Lev Tolstoy Superstar
─レフ・トルストイと20世紀
Seibun Satow
Oct. 31. 2008
「ロシアには皇帝が二人いる。ニコライ2世とレフ・トルストイだ。どちらが強いか?ニコライ2世はトルストイに何一つ手出しできないし、その王座を揺るがし得ないが、トルストイは疑いなくニコライの王座とその王朝を揺るがしている」。
アレクセイ・S・スヴォーリン
1 20世紀の人間
その行くところはどこであっても、たちまち人だかりができあがる。1906年に、モスクワの別送から同市内のクルクス駅で汽車に乗り、ヤースナヤ・ポリャーナへと向かうまでの模様を記録したフィルムが残されている。
駅までの道を何万人もの群衆がお目当てのやってくるのを今か今かと待ち望んでいる。顔ぶれは俳優やジャーナリスト、商人、労働者、学生などありとあらゆる階層の人々であり、その前方には写真機や映像撮影機をセットしたカメラマンも数多くいる。一台の幌馬車が近づいてくると、群衆は誰からとも言うわけでもなく、一斉に「万歳!」と叫ぶ。通り過ぎるやいなや、今度は大勢がその後を追いかけていく。クルクス駅は人であふれかえり、駅舎や貨車の屋根の上にまで登っている者さえ少なくない。汽車が走り出すと、ある男がそれに向かってこう絶叫する。「あともう100年生きてくださいよ!さようなら!」
群衆が熱狂していたのは、華やかな俳優でもなければ、超人的なアスリートでも、命知らずな冒険家でも、天才的なミュージシャンでも、腐敗した体制を打倒した革命家でも、祖国を勝利に導いた凱旋将軍でも、経済を牛耳る資本家でもない。この人物こそ文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイにほかならない。メディアが追い求めた史上最初の世界的なスーパースターである。
しかし、このときの文豪はすでに78歳である。決してハンサムとは言えないけれども、マット・デイモンに似ていた頃のロシア文壇の新星ではもはやない。真っ白な髪と髭を伸びるにまかせ、しわくちゃで、歯が抜け、口から吐く息が臭い老人である。けれども、その姿は、ユダヤの民の出エジプトを率いたモーゼはもしかするとこんな感じだったのではないかと思わせる。
19世紀、欧米では、産業革命の進展と公教育の拡充によって、新聞や雑誌、書籍など活字媒体の産業が急速に発展する。紙の値段が格段に安くなり、新聞も広告収入によって安価に抑えるビジネス・モデルは普及する。アレクサンドル・デュマやチャールズ・ディケンズなどを始めとした多くの売れっ子作家が登場し、彼らはセレブやオピニオン・リーダーとして世間の耳目を集めるようになる。ディケンズは自作の朗読会の公演ツアーを定期的に行い、まるでビートルズのごとく、いつでも満員盛況である。次第に、オスカー・ワイルドのように、作品を発表する前に社交界で名を広めてから、時代の寵児ともてはやされる作家まで現われている。人に知られた名前を持つことが何よりも成功への近道となる時代が到来しつつある。
20世紀に向かうにつれ、世界的な通信・交通網が整備されて、写真や映像、蓄音機などの記録媒体が出現してきたため、情報はかつてないほどの速度で地球上を駆けめぐり、人々に衝撃を与えるようになっている。
映像メディアが一般に普及した後には、それ自身が生み出した映画俳優のようなスターが世間の話題となるが、この頃はまだ発達途上である。生まれたばかりの映像メディアも、まずは、活字文化のスターを被写体としている。ちょうどその時期に最も世界的な名声を確立していた作家が文豪である。
文豪の名前を世界的にしたのは、1869年に完成した大著『戦争と平和』である。驚異的な調査力と自身の戦争体験に基づき、人間業とは思えない構成力が展開されるこのアナトミーの傑作は、信じがたいことだが、ロシアの知識人の間では不評で、一般読者から人気に火がついている。『戦争と平和』は19世紀ロシア文学と言うよりも、世界文学史上に燦然と輝く傑作の一つである。文豪の名前は欧米を超えて、世界中に広がっていく。
名声を確立していたのは、確かに、文豪だけではない。しかし、文豪はかねてより社会的発言や実践活動を積極的に行っている。商業メディアにはニュースを提供してくれる人はありがたい。世界的な大作家が、何か事件や出来事が起きると、即座に意見を表明する。それは直ちに多数の言語に翻訳されて、各地に配信される。これが繰り返されれば、されるほど、さらにその名前の認知度は増大する。
1904年、日露戦争が勃発すると、『北米新聞(North American Newspaper)』が文豪にどちらの国の味方になるつもりかと尋ねた際、「私はロシアの味方でもなければ日本の味方でもなく、良心と宗教と自己の幸福とに反してまで戦うよう政府によって横着され強制された両国の労働階級の味方である」と2月9日に答えている。さらに、文豪は、6月13日、日露戦争に関する論文『反省せよ!』をイギリスの出版社から刊行すると、各国の新聞に翻訳・転載される。
何万キロもたがいに離れている人間同士が、一方は人だけでなく動物すら殺すことを禁じる掟をもつ仏教徒、一方はすべての人を兄弟とみる精神と愛の掟を信じるキリスト教徒であるのに、彼らは、野獣のように残酷きわまる殺しあいをするために、陸に海に敵を探し求めている。
日本でも、6月27日付『タイムズ』紙の記事を元に、週刊『平民新聞』が8月7日号に日本語訳を掲載し、『東京朝日新聞』も「トルストイ伯 日露戦争論」と題して8月2日から20日に亘って連載している。戦争支持だった石川啄木は、この論文を読むなり、慌てて、反戦に立場を変えている。また、与謝野晶子は、文豪の訴えに応えるべく、『明星』9月号に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きてという詩を寄せる。その仲の「君死にたまふこと勿れ」の一節は、反戦の言語的シンボルとして、時代を超えて語り継がれていく。
教えや忠告を求めて、チェンジ・プロデューサーである文豪の元を訪れたり、手紙を送ったりする人も少なくない。1894年、小西増太郎は、ロシアに留学中、文豪と共同で老子のロシア語訳に着手している。彼の記した『トルストイの葬儀』は、文豪の葬儀の模様を知る貴重な資料となっている。ちなみに、この小西増太郎の息子が「なんとー申しましょうーかー…、打つも打ったり、捕るも捕ったりのプレーであります」の名調子でお馴染みの野球開設者小西得郎である。また、96年に、徳富蘇峰と深井英吾、06年には、徳富蘆花夫妻がヤースナヤ・ポリャーナ詣でを行っている。他にも、1904年、安倍磯雄は、文豪との間で、社会主義に関する考えを書簡で交わしている。
大正時代の文学者の間で、文豪の影響力は圧倒的である。挙げればきりがないが、感銘を受けて、武者小路実篤は「新しき村」を設立し、有島武郎は有島農場を小作人に解放したのはその代表だろう。加えて、1914年、芸術座が文豪の『復活』を上演した際、松井須磨子がカチューシャを主演し、『カチューシャの唄』が大流行している。今日でも、女性用のC字型ヘアバンドは「カチューシャ」と呼ばれているのは、このヒットに由来している。
文豪は、19世紀の活字文化が育んだと同時に、20世紀の複製技術時代が生み出した最初のスーパースターである。と言うよりも、20世紀における知識人やセレブによる社会的活動の巨大なプロトタイプである。
文豪は、識字率向上を目指して農民の子供向けの学校を開校するなど社会的な活動に取り組んでいるが、それも同時代的な潮流と無縁ではない。19世紀後半、多くの社会改良運動が自発的に生まれている。夜警国家が関の山といった時代であり、セーフティネットが不十分であり、差別や偏見も野放しに近い状態である。婦人参政権運動、セツルメント運動、民芸運動、労働運動などと同様、文豪の活動もその一つに含めることができる。見るべきなのは、19世紀的なことをしながらも、文豪が20世紀を感じさせる点である。
20世紀を先行していたと指摘するだけでは、19世紀ならびに20世紀の特性を曖昧にし、神話的な通説に寄りかかっているにすぎない。そもそも、20世紀が19世紀より進んでいるという進歩主義を前提とすべきではない。
ロマン・ロランは、『トルストイの生涯』において、文豪の誌はロシアの革命前夜にふさわしく、20世紀を先取りしていたと言っている。文豪が永眠する直前まで国家と教会は宗教的態度を改めさせようとし、さらに11月9日の葬儀の際には、当局は葬列を包囲、駅を厳重に警戒して、1万人を超える民衆のエネルギーの高まりを沈静化させようと躍起になっている。しかし、兵士も警官も、場の雰囲気に圧され、脱帽・伏拝せざるをえない。19世紀、エリート層と民衆の間には隔たりがあり、前者が後者を指導して無知蒙昧から脱却させ、正しい道へと導かなければならないと考える知識人は少なくない。ところが、20世紀では、識字率が向上して教育水準が高まると、もはやエリートによる上からではなく、民衆自身による下からの社会改良が時代の風潮となる。文豪は人々を導いたけれども、モーゼ同様、真の意味での20世紀には足を踏み入れることができなかったとも言える。
文豪は、コーカサスの山岳地域に居住していたドゥホボール教徒のカナダへの移住費用を援助するために、1899年、『復活』を発表している。ドゥホボール教徒は「汝殺すなかれ」を遵守する非暴力主義者であり、帝政ロシアから迫害を受けている。彼らの信条に共感していた文豪は、その印税をすべて彼らに寄付している。
1971年8月1日、飢餓や疾病、暴力に苦しむバングラデシュ難民を救済支援するために、ジョージ・ハリソンが呼びかけ、マジソン・スクエア・ガーデンで、大規模なコンサートが開かれる。以降、ミュージシャンたちは、同様の問題が世界各地で表面化した際、救援・支援を目的としたチャリティ・コンサートを開催するようになっている。
また、1891年から92年にかけて、南ロシア一帯を大飢饉が襲う。文豪は即座に二人の娘を伴い、現地に赴き、無料で食事を提供する救援活動を始める。さらに、この窮状を世間に知らせるため、新聞社に寄稿している。しかし、ロシア政府は飢饉の実態を隠蔽するために、掲載禁止処分を下す。そこで、モスクワの妻ソフィアが『ロシア報知』誌に夫の救援活動に関する手記を寄せ、これが国内外から大反響を呼び、ロシアのみならず、アメリカやイギリスなど各国からも支援物資が送られている。文豪は、飢饉が続く間中、活動を継続している。
1972年12月、ニカラグアで大地震がおきたと知ると、ピッツバーグ・パイレーツのロベルト・クレメンテは、同31日、救援物資をDC-7に積み、同乗して現地へと飛び立つ。しかし、途中で墜落し、彼は帰らぬ人になってしまう。彼の精神を受け継ぐため、慈善活動を積極的に行ったメジャーリーガーに授与されていた「コミッショナー賞」は、1973年、「ロベルト・クレメンテ賞」へと改称される。
同時代のロシアの作家には、こういった文豪の社会活動へのコミットメントに対し否定的な意見を持つものも少なくない。古からの友人イヴァン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフは、1883年の臨終の間際に、「ロシアの国のもっとも偉大な作家である自分の友に、文学に復帰するよう」にと促す手紙を書き送る。「それはあなたの道具ではない。……われわれの道具はペンである。われわれの畑は人間の魂である」。すべてのエネルギーを執筆に注ぐべきであって、そうした運動などは時間や労力をとられることは、まったくの無駄だというわけだ。しかし、20世紀はそうではない。社会的な問題に関心を示さず、作品だけ書いている作家は、むしろ、軽蔑の対象とさえなる。
『復活』に関しては後日談がある。世界中で大評判となったが、文豪はこれにより正教会から破門される。裁判官が愛人に会うために裁判を早く切り上げたり、監獄でのミサがオペラ仕立てだったりするなど国家と教会の権威を侮辱しているというのがその理由である。しかし、この破門によって、むしろ、国家と教会は権威を余計に失墜し、赤っ恥をかく羽目になる。文豪がカノッサの屈辱などするはずもない。公然と国家路教会を糾弾し、発禁にしようとしたところで、すぐさま世界中に文豪の言葉は広まってしまう。1908年8月28日、文豪は80歳を迎える。それに合わせて、盛大な誕生会がロシア国内のみならず、ヨーロッパやアメリカ、日本、インドでも準備される。文豪が固辞したため、とりやめとなったが、全世界から2000通に及ぶ祝電が手元に届けられている。国家と教会は、そこで、何とか体面をとりつくろうとする。彼らは文豪が永眠する直前まで宗教的態度を改めさせようとし、さらに1910年11月9日の葬儀の際には、当局は葬列を包囲、駅を厳重に警戒して、1万人を超える民衆のエネルギーの高まりを沈静化させようと躍起になっている。しかし、兵士も警官も、場の雰囲気に圧され、脱帽・伏拝している。文豪の存在感は、もはやロシア皇帝や大主教が手出しできる範囲を超えている。
これは、伝統的知識人の代表であるヴォルテールと比較すると、明瞭になる。この啓蒙時代のチャンピオンは寛容さを説き、不正や偏見、差別などと闘い、欧州の民衆の間でも知られている。けれども、社会改革の夢を託したはずのフリードリヒ大王から「オレンジは一年ほど絞って皮は捨てる」と言われ、志望して去っているし、スイス国境沿いの町に住み、当局がいつや伊保に来ても、逃走できるようにしている。
1910年まで生きた文豪にノーベル賞をストックホルムが送らなかったのは賢明な判断である。なるほど、文豪は、1889年、戯曲『文明の果実』でロシア劇作家賞を受賞し、1900年、ロシア・アカデミーの文学部門の名誉会員に選出されている。けれども、「レフ・ニコラエヴィチ、あなたの文学は偉大なのでノーベル賞を授与致します」と選考委員会が言ったら、「何様のつもりだ?」と世界はその無礼を許さないであろう。ソ連で弾圧されていたアレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィンに贈るのとは事情が違う。文豪はノーベル賞など超えている。文豪ほどのカリスマを持った作家は20世紀には出現していない。
文豪は、その最期に至るまで、メディアが殺到する20世紀的光景を提供している。1910年10月28日、妻との不仲が頂点に達し、文豪は次のような書置きを残し、午前4時すぎ、ホーム・ドクターのノマコヴィツキーを伴い家を出て行く。
私の家出はお前を悲しませるであろう。私はそれを遺憾にうおもう。ただ、私がそうするしかなかったことをわかっておくれ、信じておくれ。家の中での私の立場はしだいに耐えがたいものになってしまったし、今もそうだ。他のことは全部ぬきにしても、これまで生きてきたぜいたく三昧の境遇の中でこれ以上生きてゆくことは出来ない。私は私の年齢の老人が普通することをする──自分の生涯の終わりの日々を孤独と静寂の中にすごすために、俗世の生活から立ち去るのだ。
家出を知ったソフィアは池に身を投げ、自殺を図るが、命に別条はない。31日夕刻、文豪は、乗車中に悪寒を覚え、アスターポボ駅で下車し、駅長が宿舎を提供する。侍医は肺炎と診断して治療を始めるが、それでも、文豪は、途中で合流した娘アレクサンドラに書簡やエッセーなどを口述筆記をさせている。
「世紀の家出」が世間の話題にならないはずもなく、報道陣もぞくぞくと駅に集まってきている、友人であり、信奉者であるウラジーミル・G・チェルトコフは、ホワイトハウスの報道官よろしく、彼らに家出の動機ならびに現在に至る経緯を説明に追わる。
家族も次々に駆けつけたけれども、文豪は頑なにソフィアとの面会を拒否し、子供たちもそれを尊重している。すでに意識のなかった文豪は、11月7日午前6時5分、永眠する。
しかし、その死後も、文豪の家出をめぐって、正宗白鳥VS小林秀雄など数多くの論争が繰り返される。それは、プリンセス・オブ・ウェールズの身に起きた1997年8月31日の出来事以降の騒動を思い起こさせる。文豪は20世紀を凝縮していたと言って過言ではない。
2 軍人作家
文豪は、その前半生においては、非常に19世紀的である。文豪は、1828年、トゥーラ県ヤースナヤ・ポリャーナで、ニコライ・イリイチ・トルストイ伯爵の四男として生まれている。軍人だったニコライが家督を継いだとき、その父イリヤのギャンブル癖などによる浪費によって莫大な借金を抱え、トルストイ家は破産寸前だったが、名門中の名門ボルコンスキー公爵令嬢のマリアとの結婚が事情を好転させる。ヤースナヤ・ポリャーナも、元々は、ボルコンスキー家の領地であり、マリアの持参金の一部である。
30年8月に母マリアが亡くなり、37年1月、一家でモスクワに転居したものの、6月、父ニコライが脳溢血でこの世を去ってしまう、叔母のアレクサンドラ・オスティン=サーケン夫人が兄弟の後見人になったけれども、41年3月、彼女もまた亡くなる。そこで、兄弟はモスクワから新しい後見人のベラゲーヤ・ユシコーヴァ叔母の住むカザンへと移ることになる。
文豪は、1844年9月、将来は外交官にという叔母の期待もあって、カザン大学東洋学部アラブ・トルコ語課に入学する。19世紀の欧州の国際政治を支配する原理は「力の均衡」であり、外交官と軍人はその舞台の主役である。しかし、翌年の進級試験に落ち、法学部へ転学したものの、47年4月、中退している。ジャン=ジャック・ルソーの全集を読み耽り、飲む打つ買うを覚え、かの有名な日記がつけ始められるのも、カザン大学法学部に在籍していた頃からである。その後、ヤースナヤ・ポリャーナに戻り、農村改革を試みたけれども失敗し、翌年の10月、逃げるように、モスクワに行き、賭博や暴飲、買春に明け暮れる自堕落な生活に陥ってしまう。49年1月、やり直してみようとペテルブルクへ移り、4月にペテルブルク大学の法学氏の検定試験を受検しが、不合格となり、やむなくヤースナヤ・ポリャーナに帰っている。
ここまでは多くのロシア作家に見られる悩める青春像、すなわち「余計者」の典型である。西欧の進歩的思想を身につけながら、ロシアの現実を知らないために、その才能を社会のために発揮できず、倦怠と怠惰、猜疑心に苛まされながらも、行動できないでいる人物である。それは近代化を急務にもかかわらず、依然として農奴制が根強く残るロシアの矛盾を最も体現している。しかし、文豪はそういった青白いインテリの苦悩から抜け出す。
1851年4月、文豪は長兄ニコライに連れられてコーカサスへ発つ。兄の所属するは第20砲兵旅団第4大隊の駐屯地スタロフグラトコフスカヤに、40日の長旅の後、到着し、入隊している。血沸き肉踊る英雄物語としての軍隊生活、ならびにアレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキンが賛美したコーカサスの雄大な大自然に憧れたからである。
文豪が宿泊していたのはコサックの村である。15~16世紀頃、モスクワ公国は100以上の民族が共存していた中央アジア一帯へと勢力を拡大し、タタールやカザン、アストラハンなど次々と武力で征服していく。しかし、各地に点在するコサックは遠征するロシア軍に執拗にゲリラ戦を仕掛け、悩ませている。中でも、1670~71年にドン・コサック首領ステンカ・ラージンに率いられた農民反乱が有名であろう。コサックはロシア東南辺境で牧畜・狩猟・漁業・交易・略奪などによって正業を営んでいる。けれども、16~17世紀には、モスクワは手を組んだ方が得策だと方針を転換し、彼らに多くの特権と耕地を与えるようになる。コサックはロシア皇帝に忠誠を誓い、辺境防備の屯田兵として働いている。スタロフグラトコフスカヤのコサック村もそういった拠点の一つである。
1801年、コーカサス山脈の南側に位置するグルジア王国がロシア帝国に併合される。けれども、山岳地域に住む少数民族はロシア支配に抵抗運動を続ける。特に、チェチェン人は勇猛果敢に戦闘を挑んでくるため、業を煮やしたロシアは彼らを討伐すべく、コーカサス各地に部隊を派遣する。文豪が加わったのは、このチェチェン掃討作戦の軍である。
駐屯は、状況の変化に応じて、移動する。到着して一ヶ月後に、ニコライがスタールイ・ユルト防衛に転属になったため、文豪も同行することになる。入隊したとじゃいえ、まだ正式採用ではなく、階級もない一兵卒である。文豪は、最初こそは我慢していたものの、すぐに堪えきれなくなり、トランプからチェス、ビリヤードなどありとあらゆるギャンブルに手を出し、さらに、暴飲と女遊びも再開している。ただ、以前と違い、空いた時間を見つけては、意欲的に読書や執筆に勤しんでいる。日記やエッセーだけでなく、小説にもとり組み始めている。
文豪は戦闘にも参加し、チェチェン人の村を襲撃した際、ほとんど虐殺に等しいことまで行っている。野蛮で無益ではないかと戦争に疑問を持ちながらも、いざ始まると、カーッとなって、ロバート・デ・ニーロが演じた『ディア・ハンター』のマイケルのように、狂ったように銃を乱射し、家々に火をつけて回っている。ただ、それによって文豪は兄や部隊の先輩たちから軍人として認められている。
一兵士として襲撃などにも参加していたが、翌51年1月、士官候補生試験を受け、第4砲兵中隊4級下士官として正式に配属される。52年に、文豪はペテルブルクで発行されていた『現代人』誌に『幼年時代』を投稿し、9月号に掲載され、作家としてデビューする。ロシア文壇ではこの無名の作家への賛辞が沸き上がっていたが、文豪は戦闘で九死に一生を得たり、捕虜になりかけたりするなどそれを十分に知る由もない。53年、軍事行動に対して疑問を感じ、また作家に専念するために、退役願いを提出するが、ちょうどそのとき、ロシアとトルコの間でクリミア戦争が勃発し、当然、受理されることはない。
16世紀以降、フランス王が聖地エルサレムの管理権を保有していたが、フランス革命時に、ロシアの支持を背景にギリシア正教会がそれを獲得する。けれども、ナポレオン3世がオスマン・トルコに要求し、管理権を再度フランスへと戻している。ロシア皇帝にコライ2性はこれに不満を募らせ、トルコ領内のギリシア正教徒保護を口実に、トルコへ宣戦布告し、クリミア戦争が開戦する。54年3月に、英仏、さらに55年1月にはサルディニアがトルコ側に立って参戦している。
文豪は、54年1月、少尉補に昇進し、ドナウ川方面軍へ異動となる。7月、仲間が戦っているのに、こんなところで呑気にしていられないとクリミア方面軍への転属願を提出し、11月、セヴァスト-ポリの第14旅団第3軽砲兵中隊に配属される。そこはセヴァストーポリの後方を固める後援部隊だったが、翌年の4月、最前線の第4稜堡に異動となっている。
セヴァストーポリはクリミア半島にある国会最大の軍港である。しかし、海軍力に勝る英仏は,54年9月、トルコ軍をも含め6万の大軍をクリミア半島に上陸させ,セヴァストーポリ要塞の奪取がこの戦争の結果を決めると陸海から包囲する作戦を採る。他方、ロシアはセヴァスト=ポリの港口に自艦を沈め、敵艦隊の侵入を阻むと共に,要塞の防備を強化して陣地船に備えている。11カ月に亘って続けられた包囲戦は過酷さを極め、11万8,000名の戦死者を数えている。英国の看護士フローレンス・ナイチンゲールは弊社病院の衛生状態を改善し、「クリミアの天使」と賞賛されている。彼女の活躍に刺激を受けたスイスの銀行家アンリー・デュナンは、後に、国際赤十字運動を提唱することになる。55年8月25日、マラーホフ高地が連合国の手に落ち、事実上クリミア戦争の勝敗はつく。ロシア軍は要塞を自ら爆破、艦隊も沈め、北へ撤退する。産業革命をいち早く経験し、産業の近代化を達成した英国と比較して、帝政ロシアの後進性が露呈した結果に終わっている。
文豪は、戦闘の合間に、セヴァストーポチ攻防戦の模様を三部作の小説にして『現代人』で連載している。55年6月に公表された一作目『一二月のセヴァストーポリ』が大評判を巻き起こす。この戦記文学に感動したアレクサンドル2世は、広く読まれるために、フランス語に翻訳するようにと命じ、『ル・ノール(Le Nord)』誌に仏訳が掲載されている。
その文豪は、炎上するセヴァストーポリの稜堡に上がるトリコロールを目にして、「何のために戦ってきたのか」と男泣きしている。11月、戦闘終結と共に、クリミアからペテルブルクへ行く。56年11月最終階級中尉で除隊する。
ペテルブルクで、文豪は類稀な才能に恵まれた若き作家であると同時に、血みどろの戦闘で活躍し、勲章を獲得した英雄として、熱烈な歓迎を受ける。けれども、上流階級や知識人、作家たちとの折り合いがよくない。文豪は、軍人としても、作家としても、叩き上げである。貴族の子弟であるにもかかわらず、一兵卒として入隊し、実戦の中で軍隊とはいかなるものであり、戦い方とはどのようなものであるかを身体で覚え、戦闘での功績を認められて昇進を重ねている。また、作家としても、戦闘の合間に、活字を読み、ペンを走らせている。入隊前から哲学や文学などを独学していたけれども、体系的な学問を専的に勉強した経験に乏しいし、文学的交流もほとんどない。こうした叩き上げからすれば、現場もろくに知らないで、エリート意識を鼻にかけ、お高くとまり、愚かな民衆を指導しなければならないという態度には我慢がならない。文豪はペテルブルクを離れて領地に戻り、雑誌へ寄稿したりはするものの、文壇との関係はほとんど断ってしまう。
従軍体験を記した小説を始め、日記や書簡などを読むと、軍隊で獲得した認識が文豪の思想形成に少なからず影響を及ぼしていることが明らかとなる。
文豪は、領地に腰を落ち着けると、農民の指定向けの学校を開校している。これには以前から親しんでいた和ルソーの影響は確かだとしても、文豪は、軍隊で、数多くの手紙の代筆を頼まれている。読み書きのできない兵士の多さに驚き、教育の必要性を痛感している。この学校では、民話をテキストにしていたように、民衆が自ら生活の中で発見し、育ててきた知恵を継承・利用していくための識字教育を主眼としている。無知の民衆に教育を施してやる思い上がった態度ではない。初歩的なリテラシーが身についていないで、すでにもっているいいものを発揮できないのはもったいないという思いが文豪にはある。
また、文豪は死刑制度廃止を唱えていたが、そのきっかけは、1857年にパリを訪問したときに見たギロチンによる公開処刑である。戦場での死には、名目上にすぎないかもしれないとしても、「祖国のため」とか「民族のため」とか大義がある。けれども、近代文明の都であるはずのパリで紙が見世物になっている。文豪はこうしたショックから死刑制度に疑問を覚え、考えを深めている。
文豪は、戦場で、戦争が英雄物語ではないことを知る。戦闘に実際に携わっているのは読み書きもままならない無名の兵士たちである。彼らは、生き残るために、極力無駄な動きをせず、目立たず、昼用最低限のこと以外を口にしない。しかも、軍隊は上意下達のヒエラルキー構造の組織であり、兵士たちが戦うのはチェチェン人に対する個人的感情ではなく、上官の命令だからである。
御厨貴は、『エリートと教育』において、第二次世界大戦の戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。
戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。
この状況は第二次世界大戦の参戦国においてほぼ同様のことが起きている。文豪にも、従軍経験は「接触効果」をもたらしている。20世紀には決して珍しい現象ではないが、当時は異例であり、それによって民衆を実感でき、文豪は余計者根性にとらわれなくなる。
しかも、文豪が初めて体験した戦争は、国家間戦争ではなく、ゲリラとの非対称線である。いくら残忍な手を使って弾圧しても、チェチェン人はロシア軍に何度も反撃を繰り返してくる。文豪は、その理由を知りたくなり、チェチェンならびにロシアの歴史を独自に調べ始める。地域研究から戦争を考えるのは、極めて現代的である。武力でコーカサスの諸民族を押さえこもうとしても、完全に制圧するのは難しい。短期的には制圧できても、長期的に封じ込めるのは困難であり、莫大な戦費、無数の死傷者、住民からの反感の高まりなどデメリットが多すぎる。軍事力で正規軍を壊滅させれば、ゲリラが登場し、それも掃討すると、今度はテロを仕掛けられる。この変遷は今日に至るまで世界各地で続いている。しかも、山岳民族には、ロシアの南下政策を阻むために、イギリスから軍事支援を受けている。この兵器はロシア軍よりもはるかに高性能であり、掃討作戦は思うようには進まない。文豪は、こうした悪循環を断ち切るためには、対話路線へと転換し、和平に向かうべきだと結論付ける。文豪の平和主義は人道主義だけでなく、優秀な軍人の持つプラグマティズムも少なからず見られる。チェチェンは、現在でも、ロシアにおける最大の民族問題であり、文豪の判断は適切だったと言える。
文豪は戦争に反対しながら、いざ始まると、勇猛果敢に戦闘に参加している。これは必ずしも矛盾する姿勢ではなく、優秀な軍人には往々にして見られる。軍人が好戦的であるとは限らない。イラク戦争開戦に積極的だったのはディック・チェイニー副大統領やドナルド・ラムズフェルド国防長官であって、軍首脳は慎重な態度をとっている。結局、デヴィッド・ハウエル・ペトレイアス将軍は、2008年10月、イラクではスンニ派、アフガニスタンにおいてはタリバンとそれぞれ協力関係を結び、治安を回復して撤兵する考えを示している。優れた軍人には冷静な判断力と大局的な認識が不可欠である。また、軍人上がり政治家が素朴な武力解決を斥け、戦争に消極的で、対話路線をとるケースは少なくない。イツハク・ラビンやコリン・S・パウエルなどはその好例である。さらに、関東軍の参謀だった石原莞爾に至っては、あれほど謀略をめぐらせた過去があるにもかかわらず、戦後、日本は日本国憲法第9条を武器として一切の武力を放棄して、米ソ間の対立を融和させて、世界が一つとなるべく寄与せよと主張し、故郷の庄内に開いた「西山農場」で同志と共同生活を送っている。これなどほとんど文豪の後半生そのものである。文豪は、1896年、『終末は近づけリ』で兵役拒否を英雄的行為と讃えるが、それも不思議なことではない。
このように、軍隊生活は文豪から余計者根性を払拭させだけでなく、下からの視点を身につけさせている。文豪は、従軍経験によって、民衆と通底する入り口を見出している。文豪を世界的なスーパースターにしたのには、グローバル規模での通信・交通の伸張も確かに大きいが、つねに下からの視点で意見を発し、行動し続けたことも見逃してはならない。この下からの視線が文豪に20世紀を先取りさせたと言っても差し支えないだろう。
3 トルストイ主義と20世紀
文豪は20世紀を先取りしていただけではない。20世紀を変えている。しかも、文豪は晩年に至るまで過激派であったが、その最も挑戦的な主張がそれを実現している。
文豪のラディカルさがただならないものであることは、『懺悔』から明らかになる。この作品は1882年5月に発表するものの、ロシア当局は即座に掲載誌『ロシア思想』を発禁処分としている。これは文豪にとっての『方法序説』である。自らが陥った精神の危機と回復の道筋を物語り、自分を含めた上流階級の人々の利己的な姿を批判し、イエスの教えの必要性を再考すべきだと提唱する。
以後、続々とキリスト教研究の論文を公表する。『教義神学の研究』において、福音書を教義神学、すなわち教会から解放すべきだと説き、『四福音書の統合と翻訳』や『要約福音書』では、四福音書をギリシア語のテキストに遡って比較検討し、イエスの神格化をただし、その生涯と教えを統一しようと試みている。
キリスト教関連だけでなく、他の主題の著作も精力的に発表したが、それらは従来の読者を驚かせるものである。その一例が『芸術とはなにか』(1898年)である。文豪は、この中で、古今の名作を扱き下ろし、罵倒する。シャルル・ボードレールやフリードリヒ・ニーチェは馬鹿げた狂人の戯言であり、ジョヴァンニ・ボッカッチョは性的放縦さの悪ふざけ、ギリシア悲劇やダンテ・アリギエーリ、ウィリアム・シェークスピア、ルードヴィヒ・ヴァン・ベート-ベンなどはしばしば無意味で、野蛮だと切り捨てる。これだけでは終わらない。自作にも容赦はなく、批判の矛先を向けている。『幼年時代』を馬鹿馬鹿しいと、『アンナ・カレーニナ』を平凡で退屈と、そもそも、概して自分の作品は「性的衝動と性的暴行の見地から描写している故に有害無益」と断罪する。その上で、文豪は、人類史上最高傑作の一つとして、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』を褒めちぎっている。
実生活においても大きな変化が見られる。飲酒や肉食をやめて菜食主義を実践し、好きな狩猟も封印、農奴のような服装をして野良仕事に精を出す。私的所有を否定し、文豪は、1891年、1881年以降の全作品への著作権を放棄すると宣言している。本当は、すべてを対象にしようとしていたが、妻ソフィアが反対したため、1980年までの著作権は彼女に譲渡されている。なお、1910年七月22日付の遺言書で、未完既刊にかかわらず、すべての著作権は娘アレクサンドラの所有、校閲権は友人チェルトコフに帰属、出版銃範囲は一切自由と記している。
1890年代に入り、文豪は過激さをさらに強めていく。『神の王国は汝らのうちにあり』などの一連の論文で、社会の不平等や威圧的な政治形態と教会権力を容赦なく糾弾し、福音書から見出した二つの教え、すなわち万人への愛と悪の力への無抵抗を提唱する。憎しみから解放され、良心が命ずる清廉な生活を送らなければならない。イエスの思想は山上の教訓に尽くされており、中でも、「悪人に手向かってならない」という悪に対する無抵抗が最も重要である。これがイエスの画期的な点であり、最も力強い真理である。愛にもとることをしてはならない。力の行使は暴力の連鎖を招く。自分の生活に必要な労働は、自分でできるような簡素な生活を目指すべきである。近代文明や国家、教会、私有財産を否定し、原始キリスト教こそ理想であり、悪に対して神に忠実に非暴力の姿勢をとる。この急進的思想は「トルストイ主義」とよばれるようになる。
トルストイ主義は、一般的には、「質素な生活」を勧める禁欲主義的理想と見なされている。しかし、「暴力による悪に対する無抵抗」をモットーとするトルストイ主義は一種のアナーキズムである。17世紀半ば、ロシア正教会下で行われた典礼改革に対して、その受け入れを拒否し、いくつかのセクトが教会から独立している。皇帝アレクセイの信任を得た総主教ニーコンは教義と無関係と思われる瑣末なことを改革と称したため、それを皇帝による介入と判断した聖職者たちは分派する。これは「教会分裂(ラスコール)」と呼ばれる。「分離派(ラスコーリニキ)」は社会の各層に支持を広げ、文豪も関心を強く持っている。その中には、鞭打ちによって神との一体化を試みる鞭身派や一切の性的快楽を拒絶する去勢派などがある。トルストイ主義にはこれらのセクトからの影響を無視できない。被抑圧者の暴力を権力への対抗手段として肯定する傾向にあるが、文豪はそれも否認する。悪は善に意依存している。悪は善に対するアイロニーとして反動的に形成されるが、これに慣れていると、いつの間にか、善を悪に対するアイロニーとして反動的に把握してしまう。非暴力の行使は悪を擁護するものでも、被抑圧者に忍耐を勧めるものでもなく、「万人のため、従って権力を所有する人々、わけてもこれらの人々のためである」(アンリ・アルヴォン『アナーキズム』)。無抵抗主義が真に教訓的なのは、主人のほうであって、奴隷ではない。
アンリ・アルヴォンは、『アナーキズム』において、トルストイ主義次のように要約している。
あらゆる抑圧形態を敵視しながらも、トルストイは財産制度に抵抗することしかできない。富は罪悪である、なぜならそれは富を所有する者の所有しない者にたいする支配を保証するからである。このような財産の帰趨は、生産手段、土地、道具が問題となるとき、とくに顕著となる。生産手段の所有者は、もっぱら自己のために労働者を労働させることができる。トルストイの考える解決法は、愛の公理から着想を得ている。どんな人間も、みずからの力量に応じて労働する。ところが必要な分を得るだけで、それ以上は得ていない。このようにして、人間は自分自身の生活手段だけでなく、病人や老人、子供たちの生活手段も確保していないことになる。すべての個人的利益の排除、トルストイはこれを福音書の名において主張する。またミールの支配原理を念頭において、これを主張するのである。ミールとはロシアの農村共同体で、そこでは万人がその個人的利害にとらわれずに全員一致して労働する。
文豪は、「絶対君主制であろうと、議会制であろうと、総督政治であろうと、第一あるいは第二帝政であろうと、ブーランジュ式の統治であろうと、立憲君主制であろうと、コミューンないしは共和制であろうと」(『アナーキズム』)、いっさいの国家も政府も認めない。数あるアナーキストの中で最も激しい口調で反国家の言葉を書き記したのは、マックス・シュテルなーでも、ピエール=ジョゼフ・プルードンでも、ミハエル・バクーニンでもなく、誰あろうこの文豪である。
1900年頃、トルストイ主義は、その知名度ほどではないにしろ、一定の影響を及ぼしている。しかし、それはアナーキズム運動の流行の一つにすぎず、ヘンリー・デヴィッド・ソローやウィリアム・モリスなどと同様に捉えられ、人道主義や反近代主義といったソフィストケートされて受容されている。または、生命活動を精神ではなく、自然の側から捉えるルソーやゲーテなどの系譜にあると理解しようとしている。反国家主義や無抵抗主義といった最も過激で革新的な思想は顧みられることはあっても、非現実的な夢想と重要視されていない。稚拙なメシア主義にすぎず、強烈な個性がなければ、時代錯誤と切り捨てたい欲求に駆られている。
しかし、その欧米の帝国主義に苦しむ地域では事情が異なる。むしろ、無抵抗の非暴力主義が最も受け入れられ、政治行動として実践される。それは政治思想として欧米人による植民地支配を終わらせる勝利をもたらしている。
文豪は、1940年9月7日、ヨハネスブルクのモハンダス・カラムチャンド・ガンジーと名乗るインド系弁護士へ自らの思想を託すような返事を書き送っている。
貴誌「インディアン・オピニオン」いただき、無抵抗主義の人々について書かれているいろいろなことを知って嬉しく思いました。で、この雑誌をよんで私の中に湧いてきた意見をお話したくなった次第です。
長生きするほど、ことに、死の影を間近にまざまざと感じる今は、他の人々に、私がとくに生々と感じていることを、私の考えではきわめて重要なことをいよいよもってお話したくなりました。他でもありません──無抵抗と呼ばれてはいるが、本質は、虚偽の解釈によって歪められない愛の教えに他ならぬものについてお話申し上げたいのであります。愛、すなわち融合一致への人類の魂の渇望と、この渇望から生ずる活動は、人間生活の最高にして唯一の掟であり、このことはだれでも心の奥底で感じ、知っていることで(子供に一番明瞭にみるごとく)、人が虚偽の平和の教えに迷わされない間は、知っているものであります。
私どもにはこの世の果てのように思われるトランスヴァールにおけるあなたのご活動は、現在世界で行われているすべての活動の最も中心的な、最も重要なお仕事──キリスト教の国民ばかりでなく、あらゆる世界の国民が必ずや参加するに違いないお仕事であります。
後に「マハトマ」と敬意を表されるこのガンジーによって、トルストイ主義は、インドで独立という劇的な勝利を治めることになる。「暴力を用いて欲深い人たちを追払った人たちが、つぎには自らが、その敗北者と同じ病気に悩むことになる。これは歴史が教えてくれたことである」(ガンジー『ガンジー自伝』)。
トルストイ主義に深く影響を受けたヨーロッパの思想家の中に、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホがいる。政治思想としてのトルストイ主義を理解するには、マゾヒズムを考察することが助けとなる。
ジル・ドゥルーズは、『マゾッホとサド』において、マゾヒズムを次のように解説している。
マゾヒスト的自我の破壊は、表面的なものであるにすぎない。みずからごく弱々しいものだと告白する自我の背後に、驚くべき嘲笑が、ユーモアが、したたかな反抗が、勝利が身を隠していることだろう。自我の弱々しさは、マゾヒストが仕掛けた罠であり、その罠が、女を振りあてられた機能の理想的な点へと導くものなのだ。マゾヒズムに何ものかが欠けているとするなら、それはいささかも自我ではなく、超自我である。
マゾヒズムとは、超自我がいかにして破壊され、またそれが何の手によるのか、そしてその破壊から何が生起するのかを説く一篇の物語である。聴き手はえてしてその物語を聞き違い、まさに超自我が死に瀕した瞬間に、それが勝利したと思いこみがちである。それは、およそ物語といわれるものにはつきものの、また物語に含まれる「空白」につきものの危険である。
サディズムとマゾヒズムはまったく別の動機と異なる意味を持っている。前者がカント主義に対するアイロニーであるとすれば、後者はヘーゲル主義のユーモアである。サディズムはつねにテロリズムとして政治的に顕在化する。サディズムの目指すものは破壊であり、それを通した再生である。一方、マゾヒズムには「主人と奴隷」の関係がある。G・W・F・ヘーゲルは、『精神現象学』において、自己意識をめぐる「主人と奴隷」の寓話を説いている。「自己意識は即自的かつ対自的に存在するが、それは、自己意識が小文字の他者に対して即時的かつ対自的、すなわちもっぱら承認されたものとして存在する限りにおいて、かつそのことによってである」。私と他者という二つの自己意識は、自立的であろうとして、存在を賭けた闘争を始める。その関係は、両者が戦いを通じて、自分自身と相手を確認するように規定されている。自己意識が自立的であり、その正統性を主張しようとするならば、他者から承認されなければならない。自己意識は自立的であろうとすれば、自立的であってはならないというアポリアに直面する。そこで、他者を奴隷にする。こうして自己意識は奴隷から主人として承認される存在となる。奴隷は、主人の命令で労働し、主人はそれによって暮らす。主人は自立的で、奴隷は非自立的である。けれども、主人は奴隷がいなければ生活していけなくなる。主人と奴隷の関係が逆転し、主人が非自立的、奴隷が自立的存在となる。「それゆえ、自立的意識の真理は奴隷の意識である。この自立的意識は、最初は確かに自己の外に出現し、自己意識の真理としては現れない。しかし、支配の本質が、支配がそう欲したものの逆であることを支配が示したように、おそらく隷従の方も、それが徹底して行われるならば、隷従が直接その反対になるであろう。隷従は、自己内へと押し返された意識として自己へと立ち帰り、真の自立性へと逆転していくであろう」。マゾヒストは、そのため、主人と奴隷の拮抗において、前者ではなく、後者を選ぶ。
トルストイ主義はこうした主人と奴隷に見られる依存関係をあらゆるところに鋭敏に嗅ぎとる。しかし、文豪は主人と奴隷を転倒することを唱えているわけではない。無抵抗主義に共感して、それぞれが共通認識で結ばれていなければ、反抗に終わりかねない。そこで共生への意志や共感作用としての愛が必要となる。
無抵抗主義の政治実践には、依存の意識化、共生への意志、共感作用が備わっていないと、効果的ではない。ガンジーはバラバラになっていたインドの民衆に連帯を働きかけ、英国製品のボイコットやストライキを呼びかけている。それは、植民地インドに依存していたイギリス経済に大打撃を与える。その運動の模様はマスメディアを通じて世界中に配信される。さらに、ガンジーに影響を受けたマーチン・ルーサー・キング牧師は、モンゴメリーで、黒人たちにバスのボイコット運動を指揮する。黒人たちにそっぽを向かれたバス会社は売り上げが急落し、悲鳴を上げる。差別をしながら、黒人乗客に依存していたバス会社は謝罪せざるを得なくなる。この勝利は公民権運動を大きなうねりにする。その運動には黒人だけでなく、白人たちも共感するようになる。ついに、キング牧師は、1963年8月28日、ワシントンDCのリンカーン・メモリアルにおいて、あの「私には夢がある(I Have a Dream)」と演説する。それは20世紀後半のトルストイ主義宣言である。
トルストイ主義は、依存性に焦点を当てるならば、こういった民衆運動だけでなく、スコットランド啓蒙や相互依存論の系譜と関連させて考察することも望まれよう。また、白樺派だけでなく、大正デモクラシーを代表する小日本主義の石橋湛山との類似性も検討する余地がある。
文豪は無抵抗主義において私的所有など近代文明そのものに批判を向けている。それは、まさに近代文明の自律=他律のジレンマにかかわっているからである。
ジョン・ロックは、『市民政府二論』の中で、基本的人権として財産権を揚げ、その根拠を国家や教会、社会からではなく、個人の労働に求めている。労働は個々人によって自然に所有されている以上、その人が労働を加えた物を所有する権利を有する。個人たらしめるのは財産権であり、それは不可侵とならざるを得ない。財産権に基づく自由で平等な個人が社会契約を結び、近代的な政治体制を誕生させる。近代以前の所有権は入会地が示すように、複合的・重層的であったが、近代ではそれが一元化される。ジョン・ロックを師匠と尊敬するヴィルテールを始めとした啓蒙主義者たちは、教会や国王などから与えられた知識を鵜呑みにするのではなく、自律した思考を提唱し、近代的自我はそれを実現しようとしている。
しかし、福井憲彦は、『科学技術の実用化と産業文明の成立』において、その理念と現実との間には矛盾が生まれたと次のように述べている。
効率的になり、便利になった反面、また根本的な問題がもたらされたこともたしかであった。空間の移動を例にとれば、自分の足で自分自身によって調整しながら歩く自律的な能力は衰退し、機械的な外部による他律的な生き方が主流とされるような時代がくる。それをコントロールできたほうが勝ち、というような考え方が支配的となっていく。
生活のあらゆる局面におけるサービス制度の徹底は、電気、水道、ガスから、教育や行政にいたるまで、二〇世紀において、とくに家族生活と家事における負担を決定的に減少させ、女性の社会進出の可能性を開くうえでも大きな技術上の条件となっていった。それ自体は、きわめて歓迎すべき側面であったといえるであろう。しかしまた、サービス制度の徹底によって便利になった反面、人の自律的な能力をそぎ落とし、他律的な依存生活をもたらしはしなかったか、という反省が求められる時代へと、現代人を追いやっているのも現実なのである。
依存という問題は近代文明が進むほど、人々の生活に食いこんでくる。ところが、どっぷりとサービスの体制に浸っている者に限って、その状態が当たり前だと思い、依存していることを忘れてしまう。文豪の無抵抗主義はまさに現代人を追いやっている「現実」の自明性に再考を促す。こうした文明についての本質的な理解があるからこそ、無抵抗主義は20世紀の歴史を変えられたことは確かだろう。相互依存が促進されることは不可避であるとしても、主人と奴隷の譬え話が示しているように、それに無自覚であってはならない。依存という問題を直視しているために、文豪の無抵抗主義は、20世紀が過ぎ去ろうとも、依然として根源的である。シニカルにトルストイ主義を見下すほど浅はかな態度もない。
〈了〉
参考文献
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