ではありません。これは科学的に説明できる事態です。しかし、一つ不思議なことがあります。そのように意識をもつたくさんの人間の一人が、なぜか私である、ということです&footnote(『哲楽 第6号』p.6)」 以上の文には実在論的な前提がある。もちろん第6節で但し書きしたように永井は実在論者ではなく、形而上学的な実在を巡る論争は「どうでもいい」という立場である。永井は自身の問題意識である独在性を考究するために、暫定的に実在論を仮定しているだけなのであるが、ここでは「実在論を仮定した場合には」不合理に陥るということを論じたい。 永井は次のようにスウィンバーンに極めて近い非還元主義的な主張をしている。 >ある人格を他の諸人格から分つものは身体や記憶をはじめとするその諸属性の差異でしかありえないが、<私>を他の諸人格から分つものは属性上の差異ではない、多様な属性をもった多数の人物のうちのどれが<私>であるかは、それのもついかなる属性上の特徴からも決定されえない(永井均のもつ諸性質をすべて数えあげても、そのどこからもこの人物が他の人物と異なる特別なあり方をしている――つまり<私>である――という事実は説明されない)のである。 >そうだとすれば、今たまたま<私>である人物は、身体の時空的連続性も精神の意味的連続性も断ち切ることなしに、<私>でなくなることができる(永井均という人物にいかなる異変も起こすことなしに、彼はく私>でなくなることができる)ことになる。&footnote(永井均『(魂〉に対する態度』p.187) >明日、ただ単に〈私〉でなくなった永井は、それ以前の点は何も変わらずに、〈私〉についての永井の哲学を語り続けるだろう。しかし、彼はもはや〈私〉でないことが可能なのである。 >〔……〕 >過去の私が本当に〈私〉であったか、という問いには意味がない。どちらであろうと実質的な差異はないからである。しかし、未来向きにはそうでない。未来向きに考えるならば、現在の私の予期がどうであろうと、またそれが未来の他者たちの証言等々の客観的証拠と一致しようとしまいと、未来の私が本当に〈私〉であるかどうかは、さらに付け加えられるべき別の要素だからである。&footnote(『〈私〉の哲学を哲学する』p22-23) このような永井の見解は、実在論を前提した場合に帰結する必然的なものであろう。永井の独在論では〈私〉の「無内包性(特定の物質やクオリアに〈私〉は依存しないということ)」が主張されるものの、実在論を仮定する限り、存在論としてはスウィーンバーンの魂説と近似的なものにならざるを得ない。 ネーゲルが提起した問題が、主観的な一人称記述と客観的な三人称記述という、決して調和しないもの双方を正しいとする誤った前提から生じることは既に述べた。永井の独在性の問題も同様であると私は考える。 認識論的問題として、実在論と認識論的独我論は同時に主張できない。存在論的にもやはり同様なのであり、実在論と独我論を同時に主張することから独在性のアポリアは生じるのである。ところで物理主義者は独我論者ではないが、事実問題として人の認識の在り方は第6節で掲げたマッハの自画像、また図2の独我論的世界像の方である。したがって物理主義者は実在論と認識論的独我論を同時に主張するしかない。換言すると物理主義者は永井と同様の立場にあるということである。したがって「世界についての唯一の記述がありうる」ということを実在論の要件にしながら、「私」が記述できないという矛盾を抱えざるを得ない。 ここでパーフィットのスペクトラムの思考実験が、実在論と現象主義ではどのように異なるかを図解しておく。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_3c.gif) 図3でも、実在論の方では脳Cが「私」であると仮定している。もちろん実在論的構図に「私」という状況依存的な指標詞は書き込めない。 実在論では厄介なことになる。「人格の入れ替わる瞬間」というものを想定しなければならないから、堆積のパラドックスを回避できない。永井やスウィンバーンは他者にも心があるという実在論的な前提をしている。この前提では脳分割により自分がライティーとレフティーに分岐するケースでは、「私」が片方になったとして、もう片方にも意識があるとしているのだから、もう片方にも「私」と主張する非還元主義的な主体が誕生することになる。これは主体のインフレとでも呼ぶべきだろう。 実在論を前提するならば物理主義の困難をそのまま引き継ぐことになる。物理主義の方法論では、或るクオリアと同タイプのクオリアが未来に出現した場合、それがトークンとして以前のクオリアと同一なのか非同一なのかを、一意に決定できないという問題があった。スウィンバーンの魂も永井の〈私〉も同様であり、脳分割のケースではどちらに魂や〈私〉が移動するか決定できず、なおかつ主体のインフレという問題が生じることになる。 しかし現象主義では、全ては「私の中」の出来事(正確に言うと一連の出来事が「私」)なのだから、パーフィットの思考実験についてパラドックスが生じることはない。また既述したように、ネーゲルが提起した世界についての一人称的記述と三人称的記述が相克するという難問も生じない。現象主義では元より他者の心は不可知であり、(存在しないに等しいので)他者と他者の脳細胞の交換について、人物の心がどの時点で入れ替わるかを考える必要はない。また自分の脳と他者の脳細胞の交換のケースにおいても、どの時点で自分が他者となるか(「私」と相関する脳が変わるか)は大きな問題ではない。現象主義では「世界」が「私」なのだから、脳細胞交換のある時点で世界の開闢点・パースペクティブが変わるというだけであり、世界としての「私」には変化がないと考えればよい。つまり「私」について堆積のパラドックスは生じず、「問題」そのものがないと考えてもよい。これはスワンプマンのような自分の複製体が出現するケースでも同様であり、どちらが「私」と相関するようになっても、もう片方の自分の心などは存在しないに等しいので語る必要がない。 &sizex(-1){※念のため付言するが、私は永井の独在論を完全に否定しているわけではない。現象主義の立場では全ては「私」への現れであるが、前述のように「私」に現れる他者というクオリアに、別のクオリア(要するに他我)が相関していると考えても矛盾ではない。したがって「もし〈私〉の世界内部に他我というものが相関していたならば」と問うことができる。私の立場からは、永井の哲学はその問題を探究する試みであると位置づけることができる。} 現象主義は多くの人が前提としている素朴実在論的な世界観を転倒させるものであり、自然主義が主流となっている現代哲学においては拒絶する人が多いだろうと思われる。しかし現象主義は必ずしも自然主義と対立するものではない。大森荘蔵の「重ね描き」では、物理主義的な還元主義を否定しながらも、自然科学による記述を知覚経験の一種として位置づけて、自然科学の知見を修正することなく現象主義に取り込もうとする試みがなされている。ルドルフ・カルナップらの論理実証主義による現象主義との違いは、感覚与件論を否定し、電子など知覚不可能な存在も概念存在として認めるということである。つまり物的存在も心的存在もともに「現象(クオリア)」として存在論的身分に差異がなく、両者はともに現象として対等に描写されるべきであると考える。「重ね描き」では必然的に、第6節で解説した図2の独我論的世界像の描写方法を選択するということになる。この大森の現象主義では、独在性のアポリアも意識のハード・プロブレムも存在しない。 &sizex(-1){※ただ心的因果の問題については、スピノザの並行説と同様の問題を抱えているように思える。これは今後の課題となる。} 参考までに、物理主義とは形而上学であるが、多くの科学者は形而上学にコミットしていない。物理学者だから物理主義者だというわけではなく、科学者の大半は実用的実在論者であるにすぎないのである。物理主義者と呼ばれる者の大半は哲学者なのである。 以上、独在性のアポリアを根拠にして現象主義の妥当性を主張してきたのだが、念のため書き加えておくと、私は非還元主義や四次元主義の論理的不可能性を証明できたわけではない。脳分割の場合、一定の確率によって「私」がどちらになるか決定され、もう片方にも魂のような非還元主義的な主体が誕生すると想定しても論理的に間違いだということにはならない。これはパーフィットの議論も同様である。実際パーフィット対して魂の非存在を証明したわけではないという批判があるが、その批判は正当だろう。また四次元主義ではクオリアの存在論がないがしろにされているが、そのことのみを理由にして四次元主義を完全に否定できるわけではない。そしてイデア説については、実在論に対して指摘される「私」の記述不可能性という問題、また表象主義に対して指摘される知覚のカメラモデルという二元論の困難があるのだが、それもイデア説が存在論的に不可能だという証明にはならないだろう。 ニコラ・ド・マルブランシュは、物理現象の真の原因は神であるとする神学的な説を提唱した。たとえば物理的事象AとBの間に因果関係があるように見えても、本当はAが原因となってBを引き起こしたのでなく、神がAを引き起こし、そしてBを引き起こしたのであり、Aの発生はBの発生の「機会」にすぎないと考える。これが「機会原因論」である。物体の動力(エネルギー)は物体そのものには存在しない。動力とは神の意志に他ならない。マルブランシュの機会原因論は「オッカムの剃刀」と対極的な思想である。これは証明が不可能であるものの、逆に間違っているとの証明も不可能である。神がいない証明ができないように、実在論や魂説が間違いだと論証することもできない。 私が人格の同一性を論じることによって証明したのは、現象主義の妥当性の高さである。オッカムの剃刀を用いるならば、魂のような非還元主義的主体というのはとても居場所を確保できないように思えるし、パーフィットに対して魂の非存在を証明したわけではないと批判するのは、神の非存在を証明した者はいないという意見と同レベルの強弁だとも思える。要するに結論を導出する過程の曖昧な部分の少なさ、理論における仮説の少なさ、そして最良の説明への推論という観点から、私は現象主義を支持しているのである。 現象主義の立場を取った場合、人格の同一性問題において重要な転換がなされる事になる。「通時的な人格の同一性」という問題が「通時的なクオリアの同一性」という問題に移行することである。しかしこの問題は矛盾しているように思える。或るクオリアと別のクオリアというものを想定する場合、既に両者が異なるものであることを前提としているからだ。異なるものの同一性というのは矛盾概念でしかない。魂を想定したバークリーのような初期の現象主義とは異なり、ヒュームや論理実証主義のように経験主義を徹底した現象主義の場合、身体説や非還元主義のように、異なるクオリアたちの帰属先となる通時的な主体というものを想定することができない。したがって人格の同一性は考えることもできず、ヒュームのように「虚構」の問題とするしかないように思われる。実際、近年の著名な哲学者としては最もラディカルな現象主義者だった大森は、物質的実在を否定し、個別の現象が次々と立ち現れるだけだとする存在論「立ち現れ一元論」を主張したが、個別の立ち現れたち同士の同一性というものを想定していない。立ち現れ一元論においては、現象間の「同一性」はなく、現象たちを立ち現らわす「同一体制」があるだけだと大森は言う&footnote(論文「ことだま論」1973年 『物と心』所収)。 彼ら現象主義者の難点は、クオリア(現象)の存在論を深く考究していないことであると私は考えている。クオリアの存在論は、実在論を否定し独在性のアポリアを解消してもなお残る難問である。つまりクオリアが一体「どのようにして生じているのか」という意識の根本問題を、現代の科学や哲学は全く説明できていない。 私はパーフィットの還元主義を個別のクオリアにまで適用することによって、独在性のアポリアが生じること、それは現象主義によってしか解消されないことを論じたが、現象主義でもクオリアの生成と消滅は説明できない。ちなみに英国経験論には「観念連合」というアイデアがあるが、これは観念と観念の「関係」を説明しているにすぎない。 クオリアには全一性があるように思える。「赤」のどこを探しても「痛み」はない。クオリアは部分から構成されるものではない。これが全一性である。クオリアの生成変化とは物質的なものの生成変化とは全く異質な性格がある。心の哲学では「還元主義」「創発説」「汎経験説」といったアイデアでクオリアの生成変化を説明を試みるが、いずれも成功していないのは、このクオリアの全一性を説明できないからである。 クオリアの全一性を認めると、クオリアが生成し消滅することは極めて不合理だということになる。なぜ「ある」ものであるクオリアが「ない」になるのか、「ない」状態から「ある」ものであるクオリアが生じるのか――問題の根本はクオリアが生成消滅するということの不思議さにある。 ヒュームは個別の知覚たちは全て別個の存在者であり、かつ知覚たちに結合はないと考えていた。その自身の結論をヒュームは矛盾したものと考えていた。ヒュームが知覚たちを別個の存在者だとしたのは、知覚に全一的な性質、即ち他の何かに還元できない性質があると直観したからであろう。他の何かに還元できないということは、他の何かから生まれることは出来ないということである。しかし、にも関わらず個別の知覚たちは、それぞれがパズルのピースのように他の知覚たちと連携し合って、統一的な全体と流れを構成しているように思われる。したがって大森は「立ち現れ」は「同一体制」のもとで立ち現れると考えたのである。知覚は全一的で相互排他的でありながらメレオロジー的和を構成する。これは矛盾しているように思える。だからヒュームは人格の同一性の問題について「迷路に巻き込まれた」と告白したのだと思う。 今のクオリアと 0.0000001秒前のクオリアを別個のものだと考えても論理的に矛盾はないのだが、一つの鐘の音を聞くとき、その音は鳴り始めの瞬間から鳴り終わりの瞬間まで、何百億というクオリアの集合から構成されているとするのは直観と節約の原理に反しているし、クオリアの持続感が説明しがたいように思える。もし鐘の音が全体としてつながった一つのクオリアだと考えることができるのなら、私の現在のクオリアと七歳の頃のクオリアも一つの持続的なクオリアとして考えることができるのではないか。もしそうならば、クオリアの生成と消滅という難問は解消するかもしれない。そして、そのクオリアの同一性こそが、私が模索してきた「つながり」の本質に違いない。 人格の同一性の問題を極限まで縮約すると、過去のクオリアと現在のクオリアの同一性という問題になるはずだ。 次節では人格の同一性問題の極限であるクオリアの同一性問題について、ベルクソンによる「持続」の形而上学をヒントに解決の糸口を見出したい。 **8 クオリアの同一性と非同一性 ヒュームは個別の知覚たちは全て別個の存在だと考えた。しかし彼は別個のものだということ、つまり「非同一性」の論証を行っていない。 私が遠い故郷のことを想いながら歩いているとき、転んで足を挫いたならば「郷愁」のクオリアは「激痛」のクオリアに変わる。しかし、存在論的に「郷愁」のクオリアと「激痛」のクオリアは全く別のものだと、双方の「非同一性」というものを証明できるのだろうか?  まず「郷愁」と「激痛」は言葉・概念として異なっている。そして「郷愁」という言葉の指示対象であるクオリアのどこを探しても「激痛」のクオリアは見当らないように思える。ヒュームが個別の知覚たちは全て別個の存在だと考えた理由でもあろう。しかし概念としての相互排他性、そして或るクオリアには別のクオリアが見当たらないように思えるという(曖昧な)「印象」は、はたして「郷愁」と「激痛」の非同一性の証明だろうか? 窓から山と川が見える場合、「山と川の同一性・非同一性の問題」などと考えたりはしない。それらは一つの視覚像内部の性質なのだから、同一の絵の異なる部分のようなものである(共時的同一性)。ひょっとすると私が時間を隔てて経験する諸々のクオリアの同一性・非同一性という問題も、実はそれと同じではないのかと考えたくなる。 しかし時間には風景を見るような空間の感覚と異なり、断絶感がある。青信号が黄色に変わり、そして赤に変わった場合、青い色は完全に消えている。これが断絶感である。どうしても青のクオリア、黄のクオリア、赤のクオリアたちが別のものである可能性を否定できない。 ところが逆に両者が同一だという可能性も否定できないのではないだろうか。確かに両者は概念として排他的である。これが語用論・意味論の問題である。さらに人は青・黄・赤を異なるものとして認識している。これが認識論の問題である。しかし存在論的にはどうだろう。青のクオリア、黄のクオリア、赤のクオリアには本当に「共通する何か」がないのだろうか? こう考えることもできる。それらの色のクオリアは「私」の経験ということで共通している、と。もちろん還元主義なら「私の青の経験」と「私の赤の経験」は別もので、両者が共通して所有するように見える「私」という部分も別物だと主張するだろう。しかし、「私」の非同一性の証明はできないように思われる。パーフィットは脳分割やスペクトラムの思考実験で、「私」というような非還元主義的主体を阻却することに成功した。ただしそれは実在論という土俵の上でのことである。第7節の図3で実在論と現象主義の違いを表したように、現象主義の構図では「世界」イコール「私」なのだから、現象主義や観念論では、パーフィットの思考実験から「私」が生き残るはずである。 しかし逆に、現象主義でもヒューム的な還元主義を主張することができることは確かである。メロディーのクオリアと痛みのクオリアは全く別のものであり、メロディーを聴いている「私」と痛みに苦しんでいる「私」とは別の存在であり、さらに「両者は同一の私だ」と言っている私もまた別の存在である――。既述したようにラッセルはこのような可能性、つまり或る記憶と、その記憶の対象である過去が論理的に別のものである可能性が否定できないことを指摘している。そしてクオリアたちを隔てる時間特有の断絶感が、ヒューム的な還元主義を説得的なものにしている。 クオリアたちの同一性と非同一性は、いずれも論証できないように思える。 またクオリアについては、自己知の問題も関わるかもしれない。私が「赤」のクオリアを経験している場合、第三者にその事実を確かめる術がないのはもちろんだが、実は当の私にも確かめる術がない。想起とは現在の経験の一種なのだから、記憶と照合させて「確かめる」ということに意味がない。つまり自分が過去に経験した「赤」と現在経験する「赤」の同一性が証明できないということになる。 逆に同一性の証明ができないという問題は、それぞれ別個の存在であるように思えるクオリアたちの、非同一性の証明が不可能だということになるかもしれない。「赤のクオリアと痛みのクオリアは別のものである」こう主張したとしても、それは言葉の意味として異なっているという事実を表現しているのみである。存在論的にはクオリアの非同一性を論証しておらず、私秘的な感覚を表現し尽くしているわけでもない。 結局の所、人格の同一性とは、同一性の根拠をクオリアに置く限り、論証不可能なものであるかもしれない。クオリアは公的基準で分析することができない。前言語的な存在だと考えてよいだろう。 意識の前言語的な性質に着目し、意識は純粋に持続的な存在だと考えたのがアンリ・ベルクソンである。 ベルクソンは意識に与えられたものについて、或る意識内容(クオリア)と、その意識内容を言葉にしたものは全く別のものだとみなしている。意識には言葉で語り尽くせない性質がある。そのことを看破したベルクソンは、厳密な概念の規定や演繹による論証という分析哲学的な方法ではなく、比喩や暗喩によって意識内容の本質を「示す」という手法をとることになる。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、「語りうる」ものでなく、「語りえない」ものでもなく、「示されうる」ものこそが、ベルクソンにとっての意識内容――純粋持続である。 ベルクソンの純粋持続は、還元主義・非還元主義の概念には納まり切らないものである。時間論としての形而上学的な位置づけは、現在と過去とを実体化して考えるので、C.D.ブロードが主張する「成長するブロック宇宙(growing block universe)」に近いニュアンスがある。ただし純粋持続はその本質をミンコフスキー空間上には記述できない動的なものだという点が大きく異なる。 純粋持続は「質的多様性」として考えられている。つまり持続内の諸々の要素は互いに外在的で相互排他的なのではなく、相互に浸透し合っており、一つの要素のみを取り出すことができない。仮に一つの要素を取り出した場合は他の要素全てが変貌してしまう。これをベルクソンはメロディーを比喩に用いて説明する。 メロディーは個別的な音の寄せ集めとして成り立つのではない。それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つとしての全体を形成する。メロディーの或る一つの音は、それのみでは何のへんてつもない単なる音に過ぎない。しかし前後に連続する他の音と相互作用することによって聴く者に固有の質感や印象を感じさせる。――これは意識についてのみだけでなく時間についての比喩でもあり、ベルクソンにとって純粋な持続としての意識と時間は、空間的なものと異なり分割できないもの、個別の時点に要素を還元できない性質のものとして、その内に差異を含みながらも通時的に同一のものなのである。 空間的なものは、たとえば十センチは一センチを十倍したもの、逆に百センチの十分の一として厳密に定義可能である。しかしメロディーの例でわかるように純粋持続はそのような可算や分割が不可能である。さらに空間的なものは個別の要素が離在しているが、純粋持続においては個別の要素が相互浸透し合っている。このようにベルクソンは動的・持続的な時間の異質性を空間と対比して強調する。 純粋持続に新しい要素、つまり「現在」が加わった場合、それは新たな相互浸透の作用によって過去のものを含めた純粋持続全体に質的変化をもたらすことになる。メロディーがそうであるように、一つの要素が抜けても加わっても、全体が変貌する。純粋持続とは未来へ向かって、新しい要素を加えながら絶えず全体を変貌させつつ、自らを新たに創造し持続し続けるものである。 メロディーは複数の音の連なりとして固有の印象を人に与える。要素としての一つの音を人はその気になれば意識から取り出すことができる。しかし切り取ったその一つの音は、元のメロディーの印象を何も含んでいない。――これは純粋持続としての意識と、その意識を表現したものである言語との関係として見る事もできる。純粋持続が前言語的な存在とされている理由である。 しかし、表現された言語もまた純粋持続の要素となるはずである。その新しい要素もまた全体としての純粋持続を変貌させ、それがまた新たな創造の契機となる――。このように、ベルクソンの純粋持続の諸要素においては「一」と「多」は互いに排他的な関係にあるのではない。ベルクソンの哲学は一元論と多元論、または還元主義と非還元主義のどちらかに安易に分類できない特異な性質がある。 ベルクソンがメロディーの比喩で示したように、音のクオリアたちが相互浸透しているのは事実だと思える。ならば「赤」や「青」という色のクオリアも同様ではないか。いや「赤」のどこを探しても「青」はないのだ、という意見は当然あるだろう。しかし人の持続的な意識の過程で、「赤」というものは本当に純粋に独立した要素として存在しているのだろうか。メロディーの比喩にあったように、それは本来、他の要素と相互浸透しあった前言語的存在であるものの内から、人の知性で切り取った言語的な存在なのではないか。そして、その切り取られた言語的な存在も、ベルクソン的に考えるならば、新たな要素として純粋持続に加わり、(実体的な)過去に浸透し、新たな全体を創造していく――。このように考えれば、個別的に思えるクオリアたちに「つながり」がある可能性が示されるはずだ。 ところで、物理主義ならばクオリアたちのつながりに関しては、諸々のクオリアをもたらす物理的状態が時空的に連続的であるとすることで、クオリアたちの緊密な相関関係も説明するだろう。しかしクオリアたちの数的同一性についての難問を回避できないことは幾度も述べた。或るクオリアは少しでも変化したなら別のクオリアになるとするなら、五分程度の一つのメロディーが何十兆のクオリアから成ると考える他はない。そう仮定してもラッセルが指摘したように論理的な矛盾はないのだが、オッカムやベルクソンでなくても、五分のメロディーが一つの存在者だと考えた方が圧倒的に節約の原理に適っている。特に私が取る現象主義の立場では、物質的な実在というものを否定するのだから、0.0000001秒ごとに互いに外在的で独立しながらも、互いに相関関係をもったクオリアたちが生起すると考えるのは、理論に途方もなく無駄が多い。 メロディーのクオリアは純粋に持続的な、通時的に数的同一の存在者であると確信せざるを得ない。 以上がベルクソンによる「持続」の形而上学から、私が読み取ったクオリアの存在論のアウトラインである。ベルクソンは純粋持続が言語や概念では捉えられないことを直観した上で、その本質を比喩や暗喩によって示そうと試みた。 前節ではブロック宇宙を静的な固形物として理解することを批判したヒュー・プライスの文章を紹介した。プライスによれば、ブロック宇宙は「ふつうの意味での存在物といえるようなものではない」のであった。プライスの洞察が、時間を空間的なイメージで理解することを批判したベルクソンの慧眼と通じているのは確かであると私は考えている。人は空間を理解することはできるし、その空間に時間が流れている様を理解することもできる。しかし「時間と空間を合わせたもの」は理解することができない。相対性理論によれば時間と空間は相関しており、時間が膨張するケースでは空間が縮む。時間と空間は統合された「時空連続体」を形成するのだが、人は時空連続体をイメージできない。ブロック宇宙とはプライスの言うように、人が理解できる存在物ではないだろう。 分析哲学とは言語哲学に重心を置いている。しかしベルクソンからすると、そもそも言語とは絶え間なく変化し持続する意識状態の、或る部分を切り取って空間的・固定的に把握したものだ。ベルクソンは次のように述べている。 >並置された概念がわれわれに実際に与えるものは、対象の人工的再構成以上のものではけっしてなく、概念は対象の一般的な、いわば非人格的な面の記号となりうるものにすぎない。だから概念で実在が把捉できると信じるのは空頼みであって、概念はわれわれに実在の影を示すだけのものである。&footnote(アンリ・ベルクソン著 坂田徳男 他訳『哲学的直観』p.17) プライスの洞察はブロック宇宙というものが、ベルクソンが意識について考えたように、前言語的存在だということであるように思える。もしブロック宇宙説が形而上学的に妥当なものであれば、ベルクソンの純粋持続も妥当な形而上学であるかもしれない。 おそらく厳密な概念規定と言語分析による方法を尊守すべきだとする立場の哲学者からすると、概念分析よりも直観を重んじるベルクソンの哲学はあまりに抽象的かつ曖昧で、空疎な形而上学という印象を受けるかもしれない。実際、ラッセルなどからベルクソンに対して厳しい批判があったことも事実である(ただしラッセルらの批判は主にベルクソンが『物質と記憶』で展開したスピリチュアリズムに向けられている)。しかし、ベルクソンの形而上学がクオリアと人格の同一性の問題双方について、新たな探索の道を開いていることは間違いないと私は考えている。分析形而上学における議論にはない異質な可能性があることは確かだろう。 ともあれ、ベルクソン哲学の可能性を探究するには主題を改めて論考した方がよいだろう。ここでは新たな形而上学の可能性を確かめるだけに留めておく。 以上をもって人格の同一性問題についての論考をひとまず終えるが、とりあえずの私の結論を述べておこう。 私はクオリアの存在論が欠如した物理主義や四次元主義を否定し、また魂のような主体を想定する非還元主義的な立場も否定した。そして独在性のアポリアをきっかけに現象主義という立場を提案した。現象主義における人格の同一性問題とは、クオリアの同一性問題であった。ところがクオリアの同一性を問うには、クオリアの非同一性を問わなければならない。しかしベルクソンが示したようにクオリアが前言語的な存在であるならば、非同一性の論証は困難である。ならば同一性の論証も困難である。――これが論理的な結論になる。 しかし、個別的に存在しているクオリアたちは明らかに他のクオリアたちと相関している。ベルクソンは相互排他的で互いに外在的であるように思える意識内容が、実は相互浸透していることを比喩によって示した。ベルクソンの「持続」の形而上学に何らかの真理があることを私は直観している。四次元主義の段階説では独在性が説明できる可能性はあるものの、クオリアが刹那的な存在者だとすると、ゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスのようにクオリアの動性が説明できなくなる。飛んでいる矢が飛んでいるならば、流れているメロディーも流れていなければならない。したがってクオリアたちは独立して存在しているように見えても、つながっていなければならない。クオリアたちに断絶はない。「意識の断絶」や「無意識」というものは、一連のクオリア経験から推定された「仮説」なのである。経験主義を徹底した現象主義という立場からすると、確実に存在していると言えるものは、現実に経験しているもの(というよりは経験そのもの)であるクオリアと、そのクオリアたちを秩序正しく生起させている「構造」だけである。 メロディーは独立した音のクオリアの寄せ集めとして存在するのではない。個別の音のクオリアが独立していても論理的に矛盾はないとしても、メロディー内の個別の音は、別の音を「志向」しているものである。志向性を持つ存在が志向対象と独立して存在しているというのはあまりに不自然すぎる。したがって個別の音のクオリアたちは浸透し合った一つの存在者でなければならない。そして、今のクオリアと一秒前のクオリアが浸透し合っているとするならば、数十年前のクオリアとも浸透し合っているかもしれない。――これが私の直観的な結論である。 そのクオリアの同一性という直観を、論理的な「形」にすることが、今後の私の課題になる。それはクオリアの「変化」というものを合理的に説明することである。ベルクソンは純粋持続を想定することによって、クオリアたちの「つながり」を説明することに成功したように思える。しかしクオリアがどのような原理で変化するのかという問題は解消していない。 哲学史上、クオリアの変化について合理的に説明した者はいない。クオリアとは人の最初の「経験」であり、全ての思考の出発点である。この最初のものが何も解明されていないとは全く驚くべきことである。この問題には、何か答えがなければならない。 今。私の前のテーブルには数十年前に親友からもらった古いキーホルダーがある。今と過去とを架橋するキーホルダーは、私の胸にさまざまな想いを去来させる。生まれては消え、消えては生まれるその想いたちこそが、哲学の最初にして最大の謎である。 ---- ・参考文献 ロダリック・M・チザム 中堀誠二 訳『人と対象』みすず書房 1991年 アンリ・ベルクソン 中村文郎 訳『時間と自由』岩波文庫 2001年 アンリ・ベルクソン 合田正人・松本力 訳『物質と記憶』ちくま学芸文庫 2007年 アンリ・ベルクソン 真方敬道 訳『創造的進化』岩波文庫 1797年 アンリ・ベルクソン著 坂田徳男 他訳『哲学的直観 ほか』中公クラシックス2002年 ブライアン・グリーン 青木薫 訳『宇宙を織りなすもの 上』草思社 2009年 デイヴィッド・ヒューム 土岐邦夫・小西嘉四郎 訳『人性論』 中公クラシックス 2010年 トマス・ネーゲル 永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房 1989年 トマス・ネーゲル 中村昇 他訳『どこでもないところからの眺め』 2009年 春秋社 デレク・パーフィット 森村進 訳 『理由と人格 非人格性の倫理へ』 勁草書房 1998年 ヒュー・プライス 遠山峻正、久志本克己 訳『時間の矢の不思議とアルキメデスの目』 講談社 2001年 W.V.O.クワイン 中山浩二郎・持丸悦郎 訳『論理学的観点から』岩波書店 1972年 ジョン・ロック 大槻春彦 訳『人間知性論(二)』岩波書店 1974年 バートランド・ラッセル 竹尾治一郎 訳『心の分析』勁草書房 1993年 バートランド・ラッセル 高村夏輝 訳『哲学入門』筑摩書房 2005年 ジョン・R・サール 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』 朝日出版社 2006年 ジョン・R・サール 宮原勇 訳『ディスカバー・マインド!』 筑摩書房 2008年 セオドア・サイダー 中山康雄 他 訳『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論』 春秋社 2007年 ポール・デイヴィス 林一 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#contents ---- **1 過去とのつながり 年始に親戚回りなどをしていると、稀に十年以上会っていなかった人物に再会することがある。前回見たときは五歳だった少年が、今は中学生になっている。当然、昔の面影は全く消えていて別人に見える。 五歳の時の少年は色白く内気な感じで、いつも携帯ゲーム機をいじっており、私が話しかけてもゲームをしながら「うん」「いいや」とガスが抜けるような気のない返事をするだけだった。ところが中学生になった少年は身体が五倍大きくなり、野球部に入って逞しく日焼けし、私が話しかけると真っ直ぐ私の眼を見て、溌剌としたスポーツマンの声でしっかり受け答えをする。 あの色白で内気だった五歳の少年と、今の中学生になった少年はもはや別の人間なのかもしれない――。だがこのような懐疑は、私にとってそう見えるというだけのことであって、少年本人からすると、自分は精神的・肉体的に変化したのだから別人になったのだという思いなど微塵もないだろう。自分は五歳の頃から持続的に一つの意識を持ち続けてきたのだという信念があるはずだから。 しかしここで疑念が生じることになる。精神的に大きく変化しているにも関わらず、なぜ持続的に一つの意識を持ち続けてきたと言えるのだろう。或る精神が変化したならば、それは別の精神ではないか。また人は眠っているとき、ノンレム睡眠の状態では意識は途切れているとされる。ならば昨日の少年の意識と今日の少年の意識は別のものと考えられるのではないか? このような疑念は当然、自分自身にも当てはまる。幼い頃の自分と、大人になった今の自分は、身体も精神も別人としか形容しようのないほど変貌している。いや、別人ではないと考えてはいけない理由を探すことの方が難しくなる。せいぜいDNAが一致するとかいう科学的根拠が見つかるぐらいのものだ。しかし今の私はには幼い頃の自分と、DNA以上の重要な「つながり」がなければならないと、昔の出来事を思い出すときに強く感じる。 私は七歳の時に引越しをした。住み慣れた家と、物心ついた頃からずっと共に過ごしていた兄弟のような親友と別れざるを得ないこととなった。幼い心には辛すぎる別れだった。泣きながら引越しに反対して親を困らせたが、どうにもならなかった。辛いのは親友も同じであった。別れを惜しみ合いながら互いの大切なものを一つづつ交換しようということになった。私は人形をプレゼントした。当時人気のあったテレビ番組のヒーローのものであった。親友はキーホルダーをプレゼントした。彼が博覧会に行った記念に買ったものであった。互いに生きながらの忘れ形見であった。 ――それから数十年の歳月が流れた。 今。私のテーブルの上に古いキーホルダーがある。七歳のときに親友からもらったものだ。古いキーホルダーを見るたび、私はおぼろげな幼い友の顔と、別れの際の胸の痛みを思い出す。もし今の私と七歳の私に何のつながりもないならば、私は古いキーホルダーを見ても何も感じないだろう。 ところが困ったことに、その肝心のつながりの正体というものを探索してみても決定的なものが発見できない。今の私は七歳の頃からずっと同じ意識状態を保持してきたわけではない。「気が変わった」と言うまでもなく人の精神はいつも変化している。また意識は眠っている時には途切れていたはずである。ならば七歳のときの「胸の痛み」という現象と、今古いキーホルダーを見て「痛みを想起する」という現象とは、それぞれ別個の意識現象なのだろうか。それとも何か隠れたるつながりがあって、両者は「同一の心」と言えるものだろうか? まず素朴に、それら二つの現象は同一の「私」によって経験されたものだと考えたくなる。しかし哲学的に問題なのは、何を根拠にして同一の「私」の経験だと言えるのかということである。これが一筋縄ではいかない。 記憶というものこそが私の知りたいつながりの正体なのだ、という考え方もあるだろう。世間的(素朴心理学的)にはそのような記憶を根拠に、「同一の心」がずっと持続してきたのだと受け止められるものである。 しかし哲学的に考えるならば、記憶とは想起される時にのみ存在すると言えるものであり、そして想起とは現在の精神現象の一種なのである。換言すると「過去形の現在経験」なのであり、それ自体が過去の私の心とつながっているとは言えない。つまり記憶を根拠にして、今の私は七歳の頃から「同一の心」をずっと維持してきたとみなすことはできないのである。 科学的にはこう説明するだろう。意識をもたらす脳の物理状態に因果的なつながりがあるから、胸の痛みの想起もできるのだ、と。しかしその因果関係とは、現在の意識がどのような脈絡で存在しているかを説明するものであっても、過去の意識と現在の意識のつながりの有無や同一性を説明するものではない。それに私は外から見てわかるつながりだけを問題にしているのではない。 一体、七歳の私の心と、今の私の心にはつながりがないのだろうか。そもそも七歳の私と今の私とは、なぜ「同一の私」だと言えるのだろう。あるいは両者は別人と考えるべきなのか? 哲学における「人格の同一性」という問題は、そんな疑問から始まる。 「汝自身を知れ」という格言がある。「私とは何か」という問題と同じである。それらの問題は文明の歴史と同じだけ古い。人格の同一性という問題は、それら歴史的な哲学的課題に挑む問題である。 同一性(identity)とは、変化しながらも存在し続ける個の基本的性質である。ちなみに論理学の「同一律」とは同一性の律である。自己同一性(self identity)と言うときは、或るものがそれ自身(self)と等しくある性質をいう。 人格の同一性(personal identity)とは、或る人物が生涯を通じて心身ともにさまざまに変化するにも関わらず、なお同じ人格であり続けているとみなすための十分条件とは何かという問題である。人格の自己同一性とも言われる。この問題には、そもそも「人格」および「自己」とは何であるかという哲学的な問いも含まれている。 人格の同一性が難問である理由は、「自己」「時間」「変化」「因果関係」「心脳問題」「実在」といった伝統的な形而上学的問題の多くが関わっているからである。同一性の問題とは、時間を通じての同一性のこと(「通時的同一性」や「貫時間的同一性」と言う)であるから、そもそも「時間とは何か」という問題を避けて同一性を問うことはできない。そして時間の問題とは「変化」や「因果関係」の問題と直結する。また人格の同一性の基準を物的なものと考えるか、心的なもの(クオリア)と考えるかに関わらず、それらの「実在性」の問題を避けて同一性を問うことはできない。これは唯物論(物理主義)、そして心身二元論の妥当性を問うことにもなる。このように人格の同一性問題は哲学のあらゆる領域に及んでいく。 なお「同一性」とは、「差異性」および「非同一性」の対概念である。或るものと、時点を異に存在する或るものが同一であると論証することは、非同一性を論証することと同じである。ところが非同一性とは論証困難な問題である。これは人格の同一性問題の落とし穴でもあり、繰り返し論じることになる。 「変化」と「同一性」は相反する概念である。物事が変化したなら別の物事になり同一ではない。しかし異なる時点において別の物事が並んでいるだけなら変化とは言わない。時点1ではFであり、時点2ではGであるとするなら、「FはFである」「GはGである」と言うべきである。FがGに「なる」と言う場合、それは人の推理を表しているのであって、変化は世界の事実とは言えない。このような厳密な同一律を根拠に変化の実在を否定したのが紀元前の哲学者パルメニデスであった。廣松渉は、変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けること、こういう矛盾構造を持っていると指摘している&footnote(『心身問題』pp.265-6)。 素朴に考えると、変化とはある主体(主語)における属性(述語)の相違として理解することができる。しかし十九世紀の哲学者ヘルマン・ロッツェは、そのような素朴な観点を「主体は同一である」という論点の先取だとして退けている&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』pp.170-1)。問題となるのは変化しながらも同一だと判断する根拠なのである。たとえば、ある画家が風景画を描いたとする。その画に何か物足りないものを感じた画家は、一羽の鳩を描き加えたとする。この場合、鳩が描かれる前の画と描かれた後の画は別の画だと考えることができる。しかし描かれる前の画を主体とし、鳩を属性とするなら一枚の画が変化したのだと考えることもできる。ところが逆に、鳩を主体として他の要素を属性と考えてはいけない理由がないようにも思える。つまり問題なのは何を主体だと想定するにせよ、変化というものを合理的に説明する必要があるということである。 哲学では、時空的かつ質的に連続しているということは同一性の十分条件とはみなされない。D.M.アームストロングは極端なたとえとして、神がある人物を消滅させ、その直後同じ場所に、別の神が瓜二つの人物を創造した可能性があり得ることを主張している&footnote(前掲書 p.399)。つまり時空的な連続性とは論理的なものではないということである。バートランド・ラッセルの「世界五分前創造説」も同様の示唆を含んでおり、これは記憶と、その記憶の対象である過去は、論理的に別のものだということである。アームストロングやラッセルによれば、私が模索していた今の自分の心と過去の自分の心との「つながり」は、決して論理的なものとしては見出されないということになる。 現代においては、特に分析哲学において人格の同一性問題が活発に議論されている。これは二十世紀後半からの脳科学や分子生物学の劇的な発展に触発されたものである。以降は主に分析哲学での議論を紹介し検討することになる。 私の身体は何十年か前に生まれた時から時間・空間的に連続している。とはいえ、脳を含めた私の身体を構成している分子は絶えず入れ替わり、幼児の頃とはすっかり異なっている。法学的な観点からすれば、私が時間・空間的に身体が連続し、精神という機能も少しづつ変化しながらも連続しているということは、固有名で指示される「人物」の同一性の必要十分条件を満たしていると言える。しかし哲学的には、それらは人格の同一性の必要条件の一つであると論証するのも難しい。 同一性の問題については、まず以下の二つを峻別しなければならない。 >認識論的問題: 或る時点の存在者と、それと異なる時点の存在者が、同一であるか否かを人がどのように認識しているか、またどのような基準で同一だと認定すべきかという問題 >存在論的問題: 或る時点の存在者と、それと異なる時点の存在者が、実際に同一の存在であるか否かという問題 もちろん認識論的問題は存在論的問題とつながっている。その昔、明けの明星と宵の明星は異なるものだと認識されていたが、天体観測の技術が進んだ今、両者は同じ星だということが判明している。しかし認識論的問題が同一性を認定するための「規約」をどのように定めるのかという恣意的な問題が中心になるのに対し、存在論的問題は厳密に論理的な問題であり、恣意性が許されない。たとえば「同一のものが同時に二つある」と言うことは矛盾だからである。明星の例のように同一性の存在論的問題とは、異なるものとして認識されている対象たちが、存在としては同一のものであるか否かということである。 また人格の同一性という問題は、法哲学や倫理学と不可分の問題である。今の自分は一年前の自分とは性格が変わっているから別の人格だと主張することは出来るだろうが、だからといって一年前に犯した殺人事件の罪を負わなくてよいということにはならない。法律的には指紋やDNAによって人物の同一性が確定される。しかし人物として同一だからといっても、被告の人格が事件当時から大きく変貌している場合、それが量刑に影響を与えることもある。 人格の同一性問題を最初に哲学の俎上に載せた人物はジョン・ロックであるが、ロックは主に実用的な法哲学と倫理学の観点から人格の同一性を論じている。逆に存在論的問題は形而上学的問題であると考えてよい。存在論的問題は意識の現象的側面(クオリア)の存在論と不可分の問題となる。 &sizex(-1){※本論では法哲学や倫理学の問題でなく、存在論的問題を中心に扱うのであらかじめ了承されたし。} 古代ギリシャ哲学には「テセウスの船」の問題がある。テセウスの乗っていた船は古い木材部品を徐々に新たな木材部品に置き換えていき、やがて建造当時の元の木材はすっかり無くなってしまった。ではこの全て新しい部品で作られたテセウスの船は、以前のテセウスの船と同一と言えるのだろうか。もし取り除いた元の古い部品を合わせて船を作った場合、どちらがテセウスの船なのか? このテセウスの船の問題は認識論的問題に尽きている。古い方と新しい方、どちらをテセウスの船と呼ぶべきかは恣意的に決めてよいことであるし、両方は以前とタイプ(種類)として同一で、トークン(個物)として別物と考えればよいだけのことである。この同一性の問題は、同一性のイージープロブレムと呼んで差し支えないだろう。 なお&strong(){タイプ的な同一性は「質的同一性」と呼ばれ、トークン的な同一性は「数的同一性」と呼ばれる。この区別は重要である。}人格の同一性で問題になるのはもちろん数的同一性の方である。 同一性の認識が「他者」の視点に依存するテセウスの船の問題と違い、人格の同一性には格別の問題がある。人間には客観的に観察したり規定したりできない内在的性質がある。つまりクオリアの問題である。クオリアは主観的にしかアクセスできないために同一性を認識することが難しく、また同定基準を考えることも難しい。この問題は同一性のハードプロブレムと呼ぶべきだろう。ここには認識論的問題と存在論的問題がある。ロダリック・チザムは意識の主観的性質を重んじ、テセウスの船のように多数の部分からなる概念的存在を「他による存在者」とし、人格は「それ自体による存在者」だとしている。&footnote(ロダリック・チザム 中堀誠二 訳『人と対象』pp.168-9) 「スワンプマン」という思考実験がある。仮にこの私が沼で雷に打たれ、同時にその雷によって汚泥が不思議な化学反応を起こし、私と原子レベルまで同一の人物が出来上がったとする。加えて雷に打たれた私が一命をとりとめていたなら、一見私が二人いるように思えるだろうが、この「私」はどちらか一方のはずだ。同様の思考実験に「脳分割」がある。脳科学的には人間の左右の脳は分割しても生命を保つことができるという。ならば私の左右の脳がそれぞれ別々の脳死患者の頭部に移植されたとしたなら、一体どちらの人間が「私」になるのだろう? これらの場合テセウスの船のように、二人のうちどちらが本物の「私」であるかは恣意的で規約の問題だとすることはできない。人格・自己と人物の関係、つまりどの人物が「私」であるかは論理的に一対一対応でなければならないように思えるからだ。 脳分割のように一人の人物が分裂していく想定を「人物分岐」と呼ぶ。類似の思考実験に自分の脳細胞を他者の脳細胞と徐々に交換していくことを想定する「スペクトラム」と呼ばれるものがある。それら極端な思考実験はパズルを解くのに似ているので「パズルケース」とも呼ばれる。それら思考実験は人格の同一性についての人の信念が、どのような根拠によって成り立ち得るものかを明らかにしようとするものである。 人格の同一性については様々な議論領域がある。主な領域は次のように分類できる。 >■大分類: 認識論的問題と存在論的問題 >├分類1: 記憶説と身体説 >├分類2: 還元主義と非還元主義 >├分類3: 物理主義と反物理主義 >├分類4: 三次元主義と四次元主義 >└分類5: 独我論と実在論 各分類同士は必ずしも互いに対立するものではなく、問題性と論点が異なるものであることに留意する必要がある。たとえば分類1の記憶説と身体説の双方に対して、分類2の還元主義を主張することが可能である。分類3の物理主義と反物理主義はクオリアの存在論をめぐる対立であるが、これは当然他の領域にも関わってくることになる。また分類5の独我論からは意識の超難問(独在論)が派生するケースがあるが、それは分類2の非還元主義とつながるケースがある。大分類である認識論的問題と存在論的問題は当然全ての領域で議論の対象となる。なお認識論的問題には下位分類として「私」という指標詞をめぐる語用論を加えることも可能だろう。指標詞「私」は、それを含まない表現に還元して表現することは不可能だという主張がある。この主張は分類2の非還元主義につながるケースがある。 人格の同一性の議論は、認識論と存在論のあらゆる領域に及んでいる。各議論領域が何を争点とし、また各議論領域同士がどのようにつながっているのかを見極める必要がある。 次節より、まず記憶説と身体説から始まる人格の同一性についての論争史を概観していく。 **2 記憶説と身体説 人格の同一性についての議論はジョン・ロックから始まった。ロックは意識状態の継続するシークエンスこそが人格の同一性にとって本質的な要素だと考えた。ロックは「人(man)」と「人格(person)」を区別し、「人格とは思考する知的な存在者」と定義し、これを哲学的概念のみならず法廷用語ともみなした。 ロックの議論において重要なのは、彼が通時的に人の同一性を成り立たせるための、意識の作用を担う実体としての「魂」を認めながらも、その魂を人格の同一性の根拠としなかったことである(ロックは実体として神・霊魂・身体の三つを想定していた)。つまり同一の実体や魂があったとしても、人は五歳の時と七十歳の時では人格が劇的に変貌しており、このような場合は同一の人格とはみなさないのである。経験主義者のロックにおいては、魂や実体とは意識作用を説明するために措定したものであり、経験的に確かめられないものである。したがって人格の同一性は意識の同一性、つまり記憶だけで決定すべきだと考えた。これが「記憶説」である。また同一性の基準を身体でなく心理状態に置いているため、「心理的基準」とも呼ばれる。 ロックの人格の同一性についての議論は法哲学と倫理学に重心を置いている。或る人物が過去の或る人物と人格的に同一だと認められるということは、一個の理性的存在者として同一であり、法的責任を担い得ると認められることである。賞罰の正当性は人格の同一性に基づかなければならない。その同一性は意識と記憶の連続性が根拠とならなければならない。一ノ瀬正樹はこのようなロックの人格同一性論を、「意識説」であると同時に「法廷用語説」であると解釈している&footnote(『人格知識論の生成 ジョン・ロックの瞬間』)。 しかし人の記憶や心理的性質は月日が経つに従って徐々に変化していくのが常であり、同一性の基準をどのように決めるのかが問題になる。 ロックの記憶説に対して、人間が記憶を喪失することや錯誤することから、記憶を同一性にとって本質的な要素とみなすことは出来ないという批判がある。トマス・リードはロックの記憶説はパラドックスに陥ると指摘している。たとえば人物Aは、十五歳のときは六歳のときを憶えているから、六歳のときと同一人物だとする。また五十歳のときは十五歳のときを憶えているから、やはり同一人物だとする。しかし五十歳のときに六歳のときを憶えていないなら同一人物ではないことになる。つまり人物Aが六歳のときをA1、十五歳のときをA2、五十歳のときをA3とすると、A1=A2かつA2=A3、しかしA1≠A3という推移律の不成立が生じるということである。 バーナード・ウィリアムズは人が偽の記憶を持てることからロックを批判する。ウィリアムスは、自分がガイ・フォークス(英国の歴史的な有名人)だと詐称するチャールズという人物が登場するケースを想定する。チャールズはフォークスの記憶を全て持っているとする。ならばチャールズはフォークスと同一と言えるのだろうか。また別の人物が現れて自分もガイ・フォークスだと主張し、同様にフォークスの記憶も持っていたらどうだろう。二人ともフォークスだと考えるのは不合理である。 同一性の基準を心理状態に置く場合、心理的性質の激変は人格の変化とみなされることもある。フィネアス・ゲージという人物の有名な臨床例がある。鉄道工事中の事故で鉄の棒がゲージの脳を貫通した。奇跡的にゲージは一命をとりとめたものの、彼の人格はすっかり変わってしまったという(この場合は「同一の人」の人格が変化したとみなされている)。 バーナード・ウィリアムズは記憶説に反対し、たとえ全ての記憶を失っても、世界に何十億といる人間たちの中で、怪我をして痛いのは「自分」だけであるという観点から、物理的連続性を本質的なものとする「身体説」を主張した。同一性の基準を物質的な身体に置くため「物理的基準」とも呼ばれる。 ちなみに記憶説は心理状態によって人格の同一性を判断するため二元論的傾向があるが、必ずしも二元論と一致するわけではなく、また身体説は物理的な身体によって人格の同一性を判断するため物理主義的傾向があるが、必ずしも物理主義と一致するわけではないことは留意すべきである。 物質的なものの同一性は時空的連続性によって認識可能である。それに対し記憶や性格といったものは、他の類似したものとの区別が困難であり、人格の同一性の基準にはなり得ないとウィリアムズは考えた。ただし、人は体の一部を失ったり臓器を移植したりすることが可能である。交換不可能なのは脳だけであり、このことからウィリアムズの身体説は脳が「主体」であるという主張を含意させている。 しかし脳を主体と仮定した場合、身体説は記憶説に接近するのではないかという疑問が生じる。脳と心的現象の相関関係は証明されており、脳の一部が損傷すると記憶の一部が喪失することも確かめられている。物理主義の立場では心的状態と物理的状態は認識のされ方が異なるだけで、実は同一の出来事なのだという「心脳同一説」が主張されるが、その同一説を否定する二元論者でも心と脳の相関関係を否定している者はいない。記憶とは脳に依存するのである。また分子生物学者の福岡伸一によると、人の身体は約六十兆個の細胞で構成されているが、その細胞を構成する分子は絶えず入れ替わり、半年から一年も経てば、脳を含めて人の身体を構成する分子は完全に入れ替わってしまうという&footnote(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』pp.162-3)。これは「代謝回転」と呼ばれる。 思考実験として、人物Aと人物Bがいるとする。人の脳細胞の構造は日々少しずつ変化し、脳細胞を構成する分子も入れ替わっているが、もし一年後、偶然にも人物Aの脳細胞の構造が一年前の人物Bの脳細胞の構造と同じになり、かつその時点で人物Bの脳細胞の構造が一年前の人物Aの脳細胞の構造と同じになったとしたら、これは記憶説でも身体説でも人物Aの人格は人物Bになり、かつての人物Bは一年前の人物Aと同一の人格になっているとみなすことが出来るはずである。もちろん身体の時空的な連続性に基準を置く立場では同一だとはみなさないだろうが、しかし代謝回転によって、かつて人物Aの脳細胞を構成していた全ての分子が、一年後人物Bの脳細胞になっていたとしたらどうだろう? 人格の同一性問題は、記憶説にせよ身体説にせよ堆積のパラドックスに似た困難に陥ることになる。そこで人格の同一性問題そのものを「虚構」とみなす考えが現れる。 デイヴィッド・ヒュームは魂のような精神的実体を否定し、人格の同一性問題に対してニヒリズムの立場を取った。ヒュームは個別の知覚(クオリア)たちは全て別個の存在であり、知覚たちに結合はないと考えた。つまり人は持続的に世界を知覚しているが、知覚は常に微妙に変化しており、僅かでも変化した知覚は以前とは別の存在だということである。従って知覚たちに通時的な同一性を見出そうとするのは無意味だということである。 ヒュームからすれば、過去の私の心と今の私の心に「つながり」などないということになる。人格の同一性とは虚構(a fictitious one)であり、人が見出すのは虚構の知覚の結合であり、ただ諸々の知覚が「私のもの」として統一されているように「感じる(feel)」だけである。ヒュームにとって人格の同一性とは、知覚の結合ではなく、観念の類似性と因果性によって想像されたものなのである。ちなみにこのようなヒュームの考え方が論理的に成り立つことを論証したのが、第1節で紹介したアームストロングやラッセルの思考実験である。 &sizex(-1){※ただし個別の知覚たちが全て別個の存在であること、かつ知覚たちに結合が見出せないこと――この二つの原理をヒュームは矛盾したものと考えていた。この問題は後述する。} 次節ではヒュームから始まる還元主義と、それに反対する非還元主義の論争を概観する。 **3 還元主義と非還元主義 デレク・パーフィットは、人格の本質については対立する二つの見解があるとして、ヒュームを代表とする「還元主義」と、デカルトを代表とする「非還元主義」に分ける。 還元主義とは、人格の説明について「人格」そのものの存在を前提としない立場である。つまり人格とは魂のような不変の実体ではなく、ヒュームが想定したような知覚の束など、他の要素によって成り立っているものであるとする。還元主義では、「私」や「自己」といった言葉は、持続的で不変的な実体を指すものではなく、生成消滅し変化し得る心理的、または物理的な出来事を指すものであり、概念だけの存在であると考える。この立場においては、それらの出来事のうち、通時的に一定の心理的関係が成立していることに人格の同一性概念を適用するのが心理的基準で、物理的関係が成立していることに適用するのが物理的基準になる。 非還元主義とは、人格の同一性は単に心理的連続性や物理的連続性だけでなく、それら以外の根本的な「何か」により成り立っているとする立場である。経験の主体は脳や身体、それらによる一連の肉体的・心理的な出来事から離れて存在する魂のような不変の実体であると考える。 パーフィットは現代における還元主義の代表的な論者であり、物理的・心理的連続性とは切り離されて存在することが仮定される非還元主義的な実体を、物理的基準でも心理的基準でも同定されえない「無特徴のデカルト的見解」と呼ぶ。物理主義的な立場の論者もこの還元主義を支持することが多い。しかし物理主義の立場では、「クオリアは存在論的に物的出来事に還元できる」という物理主義的還元主義を前提に、人格の同一性についても還元主義を主張するのに対し、パーフィットの主張は「個別の人格は個別の心理状態(クオリア)に還元できる」という主張を超えるものでなく、クオリアの存在論とは距離を置いている。したがって還元主義の次の二つの立場は厳密に区別する必要がある。 >人格の同一性についての還元主義: 人格はクオリアに還元できる >物理主義的な還元主義     : クオリアは物的出来事に還元できる 還元主義と非還元主義の議論は、記憶説(心理的基準)と身体説(物理的基準)の議論とはカテゴリーを異にするものである。還元主義は記憶説と身体説双方に対して主張することができる。ただし非還元主義では「魂」のような不変の実体を想定するため、身体説とは整合しない。 近代哲学においては、ロックのように存在を「基体と性質の複合体(アリストテレスの哲学に由来する)」と考える立場と、ヒュームのように「性質の束」と考える立場の二つの存在論があり、非還元主義は前者を、還元主義は後者を前提にしている。ロックが基体を想定したのは諸性質を支える何かが必要だと判断したからであり、ヒュームが基体を否定したのはそれが経験できないからである。 ヒュームに代表される還元主義は、デカルト的な主体としての自我を否定するため、「無主体論」と呼ばれる哲学と軌を一にしている。無主体論では、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」という考察に対し、知覚などの直接経験は現れた時点で既に帰属先が決定しているため、「思う、ゆえに思いあり」と表現し、「我」は必要ないと考える。「思う」を「我」の所有物とみなさないため、「非所有説」とも呼ばれる。特に形而上学的な立場から無主体論を選択するならば、「人格」や「私」という言葉は名前だけの存在とみなされ、それらの指示対象は実在しないと考えるので、存在論的には人格の同一性は問題にならない。 ところで還元主義や無主体論が否定するデカルト的な主体(コギト=我思う)については注釈が必要であろう。デカルトのコギトについては哲学史上さまざまな解釈があるが、以下の二つの解釈は決定的に異なるものである。 >解釈1: 「我あり」の「我」とは、「我思う」を指すものである。つまりデカルトは全てを疑っても疑う「何か」が存在することは否定できなかったが、その「何か」を「我」と呼んでいる >解釈2: 「我あり」の「我」とは、「我思う」という思考作用から推論された「実体」である。つまりデカルトは思考作用が存在することから、思考する実体を想定している 無主体論が否定するのは、もちろん解釈2の方である。解釈1は論理的に真なのだから否定のしようがない。なおデカルト自身はまず絶対疑えない解釈1を発見し、そこから解釈2を推論しているので、二つの解釈はデカルト解釈として共に間違いではない。 ヒュームやパーフィットの他、バートランド・ラッセル、モーリッツ・シュリック、ピーター・ストローソン、大森荘蔵、また一時期のウィトゲンシュタインや西田幾多郎が無主体論者であるとみなせる。ただし「実在」を否定する形而上学的な無主体論を主張するヒュームと大森以外は、認識作用の帰属先として暗に「身体」を想定している点が重要な相違である。 無主体論の立場を取るならば、交差点の信号が「赤」から「青」になった場合、「赤を見た私」と「青を見た私」は別の存在ということになるかもしれない。この点を徹底して考究したのがラッセルの刹那的な独我論の可能性である。ラッセルは次のように述べている。 >テーブルを見つめて茶色が見えているまさにその時、きわめて確実であるのは、「私が茶色を見ている」ではなく「茶色が見られている」である。もちろんこれは、茶色を見ている何か(あるいは誰か)を含んでいる。しかし「私」と呼ばれている、多少なりとも存在し続けている人物を含んでいるわけではない。直接の [経験が持っている] 確実性が示す限りでは、茶色を見ているものがきわめて刹那的で、次の瞬間に別の経験をする何かと同一ではない可能性が残る。(バートランド・ラッセル著 高村夏輝 訳『哲学入門』p.25) このラッセルの考察は、個別の知覚(クオリア)たちは全て別個の存在だとしたヒュームの考察と相関している。ヒュームからすればデカルト的な自我は存在しない。自我なるものはそのつど生起する個別的な知覚の束である。ヒュームは知覚の原則として、 >原則1: 知覚たちは全て別個の存在者である >原則2: 別個の知覚たちに結合はない という二つを挙げた。しかしヒュームはそれら二つの原則が矛盾したものと考えて、人格の同一性について「迷路に巻き込まれた」と告白している。ただし、それら二つの原則は論理的な意味で矛盾しているのではない。ヒュームが直観した矛盾とは、個別の知覚たちが独立した存在者でありながら、他の知覚たちと明らかに相関しているという事実であろう。たとえば音楽の場合、メロディーは個別の音の連なりから成り立っているが、一つ一つの音の知覚が全て別個の存在者だとするならば、人はなぜメロディーを感じ取れるのだろう? 実はこのような意識の性質に着目して、ヒュームに反し、意識は途切れることのない純粋な「持続」であると考えたのがベルクソンである。このベルクソンの持続については後述する。 還元主義(無主体論)と、非還元主義(仮に「主体論」と呼ぶことにする)では、想定する認識の在り方は次のように異なる。 >非還元主義=主体論 : ( [川が見える] → [山が見える] → [私は川と山を見た] ) = 「私」の体験  >還元主義=無主体論 : [川が見える] → [山が見える] → [私は川と山を見た] 非還元主義=主体論では、通時的な「私」という存在者が、川を見る経験をし、次に山を見る経験をし、次に「私は川と山を見た」と想起している。逆に還元主義=無主体論では、川を見る経験、山を見る経験、それらの想起である「私は川と山を見た」という経験は、全て別個の経験(クオリア)であり、通時的に存在している「私」という主体はないと考える。 とりあえずラッセルが言うように、ヒューム的な還元主義=無主体論が論理的に成り立つことは事実として認める他はない。このように生成消滅するクオリアたちは全て別の存在者であると考える立場からするならば、数あるクオリアの内に個別のクオリアたちの紐帯となる「我思う」というような反省的なタイプのものがあると考えれば、それが人格の同一性を成り立たせているとみなすことができる。 一般的に人格の同一性は、一人の人間には一つの心というように、精神と身体が一対一対応関係にあり、かつ時空的に継続していることが前提とされている。しかしヒュームのような無主体論的な還元主義ならば、精神と身体が一対一対応であることや、時空的な継続を前提する必要がない。この立場は通時的な主体や魂といった「不変のもの」を根拠とせずに人格の同一性を説明でき、物理主義と親和性があるだろう。 物理的に見れば、私の身体を構成している分子は生まれた時から絶えず入れ替わりを続けている。心理状態も幼児の頃からずっと継続しているわけではなく、ノンレム睡眠の際には途切れており、もし仮死状態などになれば完全に途切れるはずである。また個別のクオリアは、個別の脳の作用と相関関係にあることが脳科学的に証明されており、その点でも「人格」を個別のクオリアに還元する方法は自然科学と親和的である。 逆に特権的かつ不変の自我や魂のような、通時的に人格の同一性を成り立たせる「何か」を想定する立場では、脳細胞を含む身体が日々変化していること、その変化に対応してクオリアも変化していること――この二つの事実があることから、その「何か」を自然科学の見地から見出すのは困難となるように思える。 ところが、現代の分析形而上学における議論では、還元主義の論者と非還元主義の論者の双方が、脳科学の知見を援用して自説を主張しているのが興味深い点である。つまり認識論的にはヒューム的な還元主義が実用的であるとしても、存在論的には非還元主義的な「主体」の可能性が排除できないということである。 ここで現代における還元主義の代表であるパーフィットと、非還元主義の代表であるスウィンバーンの説を紹介しておく。 パーフィットが強く否定するのは「単一理論」である。単一理論とは、或る人物は「私」であるか「私」ではないかのいずれかであり、或る人物が部分的に「私」であるということはない、というものである。この単一理論を成り立たせる要件は、「全か無(オール・オア・ナッシング)要件」と呼ばれる。そして単一理論と反対の立場が「複合理論」であり、これはヒュームのように「私」を複数の性質の束と考えるものである。パーフィットは脳科学の知見を前提としたさまざまな思考実験により、非還元主義ではオール・オア・ナッシング要件が成り立たなくなることを論じ、還元主義の妥当性を主張する。 脳科学の知見によれば、人間は脳の左右いずれか半分を失っても理論上は生存可能である。そこでパーフィットは、「私」の左右の脳が分割されて二人の人間の頭蓋骨に移植され、ライティとレフティという二人の人物になることを想定する。この場合、スウィンバーンのような非還元主義の立場では、二人のうちどちらが「私」になるのかという問題には合理的解答が困難である。しかしヒューム的な還元主義の立場では、そのような問い自体が「空虚」であり、もし二人に同様の心理的連結性や心理的継続性があれば、二人とも「私」とみなしてもよいし、どちらも「私」でないと考えてもいい。規約の問題に過ぎないということになる。 もちろんライティとレフティの両者が同一の「私」だというのは矛盾している。それはあくまで規約という認識論的問題に限定した議論であり、存在論的観点から「私」が複数存在すると、数的同一性を主張しているわけではない。「スワンプマン」の思考実験を例にして考えれば、私が雷に打たれて私の複製体が出現しても、どちらか一方が端的に「この私」であるという事実がある。「私こそが本物だ」という思い――内在的なクオリアが「私」の単一性の根拠であるように思える。このように人格の同一性が外在的要因によって決まらないという考えは、「第三者排除原則(Only x and y principles)」とも呼ばれる。1980年代にハロルド・ヌーナン、デイヴィッド・ウィギンズが主張した&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』p.258)。 しかしパーフィットの立場からすると、魂のように内在的な通時的主体が存在しないということは、人格の同一性問題が存在論的には「空虚」な問題だという前提がある。したがって人格が「一対多」の関係に成り得て、なおかつ多人数に心理的連続性も成り立ち得ると考えても不都合がないわけである。パーフィットにとって人格とは、あくまでヒュームがいう「知覚の流れ」の一部に人が任意に見出す「規約」であって、客観的事実ではないのである。「私」とはヒュームの言うように「国家」の概念と似たようなものである。国家はその構成員が日々入れ替わっているが、通時的に同一の国家であり続けている。それと同様に「私」は知覚の束であり、知覚が変化しても通時的に同一の「私」であるとみなされているだけである。「国家」と同様に「私」は実体的なものではないというわけである。ならば時点を異にして存在する或る人物が「私」であるか否か、存在論的に厳密な数的同一性を問うことは無意味だということになる。 パーフィットは更に非還元主義を否定するためのスペクトラムの思考実験を行っている。例えば「私」の脳細胞を手術によって他者の脳細胞と少しづつ置き換えることを想定する。脳科学的には脳細胞の移植は可能であり、実施された例もある。このような手術を行った場合、脳の一パーセントぐらいの置き換えなら「私」は変化しないよう思えるが、九十パーセントを置き換えた場合、とても「私」が継続しているとは思えないだろう。では何パーセントまでの置き換えまでは「私」が維持できて、何パーセント以上の置き換えによって別の人格になってしまうのであろうか? 身体、および身体と相関関係をもつクオリア以外に、「私」の同一性を成り立たせる「何か」の存在を想定する非還元主義の立場では、このような問いには合理的に答えられない。「私」が「私」でなくなるボーダーラインのようなものを想定するのは不合理である。脳分割の思考実験に続き、ここでも「オール・オア・ナッシング要件」が否定される。ヒュームが想定した「知覚の束」以外に、「私」についての重要な「何か」はないということである。 パーフィットは人格について、形而上学的な非還元的主体を阻却した上で、ロックの記憶説を改良した実用的な人格の同一性基準を提唱する。通時的な主体がないならば、人格とは心理状態が時間に従って漸進的に変化するのみである。しかしその前提におけるロックの記憶説に対してトマス・リードが指摘したのは次のような問題だった。――人物Aは十五歳のときは六歳の時を憶えているから六歳のときと同一人物である。また五十歳のときは十五歳のときを憶えているからやはり同一人物である。しかし五十歳のときに六歳のときを憶えていないなら同一人物ではない。したがって、六歳のA=十五歳のA、かつ十五歳のA=五十歳のA。しかし六歳のA≠五十歳のA、と推移律の不成立が生じることになる――。 このような記憶説の困難について、パーフィットは同一性の基準を緩めることで対処しようとする。パーフィットは人が過去の時点の経験を今思い出せる時、その過去と現在の二時点の心理的状態の間に直接の「記憶の連結」があるとし、また過去のある心理的状態がそのまま現在の心理的状態に影響している時、二時点の間に直接の「心理的連結」があるとする。ただし、この心理的連結はそのままでは人格同一性の基準にはならない。たとえば三歳の私と九十歳の私に心理的連結性は見出せないからだ。しかし私は三歳の時から常に心理的連結性を維持して生きてきたことは確かである。三歳のときと四歳のとき、五歳のときと六歳のとき――というような個々の時点の直接的連結は、時間経過によって薄れたり失われたりしながらも、それら連結の全体を見たならば一つの推移的な系列を成しているはずだ。この系列をバーフィットは「心理的連続性(psychological continuity)」と呼び、これを人格同一性の基準とすればよいと考えた。このようなパーフィットの理論は「緩やかな記憶説」とも呼ばれる。 パーフィットは人格の同一性問題を通時的な「何か」の同一性問題から、類似性と関係の問題へと置き換えた。この理論によって人物分岐のパズルケースを考えるならば、心理的連続性は「現在の一人と未来の一人」だけでなく、「現在の一人と未来の三人」の関係にも成り立ち得ることになる。このことは倫理的に大きな問題を引き起こすことになる。 パーフィットの理論を敷衍して解釈すれば、昨日寝る前の自分と今日起きた自分との同一性も恣意的な問題だということになる。六十歳の人物Aがいる場合、人物Aが五歳だったときと心理的により近いのは、六十歳の人物Aではなく、現在五歳である別の人物Bかもしれない。「私」の同一性が規約に過ぎないならば、「類似性」によって五歳の頃の人物Aと同一なのは五歳の人物Bである。別の見方をすると、五歳のときの人物Aは死んでおり、今の人物Aは別人である。しかし五歳の頃の人物Aは人物Bとして再生しているとも解釈できる。つまり通時的な「主体」を措定しないということは、死ぬべき「主体」も考えないということである。パーフィットはこのような自らの人格論に基づいて功利主義的な倫理学を展開する。 森岡正博はパーフィットの倫理学を次のように解説している。 >私と他者の間には越えがたい溝があると言われている。しかし、もし人格の同一性が重要ではないのなら、私と他者の断絶は、今の私と将来の私を隔てている断絶と、同じ種類のものであると言える。 >〔……〕 >従って、他者であろうと将来の自分であろうと、今の私と心的に連続している程度に比例して倫理的な配慮をすることが基本的に推奨される。この場合、私の人生の時間軸上における心的な連続性の薄まりと、私と他者の間の心的な連続性の薄まりとの間に、本質的な区別はない。このような立場を取る点で、別個独立な人格の存在に基礎を置くロールズ流の倫理学とたもとを分かつと言われるのである&footnote(森岡正博「デレク・パーフィットと死の予感」1988年)。 とはいえ存在論的問題については、或る特定の時点において人物Aと人物Bが同一人物であるとすることはできないので、パーフィットの理論においても核心的な問題は解消されていない。その点を突いたのがリチャード・スウィンバーンである。 スウィンバーンはパーフィットに反し、人格の同一性について非還元主義的な「魂説」を擁護している。そしてスウィンバーンもパーフィット同様に脳科学の知見を援用している。科学的に脳は左脳と右脳に分割可能であると考えられている。もし左右の脳を分割した場合、次の四つのパターンが考えられる。 >パターン1: 左脳が私である >パターン2: 右脳が私である >パターン3: 両方とも私ではない >パターン4: 両方とも私である いずれのパターンも不合理であるとして、スウィンバーンは同一性の根拠を物理的な脳に帰することを拒否する。もし重大な事故などで自分の肉体が激しく損傷し、無傷であった自分の脳の半分が別の身体に移植されるとする。手術が成功したらとりあえずその人物が「私」であると人は直観的に思うだろう。しかし残った元の自分の身体と脳が奇跡的に救ったらどうだろう? 先に移植に成功した脳が「私」であり続けるか否かが、他の肉体の手術に依存することになる。これは不合理である。したがって「私」が現在作られている物質も記憶も「私」にとって本質ではない。人格の同一性の本質はもっと「根源的(ultimate)」なものだとスウィンバーンは考える。 仮にいかなる実体も存在するための二つの始まりを持つことはできないという前提なら、ある人間が存在をやめたならばその人が再び存在するようになる論理的可能性はない。しかし二つの始まりを持つことはできないという原理を採用する十分な理由がない。つまり「私」が千年後、一万年後といった遥か未来に存在する可能性は論理的に否定できない。その可能性は人格の同一性の本質が「根源的」なものであることを示している。またそのことから、ノンレム睡眠時や肉体の死の後でも、魂が存在し続けていることが推論できるとスウィンバーンは考える。 スウィンバーンにとって物理的な脳とは、魂が作動するための条件なのである。したがって魂のみが身体から分離される可能性も認められることになる。これはデカルト的な実体二元論を前提するものである。そしてこの非還元主義の立場からパーフィットに対して、還元主義が非人称の仕方で記述できるとする心理的な出来事は、実際には人格同一性を前提している、という批判を行っている。つまり心理的統一性とは、ある人格が諸経験を所有していることだとみなすものである。ある時点で「私」がもつ諸経験を統一しているのは、それらがすべて「私」の経験であるという事実によるのであり、諸経験が通時的に一つの人生に統一されるのも、それらが「私」のものだからであるとスウィンバーンは考える。 以上、パーフィットとスウィンバーンの説を簡潔に紹介したが、双方共に難点があるのは明らかだと私は考えている。パーフィットはヒュームの還元主義を前提にしており、人格については存在論的に通時的な数的同一性が成り立たないとして、現在における「私」と未来の「私」の類似性しか認めないのであるが、それは双方の「私」が同一であり得ないという「非同一性」の証明を抜きにしているのが難点である。一方スウィンバーンの非還元主義は、まさにその非同一性の論証ができないことに着目し、「私」が未来において再生される可能性を否定できないことから非還元主義を擁護するのであるが、魂というものを措定した場合、やはり人物分岐のケースにおいて魂がどちらに移動するかという問題で、不合理な解答になるように思える。 参考までに、トマス・ネーゲルは還元主義者ではないものの、スウィンバーンのような非還元主義には懐疑的である。仮に人格の同一性を保存する魂のような形而上学的な自我があったとしても、その自我が時間を越えてそれ自体の同一性をもつ持続的な個体であると言うなら、それについてもまた「その自我は依然として私であるのか?」と同様の問いが立てられるものでしかないからである。その自我の同一性は、それがもつ経験は全て私のものであるという事実にのみ基づいており、何がそれらの経験を全て私のものにさせるのか、という問題を説明する力はないとネーゲルは言う&footnote(トマス・ネーゲル著 永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』pp.311-2))。 このようなネーゲルの洞察は、独我論と意識の超難問につながっていくことになる。これは後述し、そこで引き続きパーフィットとスウィンバーンの難点をより詳細に論じることにする。 ところで記憶説と身体説、また還元主義と非還元主義、いずれの立場を取るにせよ、最終的にはクオリアの存在論にコミットせざるを得ないはずである。心の哲学ではデカルト以来、物的なものと心的なものの実在性を巡って膨大な議論が積み重ねられてきた。仮に物的なものだけが実在的であるならば、人格の同一性の基準を心理的なものに置く立場は、その基盤が揺らぐことになるはずであるし、逆に心的なものだけが実在的であるならば、身体説の基盤が揺らぐはずである。 次節では心の哲学における物理主義と、物理主義に反対する諸説の、人格の同一性に関連した部分を概観して行きたい。 **4 物理主義と反物理主義 心の哲学における物理主義とは、クオリアなどの心的な現象は物的な実在に還元できるという主張である。物的なものと心的なものは認識のされ方として異なることは認めるが、物的なものだけが実在的であるとする。これが存在論的還元である。逆に二元論ではその還元を認めない。 物理主義と二元論の対立の源は紀元前にまで遡ることができるが、近代的な議論はデカルトから始まっている。デカルト以降の議論を整理するならば、心の哲学における主要な立場は以下の四タイプに集約できる。 >Position_1: 物的なものだけが実在である >Position_2: 心的なものだけが実在である >Position_3: 物的なものと心的なものは、双方が実在である >Position_4: 物的なものと心的なものは、一つの実在の属性である Position_1は物理主義や唯物論である。Position_2は現象主義や観念論である。Position_3はデカルトの実体二元論である。Position_4は中立一元論や性質二元論である。現代の二元論者には実体二元論の立場を取るものは少なく、単に「二元論」と言う場合、中立一元論や性質二元論を指しているケースが多い。 ところで物理主義の立場でも、同一説では物的なものと心的なものを「同一」とみなすので、物的なものが実在的ならば、それと同一状態にある心的なものも実在的だとみなす考え方もある。いずれにせよ物理主義とは、世界の全ては物理的に記述でき、心的なものは物理的なものに還元できるという立場である。 物的な現象のみが実在すると考えるか、それとも心的な現象も実在すると考えるかは、存在論の根本問題でもある。人格の同一性問題は、同一性の基準を心理的なものに置く立場でも、物理的なものに置く立場でも、この存在論の根本問題を避けて論じることはできないはずである。 物理主義の考え方では、実在しているものは物的なものだけなのだから、物的なものの時空的連続性によって人格の同一性を考えれば良いことになる。これは身体説・物理的基準に近い。ただし時空的連続性や因果関係とは、存在者がどのような脈絡によって存在するかを説明するものであって、同一性を説明するものではない。したがって物理主義者でもシドニー・シューメーカーのように、同一性の基準を心理的なものに置く者はいる。シューメーカーによれば、心理的基準は物理主義とも二元論とも両立可能なものである&footnote(リチャード・スウィンバーン、シドニー・シューメーカー著 寺中平治 訳『人格の同一性』p.220)。いずれにせよ物理主義では、パーフィットが定義した「複合理論」を採用し、「単一理論」は否定することになる。魂のような単一の非還元主義的な主体は、物理学の枠組みを逸脱したものだからだ。 柴田正良によると、同時に複数の「自分」を作れば、彼らは皆自分とみなすのが素朴な物理主義(folk physicalizm)である&footnote(柴田正良『ロボットの心』pp.19-20)。したがって「スワンプマン」のような自分の複製体が出現した場合、二人の私はいずれも「同じ私」であるということになる。ただしこの素朴物理主義は存在論的に厳密な数的同一性を主張するものではない。既述したように人の身体を構成している分子は絶えず入れ替わっているので、人は素粒子のレベルまで同一性を維持したまま生きることはできない。換言すれば、現在の「私」とは常にそれ以前の「私」のコピーであると考えることができる。ならばスワンプマンのような「私」のコピーが作られても、それは規約の問題として「私」であると考えることができるというわけだ。つまり「私」とは個体(トークン)としては常に変化し続けるものであるけれど、種類(タイプ)としては同一であり続けるというのが、素朴物理主義による人格の同一性の説明である。 なおスワンプマンの思考実験を行ったドナルド・デイヴィッドソンは、外的な事物と志向的な関係をもつためには、その事物との因果的なつながりが過去になければならないとする「歴史主義」の立場を取り、スワンプマンを自分と同一とは認めていない。 物理主義の最大の特徴は、クオリアは存在論的に脳状態に還元できるとする還元主義にある。還元主義では、たとえば人物Aの脳状態がB1であり、そのときにクオリアQ1があった場合、B1とQ1は認識のされ方としては異なるが、存在としては同一なのだと考える。これが同一説である。同一説は物的タイプと心的タイプの同一性を主張する「タイプ同一説」から始まり、物的トークンと心的トークンの同一性に範囲を限定する「トークン同一説」へと発展した。「機能主義」や「表象主義」など、現代の物理主義的な立場の多くはこのトークン同一説を前提としている。トークン同一説は心脳問題についての物理主義の標準見解と言ってよい。ところで現代では単に「同一説」と言う場合はタイプ同一説を指し、トークン同一説は「トークン物理主義」と呼ばれて使い分けられているのだが、双方は心脳関係論としては基本的に同じものである(以下双方を「同一説」と略す)。 同一説の最大のメリットは、クオリアが脳の物理状態と同一であるとすることで「心的因果」の問題を解消できるように思えることである。二元論ではクオリアの存在論的還元を認めないのだが、しかし物理的出来事の原因は物理的出来事のみであるとする「物理的領域の因果的閉包性」という原理があるために、クオリアは物理的世界に何の影響も与えないという指摘がある。これが現代二元論の最大の難点であるが、同一説ではクオリアは脳の物理的状態と同一なのだから、物理的出来事と同一であることによってクオリアが因果的に作用していると物理主義では考えることができる。 しかし心的なものと物的なものは同一の出来事だと考えても、物理的出来事の連鎖は全て物的なものだけで説明できるのならば、クオリアなど心的なものは仮に存在しなくても物理的世界は何も変わらないということになるかもしれない。その問題を指摘したのがデイヴィッド・チャーマーズによる「哲学的ゾンビ」である。 哲学的ゾンビとは、物理状態は人間と同じで人間同様に行動したり会話したりするにも関わらず、クオリアなど心的なものが欠如した存在と定義される。実際、物理主義では心的なものが物理状態に因果的に作用することはないとされているのだから、物理状態が人間と同じならば、クオリアが欠如したゾンビが人間同様の言動をすることは論理的に可能だと認めるしかないことになる。もちろんチャーマーズ自身も、また物理主義を批判する他の哲学者たちも哲学的ゾンビが現実に存在可能だと考えているわけではない。哲学的ゾンビの思考実験とは、「物理主義が正しいなら哲学的ゾンビが存在可能である」とする一種の背理法であり、また脳の物理状態とクオリアの相関関係が必然的なものではなく、偶然的なものであることを示すものである。ちなみにこの相関関係の偶然性についての論証は 1980年のソール・クリプキ『名指しと必然性』(1970年代の講義集)によってなされており、チャーマーズの哲学的ゾンビはクリプキの議論を飛躍させたものである。 チャーマーズやクリプキの議論は強力なものであるように思えるが、物理主義の立場は次のように反論する。脳の物理状態とクオリアは確かに異なった認識のされ方をしているが、それは双方が「非同一」であることの論証ではない。科学が発展すれば、かつては異なった星だと思われていた明けの明星と宵の明星が、実は同一の星であることがわかったように、脳の物理状態とクオリアが同一であることもわかるかも知れない、と。 確かに双方の非同一の証明は難しいかもしれない。しかし脳とクオリアには、かつて科学が明らかにしてきたものたちの同一性とは根本的に異なった要素があるように思える。明けの明星と宵の明星は同一の星だったというような同一性の発見は、人の認識において科学的に記述できる現象たち、つまり物的なものと物的なものの関係に限られている。 私は子猫を見ると「可愛い」という思いを抱く。もちろんその思いは脳の物理状態と相関しているだろう。その脳の状態は fMRIなどで客観的に見ることができ、科学的に記述できるかもしれない。しかし「可愛い」という思いは第三者が見ることができず、科学的に記述できない。 私が子猫を見るときに経験する現象を次のように並べるとわかりやすいかもしれない。 >現象1: 子猫の知覚像と、fMRIで見ることができる脳の物理状態 >現象2: 「可愛い」という思い 客観的に見ることができて科学的に記述できる現象1が「物的なもの」と呼ばれ、主観的にしか経験できず科学的に記述できない現象2が「心的なもの」と呼ばれる。そして物理主義者は物的なものだけが「実在」だとして、心的なものは物的実在に還元できると主張する。 しかし自分の経験をよく反省してみればわかることだが、現象1も現象2も、ともに自分が経験する現象(クオリア)ということでは何ら差異がない。現象1は物的なものとは言っても、それは私が視覚的なクオリアとして認識したものである。 ここでクオリアという語の解説をしておこう。クオリア(qualia)はラテン語の「qualitas」に由来し、「質感」という意味である。歴史的にはクオリアと同様の意味で「表象」「知覚」「現象」「直接経験」などが用いられてきた。素朴心理学的に用いられる「意識」も類似の意味であり、ジョン・サールはクオリアと同じ意味で意識という語を用いている。しかし現代では意識という語は多面的であり、「アクセス意識」「機能的意識」「現象的意識」「無意識」などと使い分けられているので、混乱を避けるため、また「質感」という意味に重きを置くため、私はクオリアという語を用いることにする。なお感覚と思考を別ものとして扱う論者は、クオリアと思考を区別する場合もあるが、思考内容には常に固有の質感が伴っているはずだ。サールは次のように述べている。 >もしあなたが二足す二は四に等しいと考える場合、そこに質的な感覚がないと考えるなら、それをフランス語やドイツ語で考えてみよう。たとえ、 2 + 2 = 4 という志向内容が英語の場合とドイツ語の場合とで同じだったとしても、「zwei und zwei sind vier」と考えることは英語で考えるのとはまったくちがう感じがする。&footnote(ジョン・R・サール 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』p.179) 茂木健一郎もサールとほぼ同様の見解を示している。 >「ギラギラ」や「ピカピカ」といった、質感そのものとも言える〈あるもの〉はもちろんのこと、数字や記号、言葉といった、一見質感そのものとは独立した抽象的な形で私たちの意識の中に存在するかのように見える〈あるもの〉もまた、それが意識の中で〈あるもの〉として感じられる以上、一つのクオリアである。&footnote(茂木健一郎は『意識とはなにか――〈私〉を生成する脳』 pp.030-1) 私が経験しているものたちは常に、視覚的なクオリアであり、聴覚的なクオリアであり、嗅覚的なクオリアであり、味覚的なクオリアであり、触覚的なクオリアであり、思考的なクオリアである。要するに、私の経験は「全てクオリア」である。これは認識論的な事実である。 人は自分が経験するクオリアたちのうち、或るタイプのものたちを物的なものと分類し、別のタイプのものたちを心的なものと分類する。&strong(){クオリアは「物質」の反対概念であるかのように理解している人が多いが、それは大きな錯誤であり、クオリアの反対概念とは物質ではない。一連のクオリアの経験から存在が推測された「実在」というものなのである。} 私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消える。しかし目を開けると再びモニターが見える――。このようなクオリア経験の秩序や規則を説明するために作られたのが「実在」という概念である。その実在を前提にした生活の態度が「素朴実在論」と呼ばれるものである。 しかし哲学的にはその実在なるものを安易に容認することはできない。それは人が原理的に経験できないからである。また仮に実在というものを措定せずとも、諸々のクオリアの経験は説明できてしまうからである。――私の前にはパソコンのモニターがある。目を閉じるとモニターは消える。しかし目を開けると再びモニターが見える――。これら一連の経験から推論できるのは、或る行為としてのクオリアには或る結果としてのクオリアが必然的に伴うという、クオリア経験の「秩序」の存在だけであり、「実在」などというものは見つからない。このような洞察から物質的実在を否定して、現象(クオリア)とその秩序の存在だけが確実だと考えたのがジョージ・バークリーの現象主義である。なお現象主義とは対極の立場として、存在論的に実在というものを認めようとするのが形而上学的実在論や科学的実在論になる。 ここで膨大な議論の堆積する実在論論争を詳述することはできないが、少なくとも物質的実在というものは推測されたものであり、それは「仮説」だということは事実である。したがって、上述の現象1と現象2に「実在」と「非実在」の区別をするのは論理の飛躍である。また現象1のどこを探しても現象2はない。にもかかわらず両者が「同一である」とか、現象2が現象1に「還元できる」という主張は飛躍の上に飛躍を重ねていることになる。 ところで物質的実在という仮説を前提されたものに「意識の断絶」や「無意識」というものがある。素朴実在論的な観点からは、私はノンレム睡眠状態では意識が断絶していると推定されるし、考え事をしながら歩いているときの足の一歩一歩の動きなどは無意識の動きであるように思われる。しかしそれらもまた仮説である。バークリーやヒューム、大森荘蔵のように経験主義を徹底した立場からすると、確実に存在していると言えるものは、現実に経験しているもの、というよりは「経験そのもの」であるクオリアだけである。物質的実在や意識の断絶や無意識は、クオリアから推定された仮説だというのが事実なのである。 今一度、上述の現象1と現象2を見比べてみよう。現象1であるクオリア、つまり脳のような物的な存在は部分を持つ。しかし「可愛い」という現象2のクオリアは部分を持たない。部分を持たず、他の何かに還元して説明できない性質のことを「全一性」と言う。しかし脳は全一的でなく、何百億という細胞から構成されており、さらに細胞は分子から構成されている。最終的には素粒子にまで還元できる。このように部分から構成されるものと、部分を持たない全一的なものを同様に扱うことはカテゴリー錯誤である。仮に部分から構成される脳と全一的なクオリアが「同一」だとするならば、脳細胞が一つでも欠けたら全一的なものはどうなるのだろう。また脳細胞を一つだけ他人の脳細胞と交換したらどうなるのだろう? ここに堆積のパラドックスが生じることになる。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」――この事実を物理主義者は軽視している。 物的なものと心的なものは、どのように観察しても相関関係しか見つからない。事実はこれだけである。その相関関係を因果関係と解釈するのは既に飛躍であり、存在論的に還元できるという主張は、もはや別次元の空疎な形而上学であると私は考えている。 もちろん、物理主義の立場が還元を主張するのには重大な根拠がある。それは前述した心的因果の問題である。物質的な脳の状態にクオリアを還元して考える同一説ならば、心的因果が無理なく説明できる。しかし同一説を否定する二元論や現象主義では、どのように考えても物理的領域の因果的閉包性のために、心的なものは物的なものに何の影響も及ぼすことができない。ここから帰結するのは「随伴現象説」、あるいはスピノザが主張した「心身並行説」ということになる。それらは同一説と比較して理論がシンプルでなく、節約の原理(オッカムの剃刀)に反しているように思われる。 ただし重要な点であるが、物理主義と同一説には大きな前提がある。それは、この世界には「因果関係」というものが実在する、というものである。もちろん素朴な観点からは因果関係の存在は当然であろう。たとえば缶コーヒーを自動販売機で買った場合、自動販売機にコインを入れたのを「原因」として、缶コーヒーが出てきたという「結果」が生じたということを疑う人はいない。しかしこのような因果関係の説明には強力な批判がある。デイヴィッド・ヒュームによれば、因果関係とは或る出来事には後続して或る出来事が伴うということを、人が繰り返し経験することから推論された仮説にすぎない。因果関係とみなされている「原因―結果」の関係とは、実は必然的な関係でなく偶然的な関係であるかもしれない。因果関係とは世界の事実としてあるのでなく、人の認識の在り方にすぎないかもしれない、とヒュームは懐疑した。 仮に因果関係が実在するならば、物理主義が主張するように心的なものは脳状態に還元されるしかないように思える。脳状態と「同一」でなければ物的なものに因果的に作用することはできないからだ。しかし、ヒュームの言うように因果関係が実在しないならどうだろう? その場合、心的なものと脳状態は因果関係があるように見えるが、実は或る心的なものには或る脳状態が伴うという、恒常的な「相関関係」のみがあるというのが事実となる。 ヒュームの因果関係論を根本的な部分で肯定したのがイマヌエル・カントである。カントの哲学は物理主義に対する強力な批判と受け取ることができる。 カントは時間、空間(および空間的な存在である物質)、そして因果関係の実在を否定した。カントによれば、時間、空間、因果関係が実在するならば、いずれも限界を想定することはできないから、それらは無限に存在しなければならない。しかし「無限の存在」とは「限りがない」という意味での無限の概念と矛盾している。無限とは行為や操作に属する概念であって、存在に属する概念ではない。従って時間、空間、因果関係は実在(物自体)ではなく、人の認識の形式である。――これがアンチノミーの論証である。このカントの論証は強力であり、未だ反駁に成功した哲学者はいないと私は考える。カントの論証が正しければ物理主義の大前提である「物質的実在」と「因果関係の実在」は阻却される。つまり物理主義は根底から間違っているということになるかもしれず、心的因果の問題も再考を迫られることになる。 ともあれ、カント哲学は問題性が大きすぎるので、ここではこれまで概説してきた分析形而上学とは異次元の形而上学があることを紹介しておくに留めておく。 ここで話を人格の同一性に戻すことにする。物理主義的な還元主義が正しいか否かはともかくとして、心的なものは全て物的な脳と相関して存在していることは二元論者も現象主義者も否定しない。「私」も特定の物理状態と相関して存在しているということである。物理法則は普遍的なので、もし「私」と相関するその特定の物理状態が、もし未来において再現されたなら、この「私」も再生されるということになる。 しかし同一の物理法則によって、未来に複数の「私」が誕生したならばどうなるだろう。ここでパズルケースが生じることになる。物理主義的には、それら複数の「私」はタイプとして同一だがトークンとして異なるだけだと考えることができるかもしれない。しかしタイプとトークンの区別だけで解消しない難問がここにはある。未来における二人の「私」のうち、どちらが現在の「私」と同一なのか? と問うことができるからだ。 ここで「どちらも時間的に離れているから別のトークンだ」と考えたくなるかもしれない。しかしそれは認識論的問題に過ぎない。存在論的には「非同一性」という問題があるはずである。時間を隔てて存在する「私」が非同一であることを、一体どうやって証明するのだろう? この難問の根源には物理主義的な方法論では解消しないクオリアの存在論がある。クオリアは主観的で一人称的にしか記述できないものだからこそ、時間を隔てて存在する同タイプのクオリアが、トークン存在として異なっているのか、それとも同一なのかという問題が物理主義的方法では分析できないのである。第3節で紹介したように、それらの問題を理由にスウィンバーンは、人格の同一性は経験的な事実では分析不可能だとし、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性から、非還元的主体を肯定している。 私はスウィンバーンの立場を全面的に肯定しないが、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性は事実であると考える。そしてその事実から物理主義の綻びが見えると考えている。 しかし、全く異なる観点から上述の難問を解消しようとする「四次元主義」という試みがある。四次元主義は相対性理論を前提としているため物理主義と親和的である。この立場では既述した人物分岐のパズルケースも上手く説明できるとされている。次節では四次元主義を概観し検証してみたい。 **5 三次元主義と四次元主義 四次元主義は W.V.O.クワインやデイヴィッド・ルイスなどによって提唱された。三次元主義では、物体は三次元空間の中に完全に存在(wholly present)しており、これが時間を越えて存続(endurance)し続けると考える。これに対し四次元主義では、物体は時間的に延続(perdurance)しているものであり、三次元空間に現れるのは瞬間的部分(一時的内在的性質)に過ぎず、四次元時空の中にこそ完全に存在すると考える。 三次元主義では一つのものが相反する複数の性質を持つことはないと考える。たとえば「丸く、かつ四角いものはない」というように。これは常識的な見方でもある。しかし四次元主義では一つのものは時間的な幅をもった存在であり、性質は時間によって異なるのだから、一つのものが相反する複数の性質を持つことができると考える。 ヘラクレイトスは「同じ川に二度入ることはできない」と言ったが、四次元主義の立場からすると「川」とは瞬間的な諸状態の和である。したがってクワインはヘラクレイトスの主張を分析し、同じ「川の段階(river stage)」に入ることはできないが、同じ「川」に入ることはできると考えた。この場合の「同じ川」とは、瞬間的な川の段階に対して、「川の過程(river process)」が同一だということである。&footnote(W.V.O.クワイン『論理学的観点から』pp.84-5) 四次元主義は相対性理論から導出された「永久主義(eternalism)」を理論的支柱としており、「ブロック宇宙」こそが真の実在であると考える。ブロック宇宙とは数学的概念であるミンコフスキー空間を実体化したような四次元時空の「塊(ブロック)」である。ブロック宇宙内部では世界の過去・現在・未来の出来事が全て対等に存在しているとされる。つまりブロック宇宙の過去の或るポジションでは恐竜は生きており、別の或るポジションではナポレオンはセントヘレナ島に幽閉されており、別の或るポジションでは地球が赤色巨星となった太陽の影響で消滅している。時空上の全ての出来事は永久に存在しているするこの考えが永久主義である。 永久主義の反対概念は「現在主義(presentism)」である。一般の人は「過去」とは消えてしまったものであり、「未来」とはまだ存在しないものだと理解している。これは素朴な時間論と言える。なお三次元主義は現在主義と親和的であるが、両者は必然的に結合するわけではない。現在主義とは永久主義と対立する形而上学である。 四次元主義では、現実に存在しているブロック宇宙というものの特定のポジションに、過去の出来事も未来の出来事も全てが存在すると考えるので、それまでの時間・人格の同一性の議論と比較すると、極めて革命的な主張であると言える。 相対性理論では時間と空間は不可分であり、双方を「時空」として一つのものとして扱う。デカルト的に分類すれば、物質は空間的な領域を持つものとして規定できるが、精神は空間的に位置を特定できず純粋に時間的存在である。しかし四次元主義では物体が空間的な領域を持つならば時間的な領域も持つということになり、物体も精神も時間的である。つまり四次元主義では人格の同一性の基準は時空的連続性ということになる。 四次元主義は相対性理論を前提としているので、物理主義的傾向が強い。ただし物理主義者や物理学者全てが四次元主義を支持しているわけではない。相対性理論によって記述される四次元時空に実在性を認めず、それは単なる記述方法、あるいは規約とみなす立場もある。その立場では当然ブロック宇宙や永久主義という形而上学は拒否することになる。 ここで近年の時間の哲学を簡潔に紹介しておく。二十世紀以降の時間論はアインシュタインの相対性理論と、ジョン・マクタガートの時間の反実在論がベースになっている。マクタガートは時間を以下の三つのタイプに分けている。 >A系列: 出来事たちを「過去である」「現在である」「未来である」と、変化を表す時制述語によって説明する時間 >B系列: 出来事たちを「~より以前」「~より以降」と、順序を表す関係語によって説明する時間 >C系列: 出来事たちは無秩序に存在している(時間は実在しない) マクタガートの主張の核心は、「変化」の概念を含むA系列こそが時間の本質であるが、A系列は矛盾しているので時間は実在しないというものである。つまりA系列においては、或る出来事は「過去である」「現在である」「未来である」という三つの属性を持たなければいけないが、それら三つは排他的であり、したがってA系列は矛盾しているということである。しかしB系列が時間の本質だとするわけにもいかない。B系列は年表のようなものであり、人が現実に体感する変化の感覚が描けていないとマクタガートは主張する。 ここでマクタガート時間論を巡る議論の詳細は解説できないが、マクタガート以降の哲学者はA系列を支持するか、B系列を支持するか、それともマクタガートによる時間の非実在の論証を認めるかの、およそ三つの立場に分かれる事になる。 B系列は相対性理論と親和的である。全ての時点を対等に扱う相対性理論では、「現在」に特権的な地位を与えることが出来ず、或る出来事は他の出来事より「以前」とか「以降」という関係語で時間を表すことになる。もちろん特定の時刻を「現在」として出来事を記述することは出来るが、それは「他の現在」と相対的な現在となり、A系列が想定する特権的な現在ではない。従って永久主義者はB系列の時間を前提としているということである。 &sizex(-1){※ところでB系列イコール永久主義というわけではない。B系列とはあくまで時間の記述方法が永久的だということである。永久主義とは記述される存在も永久的だと考える形而上学である。} 「変化」と「同一性」は相反する概念であり、変化とは「同一でありながら異なるもの」という矛盾概念であった。四次元主義の大きな利点はこの矛盾を解消できるように思えることである。四次元主義では、一つの存在が時間的幅を持ち、かつ時点によって異なる一時的内在的性質を持つとすることで、変化と同一性を矛盾無く説明できるのである。 四次元主義ならばライプニッツの法則、つまり「不可識別者同一の原理」と矛盾せず人物の同一性を説明できることになる。ライプニッツの法則とは、AとBの全ての性質が同一であり、区別が不可能ならばA=Bが成り立つとするものである。しかしこの原理を厳密に解釈するならば、立っていた私が椅子に座っただけで「座っている私」は「立っている私」と別の存在だということになる。 人は身体を曲げて座っていることがあれば、真っ直ぐ立っていることもある。この場合「身体が曲がっている」や「身体が真っ直ぐである」といった性質は、ある特定の時間帯のみに対応した内在的な性質であると四次元主義では考える。 「真っ直ぐである」形状と「曲がっている」形状とは両立しないので、デイヴィッド・ルイスは変化というものを説明する以下の三つの方法があると考えた。&footnote(参考:小山虎「時間的内在的性質と四次元主義」、セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』pp.172-3) >現在主義: 永久主義に対し、本当の時間はただ一つ「この現在」だとし、内在的性質はこの現在のみが持っていると考える。過去において持っていた内在的性質は、既に存在していない。つまり私の身体は、この現在「真っ直ぐである」というだけである。かつて曲がっていたことは事実であっても、このことから私の身体が「真っ直ぐである」、かつ「曲がっている」という矛盾した帰結は引き出されない。これは三次元主義の一種である。 >関係主義: 形状は内在的性質ではなく、存続(endurance)する対象と特定の時点との間に成り立つ関係だと考える。一つのものはそれぞれの時点に完全に現前している。私が身体を曲げる場合、私は或る時点に対し「曲がっている」関係を持つ。別の時点においては「真っ直ぐである」関係を持つ。この関係主義も三次元主義の一種であるが、現在主義と異なり、全ての時間を同等のものとして扱うので、永久主義を含意していると考えられる。 >四次元主義: 四次元主義では、内在的性質を持つのは対象自身ではなく、対象の時間的部分であると考える。「真っ直ぐである」「曲がっている」といった両立不可能な内在的性質は同じ時点に属するわけではない。異なる時間的部分において両立しない性質を持つことは、延続(perdurance)している対象自身が両立しない性質を持つことを意味しない。私が身体を曲げたりする場合、一時的内在的性質(temporary intrinsic property )として「曲がっている」という時間的部分を持つということである。 ルイスは現在主義と関係主義を否定する。現在主義は「現在」以外の時間の実在を否定することで持続そのものを否定することになる。物体が現在にしか存在しないならば変化は存在せず、次の時点におけるその物体と今現れている物体との同一性さえ問うことができない。そして一時的内在的性質を否定する関係主義も現在主義と同じ問題を抱える。よって四次元主義が正当だと結論される。 また四次元主義は「段階説」と「四次元ワーム理論」に分けられる。ただし両者は必ずしも対立し合うものではない。段階説とはワーム理論を前提にした理論である。 ワーム理論では、持続物は瞬間的な段階の組み合わせから成るのではなく、時間的に延続した時空ワームであり、それが基礎的な存在であると考える&footnote(セオドア・サイダー著 中山康雄 他訳『四次元主義の哲学』p.336)。ワーム理論によれば「人格」とは「道路」のようなものである。一本の道路は幅や路面が微妙に変化しながらも続いている。人物分岐のパズルケースについては、一本の道路が二本に分かれる場合、三叉路で三つの道路がつながることになるように、分岐した人物たちも時空上で重なっていると考える。 段階説は、パーフィットがさまざまな思考実験を根拠に主張した「心理的連結性」や「心理的継続性」を認め、人物とその身体は同一であるとし、それは瞬間的な段階(momentary stages)の集合体であると主張する。段階説によれば、ある人格がある時点において一つの身体を占めている時、かつその時のみが、その人格の「段階」ということになる&footnote(前掲書 pp.336-9)。つまり「人格」とは人格的統一(personal unity)関係と言えるような多数の段階で構成されているということである。なおその「段階」は瞬間的なものであり持続しないため、今と未来の段階は同一ではないということになる。たとえば今の私と三秒後の私は微妙に変化しているため、数的に同一でないということである。段階説は人格の同一性の問題を、心的または物的な何かの同一性から、段階と段階の関係に置き換えたものである。 段階説とワーム理論の相違点は、段階説の「段階」とはワームから切り取られた諸々の段階を指示しているということである。 以下は四次元主義の段階説とワーム理論による人物分岐の説明図である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_1.gif) 図1では、人物Aが脳分割によってレフティとライティに分裂していくケースを描いている。段階説では各時点に各人格があり、別の時点の人格とは存在論的に異なり、そして人格の同一性は段階同士の関係ということになる。対してワーム理論では時間的に延続した人格があって、人物分岐時点では人物Aとレフティーとライティーが重なっていることになる。 以上のような四次元主義の説明は、一見人物分岐のケースにおける人格の同一性問題を上手く解消しているように思えるが、それは認識論的問題が中心であり、存在論的には曖昧さがある。既述のように人格の同一性が難問なのは、人には第三者が観察できないクオリアという内在的な性質があるからである。四次元主義は物理主義的傾向が強いため、やはりクオリアの存在論がないがしろにされている。 四次元主義の立場から「痛みのクオリアは時間的に延続している」と言うのは容易いだろう。しかし、例えば私が十秒間痛みを感じた場合、その痛みのクオリアは十秒間同じ状態にあるわけではない。最初は激しい痛みがあったとしても、その痛みは徐々に和らいでいくだろう。では最初の一秒間の激しい痛みと、最後の一秒間の和らいだ痛みは「同一」なのだろうか?  ワーム理論ならば十秒間の痛みを一つの存在者と考えるだろう。しかしこの立場は人物分岐のケースでアポリアが生じることになる。或る人物が脳分割によってレフティとライティ分岐した場合、両者は分割前の人物と共通の時空部分を持っているので、どちらも分岐前と「同一」と考えることができるが、それは認識論的な「規約」の問題にすぎず、存在論的な数的同一性問題を置き去りにしている。特にクオリアは主観的な存在者なので、或るクオリアを「私」とするならば、同時に存在している別のクオリアは必ず「他者」でなければならない。ワーム理論はテセウスの船のように、対象の概念的な同一性問題を扱うには適しているが、厳密に存在論的な同一性問題を扱えるものでないだろう&footnote(参考:前掲書 pp.32-4、351-4、358-9、395-6)。 仮に「私」と相関する脳が分割され、レフティとライティになった場合、次の三つのケースが考えられる。 >ケース1: レフティが「私」である >ケース2: ライティが「私」である >ケース3: どちらも「私」でない >ケース4: どちらも「私」である レフティとライティがタイプ的に同一ならば、ケース4は規約の問題としてはあり得るだろう。しかし存在論的にはケース1、ケース2、ケース3はありえても、ケース4はあり得ない。つまりワーム理論は質的同一性を規定するには優れた理論だが、数的同一性の問題を解消するには不十分だということである。 一方、段階説ならば(ヒュームが知覚について考えたように)クオリアは僅かでも変化したならば数的に異なる別の存在者だとすることで解決できるように思える&footnote(前掲書 p.351)。しかしその別個のクオリアたちは明らかに相関関係をもって存在している。私の十秒間の痛みは、最初は激しい感覚だが徐々に和らいでいき、やがて何も感じなくなる。さながら十秒間の痛みが一つの存在者であるかのようにクオリアには統一感と持続感がある。各瞬間ごと、たとえば 0.0000001秒ごとに独立した別個のクオリアが生起するとしても論理的矛盾はないのだが、その統一感と持続感が説明し難いように思える。だからヒュームは人格の同一性問題について「迷路に巻き込まれた」と告白したのだろう。 ただし四次元主義では、個別の部分たちが和を構成するか否かという問題(メレオロジー)において、各段階は四次元時空においてつながり合い、和を構成していると考え、各段階は異なる時点に因果的につながった時間的対応者を持つと説明する。したがって独立しているように見えるクオリアたちの相関関係を、「和の構成」として説明するかもしれない。しかしその「和」とは人によって認定される規約的なものにすぎないのであり、同一性についての存在論的問題ではない。クオリアの数的同一性について何も説明しないし、クオリアたちの統一感と持続感の問題を解明する手掛かりにさえならない。 もっとも四次元主義は物理主義の一種のようなものだから、物質的実在を否定したヒュームと異なり、クオリアをもたらす脳の物理的状態が連続的・瞬間ごとに変化しているのに対応して、クオリアたちも瞬間ごとに変化しているのだと考えれば不都合はないように思える。またラッセルもヒューム的な還元主義――刹那的独我論が論理的に成り立つことを主張していたのだった。 しかし、ここにも「非同一性」という難問が到来する。クオリアは僅かでも変化したなら別のクオリアであり、今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアは別の存在者なのだと考えることは可能であるし、そう考えた方が人物分岐のケースも上手く説明できるように思える。しかし徐々に変化していく私の十秒間の痛みが、僅かでも変化したならば「非同一」であることを証明できるだろうか? 「十秒間の痛み」や「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」が、それぞれ時間的幅を持ったクオリアとして、一つの存在者であってはいけない理由がないように思える。 音楽を聴くとメロディーを感じる。メロディーは多数の音が連なり、一つの「全体」を構成する。持続的なメロディーのクオリアは、ベルクソンが強く主張したように、一つの持続的な存在者として考えるべきであるように思える。これは節約の原理にも適合しているだろう。0.0000001秒ごとに個別的なクオリアが生起して、それが何百億と集まってメロディーを構成していると考えることも不可能ではないが、それは理論としてあまりに無駄が多すぎる。 仮に時間が連続的だとすると、一つのクオリアは時間的に無限小の存在者だということになるが、そもそも「無限小」とは実在しないものなので不合理である。また時間にはプランク時間のような最小単位があると仮定しても、それは 5.4×10の-44乗秒というような途方もない極微の時間だということになる。プランク時間ごとに別個のクオリアが生起すると考えるのは直観と節約の原理に反するのはもちろん、現に持続している意識の説明になるのか疑わしい。それは結局ベルクソンが言うように空間化された時間の上に意識を定位させて、物理学と整合させるためにクオリアを細切れにして説明するようなものだからだ。 仮にクオリアが刹那的な存在者であり、全てのクオリアが四次元時空の特定のポジションに永久に固定されているならば、クオリアの「動性」は説明不可能ではないか。なぜ私はメロディーを感じることができるのだろう? これはゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスを連想させる。飛んでいる矢が止まっているように、流れているメロディーも止まっている。これをベルクソンは「死の永遠」と呼んだ。 この辺りに四次元主義の最大の難点が露呈していると私は考える。四次元主義は物理主義的傾向が強いために、前節で物理主義に対して指摘したクオリアの存在論の不在という問題を引き継ぐことになる。そしてスウィンバーンが主張したような、「私」が未来に存在し得ることの論理的可能性を四次元主義は否定できていない(この問題は「独在性」とも関係しているので、第7節でさらに論じることにする)。 ここで論点は異なるが、もう一つ四次元主義の大きな問題点を指摘しておきたい。それは「変化と同一性」という矛盾した概念を認識論的に説明するために、存在論的に大きな派生問題を受け入れざるを得ないことだ。ブロック宇宙、そして永久主義を採用したため、変化と因果関係の実在を否定するしかないのである。もし変化と因果関係の実在を否定することが不合理であるならば、四次元主義は不合理だということになる。 ただし四次元主義者自身は変化と因果関係の実在を否定するわけではない。たとえばサイダーは次のようにラッセルの議論を援用している。 >この火かき棒は、二〇〇〇年六月二十九日の木曜日には熱い。 >この火かき棒は、二〇〇〇年六月三十日の金曜日には冷たい。 >この二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである。&footnote(前掲書 p.42) &sizex(-1){※「時制の還元主義者」とはマクタガートが定義した「B系列」支持者のことである。} また四次元主義を批判するジュディス・トムソンに対し、サイダーは次のようにも述べている。 >分別のある四次元主義者であれば、現時点における時間的部分が存在するようになったのは、直前の時間的部分によって引き起こされたからだと主張するだろう。この過程を支配する法則は、おなじみの運動法則以外の何ものでもない。運動法則とは、ある時間的部分に対して、それより未来の時間的部分が存在することを保証する法則に他ならないのである&footnote(前掲書 p.383) このサイダーの議論は認識論的なレベルに留まっている。各時点における火かき棒の状態は永久に変化しない。それが永久主義である。しかし人が各時点を一挙に鳥瞰するならば、熱い火かき棒が冷たい火かき棒に変化しているように「見る」ことは可能だろう。運動法則が各時点の部分を引き起こし、各時点の存在を保証するという考えも同様のものである。だがそれらの変化とは認識論的なものに過ぎないのである。永久に変化しない各時点の火かき棒に人が因果関係を「見出す」ことで変化を認識しているに過ぎない。 永久主義では各時点の存在は永久にそのままなのだから、変化と因果関係は人の認識には存在しても世界の事実としては存在しないことになる。つまり四次元主義では人における変化と因果関係の認識を説明するために、世界における変化と因果関係の存在を否定せざるを得ないはずである。 ところで特殊相対性理論では「因果的順序」が保存されるという理由で、永久(B系列)と因果が両立するという考え方もある&footnote(参考:中山康夫『時間論の構築』第8章)。つまり特殊相対論では同時性は相対的であり、宇宙に絶対的な「今」は存在しないとされるのだが、出来事Aが出来事Bの原因ならば、どんな観測者にとっても出来事Aは出来事Bより「以前」に起こったように観測される。ゆえにB系列と因果の両立が見出せるということである。しかしここで証明されている「因果」とは人の認識論的事実であっても、存在論的な世界の事実ではない。 仮に可能世界Wに、次のようなマークが永久的に存在していたとしよう。 >W: [1] → [2] → [3] → [4] → [5] このマークを人が見たならば、最初に[1]、次に[2]、次に[3]と、「順序」を認識するだろう。しかしその順序は人の認識にのみ存在するのであって、世界Wの事実としては存在しない。&strong(){各マークは永久に存在しているのだから、[1]を原因として[2]が「生じた」わけではない。また[1]が[2]に「なる」という変化も世界Wにはないのである。} 全てが永久に存在しているというブロック宇宙の立場では、四次元時空の或るポジションを「原因」として、次のポジションが「生じる」という考え方はできない。「永久」と「因果」は存在論的に共存し得ない概念である。サイダーは火かき棒を例に、「二つの判断の真理値は変化しない。にも関わらず、時制の還元主義者は、この一組の文が真であることによって、この火かき棒は変化するというのである」と言う。これはラッセルを始めとするB系列支持者の標準的な見解なのであるが、マクタガートが(ラッセルの時間論批判として)指摘したように明らかな間違いである。火かき棒の「変化」とは、「通時的主体」である人が「熱い火かき棒」と「冷たい火かき棒」に「同一性」があると認識することによって見出せるものである。火かき棒自体は変化していない。これは上述の可能世界Wのマーク[1] や [2]が永久的に変化せず、またマークの全体も永久的に変化しないことに対応している。したがってブロック宇宙では、その宇宙外部にあって変化を認識する通時的主体が存在しなければいかなる変化もない。確かに宇宙内部の観測者は或る出来事を原因として別の出来事が生じたように「感じている」だろう。しかしその「感じている」という出来事も永久的に四次元時空の或るポジションに固定されているのだから、存在論的な事実として、世界にはいかなる変化もないのである。 実際にブロック宇宙説を支持している物理学者の中には時間と因果関係の実在を否定し、四次元の宇宙では何も生起せず、全てはただ「ある」だけだと主張する者もいる ヘルマン・ワイルはミンコフスキーと同様に、宇宙は空間と時間が分かちがたく結びついた四次元連続体だと捉えていた。ワイルはこう言った。 >世界は生起しない、ただあるだけだ&footnote(ポール・デイヴィス著 林一 訳『時間について』p.107) 物理学者のポール・デイヴィスは次のように述べている。 >生起、生成、時間の流れ、出来事の展開――ワイルを信じるなら、これらは全て虚構である。アインシュタインはそう信じた。&footnote(前掲書 p.107) >ゼノンの論法を現代風にいえば、飛んでいる矢は空間の「ブロック」を一つづつ占めているだけであり、いかなる変化もない。世界は凍り付いている。&footnote(前掲書 p.360) 物理学者のブライアン・グリーンは次のように述べている。 >〔……〕出来事は、どの視点から見ていつ起こったものでも、ただそこに存在している。出来事はすべて存在しているのである。それらは永遠の時空内の決まった場所を占め続け、流れるものは何もない。あなたが1999年の大晦日に、真夜中の鐘を聞きながら楽しいひとときを過ごしたのなら、あなたは今もそのひとときを過ごしている。なぜならその出来事は、変化しようのない時空内の場所だからである。〔……〕昔ながらの時間概念が逃げ込める場所は、人間の頭の中しかなさそうなのである。&footnote(ブライアン・グリーン著 青木薫 訳『宇宙を織りなすもの 上』 pp.235-6) 物理教育者の橋元淳一郎は、マクタガートの時間の非実在の論証を擁護して次のように述べている。 >われわれの宇宙(時空)がC系列であるとすれば、宇宙はただ存在するだけである。そこには空間的広がりや時間的経過というものはない。&footnote(橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』p.116) >この宇宙は、ただ存在するだけの相対論的C系列(一覧表)である。ミンコフスキー空間という時空に描かれた一枚の絵といってもよいだろう。&footnote(前掲書 p.132) 高村友也はブロック宇宙説を支持するヒュー・プライスに対し、次のような指摘をしている。 >時間自体に向きがないブロック宇宙の世界では,私たちが過去や未来と呼んでいる方向の区別は,因果関係において特に意味を為さない. >時間の流れというものを,意識がそのように見せているだけの主観的なものとして退けるということは,残された物理的な時間にはもはや,流れる方向であったところの未来や,その逆である過去といった区別も存在しなくなることを意味する,&footnote(高村友也「マルコフ過程と時間の矢」) 以上、多くの論者が指摘しているように、四次元主義は永久主義を前提としているために、巨大な派生問題を受け入れざるを得ないはずである。 もっとも、変化と時間の実在性を否定する議論は紀元前からあり、因果関係の実在性の否定はヒュームによるものが有名である。カントの超越論的観念論のようにそれらの実在性を否定した上で世界を説明しようとする試みもある。従ってそれらの問題は四次元主義が克服すべき課題ではあっても、重大な欠点というわけではないだろう。 四次元主義の最大の欠点は、やはり物理主義同様にクオリアの存在論をないがしろにしている点にある。四次元主義は相対性理論がそうしているように、どの時刻も平等に扱い、神のような視点で時間と空間を一挙に見渡して論じるものである。しかし人は常に「今・ここ・私」からしか世界を見ることができない。それが意識――クオリアの主観的な性質である。そのクオリアの性質は数学的に記述できない。当然ミンコフスキー空間上にも記述ができない。ここに四次元主義とクオリアの相克が明白になる。 サイダーは論文「人の同一性」で次のように述べている。 >今日では、脳の特定の部位が特定の心理的効果とどのように結びついているかまで知られている。心理的状態と脳状態が完全に対応づけられるのはまだまだ先の話だが、これまでの進展からすれば、そういう対応づけがあるという仮説は理にかなっている。つまり心は脳に宿っており、魂は存在しない。そう結論することには筋が通っているのである。&footnote(アール・コニー+セオドア・サイダー著 小山虎 訳『形而上学レッスン』pp.14-5) ここでサイダーは心の哲学の物理主義を明確に支持しているわけではないのだが、「心は脳に宿っており」と物理主義的な還元主義の妥当性が示唆され、かつ「魂は存在しない」と人格の同一性についての非還元主義が否定されている。四次元主義と物理主義が同根の立場であることが示唆されている。 私には、今の私の心は七歳のときの私(だったはずの人物)の心と同一のものだという思いがある。その思いもまた一個のクオリアである。では実際にそのクオリアは、七歳ときの私と相関していたクオリアと「つながり」があるのだろうか? 私が知りたいのはそのことである。四次元主義では物理主義と同様にクオリアの数的同一性について答えられない。 クオリアの探究には、物質的なものを探究するのとは全く異なる困難がある。クオリアとは、固有のパースペクティブによって世界を表象する。いや、クオリア自体がひとつの「世界」を開闢しているとも言える。転んで足を挫いた場合、私は「痛み」のクオリアに支配されるだろう(無主体論的には「痛み」=「私」である)。私の視点からは、その時世界に存在するのは「痛み」だけであるように思える。しかし他者の視点から私の「痛み」が見えるわけではない。世界についての主観的な一人称記述と客観的な三人称記述は対立する。物理主義も四次元主義もこの意識の主観性の重要さに着眼していない。 クオリアの存在論は、主観性と客観性の対立をどう考えるかという問題と不可分である。その問題については独我論と実在論では全くアプローチの仕方が異なることになる。次節以降ではその点を論じたい。 **6 独我論と実在論 独我論にはいくつかのタイプがある。ジョン・R・サールは以下の三タイプに分けている。 >独我論1: 心的状態を持つのは自分だけであり、他者とは私の心に現れる現象に過ぎない >独我論2: 他人も心的状態を持っているかもしれないが、それを確かめる事はできない(認識論的独我論) >独我論3: 他人も心的状態を持っているとしても、その内容は私と違っているかもしれない(「逆転クオリア」の可能性など)&footnote(ジョン・R・サール著 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』 p.37) 永井均は独我論を以下の二つに分ける。 >認識論的独我論: 或る一つの心にとって、その外部にあるものの存在は認識できないという問題 >存在論的独我論: 世界に何十億といる人間の中で、なぜ永井均がこの「私」なのかという問題(これは「意識の超難問(The harder problem of consciousness)」とも呼ばれる)&footnote(永井均『〈子ども〉のための哲学』pp.123-5) まず確認しておくべきなのは、事実問題として認識論的独我論は正しいということである。素朴心理学的には、人は自分の心の外部に存在するものを見たり触れたりしていると考えている。これが素朴実在論である。月を見る場合、目を閉じると月は消えるが、再び目を開けると月は見える――この現象を説明するために要請されたものが「実在」である。月が実在しているから自分が目を閉じても月は消えることなく、再び目を開ければ月は見える。このような素朴な考え方から「心の中」と「心の外」の区分けがされることになる。 ところが自分の経験をよく反省してみると、実在というものを一度も直接経験したことが無いのはすぐにわかるはずだ。第4節でも物理主義に対する批判として述べたことであるが、私が経験しているものは常に、視覚的なクオリアであり、聴覚的なクオリアであり、嗅覚的なクオリアであり、味覚的なクオリアであり、触覚的なクオリアなどである。これに思惟というクオリアを加えても良い。要するに、私の経験は「全てクオリア」であるというのが事実である。従って「心の外部は認識できない」とする認識論的独我論は正しいということになる。 実在とはクオリアが去来する「規則」から推定されたものであり、実在というのは虚構であって、実はクオリアが去来する規則しかないのではないか? ――形而上学的見地からはそう懐疑することができる。そこから進んで存在論的に、実際に実在というものは無いのだと主張する立場や、上述したサールの独我論1を主張する立場は現象主義や観念論と呼ばれる。逆に素朴実在論を形而上学的見地から肯定する立場は、形而上学的実在論や科学的実在論と呼ばれる。 エルンスト・マッハは科学者であるが認識論的独我論の事実を重んじ、現象主義の立場を取っていた。マッハは感覚要素が世界を構成する究極の単位であると考え、「実在」や「因果関係」などの形而上学的要素を排除しようとし、ただ一つ経験に与えられる基本的事実である感覚要素の、その相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的であるべきだとした。これは現象学的物理主義とも呼ばれ、後に論理実証主義の感覚与件論へと発展した。以下はマッハが自分の左目で見た視覚体験を描いたユニークな自画像である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/Mach.jpg) マッハの自画像は、自分が固有のパースペクティブでしか世界を認識できない独我論的存在だということを上手く表している。この観点を世界全体の認識へと拡大したらどのような図になるだろう? 以下は抽象化した実在論と独我論の世界像である。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_2c.gif) 図2では世界全体を大きな円で表し、個別の人物をその内の小さな円で表している。いずれの世界像でも人物Cが「私」だとする。独我論的世界像では世界そのものが「私の心」であり、「私の身体」は「私の心(世界)」の「開闢点」であることを表している。逆に実在論的世界像では個別の人物内部に「心」があることを表している。独我論的世界像の方では自分以外の人物の内に「?」で、他者の心は不可知であることを表している。 もし独我論的世界像の方が存在論的に正しいならば、少なくとも「私」の人格の同一性は問題にはならないだろう。自分の身体がどのように変化し、心理状態がどのように変化しようとも、それら変化は全て「私」内部の性質変化として起こっていることだからである。 ところで世界そのものが「私の心」だとする独我論の「私」についても、以下のような還元主義と非還元主義の立場があることは留意すべきである。 >非還元主義的独我論:「私」の内部でさまざまなクオリアが生起している >還元主義的独我論 :さまざまなクオリアが生起している状況が即ち「私」である 非還元主義的独我論がバークリーの立場であり、通時的な主体というものを想定している(第3節のデカルト解釈2)。その主体を否定する還元主義的独我論がヒュームや大森荘蔵である(第3節のデカルト解釈1)。ヒュームのような立場では、「昨日転んだときは痛かった」という想起があった場合、その想起の対象である「痛み」のクオリアが実際昨日あったとしても、それは「昨日転んだときは痛かった」という想起のクオリアとは別の存在かもしれないということである。ちなみに、ヒュームの立場を一旦認めた上で、昨日のクオリアと今日のクオリアには何か「つながり」があるはずだと考えているのが私の立場である。 トマス・ネーゲルは独我論者ではないものの、『どこでもないところからの眺め』において興味深い問題提起をしている。 >トマス・ネーゲルを含んだ全ての人がいる世界を、隅から隅まで、特定の視点に立たずに描ききったとしよう。そのとき、一方で、何かが描かれていない、何かどうしても不可欠なものがまだ明記されていない、すなわち、その中の誰が私なのかということが抜けているように思える。しかし他方では、無中心の世界に、そのようなさらなる事実を入れる余地があるようには思えない。つまり、どの視点からでもない世界は完全で、そのような追加を受け入れられないと思われるのだ。それは全世界であり、トマス・ネーゲルにかんする事実も全て、すでにその中にある。だから問いの最初の半分はこういうことだ。特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界の中の多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにして私であることが可能なのか。&footnote(トマス・ネーゲル著 中村昇 他訳『どこでもないところからの眺め』pp.86-7) ネーゲルの提起した問題は意識の超難問とつながるのだが、それは後述することにして、ここでは主観的な一人称的記述と客観的な三人称的記述が相克する点について論じたい。 図2を見ればわかるように、実在論的世界像の方にはどの人物が「私」かということが書かれていない。それが「客観的」かつ三人称的な記述だからだ。たとえ世界についてどれほど詳細に記述しようとも、三人称視点で記述する限りは「私」が抜け落ちてしまう――これがネーゲルの主張である。 先に私は認識論的独我論が「事実」であることを説明しておいた。実在論的世界像は「私」が書かれていないということで、その事実に反した記述なのである。これは単なる語用論の問題ではない。事実として私は前掲したマッハの自画像のように、固有の視点から世界を眺めているのだが、その事実が描かれていないということである。 ネーゲルの提起した問題を要約すると次のようになる。 >ネーゲルのテーゼ: 世界の「全て」を記述しても、そこには「私」が描かれていない これが矛盾しているのは明らかである。「世界」には「私」も含まれているのだから、世界の「全て」を記述したなら「私」も記述されているはずである。 たぶんこう思う人が多いのではないか。ネーゲルが間違っているのだ、と。そして次のように考えたくなるはずだ。確かに人々はそれぞれ固有の視点から世界を眺めているだろう。ならばその固有の視点からの記述も客観的な記述に書き加えれば良いのだ、と。 つまりこういうことである。 >一人称的・独我論的世界記述: 世界は S_Descriptionである >三人称的・実在論的世界記述: 世界は O_Descriptionである >一人称+三人称的世界記述 : 世界は O+S_Descriptionである O+S_Descriptionこそが世界についての完全な記述である、そう主張する人がいるはずだ。しかしこのようなアイデアに対し、やはりネーゲルはそれでも「私」が描かれていないと主張するように思われる。その理由は、前掲の図2を見ればわかるはずだ。O+S_Descriptionは図2の実在論的世界像と独我論的世界像の、どちらに属する記述だろう? もちろん実在論的世界像の方である。「私」である人物Cが世界の内部に「他者たち」と対等に記述されているからである。つまり O+S_Descriptionは一人称的記述と三人称的記述を合わせたつもりであっても、実は三人称的記述 O_Descriptionに過ぎなかったのである。 あるいはこう考える人がいるかもしれない。実在論的世界像の「人物C」の後に「(私)」と書き加えればいいのだ、と。しかしそれで上手くいくわけはない。なぜなら人物Aも人物Bも同様のことを主張し得るのだから。人物Aも人物Bもやはり「(私)」と書き加えるだろう。さらにまた人物Cの後に「(本物の私)」書き加えようとも同じことである。人物Aも人物Bも同様に「(本物の私)」と書き加えるだろう。 このように自分だけが特有の視点を持つ特権的な存在であるという主張が、他者からも同様に主張され続けられる構造を、永井均は独在性についての「累進構造」と呼んでいる。この累進構造がある限り、なぜ自分だけが「特別な私」であるかということは、決して公共言語で語り得ないということである。 逆に自分だけが「特別な私」であることを書き加えずに済ませることもできない。重ねて主張するが、認識論的独我論は「事実」なのだから、その事実が記述されていない限り世界について「全て」を記述したことにはならない。 ジョン・サールは意識の主観性を重視し、「主観的」という語は認識様態を指示するものではなく、存在論的カテゴリーを指示していると捉えている&footnote(ジョン・サール著 宮原勇 訳『ディスカバー・マインド!』p.152)。サールは主観性というものを次のように分析している。 >痛みの主観性からの帰結としては、痛みはどんな観察者に対しても同等にアクセス可能だというわけではない。その存在は、一人称的存在と言ってよいかもしれない。それが痛みであるためには、それはだれかの痛みでなければならない。これは、たとえば脚はだれかの脚でなければならないと言うときの意味よりも、強い意味で、である。脚の移植は可能である。その意味では、痛みの移植は可能ではない。 >〔……〕 >世界そのものは視点を含まない。しかし、意識状態を通した世界へのわたしのアクセスは、つねにパースペクティブ的であり、つねにわたしの視点からのものである。 >〔……〕 >わたしは他の人の意識そのものを [外から] 観察することは決してできない。むしろ、わたしが観察するのは、その人と、彼の行動と、彼と行動と環境の間の関係である。それでは、わたし自身の内部で進行している出来事についてはどうか。それらは、観察できないだろうか。主観性という、まさにその事実こそ、わたしが観察しようとしていることなのだが、その事実がそのような観察を不可能にしているのだ。なぜか。意識を伴う主観性に関する限り、観察する作用と観察される対象との区別はないのだ。つまり、知覚する作用と知覚される対象との区別はないのだ。視覚のモデルは、見られるものとそれを見るものとの区別があるという前提の上に働いている。しかし内観(introspection)については、単純に言って、そのような区別を行うことは決してできない。わたしが自分自身の心的状態にもつどんな内観も、それ自身意識状態なのだ。 >〔……〕 >わたしたちが主観性を受け入れ、折り合いをつけるのが難しいと思うのは、究極的には実在は完全に客観的であるにちがいないというイデオロギーの中で育ったからだけでない。〈客観的に観察可能な実在〉という考えが、〈それ自体、消去できないほど主観的である観察〉という概念を前提しているからである。そしてその観察自体、世界の内に客観的に存在する対象や事態がそうであるような仕方では、観察の対象となりえない。要するに、わたしたちが自分の世界の一部として主観性を思い描く方法がないということは、いわば問題となっている当の主観性自体が思い描く主体であるからである。&footnote(前掲書 pp.152-7) このサールの分析でとりわけ秀逸なのは、「〈客観的に観察可能な実在〉という考えが、〈それ自体、消去できないほど主観的である観察〉という概念を前提しているからである」という部分である。サールは観念論者でも独我論者でもないものの、その洞察は「客観」という概念の本質を「主観としての客観」と快活に喝破したショーペンハウアーと観点を同じくしている。 そしてサールは、世界がいかなる主観性からも独立に存在しているという前提で世界について完全に客観的な説明を与えようとしたならば、意識を記述することが不可能になることを指摘する&footnote(前掲書 p.160)。これはネーゲルの洞察と通じるものがある。 森岡正博は永井が提起した独在性の問題について、以下の四つの原則が成り立つと分析している。 ><独在性の4原則・B> >原則1: 独在的存在者とは誰のことであるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私を一意的に指し示している>と言うことはできる。 >原則2: 独在的存在者とは何であるかを、明示的に語ることはできない。 >原則3: 独在的存在者が何であるかを把握することはできる。しかし、それを把握できる人はひとりだけでなければならない。かつ、そのひとりの人が誰であるかを、固有名詞によって指示することはできない。ただし、<独在的存在者が何であるかを把握しているひとりの人とは、世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしているこの私である>と言うことはできる。 >原則4: 独在性とは何であるかを、明示的に語ることはできる。&footnote(森岡正博「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味」) ネーゲル、永井、サール、森岡の洞察に共通のものがあることは明らかだろう。 ウィトゲンシュタインは前期の哲学活動において、独我論者であった。彼は『論理哲学論考』においで、眼が視野に属さないように、主体は世界に属さないことを論じている(5.632-5.6331)。また「世界は私の世界である」(5・641)と、「世界」イコール「私」であることが主張される。これは図2の独我論的世界像であると思える。主体としての「私」は世界を限界付けるもの(図2では世界の境界線)なのだから、世界の内部でどのように「私」を記述しようとしても成功するわけがない。鏡で自分の眼を見ようとしても所詮鏡像は視野に過ぎないように、主体は世界の中に記述できないのである。このウィトゲンシュタインの洞察もまたネーゲルらの洞察と通じるものがある。 &big(){・ウィトゲンシュタインと永井均の独我論} ところでウィトゲンシュタインと永井の独我論には補足の説明が必要である。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における独我論についての論述(5.62~5.64)は、実質的には「自我と表象」の関係が論点であって、無主体論を導出する試みである。したがって「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」という 5.64の文は正しくない。ミニマルな実在論とは、表象から独立した実在があり(外部世界の実在説)、かつ表象はその実在を正確に写している(真理対応説)というものである。したがって独我論を徹底しても決して実在論とは一致しない。ウィトゲンシュタインは実在を巡る論争にコミットしていないので概念規定が緩いという印象がある。ちなみに野矢茂樹訳の『論理哲学論考』では、巻末で野矢が、ウィトゲンシュタインの言う独我論は現象主義的独我論ではないように思われる、という主旨の解説をしている&footnote(p.209)。 ウィトゲンシュタインの独我論は概念規定の緩さゆえに複雑なものである。ウィトゲンシュタインの文を語義通り受け取るならば、図2の独我論的世界像になる。しかし実際にはウィトゲンシュタインは現象主義者ではなく、実在論者だと思われる。そして上に引用した「眼が視野に属さないように、主体は世界に属さない」や「世界は私の世界である」という文中の「世界」と言う語は、正確には&strong(){現象主義的独我論の「世界」ではなく、他我の実在を前提にした表象主義的実在論の「表象世界」と解釈すべきである。}だから「独我論は語りえない」のである。他我を顧慮しない真の独我論ならそもそも語る必要がない。 一般に実在論では、人が(クオリアによって)経験している世界は、実在する世界を正しく表象したものであると考える。これが表象主義である。対して現象主義では人の経験は意識に現れる現象(クオリア)だけであり、実在世界などは不可知であるゆえに、現象は実在世界の表象だとはみなさない。 現象主義的独我論では「世界=私」である。一方ウィトゲンシュタインの独我論(正確には自我論)では「表象世界=私」ということである。永井の独我論(独在論)も、ウィトゲンシュタインの独我論を出発点としたものである。 ウィトゲンシュタインでは「表象世界=私」なのであるが、その表象世界は実在世界の特定の身体に相関するので、ウィトゲンシュタインが他者と会話するときの「私」とは、実在世界の身体を指すのでなければならない。つまりウィトゲンシュタインと永井においては、二種類の「私」――図2の独我論的世界像の「世界=私」と、実在論的世界像の特定の人物である「私」があるということである。いわば認識論的独我論と実在論の混在である。これが問題を輻輳させることになる。 実在論を前提に「表象世界=私」を私1、その私1と相関する実在の身体を私2としよう。実在論を前提するなら他者の心の実在を認めることになる。他者に心があるならば、他者もまた私1、私2と自分を分類するだろう。しかし私の私1と、他者の私1は同じカテゴリーにあるものではなく、「質的同一性」さえ認められないものである。&strong(){なぜなら私の私1と他者の私1には「自我と他我」という根源的な相違があるからである。} したがって、私1や私2という言い方で表現しても、他者がその意味を理解した時点で、既に元の意味とは変わってしまっているのである。「理解」とは自分の私1の延長線上で他者の私1を理解することだからである。これをたとえるなら、「他人の痛み」を理解するということは「自分の痛み」と同じものが他人にもあるだろうと類推することに等しいのだが、その類推したものは所詮自分の痛み(私1)に過ぎないのである。まさにウィトゲンシュタインや永井が言うように、「独我論は語りえない」のである。 &sizex(-1){※ところで永井は必ずしも実在論を前提しているわけではない。永井本人に伺ったところ、「実在することを前提にしたほうが理解を容易にする」という理由で他者の心について語っており、形而上学的な実在を巡る論争は「私にとってはどうでもいい」とのことであった。&footnote(2016年2月25日のtwitterでの対話) &big(){・「私」という指標詞} ここで「私」という指標詞を巡る語用論について少し紹介しておこう。 大庭健によれば、ネーゲルや永井が主張する問題は、「私」という指示詞と固有名詞を存在論的に異なるものと捉えることから、固有名詞を持つ人物から離存する(魂のような)何かを想定してしまう錯覚問題である。 大庭の議論の前提は無主体論である。「私」と「車」の関係は所有関係である。しかし「私」と「大庭健」の関係は所有関係ではない。それを所有関係と見誤ることから「魂」という話に誘惑される。&footnote(大庭健『私という迷宮』pp.32-5) 大庭は指標詞「私」が固有名で置き換え不可能なことを一旦認めている。その上で、「私は大庭健であるという事実は、固有名を用いた文によって表される事実とは異なって、違う種類の特別な事実である」という推論は間違っていると指摘する。&footnote(大庭健『私はどうして私なのか』pp.137-9) 永井は「この私」を指すためには通常の「私」とは異なる表現が必要だと考え、〈私〉という表記法を案出した。しかしその〈私〉もまた他者たちが同様に用いることができる(累進構造)。したがって「この私」は語り得ないという結論に到達しているのだが、この永井の見解を大庭は次のように批判している。 >しかし、そうした特別の表記法は、役に立たないだけでなく、必要ですらない。 >〔……〕 >「私は大庭健である」という文が真であるのは、私が語ったとき、かつそのときに限る。「私は村上龍だ」と私が語っても、これは偽な文だし、あなたが「私は大庭健である」と語っても、それもまた偽な文である。〔……〕世界に何十億の人がいようとも、「私」という語によってこの私を指すことができるのは、私だけなのである。&footnote(大庭健『私という迷宮』pp.60-1) 永井の独在論によれば、〈私〉は心理的連続性も物理的連続性もそのままでありながら、他の人物に移行することが論理的に可能である(世界の開闢点が変わるということである)。しかし大庭によれば、仮に大庭健が大庭みづほという人物に固有の身体や記憶や信念をもって世界を眺めるようになったならば、それは大庭みづほその人に他ならない。&footnote(前掲書 pp.96-7) 大庭はフレーゲの言語哲学を援用し、「語の指示対象」と「語の意義」を区別する。たとえば「『坊ちゃん』の著者」と「夏目漱石」は指示対象は同じでも意義が違う(語の意味のうち指示対象以外の部分が意義である)。その上で「私」という語と、その語を発した「大庭健」という語の、それぞれの意義は異なるという事実を、「私」と「大庭健」とでは、それぞれの指示対象が違うというようにスリかえ、「もし私が他の誰かであったら」という反事実的条件文を誤用する事によって、(意識の超難問のような)間違った推論が生じると言う。これを大庭は「「私」という語の水脹れ」と呼んでいる。&footnote(大庭健『私はどうして私なのか』pp.162-8) 大庭は「私」というメタ言語によって、自分についてメタ・レベルの思考を行うことから、自分の内なる自己としての「私」が見出され、「私」が自分という人物とは区別される存在であるかのような錯覚が生じると分析している。&footnote(前掲書 pp.180-3) このような大庭の議論は、ネーゲルや永井が提起した問題を捉え切れていないと私は考える。近代哲学の非還元主義は、存在を「性質と基体の複合体」と考えることから主張されていたのだった。スウィンバーンにおいても「魂」は意識・クオリアの作用の担い手として措定されたものである。スウィンバーンが魂を措定した理由は、脳分割などにより人物は分岐する可能性があり得るものの、「私」が分岐する可能性はあり得ず、にも関わらず「私」は未来に存続する可能性が否定できないからである。分析形而上学ではこのような人物分岐のパズルケースについて活発に議論されているが、大庭の議論はそこまで網羅していない。 永井の〈私〉の概念も人格の同一性問題と不可分であり、スウィンバーンの主張に近いものである。永井は『転校生とブラックジャック』ではパーフィットの思考実験を逆用して〈私〉の還元不可能性を主張している。しかし大庭はそのような人格の同一性問題の重要な議論に言及せず、人物分岐のケースなどで数的同一性が通時的に成り立たないことを論証していない。これは言語哲学のみでは人格の同一性問題を分析できないことを示唆しているように思える(ちなみにサールは言語哲学は心の哲学の一部に過ぎないことを主張している)。 またネーゲルの提起した問題は、一人称記述と三人称記述の相克の問題でもある。これは実在論論争とも関わっているのだが、大庭の議論はそこまで及んでいない。ここであらためてネーゲルの主張を確認しておこう。 >ネーゲルのテーゼ: 世界の「全て」を記述しても、そこには「私」が書かれていない これは矛盾している。ならば一体、どこが間違っているのだろう? 大庭のように「「私は大庭健である」という文が真であるのは、私が語ったとき、かつそのときに限る」と「私」を特定の人物と固定して表現したつもりでも、そのような「私」が世界の固有名詞を持つ人々と同じ数だけ並んだ記述は、前述のように一人称的記述と三人称的記述を合わせて O+S_Descriptionとしたつもりであっても、実は三人称的記述 O_Descriptionに過ぎないのである。 世界の「全て」などは元より記述不可能なものなのだ、と主張することができるかもしれない。しかし懐疑主義ならばともかく、実在論ではそう主張できない。「私」の心から独立した世界があって、その世界内に「私」がいると主張するなら、客観的にその世界を記述できなければならないはずだ。実在論の「私」は、ウィトゲンシュタインの「私」のように世界を限界付けるものではなく、あくまで世界の内部に位置を規定できるものなのだから。それこそが前掲図2の実在論的世界像の構造なのである。特に実在論を前提とした物理主義では、心と脳の同一性が主張される。これが同一説であった。同一説では「心」の位置は「脳」である。したがって全ては客観的な視点で記述可能でなければならない。 ヒラリー・パトナムとジョン・サールは、形而上学的実在論とはどういうものかという問題について、ほぼ共通の見解を示している。 パトナムによる形而上学的実在論の特徴付けは以下のようなものである。 >P1: 世界は、心から独立な対象のある固定された総体から成っている。 >P2: 「世界の在り方」についての真で完全な記述がただ一つ存在する。 >P3: 真理は、語または思惟記号と外的な事物や事物の集合との間のある種の対応関係を含んでいる。&footnote(ヒラリー・パトナム著 野本和幸 他訳『理性・真理・歴史』p.78) サールによる形而上学的実在論の特徴付けは以下のようなものである(以下はサールの議論を中山康雄が要約したものである)。 >S1: 実在は、私たちの表象とは独立に存在している。 >S2: 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。 >S3: 信念や言明という表象は、事物が現実においてどのようなものかを表象するためのものである。表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。&footnote(中山康雄『科学哲学入門』pp.163-4) P1とS1、P2とS2、P3とS3がそれぞれ同じ見解であることは明らかである。ここで問題となるのはP2とS2になる。近年の分析哲学では自然主義が主流となっている。これは自然科学の知見を前提に哲学を行おうという方法論である。パトナムとサールによる形而上学的実在論の特徴付けも自然科学の方法に倣ったものであろう。自然科学では出来事を記述する際に、主観的な一人称記述を採用することはない。したがって世界全体を神の視点から鳥瞰したような、「唯一の世界の記述」が論理的にあり得ると考えるのは当然でもある。 しかし実在論的記述方法では世界を完全に記述できない。重ねて主張するが認識論的独我論は正しい。前掲図2の、実在論的世界像と独我論的世界像のうち、事実として私の視点が属しているのは独我論的世界像の方である。その事実を記述することができない実在論的世界像は間違っているということになる。ちなみに、O_Descriptionでは人が感じる時間特有の「変化」が記述できないことから、P2とS2を拒否して認識論的に反実在論を主張したのがマイケル・ダメットである。マクタガート時間論における O_Description的な記述とはB系列であり、逆に S_Description的な記述がA系列になる。ダメットはA系列が時間にとって本質的であると考えたわけである。 結局の所、S_Descriptionと O_Descriptionのどちらかが正しい、あるいは両方間違っているということはあり得ても、両方正しいということは記述についての矛盾であって、あり得ないということになる。ネーゲルの提起した問題は、経験可能な独我論的世界像 S_Descriptionに軍配を上げることで決着させるしかないはずである。経験不可能な三人称的記述 O_Descriptionは、いわばイデア的なものなのである。 私は実在論を拒否して反実在論の立場を取る。つまりマッハの自画像で示唆された図2の独我論的世界像の方を選択すべきだと考える。もし実在論が正しいならば他の人々の視点から見た世界像も書き加えなければならないが、それは前述のように O+S_Descriptionとしたつもりでも、結局は O_Descriptionに過ぎないのである。 矛盾した前提からは矛盾した解決不可能の問題が出てくる。たとえばゼノンによる「アキレスと亀」は「無限の何かが存在する」という矛盾した前提から生じるパラドックスである。無限とは何かの行為や操作に「終わりが無い」という意味であって、存在についての概念ではないのである。 ネーゲルの提起した問題も同様である。相克するS_Descriptionと O_Descriptionのどちらも正しいという矛盾した前提から彼の問題は生じるのだと私は考える。 ただし世界記述の問題とは認識論的問題であり、上述のサールのS2、パトナムのP2を否定したに留まる。実在論的世界像では世界を完全に記述できないからといって、ただちに存在論としての実在論――形而上学的実在論を完全に阻却できるわけではない。また認識論的独我論が世界記述において正しいからといって、ただちに存在論的に心の外部の世界が実在しないこと――観念論の証明になるわけでもない。 要するに、私が特定のパースペクティブでしか世界を認識できないのならば、世界はその特定のパースペクティブでしか存在できないはずだ、ということにはならないのである。 しかし仮に存在論的に実在論を採用した場合には、永井均によって提起された独在性、および意識の超難問が深刻なアポリアとして生じると私は考える。そして独在性の問題は物理主義と実在論が破綻する可能性を示唆するはずだ。次節ではその独在性のアポリアについて論じたい。 **7 独在性のアポリア パーフィットによる非還元主義批判は説得的であり、通時的に人格の同一性を成り立たせるような「何か」は到底居場所を確保できないと私は考える。私の脳が左右に分割されて二人の他者に移植される思考実験では、「魂」のような通時的な主体が存在すると仮定すると、「私」がどちらに移動するかわからなくなる。仮に魂が一方に移動するとして、もう片方にも生命と意識はあるのだから、神がそちらに新しい魂を吹き込んだとでも考えるしかないだろう。だがそのようなことは信じがたい。したがって魂のような主体など存在しないと確信するしかない。 しかし無主体論と還元主義の立場を取ったとしても、人格の同一性問題が全て解消されるわけではない。スウィンバーンのような非還元主義者は、魂というような経験不可能なものを論点先取的に仮定したことが間違いであると私は考える。問題の本質を顕にするためには無主体論を徹底して、論点を魂や「私」からクオリアへと還元しなければならない。そしてクオリアの同一性こそを問わなければならない。 もし仮にスワンプマンのような私の完全な複製体が、私と同じものを見て、同じことを考えているとしたら、そのとき複製体にある心的現象――クオリアは「私」と同一であるのかと問うことができるはずである。パーフィットの一連の思考実験では問題を個別的なクオリアにまで還元しておらず、魂のような主体を否定するに留まっている。仮に私を人物Aとし、複製体を人物Bとして、人物Aにはクオリア A-mindがあり、人物Bにはクオリア B-mindがあるとする。A-mindと B-mindが、例えば同タイプの「私こそが本物の私である」というクオリアだとするならば、「A-mind = B-mind」と言えるのか、と問うことができるはずである。これには二種類の解答がありうる。 >解答1:  同じタイプのクオリアが二つのトークンとしてある >解答2:  片方が「私」であるゆえに、クオリアのタイプの如何に関わらず異なる存在である 解答1は同一説を前提とした物理主義的な答えである。客観的に両者を見れば(クオリアは客観的に見れないものであるが)両者は同じものであると言える。 解答2は二元論的な答えであり、クオリアの主観性によって判断している。私の複製体が同じことを考えていても、それは「私」ではない(※ここでは「私」という語でクオリア A-mindそのものを指している)。それゆえ「同じクオリアが二つ」とは言えない。つまり「私」は唯一であり、「唯一であるものが複数ある」と言うことは矛盾である。また次のようにも主張することができるだろう。A-mindと B-mindは「私」と「他者」という根源的な相違があり、それを無視してクオリアとしてのタイプ的同一性によって人格の同一性を判断しようとするのはナンセンスである、と。 ここから、一種のアポリアが生じることになる。まずライプニッツの不可識別者同一の原理が成り立たない。「私」である A-mindの性質を全て同様に有していても、B-mindは端的に他者であるからだ(※もっともライプニッツの「モナド」は、同じものは一つとしてなく、必ず差異があり、固有のパースペクティブをもって世界を表象するものとされる)。つまり A-mindと B-mindはライプニッツの原理から存在論的に同一だと考えることができ、同一であるにも関わらず「私」と「他者」という根源的な差異が実際に生じていることになる。 つまり人格の同一性問題を個別的なクオリアまで還元して考えると、パーフィットが取りこぼした問題が明らかになる。それは意識の超難問と必然的に接続し、「私」というものが有する、物理的性質にも心理的性質にも還元することができない性質が顕わになる。これが永井均が主張してきた「独在性」の核心問題と考えられる。永井が主張する独在性は、問題性を個別の人物から個別のクオリアまで還元すれば明瞭になる。 私は「独在性のアポリア」として以下のように問題を提起する。 >アポリア1: 人物Aには「私こそが本物の私である」という特定のクオリアがある。そのクオリアを「私」と呼ぶことにする。そして人物Aと同時刻にスワンプマンのような複製体である人物Bがいて、その人物Bにも「私こそが本物の私である」というクオリアがある。物理主義的に考えると、人物Bは物理的性質も心理的性質も人物Aと同じである。にも関わらず、人物Bは端的に「私」ではなく「他者」であるゆえに、「私」の本質とは物理的性質や心理的性質に還元できない何かである、と主張することが可能である。 しかし物理主義者ならば、人物Aと人物Bは同じタイプのクオリアを、それぞれ個別のトークンとして持っているのだ、と主張するかもしれない。その主張には次のように反論できる。 >アポリア2: 人物Aとその複製体である人物Bが消えたとする。そして十年後、人物Aの複製体である人物Xが作られたとする。その人物Xにも「私こそが本物の私である」というクオリアがある。この場合、その人物Xは「私」なのかと問うことができるはずだ。物理主義の立場は、人物Aと人物Xは物理的特徴が同じであり、かつ心的タイプも同じであり、ただトークンとして異なっているだけだと主張するだろう。しかしそれは間違いになる。人物Xが「私」であってはいけない理由が存在しないからだ。つまり人物Xのクオリアが「私」と数的同一でないという非同一性の証明ができないのである(これがスウィーンバーンが指摘した「私」が未来に存在し得る論理的可能性である)。逆に同一性も証明できないのだから、人物Xが人物Bである可能性も否定できない。もちろん「私」でも人物Bでもない第三者である可能性も否定できない。クオリアの同一性については、物理主義的方法では合理的な解答が不可能である。したがって物理主義の還元主義・同一説が間違っているということである。全く同じ物理現象・物理法則から根源的に異なる存在者――「私」と「他者」が生じている可能性があるからだ。これは「自然の斉一性原理」が破れていることになる。 またパーフィットが人格について行った混合スペクトラムの思考実験が、クオリアに対しても適用できるはずである。 >アポリア3: 「私こそが本物の私である」というクオリアが、私である人物Aと私の複製体である人物Bにあったとする。あるいはもっと単純に、両者に「痛み」というクオリアがあったとしてもよい。それらのクオリアは人物Aと人物Bの脳細胞と相関関係がある。仮に人物Aのクオリアを「私」と呼ぶことにする。そして人物Aと人物Bの脳細胞を、SF映画『スタートレック』の転送装置のようなもので一パーセントだけ交換したらどうだろう。一パーセントぐらいの交換では「私」は入れ替わらないように思える。しかし九十パーセントを置き換えれば「私」も入れ替わってしまうように思える。では三十パーセントなら、あるいは丁度半分の五十パーセントならどうだろう。合理的に解答するのが困難である。クオリアは全一的であり、部分をもたない。にも関わらずクオリアと因果関係をもつ脳細胞は部分から構成されており分割可能である。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」という事実からアポリアが生じる。ここでの問題は堆積のパラドックスが生じるということではない。脳細胞交換を続けた場合、一定の割合に達したら「私」が入れ替わると考えても致命的な不合理ではないからだ。しかし問題なのは、入れ替わるその「私」とは何かということである。魂のような非還元的主体は脳分割の思考実験で否定された。ならば、この脳細胞交換で入れ替わるものは何なのだろう? 同タイプの「痛み」のクオリアが二つあっても、両者は端的に「私」と「他者」という点で異なっている。魂のような主体は存在しないにもかかわらず、細胞交換の過程で入れ替わる「何か」があるということになる。これは不合理である。 パーフィットは人格についてのこのようなスペクトラムの思考実験によって、「人格」が「魂」のような不変の実体であることは困難とみなし、人格をヒュームが想定した知覚の束のように、他のものから成り立っているものとして還元することが合理的だと考えた。しかし、知覚やクオリアはそれ以上何かに還元することが不可能であると思える。 ここで一旦、スウィーンバーンが主張してきた非還元主義的な主体が存在し得ることは認められるべきだろう。 しかし非還元主義的主体を措定しなければ、独在性のアポリアは解消できないというわけでもない。私は独在性のアポリアに対して取りうる以下の四つの哲学的立場があると考える。 >魂説   : リチャード・スウィンバーンの立場である。この魂説では、前述の人物Aと人物Xの同一性は、同じ魂を共有しているか否かで決定される。後述する永井均の立場もこれに近い。 >イデア説 : プラトンのイデア論とは異なるが、クオリアは空間的に位置を特定できないため、イデア界のような別の次元、あるいは世界に普遍的に存在すると考える立場があり得る。この立場では人物A、人物B、人物Xの「私こそが本物の私である」というクオリアは、同じタイプであるがトークンとして異なるというのでなく、唯一のクオリアがそれぞれの人物と相関していると考えることができる。この立場では独在性のアポリアは生じない。 >四次元主義: 四次元主義は永久主義を前提としている。この立場では全ての出来事はミンコフスキー空間上の特定のポジションを占めるものであり、人物A、およびその複製体である人物B、人物Xは、異なるポジションを占めているゆえに、彼らと相関するクオリアもそれぞれ異なる存在者だと主張することが可能である。 >反実在論 : 現象主義、または観念論である。図2の独我論的世界像が存在論的にも正しいと考える。この立場では空間や物質といったものの実在性を否定するので、人物A、人物B、人物Xなどは「私」に現れる現象(クオリア)に過ぎない。そして「私こそが本物の私である」というクオリアについてはイデア説同様に、唯一のものと考える。この立場でもパーフィットの思考実験についてアポリアは生じない。 以上、四つの立場にはそれぞれ利点と欠点があるだろう。 魂説は脳分割の思考実験に対して合理的に解答することはできない。仮に人物Aの脳分割が行われて二人の脳死患者に移植され、ライティとレフティの二人の人物に分離した場合、人物Aの魂がライティに移ったとする。ではレフティには魂はないのだろうか。新しい魂が神よって与えられると考えることも出来なくはないものの、やはり魂説は合理性に欠ける。 イデア説は論理的に否定できないものの、実在論がもつ不合理を継承することになる。前節で指摘したように、実在論では世界についての完全な記述があり得ると考えるしかないが、ネーゲルが言うように「私」を記述できない。加えて、実在論には知覚のカメラモデルという難点が指摘されている。たとえば薔薇を見る場合、本物の物質的な薔薇があって、なおかつ自分の脳にも本物そっくりの表象(クオリア)としての薔薇があると考える。これが表象主義である。その表象は物質に還元できるという物理主義でも、還元しなければならないものを認めている点で、ジョン・サールが看破したように二元論の一種である。イデア説は実在世界と表象世界の二つを認めるため、二重世界論と言ってもよい。二元論の困難をそのまま受け継ぐことになる。 四次元主義の「ワーム理論」は魂説と同様の困難がある。しかし「段階説」は諸々の瞬間的な段階たちを個別の存在者と考えるので一見アポリアは生じないように思える。スペクトラムについても細胞交換の各段階ごとに異なった存在者が現れると考えればよい。セオドア・サイダーはパーフィットによる人物分岐の思考実験について、還元主義を前提に、人格の同一性が重要ではないとするパーフィットを擁護して次のように述べている。 >「人の同一性」は実際には数的な同一性では全くなく、どんなささいな変化からも、数的に異なる人物が実際に生まれるのかもしれない。だとすると、枝分かれがあると人の同一性は失われると言う必要はない。&footnote(アール・コニー+セオドア・サイダー 小山虎 訳『形而上学レッスン』p.27) 物理主義的な立場から、最も合理的に独在性のアポリアを解消できる可能性があるのが、四次元主義の段階説であることは間違いないだろう。 しかし形而上学的実在論に指摘されたような、世界の全てを記述しても「私」は記述できないという、ネーゲルの問題は四次元主義でも解消されない。また第5節でも四次元主義の難点として指摘したことであるが、クオリアは空間的に位置を規定できないものなのだから、時間と空間を合わせたミンコフスキー空間上にも記述ができない。記述できないもの同士の同一性を問うことはできないということになるはずである。 もっとも同一説を前提にして、各瞬間ごと、0.0000001秒ごとに別個のクオリアが脳状態と同一のものとして時空上に存在すると仮定しても論理的矛盾はないだろう。しかし今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアは別の存在者なのだとするのは直観と節約の原理に反している。また今のクオリアと 0.0000001秒後のクオリアが「非同一」であることは証明できないはずである。そして「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」が、 0.0000001秒ごとに存在する何億のクオリアから構成され、かつ全てのクオリアが四次元時空の特定のポジションに静的に固定されているならば、クオリアの「動性」は説明不可能ではないか? ゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスを想起すべきである。飛んでいる矢が止まってしまうように、流れているメロディーも止まってしまう。 クオリアには統一感や持続感がある。ベルクソンが主張したように、「一つの鐘の音」や「薔薇を一瞥した時の印象」は、それぞれ時間的幅を持った一つの存在者として考えた方が、統一感や持続感を説明しやすいように思える。 あと一つ、四次元主義の記述方法について難点を指摘しておこう。四次元主義はブロック宇宙説と永久主義を前提としているのだが、ブロック宇宙を静的な塊として理解することは間違いである。ブロック宇宙とはあくまで四次元時空を説明するための地図のようなものだからだ。ヒュー・プライスはブロック宇宙について次のように述べている。 >ひとはときどき、ブロック宇宙は " 静的 " であるという。だが、これはややもすると誤解をまねきやすい。ある時間的枠組みがあって、そのなかに四次元のブロック宇宙が終始同じ状態で存在する、というような言い方だからだ。もちろん、そんな枠組みなどありはしない。時間はブロックのなかに含まれているわけだから、ブロック宇宙を静的というのは、それを動的ないし可変というのと同程度に間違っている。ブロック宇宙はそんなものではない。なぜなら、それはふつうの意味での存在物といえるようなものではない。&footnote(ヒュー・プライス『時間の矢の不思議とアルキメデスの目』p.16) このプライスの洞察は、時間というものを空間的なイメージで理解し把握することを「時間の空間化」と言って批判したベルクソンの慧眼と通じるものがある。人が把握する空間とは静的なものである。対して時間とは動的なものである。形而上学的実在論は世界についての唯一の特権的な記述があり得ると考えたが、そのような記述には時間特有の動性が欠如していることから、形而上学的実在論を拒否したのがダメットであった。ブロック宇宙を静的な個体のイメージで理解し、その個体内に物理的な出来事たちを固定的に位置づけ、更にクオリアはその物理的な出来事に還元できると考える四次元主義は、根本的な所で間違っているかもしれない。 四次元主義ではクオリアの存在論が不在であり、それゆえに独在性のアポリアを解消することはできなと私は考える。その四次元主義の難点を反事実的条件法を用いた様相論法によって次のように指摘することができるだろう。 仮に人物Aがいて、AにクオリアQがあるとする。そのクオリアを〈私〉と呼ぶことにする。そして同タイプのクオリアを持つ人物Xがいるとする。その場合「もし人物Aの脳細胞の八十パーセントが、人物Xの脳細胞と交換されていたとしたら、〈私〉は存在していないだろう」と言うことができるはずだ。そして人はその言明を真だと認めることができそうである。しかしそれならば、「もし人物Aの脳細胞の二パーセントが、人物Xの脳細胞と交換されていたとしたら、〈私〉は存在していないだろう」と言うこともできる。しかし人はこの言明を真だと認めることができるだろうか? &sizex(-1){※ここで反事実的条件法を用いたのは、四次元主義がパーフィットの思考実験による人物分岐のパズルを最初から回避しているためである。} ある程度の脳細胞交換で人物Aである〈私〉は人物Xと入れ替わってしまうように思える。還元主義では非還元主義的な「何か」を否定したはずなのに、入れ替わる「何か」がここに浮き彫りにされてしまう。もちろん段階説では、各段階が唯一の存在者なのだから、サイダーの「どんなささいな変化からも、数的に異なる人物が実際に生まれるのかもしれない」という示唆の通りに、二パーセントの細胞交換でも数的に異なるクオリアになると考えることはできる。しかし、ならば脳細胞を構成する分子の二パーセント、または分子を構成する原子の二パーセントを交換しただけでも数的に異なるクオリアになるのだろうか。仮にそのクオリアが〈私〉ならば、もし〈私〉と相関している脳の原子一個、あるいは素粒子一個交換されていたなら、〈私〉ではなかったのだろうか? ここに堆積のパラドックスが生じるはずである。 部分から構成される脳と全一的なクオリアが「同一」だとする同一説の難点については第3節で論じた。「分割不可能なものが分割可能なものと相関して存在している」――この事実を物理主義者と同様に四次元主義者も軽視している。 結局、独在性のアポリアを最も合理的に説明できるのは反実在論の立場であると私は考える。反実在論は証明不可能だという欠点はあるが、逆に致命的な欠点もない。 こういう言い方もできるだろう。物的なものと心的なものが決して調和しないならば、それらのうち片方のみを採用するしかない、と。物理主義が採用したのはもちろん物的なものである。しかし物理主義が破綻することは上で論じたように明らかなはずだ。したがって私は心的なもののみを採用する立場を取る。 独在性のアポリアを解消するためには、図2の独我論的世界像を、認識論的にだけではなく、存在論的にも採用するしかない。私は認識論的独我論を前提とした方法論、つまり現象主義を採用すべきだと考える。 現象主義の立場では、人に経験されるもの全ては現象(クオリア)である。大森荘蔵が「脳産教理」と批判したような、物的な脳が心的なクオリアを「産出する」という通俗的な見方は否定される。物理主義批判として既述したように、脳についての科学的知見を肯定したとしても、それは或るクオリアと或る脳の作用とが「相関関係にある」と言えるだけで、そのクオリアが脳の「所有物」であるとは言えないし、脳の作用がクオリアを「産出している」とも言えないのである。この脳とクオリアの「相関関係」を「所有関係」と見誤っている思想や哲学はとても多い。クオリアの反対概念は物質ではなく、クオリアから存在が推測された「実在」というものである。実在は不可知である。現象主義では「他者」という存在もまたクオリアである。そのクオリアとしての他者に心があると仮定することはできない。ただしそのクオリアに他の心(他のクオリア、つまり他我)が相関していると考えても矛盾ではないので、現象主義は他者の心を完全に否定するわけではない。あくまで実在や他者の心というものは不可知であり、語ることは無意味だという方法論が現象主義である。 前節で探究したネーゲルの問題は、つまる所、認識論的独我論を認めながら、存在論的には実在論を主張することから生じるものである。この点は永井均が主張する独在性の問題も同様である。永井は次のように述べる。 >他者は私の「世界に対する態度」の一部ではない。それはむしろ、そうなることを徹底的に拒むところにこそ存在するものなのだ。なぜならば、他者は物のような世界の一部ではなく、そこから(も)世界が開けている、世界の原点だからである。世界の中にある物と世界を開く他者とでは、その存在の意味はまったく異なっているはずなのである&footnote(永井均『(魂〉に対する態度』p.201) >世の中に人間がたくさんいて、多くの脳が意識を生み出していることは不思議ではありません。これは科学的に説明できる事態です。しかし、一つ不思議なことがあります。そのように意識をもつたくさんの人間の一人が、なぜか私である、ということです&footnote(『哲楽 第6号』p.6)」 以上の文には実在論的な前提がある。もちろん第6節で但し書きしたように永井は実在論者ではなく、形而上学的な実在を巡る論争は「どうでもいい」という立場である。永井は自身の問題意識である独在性を考究するために、暫定的に実在論を仮定しているだけなのであるが、ここでは「実在論を仮定した場合には」不合理に陥るということを論じたい。 永井は次のようにスウィンバーンに極めて近い非還元主義的な主張をしている。 >ある人格を他の諸人格から分つものは身体や記憶をはじめとするその諸属性の差異でしかありえないが、<私>を他の諸人格から分つものは属性上の差異ではない、多様な属性をもった多数の人物のうちのどれが<私>であるかは、それのもついかなる属性上の特徴からも決定されえない(永井均のもつ諸性質をすべて数えあげても、そのどこからもこの人物が他の人物と異なる特別なあり方をしている――つまり<私>である――という事実は説明されない)のである。 >そうだとすれば、今たまたま<私>である人物は、身体の時空的連続性も精神の意味的連続性も断ち切ることなしに、<私>でなくなることができる(永井均という人物にいかなる異変も起こすことなしに、彼はく私>でなくなることができる)ことになる。&footnote(永井均『(魂〉に対する態度』p.187) >明日、ただ単に〈私〉でなくなった永井は、それ以前の点は何も変わらずに、〈私〉についての永井の哲学を語り続けるだろう。しかし、彼はもはや〈私〉でないことが可能なのである。 >〔……〕 >過去の私が本当に〈私〉であったか、という問いには意味がない。どちらであろうと実質的な差異はないからである。しかし、未来向きにはそうでない。未来向きに考えるならば、現在の私の予期がどうであろうと、またそれが未来の他者たちの証言等々の客観的証拠と一致しようとしまいと、未来の私が本当に〈私〉であるかどうかは、さらに付け加えられるべき別の要素だからである。&footnote(『〈私〉の哲学を哲学する』p22-23) このような永井の見解は、実在論を前提した場合に帰結する必然的なものであろう。永井の独在論では〈私〉の「無内包性(特定の物質やクオリアに〈私〉は依存しないということ)」が主張されるものの、実在論を仮定する限り、存在論としてはスウィーンバーンの魂説と近似的なものにならざるを得ない。 ネーゲルが提起した問題が、主観的な一人称記述と客観的な三人称記述という、決して調和しないもの双方を正しいとする誤った前提から生じることは既に述べた。永井の独在性の問題も同様であると私は考える。 認識論的問題として、実在論と認識論的独我論は同時に主張できない。存在論的にもやはり同様なのであり、実在論と独我論を同時に主張することから独在性のアポリアは生じるのである。ところで物理主義者は独我論者ではないが、事実問題として人の認識の在り方は第6節で掲げたマッハの自画像、また図2の独我論的世界像の方である。したがって物理主義者は実在論と認識論的独我論を同時に主張するしかない。換言すると物理主義者は永井と同様の立場にあるということである。したがって「世界についての唯一の記述がありうる」ということを実在論の要件にしながら、「私」が記述できないという矛盾を抱えざるを得ない。 ここでパーフィットのスペクトラムの思考実験が、実在論と現象主義ではどのように異なるかを図解しておく。 #image(http://cdn21.atwikiimg.com/p_mind/pub/I_3c.gif) 図3でも、実在論の方では脳Cが「私」であると仮定している。もちろん実在論的構図に「私」という状況依存的な指標詞は書き込めない。 実在論では厄介なことになる。「人格の入れ替わる瞬間」というものを想定しなければならないから、堆積のパラドックスを回避できない。永井やスウィンバーンは他者にも心があるという実在論的な前提をしている。この前提では脳分割により自分がライティーとレフティーに分岐するケースでは、「私」が片方になったとして、もう片方にも意識があるとしているのだから、もう片方にも「私」と主張する非還元主義的な主体が誕生することになる。これは主体のインフレとでも呼ぶべきだろう。 実在論を前提するならば物理主義の困難をそのまま引き継ぐことになる。物理主義の方法論では、或るクオリアと同タイプのクオリアが未来に出現した場合、それがトークンとして以前のクオリアと同一なのか非同一なのかを、一意に決定できないという問題があった。スウィンバーンの魂も永井の〈私〉も同様であり、脳分割のケースではどちらに魂や〈私〉が移動するか決定できず、なおかつ主体のインフレという問題が生じることになる。 しかし現象主義では、全ては「私の中」の出来事(正確に言うと一連の出来事が「私」)なのだから、パーフィットの思考実験についてパラドックスが生じることはない。また既述したように、ネーゲルが提起した世界についての一人称的記述と三人称的記述が相克するという難問も生じない。現象主義では元より他者の心は不可知であり、(存在しないに等しいので)他者と他者の脳細胞の交換について、人物の心がどの時点で入れ替わるかを考える必要はない。また自分の脳と他者の脳細胞の交換のケースにおいても、どの時点で自分が他者となるか(「私」と相関する脳が変わるか)は大きな問題ではない。現象主義では「世界」が「私」なのだから、脳細胞交換のある時点で世界の開闢点・パースペクティブが変わるというだけであり、世界としての「私」には変化がないと考えればよい。つまり「私」について堆積のパラドックスは生じず、「問題」そのものがないと考えてもよい。これはスワンプマンのような自分の複製体が出現するケースでも同様であり、どちらが「私」と相関するようになっても、もう片方の自分の心などは存在しないに等しいので語る必要がない。 &sizex(-1){※念のため付言するが、私は永井の独在論を完全に否定しているわけではない。現象主義の立場では全ては「私」への現れであるが、前述のように「私」に現れる他者というクオリアに、別のクオリア(要するに他我)が相関していると考えても矛盾ではない。したがって「もし〈私〉の世界内部に他我というものが相関していたならば」と問うことができる。私の立場からは、永井の哲学はその問題を探究する試みであると位置づけることができる。} 現象主義は多くの人が前提としている素朴実在論的な世界観を転倒させるものであり、自然主義が主流となっている現代哲学においては拒絶する人が多いだろうと思われる。しかし現象主義は必ずしも自然主義と対立するものではない。大森荘蔵の「重ね描き」では、物理主義的な還元主義を否定しながらも、自然科学による記述を知覚経験の一種として位置づけて、自然科学の知見を修正することなく現象主義に取り込もうとする試みがなされている。ルドルフ・カルナップらの論理実証主義による現象主義との違いは、感覚与件論を否定し、電子など知覚不可能な存在も概念存在として認めるということである。つまり物的存在も心的存在もともに「現象(クオリア)」として存在論的身分に差異がなく、両者はともに現象として対等に描写されるべきであると考える。「重ね描き」では必然的に、第6節で解説した図2の独我論的世界像の描写方法を選択するということになる。この大森の現象主義では、独在性のアポリアも意識のハード・プロブレムも存在しない。 &sizex(-1){※ただ心的因果の問題については、スピノザの並行説と同様の問題を抱えているように思える。これは今後の課題となる。} 参考までに、物理主義とは形而上学であるが、多くの科学者は形而上学にコミットしていない。物理学者だから物理主義者だというわけではなく、科学者の大半は実用的実在論者であるにすぎないのである。物理主義者と呼ばれる者の大半は哲学者なのである。 以上、独在性のアポリアを根拠にして現象主義の妥当性を主張してきたのだが、念のため書き加えておくと、私は非還元主義や四次元主義の論理的不可能性を証明できたわけではない。脳分割の場合、一定の確率によって「私」がどちらになるか決定され、もう片方にも魂のような非還元主義的な主体が誕生すると想定しても論理的に間違いだということにはならない。これはパーフィットの議論も同様である。実際パーフィット対して魂の非存在を証明したわけではないという批判があるが、その批判は正当だろう。また四次元主義ではクオリアの存在論がないがしろにされているが、そのことのみを理由にして四次元主義を完全に否定できるわけではない。そしてイデア説については、実在論に対して指摘される「私」の記述不可能性という問題、また表象主義に対して指摘される知覚のカメラモデルという二元論の困難があるのだが、それもイデア説が存在論的に不可能だという証明にはならないだろう。 ニコラ・ド・マルブランシュは、物理現象の真の原因は神であるとする神学的な説を提唱した。たとえば物理的事象AとBの間に因果関係があるように見えても、本当はAが原因となってBを引き起こしたのでなく、神がAを引き起こし、そしてBを引き起こしたのであり、Aの発生はBの発生の「機会」にすぎないと考える。これが「機会原因論」である。物体の動力(エネルギー)は物体そのものには存在しない。動力とは神の意志に他ならない。マルブランシュの機会原因論は「オッカムの剃刀」と対極的な思想である。これは証明が不可能であるものの、逆に間違っているとの証明も不可能である。神がいない証明ができないように、実在論や魂説が間違いだと論証することもできない。 私が人格の同一性を論じることによって証明したのは、現象主義の妥当性の高さである。オッカムの剃刀を用いるならば、魂のような非還元主義的主体というのはとても居場所を確保できないように思えるし、パーフィットに対して魂の非存在を証明したわけではないと批判するのは、神の非存在を証明した者はいないという意見と同レベルの強弁だとも思える。要するに結論を導出する過程の曖昧な部分の少なさ、理論における仮説の少なさ、そして最良の説明への推論という観点から、私は現象主義を支持しているのである。 現象主義の立場を取った場合、人格の同一性問題において重要な転換がなされる事になる。「通時的な人格の同一性」という問題が「通時的なクオリアの同一性」という問題に移行することである。しかしこの問題は矛盾しているように思える。或るクオリアと別のクオリアというものを想定する場合、既に両者が異なるものであることを前提としているからだ。異なるものの同一性というのは矛盾概念でしかない。魂を想定したバークリーのような初期の現象主義とは異なり、ヒュームや論理実証主義のように経験主義を徹底した現象主義の場合、身体説や非還元主義のように、異なるクオリアたちの帰属先となる通時的な主体というものを想定することができない。したがって人格の同一性は考えることもできず、ヒュームのように「虚構」の問題とするしかないように思われる。実際、近年の著名な哲学者としては最もラディカルな現象主義者だった大森は、物質的実在を否定し、個別の現象が次々と立ち現れるだけだとする存在論「立ち現れ一元論」を主張したが、個別の立ち現れたち同士の同一性というものを想定していない。立ち現れ一元論においては、現象間の「同一性」はなく、現象たちを立ち現らわす「同一体制」があるだけだと大森は言う&footnote(論文「ことだま論」1973年 『物と心』所収)。 彼ら現象主義者の難点は、クオリア(現象)の存在論を深く考究していないことであると私は考えている。クオリアの存在論は、実在論を否定し独在性のアポリアを解消してもなお残る難問である。つまりクオリアが一体「どのようにして生じているのか」という意識の根本問題を、現代の科学や哲学は全く説明できていない。 私はパーフィットの還元主義を個別のクオリアにまで適用することによって、独在性のアポリアが生じること、それは現象主義によってしか解消されないことを論じたが、現象主義でもクオリアの生成と消滅は説明できない。ちなみに英国経験論には「観念連合」というアイデアがあるが、これは観念と観念の「関係」を説明しているにすぎない。 クオリアには全一性があるように思える。「赤」のどこを探しても「痛み」はない。クオリアは部分から構成されるものではない。これが全一性である。クオリアの生成変化とは物質的なものの生成変化とは全く異質な性格がある。心の哲学では「還元主義」「創発説」「汎経験説」といったアイデアでクオリアの生成変化を説明を試みるが、いずれも成功していないのは、このクオリアの全一性を説明できないからである。 クオリアの全一性を認めると、クオリアが生成し消滅することは極めて不合理だということになる。なぜ「ある」ものであるクオリアが「ない」になるのか、「ない」状態から「ある」ものであるクオリアが生じるのか――問題の根本はクオリアが生成消滅するということの不思議さにある。 ヒュームは個別の知覚たちは全て別個の存在者であり、かつ知覚たちに結合はないと考えていた。その自身の結論をヒュームは矛盾したものと考えていた。ヒュームが知覚たちを別個の存在者だとしたのは、知覚に全一的な性質、即ち他の何かに還元できない性質があると直観したからであろう。他の何かに還元できないということは、他の何かから生まれることは出来ないということである。しかし、にも関わらず個別の知覚たちは、それぞれがパズルのピースのように他の知覚たちと連携し合って、統一的な全体と流れを構成しているように思われる。したがって大森は「立ち現れ」は「同一体制」のもとで立ち現れると考えたのである。知覚は全一的で相互排他的でありながらメレオロジー的和を構成する。これは矛盾しているように思える。だからヒュームは人格の同一性の問題について「迷路に巻き込まれた」と告白したのだと思う。 今のクオリアと 0.0000001秒前のクオリアを別個のものだと考えても論理的に矛盾はないのだが、一つの鐘の音を聞くとき、その音は鳴り始めの瞬間から鳴り終わりの瞬間まで、何百億というクオリアの集合から構成されているとするのは直観と節約の原理に反しているし、クオリアの持続感が説明しがたいように思える。もし鐘の音が全体としてつながった一つのクオリアだと考えることができるのなら、私の現在のクオリアと七歳の頃のクオリアも一つの持続的なクオリアとして考えることができるのではないか。もしそうならば、クオリアの生成と消滅という難問は解消するかもしれない。そして、そのクオリアの同一性こそが、私が模索してきた「つながり」の本質に違いない。 人格の同一性の問題を極限まで縮約すると、過去のクオリアと現在のクオリアの同一性という問題になるはずだ。 次節では人格の同一性問題の極限であるクオリアの同一性問題について、ベルクソンによる「持続」の形而上学をヒントに解決の糸口を見出したい。 **8 クオリアの同一性と非同一性 ヒュームは個別の知覚たちは全て別個の存在だと考えた。しかし彼は別個のものだということ、つまり「非同一性」の論証を行っていない。 私が遠い故郷のことを想いながら歩いているとき、転んで足を挫いたならば「郷愁」のクオリアは「激痛」のクオリアに変わる。しかし、存在論的に「郷愁」のクオリアと「激痛」のクオリアは全く別のものだと、双方の「非同一性」というものを証明できるのだろうか?  まず「郷愁」と「激痛」は言葉・概念として異なっている。そして「郷愁」という言葉の指示対象であるクオリアのどこを探しても「激痛」のクオリアは見当らないように思える。ヒュームが個別の知覚たちは全て別個の存在だと考えた理由でもあろう。しかし概念としての相互排他性、そして或るクオリアには別のクオリアが見当たらないように思えるという(曖昧な)「印象」は、はたして「郷愁」と「激痛」の非同一性の証明だろうか? 窓から山と川が見える場合、「山と川の同一性・非同一性の問題」などと考えたりはしない。それらは一つの視覚像内部の性質なのだから、同一の絵の異なる部分のようなものである(共時的同一性)。ひょっとすると私が時間を隔てて経験する諸々のクオリアの同一性・非同一性という問題も、実はそれと同じではないのかと考えたくなる。 しかし時間には風景を見るような空間の感覚と異なり、断絶感がある。青信号が黄色に変わり、そして赤に変わった場合、青い色は完全に消えている。これが断絶感である。どうしても青のクオリア、黄のクオリア、赤のクオリアたちが別のものである可能性を否定できない。 ところが逆に両者が同一だという可能性も否定できないのではないだろうか。確かに両者は概念として排他的である。これが語用論・意味論の問題である。さらに人は青・黄・赤を異なるものとして認識している。これが認識論の問題である。しかし存在論的にはどうだろう。青のクオリア、黄のクオリア、赤のクオリアには本当に「共通する何か」がないのだろうか? こう考えることもできる。それらの色のクオリアは「私」の経験ということで共通している、と。もちろん還元主義なら「私の青の経験」と「私の赤の経験」は別もので、両者が共通して所有するように見える「私」という部分も別物だと主張するだろう。しかし、「私」の非同一性の証明はできないように思われる。パーフィットは脳分割やスペクトラムの思考実験で、「私」というような非還元主義的主体を阻却することに成功した。ただしそれは実在論という土俵の上でのことである。第7節の図3で実在論と現象主義の違いを表したように、現象主義の構図では「世界」イコール「私」なのだから、現象主義や観念論では、パーフィットの思考実験から「私」が生き残るはずである。 しかし逆に、現象主義でもヒューム的な還元主義を主張することができることは確かである。メロディーのクオリアと痛みのクオリアは全く別のものであり、メロディーを聴いている「私」と痛みに苦しんでいる「私」とは別の存在であり、さらに「両者は同一の私だ」と言っている私もまた別の存在である――。既述したようにラッセルはこのような可能性、つまり或る記憶と、その記憶の対象である過去が論理的に別のものである可能性が否定できないことを指摘している。そしてクオリアたちを隔てる時間特有の断絶感が、ヒューム的な還元主義を説得的なものにしている。 クオリアたちの同一性と非同一性は、いずれも論証できないように思える。 またクオリアについては、自己知の問題も関わるかもしれない。私が「赤」のクオリアを経験している場合、第三者にその事実を確かめる術がないのはもちろんだが、実は当の私にも確かめる術がない。想起とは現在の経験の一種なのだから、記憶と照合させて「確かめる」ということに意味がない。つまり自分が過去に経験した「赤」と現在経験する「赤」の同一性が証明できないということになる。 逆に同一性の証明ができないという問題は、それぞれ別個の存在であるように思えるクオリアたちの、非同一性の証明が不可能だということになるかもしれない。「赤のクオリアと痛みのクオリアは別のものである」こう主張したとしても、それは言葉の意味として異なっているという事実を表現しているのみである。存在論的にはクオリアの非同一性を論証しておらず、私秘的な感覚を表現し尽くしているわけでもない。 結局の所、人格の同一性とは、同一性の根拠をクオリアに置く限り、論証不可能なものであるかもしれない。クオリアは公的基準で分析することができない。前言語的な存在だと考えてよいだろう。 意識の前言語的な性質に着目し、意識は純粋に持続的な存在だと考えたのがアンリ・ベルクソンである。 ベルクソンは意識に与えられたものについて、或る意識内容(クオリア)と、その意識内容を言葉にしたものは全く別のものだとみなしている。意識には言葉で語り尽くせない性質がある。そのことを看破したベルクソンは、厳密な概念の規定や演繹による論証という分析哲学的な方法ではなく、比喩や暗喩によって意識内容の本質を「示す」という手法をとることになる。ウィトゲンシュタイン風に言うなら、「語りうる」ものでなく、「語りえない」ものでもなく、「示されうる」ものこそが、ベルクソンにとっての意識内容――純粋持続である。 ベルクソンの純粋持続は、還元主義・非還元主義の概念には納まり切らないものである。時間論としての形而上学的な位置づけは、現在と過去とを実体化して考えるので、C.D.ブロードが主張する「成長するブロック宇宙(growing block universe)」に近いニュアンスがある。ただし純粋持続はその本質をミンコフスキー空間上には記述できない動的なものだという点が大きく異なる。 純粋持続は「質的多様性」として考えられている。つまり持続内の諸々の要素は互いに外在的で相互排他的なのではなく、相互に浸透し合っており、一つの要素のみを取り出すことができない。仮に一つの要素を取り出した場合は他の要素全てが変貌してしまう。これをベルクソンはメロディーを比喩に用いて説明する。 メロディーは個別的な音の寄せ集めとして成り立つのではない。それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つとしての全体を形成する。メロディーの或る一つの音は、それのみでは何のへんてつもない単なる音に過ぎない。しかし前後に連続する他の音と相互作用することによって聴く者に固有の質感や印象を感じさせる。――これは意識についてのみだけでなく時間についての比喩でもあり、ベルクソンにとって純粋な持続としての意識と時間は、空間的なものと異なり分割できないもの、個別の時点に要素を還元できない性質のものとして、その内に差異を含みながらも通時的に同一のものなのである。 空間的なものは、たとえば十センチは一センチを十倍したもの、逆に百センチの十分の一として厳密に定義可能である。しかしメロディーの例でわかるように純粋持続はそのような可算や分割が不可能である。さらに空間的なものは個別の要素が離在しているが、純粋持続においては個別の要素が相互浸透し合っている。このようにベルクソンは動的・持続的な時間の異質性を空間と対比して強調する。 純粋持続に新しい要素、つまり「現在」が加わった場合、それは新たな相互浸透の作用によって過去のものを含めた純粋持続全体に質的変化をもたらすことになる。メロディーがそうであるように、一つの要素が抜けても加わっても、全体が変貌する。純粋持続とは未来へ向かって、新しい要素を加えながら絶えず全体を変貌させつつ、自らを新たに創造し持続し続けるものである。 メロディーは複数の音の連なりとして固有の印象を人に与える。要素としての一つの音を人はその気になれば意識から取り出すことができる。しかし切り取ったその一つの音は、元のメロディーの印象を何も含んでいない。――これは純粋持続としての意識と、その意識を表現したものである言語との関係として見る事もできる。純粋持続が前言語的な存在とされている理由である。 しかし、表現された言語もまた純粋持続の要素となるはずである。その新しい要素もまた全体としての純粋持続を変貌させ、それがまた新たな創造の契機となる――。このように、ベルクソンの純粋持続の諸要素においては「一」と「多」は互いに排他的な関係にあるのではない。ベルクソンの哲学は一元論と多元論、または還元主義と非還元主義のどちらかに安易に分類できない特異な性質がある。 ベルクソンがメロディーの比喩で示したように、音のクオリアたちが相互浸透しているのは事実だと思える。ならば「赤」や「青」という色のクオリアも同様ではないか。いや「赤」のどこを探しても「青」はないのだ、という意見は当然あるだろう。しかし人の持続的な意識の過程で、「赤」というものは本当に純粋に独立した要素として存在しているのだろうか。メロディーの比喩にあったように、それは本来、他の要素と相互浸透しあった前言語的存在であるものの内から、人の知性で切り取った言語的な存在なのではないか。そして、その切り取られた言語的な存在も、ベルクソン的に考えるならば、新たな要素として純粋持続に加わり、(実体的な)過去に浸透し、新たな全体を創造していく――。このように考えれば、個別的に思えるクオリアたちに「つながり」がある可能性が示されるはずだ。 ところで、物理主義ならばクオリアたちのつながりに関しては、諸々のクオリアをもたらす物理的状態が時空的に連続的であるとすることで、クオリアたちの緊密な相関関係も説明するだろう。しかしクオリアたちの数的同一性についての難問を回避できないことは幾度も述べた。或るクオリアは少しでも変化したなら別のクオリアになるとするなら、五分程度の一つのメロディーが何十兆のクオリアから成ると考える他はない。そう仮定してもラッセルが指摘したように論理的な矛盾はないのだが、オッカムやベルクソンでなくても、五分のメロディーが一つの存在者だと考えた方が圧倒的に節約の原理に適っている。特に私が取る現象主義の立場では、物質的な実在というものを否定するのだから、0.0000001秒ごとに互いに外在的で独立しながらも、互いに相関関係をもったクオリアたちが生起すると考えるのは、理論に途方もなく無駄が多い。 メロディーのクオリアは純粋に持続的な、通時的に数的同一の存在者であると確信せざるを得ない。 以上がベルクソンによる「持続」の形而上学から、私が読み取ったクオリアの存在論のアウトラインである。ベルクソンは純粋持続が言語や概念では捉えられないことを直観した上で、その本質を比喩や暗喩によって示そうと試みた。 前節ではブロック宇宙を静的な固形物として理解することを批判したヒュー・プライスの文章を紹介した。プライスによれば、ブロック宇宙は「ふつうの意味での存在物といえるようなものではない」のであった。プライスの洞察が、時間を空間的なイメージで理解することを批判したベルクソンの慧眼と通じているのは確かであると私は考えている。人は空間を理解することはできるし、その空間に時間が流れている様を理解することもできる。しかし「時間と空間を合わせたもの」は理解することができない。相対性理論によれば時間と空間は相関しており、時間が膨張するケースでは空間が縮む。時間と空間は統合された「時空連続体」を形成するのだが、人は時空連続体をイメージできない。ブロック宇宙とはプライスの言うように、人が理解できる存在物ではないだろう。 分析哲学とは言語哲学に重心を置いている。しかしベルクソンからすると、そもそも言語とは絶え間なく変化し持続する意識状態の、或る部分を切り取って空間的・固定的に把握したものだ。ベルクソンは次のように述べている。 >並置された概念がわれわれに実際に与えるものは、対象の人工的再構成以上のものではけっしてなく、概念は対象の一般的な、いわば非人格的な面の記号となりうるものにすぎない。だから概念で実在が把捉できると信じるのは空頼みであって、概念はわれわれに実在の影を示すだけのものである。&footnote(アンリ・ベルクソン著 坂田徳男 他訳『哲学的直観』p.17) プライスの洞察はブロック宇宙というものが、ベルクソンが意識について考えたように、前言語的存在だということであるように思える。もしブロック宇宙説が形而上学的に妥当なものであれば、ベルクソンの純粋持続も妥当な形而上学であるかもしれない。 おそらく厳密な概念規定と言語分析による方法を尊守すべきだとする立場の哲学者からすると、概念分析よりも直観を重んじるベルクソンの哲学はあまりに抽象的かつ曖昧で、空疎な形而上学という印象を受けるかもしれない。実際、ラッセルなどからベルクソンに対して厳しい批判があったことも事実である(ただしラッセルらの批判は主にベルクソンが『物質と記憶』で展開したスピリチュアリズムに向けられている)。しかし、ベルクソンの形而上学がクオリアと人格の同一性の問題双方について、新たな探索の道を開いていることは間違いないと私は考えている。分析形而上学における議論にはない異質な可能性があることは確かだろう。 ともあれ、ベルクソン哲学の可能性を探究するには主題を改めて論考した方がよいだろう。ここでは新たな形而上学の可能性を確かめるだけに留めておく。 以上をもって人格の同一性問題についての論考をひとまず終えるが、とりあえずの私の結論を述べておこう。 私はクオリアの存在論が欠如した物理主義や四次元主義を否定し、また魂のような主体を想定する非還元主義的な立場も否定した。そして独在性のアポリアをきっかけに現象主義という立場を提案した。現象主義における人格の同一性問題とは、クオリアの同一性問題であった。ところがクオリアの同一性を問うには、クオリアの非同一性を問わなければならない。しかしベルクソンが示したようにクオリアが前言語的な存在であるならば、非同一性の論証は困難である。ならば同一性の論証も困難である。――これが論理的な結論になる。 しかし、個別的に存在しているクオリアたちは明らかに他のクオリアたちと相関している。ベルクソンは相互排他的で互いに外在的であるように思える意識内容が、実は相互浸透していることを比喩によって示した。ベルクソンの「持続」の形而上学に何らかの真理があることを私は直観している。四次元主義の段階説では独在性が説明できる可能性はあるものの、クオリアが刹那的な存在者だとすると、ゼノンの「飛ぶ矢」のパラドックスのようにクオリアの動性が説明できなくなる。飛んでいる矢が飛んでいるならば、流れているメロディーも流れていなければならない。したがってクオリアたちは独立して存在しているように見えても、つながっていなければならない。クオリアたちに断絶はない。「意識の断絶」や「無意識」というものは、一連のクオリア経験から推定された「仮説」なのである。経験主義を徹底した現象主義という立場からすると、確実に存在していると言えるものは、現実に経験しているもの(というよりは経験そのもの)であるクオリアと、そのクオリアたちを秩序正しく生起させている「構造」だけである。 メロディーは独立した音のクオリアの寄せ集めとして存在するのではない。個別の音のクオリアが独立していても論理的に矛盾はないとしても、メロディー内の個別の音は、別の音を「志向」しているものである。志向性を持つ存在が志向対象と独立して存在しているというのはあまりに不自然すぎる。したがって個別の音のクオリアたちは浸透し合った一つの存在者でなければならない。そして、今のクオリアと一秒前のクオリアが浸透し合っているとするならば、数十年前のクオリアとも浸透し合っているかもしれない。――これが私の直観的な結論である。 そのクオリアの同一性という直観を、論理的な「形」にすることが、今後の私の課題になる。それはクオリアの「変化」というものを合理的に説明することである。ベルクソンは純粋持続を想定することによって、クオリアたちの「つながり」を説明することに成功したように思える。しかしクオリアがどのような原理で変化するのかという問題は解消していない。 哲学史上、クオリアの変化について合理的に説明した者はいない。クオリアとは人の最初の「経験」であり、全ての思考の出発点である。この最初のものが何も解明されていないとは全く驚くべきことである。この問題には、何か答えがなければならない。 今。私の前のテーブルには数十年前に親友からもらった古いキーホルダーがある。今と過去とを架橋するキーホルダーは、私の胸にさまざまな想いを去来させる。生まれては消え、消えては生まれるその想いたちこそが、哲学の最初にして最大の謎である。 ---- ・参考文献 ロダリック・M・チザム 中堀誠二 訳『人と対象』みすず書房 1991年 アンリ・ベルクソン 中村文郎 訳『時間と自由』岩波文庫 2001年 アンリ・ベルクソン 合田正人・松本力 訳『物質と記憶』ちくま学芸文庫 2007年 アンリ・ベルクソン 真方敬道 訳『創造的進化』岩波文庫 1797年 アンリ・ベルクソン著 坂田徳男 他訳『哲学的直観 ほか』中公クラシックス2002年 ブライアン・グリーン 青木薫 訳『宇宙を織りなすもの 上』草思社 2009年 デイヴィッド・ヒューム 土岐邦夫・小西嘉四郎 訳『人性論』 中公クラシックス 2010年 トマス・ネーゲル 永井均 訳『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房 1989年 トマス・ネーゲル 中村昇 他訳『どこでもないところからの眺め』 2009年 春秋社 デレク・パーフィット 森村進 訳 『理由と人格 非人格性の倫理へ』 勁草書房 1998年 ヒュー・プライス 遠山峻正、久志本克己 訳『時間の矢の不思議とアルキメデスの目』 講談社 2001年 W.V.O.クワイン 中山浩二郎・持丸悦郎 訳『論理学的観点から』岩波書店 1972年 ジョン・ロック 大槻春彦 訳『人間知性論(二)』岩波書店 1974年 バートランド・ラッセル 竹尾治一郎 訳『心の分析』勁草書房 1993年 バートランド・ラッセル 高村夏輝 訳『哲学入門』筑摩書房 2005年 ジョン・R・サール 山本貴光・吉川浩満 訳『MiND 心の哲学』 朝日出版社 2006年 ジョン・R・サール 宮原勇 訳『ディスカバー・マインド!』 筑摩書房 2008年 セオドア・サイダー 中山康雄 他 訳『四次元主義の哲学―持続と時間の存在論』 春秋社 2007年 ポール・デイヴィス 林一 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