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法学的行政

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法学的行政

Seibun Satow

Nov, 26.2 010

 

「悪法でも、実際に適用されるなら、解釈のまちまちなよい法律よりずっと役に立つ」。

ナポレオン・ボナパルト

 

 「政治主導」を掲げて政権に就いた民主党を中心とする連立政権だったが、菅直人首相になってから、その軌道修正が図られている。霞ヶ関との友好関係を最も進めたのは、おそらく仙谷由人官房長官だろう。この政権の真の実力者が弁護士であることは興味深い。それは日本の官庁における法学傾向をよく物語っている。

 

 国家公務員試験は細かく区分されているが、行政職Ⅰ趣試験に合格・採用された公務員が「キャリア」である。Ⅰ種試験自体も再分化されている。詳細は省くけれども、法律・経済・行政で採用されるのが事務官、それ以外が技官である。国家Ⅰ種試験の合格者が最多なのは。行政であるにもかかわらず、法律職であり、4分の1を占める。試験に合格しても採用されるとは限らない。各省庁で面接を受け、内定を得て、初めて採用される。この内定率は、低下傾向にあるものの、近年でさえ著しく東大、とりわけ法学部に偏っている。東大出身者の合格率は全体の三割程度なのに、内定率は五割に上昇する。

 

 戦前の官僚の採用システムは現在と異なっている。けれども、今以上に東大法学部出身者に極端に偏っていたことは周知の通りである。

 

 東大法学部に採用が偏重するのは、その出身者が優秀だからではない。そこが彼らに与えてくれるものを官庁が求めているからである。東大法学部というブランド力、ならびにゼミや部活、サークルなどを通じて獲得される人脈が欲しくて東大法学部出身者を採用する。それは戦前から続く旧制高校の特権性から派生する慣習的認識だと言える。

 

 戦前、学閥は大学を意味しない。旧制高校である。旧制高校の進学率は、同年代男子の1%にも満たない。彼らは寮・語学クラス・部活で人脈を形成し、その後、政・官・学で中心的役割を果たす。東大法学部はその伝統の大衆化された後継である。

 

 弊害は、当然、大きいと推察できる。思考傾向が似ていたり、専門外のために体系的知識が欠けていたり、従前の人脈から距離のある女性が昇進しにくかったり、知らない人とコミュニケーションがとれなかったりするなど多様化の進む現代社会のそぐわない人材が集まる組織になりかねない。前例踏襲に重きが置かれすぎることにもつながる。

 

 法律職の偏りも日本の行政に特有な問題点を生じさせている。確かに、行政は個々の政治課題を法令に基づいて実施する。官僚が法律に通じていることは必要だろう。実際、教育に関しては法律に基づかない政策運用がなされ、戦後の日本国憲法26条にわざわざ「法律の定めるところにより」という文言が記されている。けれども、あまりにも法律職に偏っていては、行政が本来の職分を発揮できない。法学と行政のリテラシーは必ずしも重なり合わないからである。

 

 法学では、人間関係は権利と義務によって把握される。家族だろうと、友人だろうと、恋人だろうとそうである。それを踏まえて、法体系に則り、法解釈を行うのが法学である。解釈は文理解釈・論理解釈・目的論的解釈・類推解釈に分類できる。文理解釈は文言通りの解釈、論理解釈は複数の法を組み合わせて個別事案に対処する解釈、目的論敵解釈は法の目的を尊重して文言の意味を拡張あるいは縮小する解釈である。類推解釈は法文に記されていないことをそこに定められていることと類似しているとする解釈であり、罪刑法定主義をとる刑法では禁止されている。二重の拡張は類推に当たる。

 

 しかし、行政は個々の政治課題に対処する祭に、法解釈ではなく、既存の法体系の変更も必要とされる場合もある。イギリスでは、官僚は制度設計だけを行い、法案作成はせず、外部の法律事務所に委託する。当然、理国の官僚は法学部出身者に集中することはない。中央官庁は国の経営機関でもある。さまざまなデータを収集・分析し、将来を見据えて大局的見地から総合的・体系的な制度をデザインすることが求められる。

 

 そもそも、ある政策の妥当性や評価を検討するのは法学ではない。法学は司法を中心に考察するのであって、行政はそれと関連する場面において対象となるだけである。

 

 日本の行政は、しばしば、この法学的認知に引きずられて判断ミスを犯す。その典型が1971年の仏領インドシナ南部への軍事侵攻である。フィリップ・ペダン元帥の率いるヴィシー政権は対独協力政府であり、ドイツの同盟国である日本が自国の植民地に進軍することを了承する。国際法上は問題がない。外務省は国際的緊張を招くことはないと府中・宮中に伝える。しかし、アメリカはこれを敵対行為として日本への石油の全面禁輸と在米財産の凍結で対抗する。法学部出身の官僚たちは、なぜアメリカが反発したのかわからない。緊迫した日米交渉が続く状況下で、ナチの仲間が英領マレーに迫ったら、アメリカがどう反応するかくらい予想がつきそうなものだ。国際政治は法解釈の場ではない。インドシナ侵攻がきっかけとなって、日米交渉は打開の見通しが薄れ、開戦へと向かう。

 

 また、解釈に精を出して、理論体系のシフトにまで考えが及ばず、判断を誤るケースも見られる。19世紀後半、網の目のように同盟を諸外国との間に結び、その力学で自国の安全を保障するという外交理論が欧州を席巻する。しかし、そうした同盟の連鎖が第一次世界大戦を招き、この理論は破綻する。にもかかわらず、日本政府は大戦中もその理論を完成させようと外交を続け、1916年、第四次日露協商を締結、夢が叶う。ところが、ロシアに革命が起き、権力を握ったボリシェヴィキが秘密協定を暴露、日本の外交のアナクロニズムが世界の物笑いの種になる。

 

 このような行政の判断ミスは数え上げればきりがない。しかし、依然として法律職偏重のキャリア採用が続いている。行政の体質を変えるには、採用から改めなければ難しい。

 

 立法はこうした行政と相互作用をしている。その政治家にしても官僚からの転身組が少なくない。そうしたせいか、国会の議論でも、憲法に限らず、法解釈に拘る光景が頻繁に見られる。とりわけ2010年の臨時国会は見るに耐えない場面が多い。閣僚の失言もさることながら、自民党参議院議員たちのヒステリックな質問は、法解釈への拘泥どこころか、揚げ足をとるなど子どもの喧嘩の域を出ない。

 

 判例集を読むのは、奇妙な設定を競うような今時の小説以上に、面白い。いい大人が子どもの喧嘩みたいなことを大真面目な法解釈を通じて判決を下している。それに比べれば、作家の想像力など貧弱なものだ。1909年、料理店ですき焼き鍋と徳利に放尿した行為が器物損壊に当たるかどうかが大審院(現最高裁)まで争われたケースがある。大審院は、1909年、食器を丹念に消毒すれば再使用できるとしても、放尿された食器を誰も使いたがらないので原状回復は不可能であり、器物損壊罪を適用している。この食器放尿事件はドリフのコントさながらである。

 

 けれども、こういう光景を行政や立法では見たくはない。政治課題と制度設計の関係についての議論が欲しい。

〈了〉

参照文献

真淵勝。『改訂版現代行政分析』、放送大学教育振興会、2008

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