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Stand By Me─えのきどいちろう

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Stand By Me

─えのきどいちろう

Seibun Satow

Nov, 26. 2004

 

「『あの、それじゃ、カッコよすぎませんか。もっとこう、おちゃらけたっていうか、スキのあるタイトルがいいんですけど』

『というと、例えば』

私は少し考えてから、一つ案を出した。

『アナ尻娘。とか』」

水谷加奈『ON AIR─女子アナ恋モード、仕事モード』

 

 こうしたコラムの歴史は一八世紀に遡る。コラムは、一七五一年三月一一日、イギリスの『ロンドン・アドバイザリー・リテラリー・ガゼット(London Advisory Literal Gazette)』紙が連載を開始したのが最初とされている。三月一一日は、それにより、「コラムの日」と一部で、祝われているかどうかは別にして、認められている。新聞紙面上に縦の欄を利用して掲載されていたので、ラテン語の「柱」を意味する「コラム(Column)」と呼ばれたのがその由来である。

 コラムは、エッセイ同様、物語性の弱い告白である。告白は知的で、主観性、すなわち「私」に基づき、倫理を扱う。医学や法学の領域では、専門的な読者を説得するために、アカデミックな手続きの順守が不可欠である。けれども、倫理に関しては、大学や研究機関、三権の専門家のみならず、一般の誰にも語る資格がある。決して論理的ではないが、その隙間を読者が補わなければならない。一五世紀半ばのヨハネス・グーテンベルクの印刷術により出版産業が誕生し、エッセイは文学ジャンルとして確立されていく。印刷という書籍の記号化は「私」も同様に記号的にする。一六世紀の半ばから終わりにかけて、王侯貴族・政府や銀行・商人のネットワークに印刷業者が結びつき、近代的新聞の原型が生まれる。書籍が個人としての読者に向けられていたが、新聞は党派性・階級性が強く、また、商業主義的傾向がある。エッセイが出版によって派生したジャンルであるとすれば、コラムは大量生産の新聞が生み出している。エッセイの「私」は印刷技術=ルネサンス的であるのに対し、コラムでは、産業革命的な大量生産される「私」である。新聞はたんに記号的ではなく、ネットワーク的であり、それがコラムの「私」にほかならない。

 

Three wise men of Gotham,

They went to sea in a bowl,

And if the bowl had been stronger

My song had been longer.

(“Mother Goose”)

 

 コラムの歴史は新聞の三面記事を物語化した近代小説の発展とパラレルである。どちらもお堅い記事と違い、読者は気楽に読むことができる。ニュースでもなく、社説でもないコラムは、その親しみやすい文体によって、安定した人気を得ていく。コラムと密接な関係があるアメリカのユーモア文学は庶民的と都会的の二つに分類されるが、どちらにしても、話し言葉をとりいれている。これは今日まで続くその文学的傾向の一つである。コラムは、ジャーナリスティックな時間・空間の共有を前提にする性質上、「アメリカ」を確認する最適の場である。コラムが移民の群から「アメリカ人」を作り出す。一九世紀の半ばから後半にかけて、庶民の言葉遣いが講演や新聞のコラムに登場している。当時のコラムニストの中に、『ニューズレター(Newsletter)』紙のアンブローズ・G・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce)がいる。彼は『悪魔の辞典(Devil’s Dictionary)(一九一一)によりその辛辣さが現在に至るまで広く知られている。一九〇二年から一二年にかけて自ら全集を編纂し、一九一三年にメキシコに渡って以降、消息不明とり、伝統的なコラムニストの偏屈さといかがわしさを具現化する。一九二〇年代になると、アメリカではもはやコラムは新聞に欠かせない記事の一つになっている。タブロイド紙においては、ハリウッドの内幕のゴシップなどを書いたコラムがシンジケートを通じて各紙に配給・転載され、ウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell)を代表に著名コラムニストを生み出している。その後、三〇年代からは政治論評を展開するコラムニストが人気を得ている。その知名度は俳優にも劣らず、庶民派コラムニストのウィル・ロジャース(Will Rodgers)に至っては、映画に出演している。

そういったコラムニストとしてリング・ラードナー(Ring Lardner)やウォルター・リップマン(Walter Lippmann)があげられる。

ラードナーはシカゴやミューヨークの新聞コラムニストやスポーツ記者から出発し、若い野球選手を主人公にしたペーソスな物語を雑誌に連載して注目を集めている。これは『オルよ、おれを知ってるな(You Know Me, Al: A Busher's Letters)(一九一六)として出版される。『奴らを乱暴に扱え(Treat 'Em Rough)(一九一八)と『ビッグ・タウン(The Big Town)(一九二一)では、一般的なアメリカ人の生活を諷刺的に描いたが、後年の作品では、そのユーモアが辛辣になっていく。ボクサーやセールスマン、演劇人、作詞家を扱った物語においては、登場人物に関する情報と普通のアメリカ人の言葉遣いやアクセントをめぐる記述に溢れている。『短編作法(How to Write Short Stories)(一九二四)や『それがどうしたというのだ(What of It?)(一九二五)、『愛の巣(The Love Nest and Other Stories)(一九二六)、『ラウンド・アップ(Round Up)(一九二九)などの短編集はシニシズムとリアリズムが混在し、今日の『サタデー・ナイト・ライブ(Saturday Night Live)』のようなきついジョークのテレビ番組のプロトタイプと言ってよいだろう。

 

 A good many young writers make the mistake of enclosing a stamped, self-addressed envelope, big enough for the manuscript to come back in. This is too much of a temptation to the editor.

("How to Write Short Stories”)

 

一方、リップマンは政財界の不正を暴くマックレーカーズの取材の助手から頭角を現わしている。一九一四年にはリベラルな週刊誌『ニュー・リパブリック(The New Republic)』の創刊に参加している。一九一九年、世界情勢を鋭く指摘する彼の能力に注目したウッドロー・ウィルソン大統領の要請により、第一次世界大戦のパリ講和会議に随員として出席している。学者あがりの大統領は彼の主張にかなり影響を受けて、政策を実施したと見られている。「最も古い、最も強力であった民主政治を見るならば、世論というものを神秘的な存在にしてしまったのはその民主政治であったことがわかる。世論の組織化にすぐれていた者たちはこの神秘的な存在を十分に理解して投票日に過半数を獲得してきた。ところが、このような世論の組織者たちは、政治学においては低級な連中とか『問題人物』と見なされ、いかに世論を生んでこれを操作するかについて、当時、最も有効な知識を持っている人たちとして考えられることはなかった」(ウォルター・リップマン『世論』)。一九二九年から、『ニューヨーク・ワールド(New York World)』紙の主筆を務めたものの、二年後に廃刊となってしまい、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン(New York Herald Tribune)』紙に移っている。「報道界の問題が混乱しているのは、その批判者も擁護者も共に、新聞がこうしたフィクションを実現し、民主主義理論の中で予見されなかったものすべての埋め合わせをすることを期待しているからだ。そして読者も、自身は費用も面倒も負担しないでこの奇跡がなしとげられることを期待している。民主主義者たちは、新聞こそ自分たちの傷を治療する万能薬だと考えている」()。そこで始めたコラム「今日と明日(Today and Tomorrow)」は、同時掲載の契約を結んだ多数の新聞にも配信され、全米のみならず、国際的にも注目され、六七年まで続いている。「新聞は世論を組織する手段としては不完全だということを否応なくさらけ出し、多かれ少なかれその事実を強調すらしていることがわかるように思われる。私は、もし世論が健全に機能すべきだとするなら、世論によって新聞は作られねばならない、と結論する。今日のように新聞によって組織されるべきではない」()。リップマンの活動は広範囲に及び、政治学のみならず、社会学や心理学、哲学にも示唆に富む著作を発表している。『政治学序論(A Preface to Politics)(一九一三)、『推進力と熟練(Drift and Mastery)(一九一四)、『世論(Public Opinion)(一九二二)、『モラルの序文(A Preface to Morals)(一九二九)、『良い社会(The Good Society)』(一九三七)、『戦争の目的(War Aims)(一九四四)、『冷戦(The Cold War)』(一九四七)、『公共の哲学(Essays in the Public Philosophy)(一九五五)などがよく知られている。

ラードナーとリップマンはアメリカにおけるコラムニストの二つの系譜の確立者である。ピート・ハミル(Pete Hamill)は代表的な前者の後継者であろう。在野の立場から、スポーツや文学、音楽、アート、政治、時事問題など多岐に及ぶ領域をユーモアを交えて、書いている。他方、政治的コラムの執筆者には、権力中枢に近い者も少なくない。日曜日の『ニューヨーク・タイムズ・マガジン(New York Times Magazine)』に二〇年以上に亘り連載されている「言葉について(On Language)」のコラムで知られるウィリアム・サファイア(William Safire)はリチャード・ニクソン大統領のスピーチ・ライターを務めている。彼は二〇〇四年一一月二四日を最後に三一年間続けた『ニューヨーク・タイムズ(New York Times)』紙のコラムニストを引退したが、「言葉について」の連載は継続している。この二つの流れは続き、コラムニストはアメリカ社会に影響を及ぼしている。

 一般的にはコラムニストと見なされていないけれども、コラムを手がけている作家も少なくない。カール・マルクスが『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』の前身『ヘラルド・トリビューン(Herald Tribune)』紙の特派員兼コラムニストだったことは、その愛読者の多くはともかく、有名である。他にも、ホセ・オルテガ・イ・ガゼットやエルンスト・ブロッホ、スーザン・ソンダーク、ラングストン・ヒューズ、エレノア・E・ルーズヴェルト、ポール・アンソニー・サミュエルソン、YB・マングンウィジャヤ、ステファン・J・グールドなども新聞や雑誌のコラムで優れた能力を発揮している。さらに、アレン・スチュアート・コーニンバーグも「ウッディ・アレン」のペンエームで新聞のコラムを執筆し、後に彼はその名前で知られることになる。

 そこで、えのきどいちろうである。

 日本にも、徳富蘆花や石橋湛山、桐生悠々、長谷川如是閑といったコラムストがいるのに、なぜえのきどいちろうなのかという問いがあるとすれば、それは意外である。椎名誠の新言文一致体よりはオーソドックスであるが、決して、うまいわけではない。ひっかかりがあるけれども、まあ、不協和音の展開というほどでもない。とりすましてなんかせず、ちょっと照れつつ、どこか口ごもりながら、語る。しかも、彼は多くのものに敬意を表している。自分より一〇歳も若かったとしても、プロ野球のプレーヤーには、「将来の夢はプロ野球選手」と決めている少年のように、憧れの対象として接している。なのに、切り口がうまく、個性があり、一瞥しただけで、すぐに彼の作品だとわかる。えのきどは、『相撲の困難』において、「おそらく最もアマチュアに開放されていないスポーツは相撲ではないか」と指摘する。と言うのも、「身体に震えが来るほど相撲をとりたいと考えてる男」は「そう滅多にいるとは思えない」し、テニス・コートやゴルフの練習場と違い、そもそも世の中に「土俵はどこにあるのだろう」と首を傾げるほど見かけないからだ。「そういうことを考えても、人間、自由に生きてるようでいて思い通りにならないことはいくらでもあると断ぜざるを得ない。不自由に行き当たらないとしたら、それは私や貴方が特別の望みを持たぬ、当たり前の人間だからだ。考えれば考えるほど私に個性などというものがあるだろうかと思う。私は身体に震えが来るほど相撲がとりたいなどとこれまでただの一度も思わずに暮らしてきたのである」。こういう書き手は、コラムを考える際に、間違いなく欠かせない。異議などあるわけないじゃないですか。

 南伸坊は、『妙な塩梅』の「解説」において、彼のコラム「ゴルフ練習場の隣人」の書き出し「初対面の人というのはお互い噛み合わなくって面白いものだ」について、次のように述べている。

 

 初対面の人は苦手だ。

 

 こういう書き出しのエッセーはあります。よくある。まァそうだよなァ、と読む方は思いますからね、でもこれはうまくはないです。文のうまい人は書き出しがうまい。もっと。

 うまいだけじゃなくて、えのきどさんのは「考え方」がいいと思う、私は。お互い噛み合わない、そこが面白いというんだから、考え方がいいです。

 いきなり、そういう「いい考え方」にさそわれていく快感というのがある。気持が楽しく元気になる。

 寛容。というと人格者みたいだけど、面白いものだ。だからなあ、いいですよ、心がゆるやかに、楽しくなってくる。

 

 九〇年代に流行した「じゃないですか」も、実は、えのきどが八〇年代に使っていた常套句である。「やっぱり目玉焼きには七味唐辛子じゃないですか」のように、もともとの意図は、少々まぬけさを示すことによって、突飛な組み合わせを受容させる「寛容」の精神である。この表癌は、残念ながら、彼の考えとは違って、浸透している。

 えのきどには針小棒大の傾向がある。しかし、それはアイロニーでも、ユーモアでもない。彼はまず対象に対してある表現を投げ出す。しかし、すぐ後にそれを否定して、別な見方を提示し、三回くらい繰り返す。その辺が頃合いだろう。些細な物事に焦点を合わせ、それを一気に拡大し、ある種の結論を導き出し、次へと進む。結論などとりあえず言ってみただけなのだ。必ずしも、こういう道筋をたどるとは限らない。議論の途中で、突然、放り出してしまったり、尻切れとんぼになってしまったりすることも少なくない。文化放送のアナウンサー水谷加奈は、『ON AIR─女子アナ恋モード、仕事モード』において、「おなざりなおざりもダメだ。どっちがどっちの意味だったか、すぐ忘れてしまう」と告白しながら、えのきどが「オリエンテーションオリエンテーリングがどっちがどっちだか、いつもわからなくなっていた」と明かしている。彼は、この通り、かのユイスマンの正統な後継者である。

 ジョリス・カルル・ユイスマンス(Joris Karl Huysmans)は内務省に一官吏として勤務しながら、一連の半自伝的小説を書き続けている。彼の思想遍歴は、その平凡な生活と違い、かなり波乱万丈である。娼婦を描いた『マルト、一娼婦の手記(Marthe, Histoire d'une Fille)(一八七六)を当時文壇で最も影響力のあったエミール・ゾラに認められ、『バタール姉妹(Les Soeurs Vatard)(一八七九)において自然主義文学の有力後継者を示したのに、デカダン小説の代表作『さかしま(À Rebours)(一八八四)を発表し、さらに中世の幼児殺しジル・ド・レを主人公にした『彼方(Là-Bas)(一八九一)では悪魔学に傾倒したかと思ったら、今度は、カトリックに帰依し、カトリック三部作『出発(En Route)(一八九五)・『大聖堂(La Cathédrale)(一八九八)・『献身者(L'Oblat)(一九〇三)を刊行したものの、教会からは異端の扱いを受け、一九〇七年、舌癌により五九歳で亡くなっている。彼は自然主義から象徴主義、印象主義を擁護したわけだが、節操がないというのではない。むしろ、原理主義者である。彼はある思想に惹かれると、つねにとことん行き着くとこまで進んでしまい、その世界を押し破って、別の思想に辿り着いてしまう。生涯独身であったが、それも他人に自分の生活が乱されたくないという理由からである。

 ユイスマンの小説・エッセイは構成力には乏しいが、文体は細密で複雑に入り組み、過激とも言える印象的な形容詞が散りばめられ、比類のないエキセントリックさを具現している。ユイスマンには、鹿島茂の『世紀末をひもとく』によると、「針小棒大」の傾向がある。けれども、彼はそれをアイロニーやユーモアとして記しているわけではない。彼は他人にとってどうでもいいような些細なことに執着する。それが満たされないことで彼の作品の主人公は苦悶する。エミール・ゾラに代表される実証主義=客観主義の自然主義は、主観主義的なロマン主義に反対して登場している。ユイスマンは自然主義の原理主義者としてその方向を突き進む。顕微鏡や統計が気づかなかった微細さを発見させたように、彼は作品においてそれを記す。「経済的諸形態の分析に際しては、顕微鏡も試薬も役に立つことはできない。抽象力が両者の変わりをしなければならない。ところがブルジョア社会にとって、労働生産物の商品形態、あるいは商品の価値形態が経済的な細胞である」(カール・マルクス『資本論』第一版序文)

 彼の代表作『さかしま』にその傾向が典型的に見られる。孤高の貴族デ・ゼッサントはパリ郊外に一軒家を捜し求めて隠遁し、凡庸で通俗的なブルジョア的価値観を転倒した自分自身の美意識を具現化しようとする。それは自然を模倣した人工と人工を模倣した自然のコントラストの「さかしま」なパラダイスである。濃紺とオレンジ色のモロッコ革を張りめぐらした部屋にギュスターヴ・モローやオディオン・ルドンの異教的な絵画を飾り、ステファン・マラルメやシャルル・ボードレールなどの象徴派の詩を集め、昼夜逆転した生活を始める。外洋旅行の気分を楽しむために、部屋の周囲に水族館を配置し、香水や酒で嗅覚のシンフォニーをつくることにとどまらず、浣腸で直腸の味覚を刺激するに至る。亀の甲羅に宝石を象眼し、異形の蘭の栽培に没頭するなどでデカダンな生活態度がさらにエスカレートしていき、末梢神経の快楽を追及しすぎた結果、とうとう神経衰弱に陥り、その生活も終焉を迎えてしまう。神秘主義的な絵画や象徴主義の詩はともかく、美食の快楽に飽き足らず、直腸のグルメを満たすために、凝りに凝った配合の浣腸液を試すというのはいくらなんでもやりすぎだろう。美意識を追い求めるあまり、悪趣味に陥ってしまうことは少なくないが、ユイスマンの場合、それを通り越してしまう。すべてに凝りすぎていて、意識していないにもかかわらず、自分の美意識まで脱構築して、『さかしま』はデカダンス宣言であると同時にそのパロディの性質を帯びている。彼は無意識の脱構築主義者である。

 『彼方』にしても、悪魔を書いているからおどろおどろしくなるはずだが、あまりの針小棒大さのために、冗談に見えてしまう。また、カトリック三部作も同様である。神の死の時代において、教会の存在意義が問われている状況に対し、彼はカトリックの援護射撃をかってでたつもりなのだが、教会にとってはいい迷惑で、彼が真剣になって書くほど、カトリックはどんどん滑稽になっていく。これは褒め殺しでも、アイロニーでもない。彼は原理主義者であり、それがゆえに、脱構築に至る。教会が彼の著作を禁書扱いにしても、異論を唱えるのは本人くらいだろう。

 そういった傾向を持つえのきどは、『とんちのきいた男』において、現代では「正しさ」や「立派さ」以上に、「とんち」が必要だと次のように述べている。

 

これは従来、僕が持っていた言葉で言うとファインプレーのことです。ファインプレーはいつもアテにしているところがある。僕は、うっかり出た力も自分の力、ということで平均点を算出しているんですね。日々どうやってうっかりすることに賭けていると言っていい。「この文章の、ここのところにファインプレーが欲しい」、とか、「この話をするんだったらいきなり冒頭からファインプレーで始めたい」とか。

 ファインプレーという言葉は身体性のイメージがあるから好きなんですが、とんちにはそういう瞬発力が秘められていますね。思考のジャンプ。発想の人間風車。やけに腑に落ちる感触があったんですよ。自分はこの先、とんちを鍛え上げていけばいいんじゃないか。

 

 僕が今までつまらないと思ってたものは全部とんちがきいていなかった。形勢逆転への意欲が感じられない。自分だけのバネがない。「何かあった時」というのは、謎や問題や困難でしょう。謎や問題や困難に直面してどう対処するかというのは、まぁ、生きてゆくことです。そのとき踏み出してゆくアクションにとんちがきいてないのだったら、結局、何にもならないじゃないかと思う。

ここで連想するのは「立派」と「正しい」のことです。皆、「立派」と「正しい」には本当に弱くてせっかくの「何かあった時」にそっちを選んでしまう。「立派」と「正しい」の誘惑は相当なものですよ。とんちがきいてない大半はそこで負けている。「立派」と「正しい」はろくなもんじゃないです。そんなもんは自分の外側探したって絶対にない。

 

僕だって自分の信じる「立派」や「正しい」がないわけじゃないけど、それはとんちをきかせ倒して生き抜いた先に、何とも言えない表情で橋にペンキを塗っている人が出迎えてくれたようなもんです。ペンキ屋です。橋の真ん中ペンキ塗りたてです。

 

 えのきどは「とんちのきいた男」として悪戯や悪ふざけをする。それはちょうど第二次性徴直前の少年のようだ。ウラジミール・ナボコフは、『ロリータ(Lolita)』の中で、九歳から一三歳の期間の少女を「ロリータ」と命名している。「ロリータ」期の後、男女の発育は逆転する。先に第二次性徴を迎える女子から見れば、男子は子供でしかない。この段階は、人の成長において、独特である。女子は第二次成長を迎え、男子を見下す。しかも、男子は女子よりも体力的に劣っていることさえある。そんな男子は女子に悪戯や悪ふざけをせずにはいられない。えのきどはパラ・ロリータとも言うべきこうした男子の心理を体現している。

 えのきどは、『通学と引力』において、男子の頃について次のように述べている。

 

 子供の頃は自由で何でも出来たという言い方をするが、僕は不自由だった。自分が少しも思った通りにならず、意識の範囲も狭くて窮屈だった。自分が他の子と比べてひどくいびつに出来ているのではないかという不安もあった。深くは考えない。深くは考えないから、しばらくすると忘れて直ってしまうのだが、全体としてそういうことであった。意識が変に自分に集中していた。

 

 「自由」は「意識の範囲」が大きくなければ実感できない。「窮屈」であるけれども、子供は「深く考えない」ことによって、「しばらくすると忘れて直ってしまう」。「意識の範囲」が広くなった大人になってから、子供の頃を回想して、「自由で何でも出来た」というのは倒錯にすぎない。「意識が変に自分に集中していた」えのきどは成長しなかった、あるいは成長を拒否したわけではない。成長は「意識の範囲」に基づく一つの価値である。えのきどはヘルマン・ヘッセの描くデミアンでも、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓(Die Blechtrommel)』におけるオスカルでもない。彼には哀愁も陰鬱さもない。ただ、「不自由」な子供として、その不満に対し、悪戯と悪ふざけに満ちている。

 えのきどは「不自由」な少年時代を回想した作品を書くとき、その独特の文学的能力を発揮する。願望の投影がそこにはなく、少年そのものが書いていると言うほかない。

 『釧路』において次のように最もえのきどの特徴が出ている。

 

 住んでいた町に降り立つ。住宅が相当数建ち並んでいたが、信じられないほど昔と同じだった。同じという感覚ではない。懐かしさでむせかえるようというが、それの極端なやつだ。わかる、という感じにも似ている。幼い頃で知覚が皮膚感覚的であったことから、団地の茶けたコンクリが張りついて来るように、わかる。タンポポの白い種子のぼんぼりが、わかる。路地の風景、地面、坂道のこれから傾ぎだす辺り、そういう変哲のないものが身体をくるんでくる。わかるのだ。

 その町は記憶のドームのようなところだった。北海道の小さな町は僕の子供の時間の空気をそのまま保存してしまっていた。空気自体、重い。息が苦しいような錯覚がある。

 結局わかる情報量が多すぎて、五感の抱えるそれが頭が処理しきれなかったのだろう。濃密なスープのなかを歩いていくようだ。スープのなかを歩いて僕の家の近くに立った。

 

 えのきどは、父親の仕事の都合で、頻繁に転校している。彼は、転校の度に、スパイのように、変装する。各共同体を渡り歩いてきた彼は「私」が共同体の内部において機能するだけであり、その外部には及ばないことを知っている。彼は、転校するごとに、別の「私」になりすます。これは嘘ではない。「本当の私」も「嘘の私」も共同体の神話にすぎないからだ。本当と嘘は共同体の存立基盤のために、規定される。

 転校生であるがゆえに、えのきどは共同体空間の持つ「引力」の及ぶ範囲を試す。その構成員であれば、暗黙のうちにわかっていると同時に、意識的には認識していないその「引力」の境界を彼は悪戯とも悪ふざけとも言えるような態度でちょっと遊んでみる。「引力」はこうしたエイリアンによって、逆説的に、確認される。

 しかし、この「引力」は「意識の範囲」の現われであり、えのきどは、『釧路』において、「ぱたんぱたんと渡り廊下を歩いて、何の気なしに上の方を見たのである。そこで足が止まった。ショックを受けた」と次のように述べている。

 

 木のレリーフがいくつも並べてかけてあった。レリーフには彫刻刀で子供の顔がヘタクソに無数に彫りつけてある。縁には第何代卒業生一同となっている。それが渡り廊下の上方両脇にずらっと並んでいる。

 遺跡のようだった。そのとき何故か、みんな死んでしまったと思ったのである。みんな死んでしまった。いや、実際にはみんな、サラリーマンになったり、お母さんになったりしてどっかで元気にやっているだろう。だけど死んでしまったと思った。絶望的だった。もう間に合わない。みんな、子供としての死を迎え、ここに刻んである顔になった。僕が転校せずにずっとここにいれば第何代の卒業生になったか知らないが、きっとここに僕の顔を彫りつけていた。

 

 供養でもするような感じでレリーフの連なりにぺこんと頭を下げてやった。もうずっと昔にそれは終わったのだ。

 

 大人と子供は決して連続してはいない。子供時代の死を経験した後、すなわち共同体の中で象徴的な死の儀式を通じて、人は初めて大人になる。子供や大人という概念は共同体において形成されるのであり、そこに根拠を持てない者は大人にも子供にもなれない。死は共同体的な制度である。葬儀を通じて、初めて、死は共同体において認定される。生も同様である。生は、絶えず、死と再生の儀式、すなわち通過儀礼を繰り返さなければならない。大人は死んだ子供のなれの果てある。

 「私」は、生死に倣い、共同体的制度である。共同体において、儀式や儀礼は死と再生に基づいている。それらを通じて、時間・空間も共同体に属し、共同体は多層性を確保・存続する。「私」はそこで規定される。

 時間も空間とは無縁ではく、共同体に所属している。それは記憶さえも強制する。共同体において時空間は死を迎え続けなければならない。その死の蓄積を共同体の記憶とするからだ。空間も時間も共同体を離れて生きられない。共同体は、さもなければ、その根拠が揺るがされてしまう。

 えのきどは転校生である。迎え入れる側は、移民と同様、転校生の過去を知らない。と同時に出て行く転校生の未来にも、どうしているかなと時々思いつつも、興味を持っていない。転校生はそうした異なった空間と時間を生きている。

 一二世紀の聖ヴィクトル・フーゴーは「生まれた土地が快いという者は未熟な初心者である。どの土地も自分の故郷であるという者はすでに強い。しかし、世界全体が異郷であるという者こそは熟達者である」と言ったが、えのきどはそんな大見得を切らない。子供時代の死を経験しないとすれば、ナボコフが「ロリータ」と呼んだ少女の時期にあたる少年とならざるを得ない。死と再生の儀式に参加しなかったえのきどは生きているとも死んでいるとも言えない決定不能性にある。「僕は一人だ」。

 コラムは、そのジャーナリスティックな性質上、特定の時間・空間を前提にしている。転校生の国アメリカでコラムが、他の国とは比較にならないほど、影響力を持っているのはそのためである。アメリカという学校から転校していく生徒は少なく、転校生同士の連帯感が生まれる。しかし、「僕は一人だ」と言うえのきどのコラムには、そうした時間・空間の共有が脱構築されている。

 けれども、南伸坊は、『妙な塩梅』の「解説」において、儀式に参加していないえのきどの発想を「共有したい」と次のように述べている。

 

 徳川美術館で買い物をして、領収書の宛名は何にしましょう? と聞かれたら、さりげなく「上でいいです」といっておいて、徳川美術館の上様になっている。

 映画に出るなら、殿様やりてえと思っている。ぜんぜんひねっていない思想。ワハハな人だ。ぽじろうである。私は、えのきどぽじろうさんを尊敬している。この気持を多くの人と共有したいと思っている。

 

 まったくその通り。われわれも「この気持を多くの人と共有したい」。

 

When the night has come and the land is dark

And the moon is the only light we’ll see

No, I won’t be afraid, oh I won’t be afraid

Just as long as you stand, stand by me

Oh, stand by me, stand by me, stand by me, stand by me.

 

If the sky that we look upon should tumble and fall

And the mountain should crumble to the sea

I won’t cry, I won’t cry, no I won’t shed a tear

Just as long as you stand, stand by me

Darlin’, darlin’, stand by me

Oh, stand by me, stand by me, stand by me, stand by me.

 

Whenever you’re in trouble

Won’t stand by me, stand by me, stand by me, stand by me,

Darlin’, darlin’, stand by me, stand by me

Oh, stand by me, stand by me, stand by me..

(Ben E. King “Stand By Me”)

 

 子供どこ?

〈了〉

参考文献

えのきどいちろう、『ウブなんだな』、大和書房、1994

えのきどいちろう、『二十世紀の梨と真実』、実業之日本社、1994

えのきどいちろう、『心配御無用』、実業之日本社、1996

えのきどいちろう、『妙な塩梅』、中公文庫、1997

えのきどいちろう、『西へ行く者は西へ進む』、中央公論新社、1999

 

常盤新平他編、『アメリカ情報コレクション』、講談社現代新書、1984

水谷加奈、『ON AIR─女子アナ恋モード、仕事モード』、講談社文庫、2001

ウラジーミル・ナボコフ、『ロリータ』、大久保康雄訳、新潮文庫、1980

A・ビアス、『悪魔の辞典』、奥田俊介他訳、角川文庫、1988

J・K・ユイスマン、『さかしま』、澁澤龍彦訳、河出文庫、2002

リング・ラードナー、『微笑がいっぱい』、加島祥造訳、新潮社、1970

リング・ラードナー、『アリバイ・アイク』、加島祥造訳、新潮文庫、1978

ウォルター・リップマン、『世論』上下、掛川トミ子訳、岩波文庫、1987

 

『世界の文学』18、朝日新聞社、1999

DVD『エンカルタ総合大百科2004』、マイクロソフト社、2004

 

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