ロドリゲスwiki

解剖批評─森村泰昌

最終更新:

o-rod

- view
だれでも歓迎! 編集

解剖批評

─森村泰昌

Seibun Satow

Aug, 29. 2010

 

「模倣するより批評する方が容易だ」」。

ぜウクシス

 

 森村泰昌は、名画と評価されている西洋絵画をその登場人物に扮してポートレートとしてカバーしている。その際、絵画の構成や背景、大道具、小道具を詳細に調べ、ライティングやメークアップに加え、合成やCGも利用して細部に至るまで再現を試みる。森村泰昌の『踏み外す美術史』によると、「芸術は見るものでなく、着るもの」であり、さらに「着こなす」ようでなければならない。「着る」から「着こなす」への移行は形式の内在化=身体化であり、その過程の意識化を意味する。

 

 これはパフォーマンスと言うよりも、批評である。この作業を通じて、画家が意識していたことだけでなく、内在化されていたことや時代の雰囲気、風潮なども明らかにできる。

 

 エドゥアール・マネの『フォリー・ベルジェールのバー』(188182)を例にとってみよう。この96×130cmの油彩作品はマネ最晩年の大作である。中心に、テーブルに手をついて正面を見ている女性バーテンダーがいる。背景には、判別し難い紳士淑女らしきお客が見える。画面の三分の一ほどに、彼女の後姿とそれに対峙しているシルクハットを被った口ひげをたくわえた男性が鏡に映っているシーンが描かれている。鏡の位置は不自然だが、そのカットによってこの女性が男性より小柄だということがわかる。実際に女性バーテンダーに扮してみると、テーブルに腕が十分に届かない。マネは腕の長さをデフォルメしている。彼女はテーブルに力強くついていなければならない。その理由は、彼女の断固たる意志を示すためだと森村は推測する。この絵の中の登場人物の中で彼女は最もさげすまされているような存在である。ろくに顔のない紳士淑女を背景に配置し、そんな女性を中心に据え、強固な意志を持った人物として描くとき、その世界の階序は転倒する。こう考えてくると、この作品が最期のときを知ったマネが愛するパリの風景への感傷的でメランコリックな思いを示唆しているという解釈は成り立たない。革命への期待がこめられていると言っても過言ではない。これは真似ることで、初めて、見出せた点である。

 

 セルフ・ポートレートの際に、アジア系の男性である彼が主に西洋絵画の女性を被写体を選ぶことには理由がある。これは暗黙知の明示化である。そこに潜むジェンダーやオリエンタリズム、エスニシティを顕在化させる。マネの『オランピア』(1863)を扱ったとき、彼は白人の娼婦と黒人の召使の両方に扮している。同じ人がメークアップや衣装で演じ分けた異人種を一つの絵画に登場させると、植民地主義が露出する。

 

 さらに、森村は忠実に再現するだけでない。その作品が体現しているものを敷衍すれば、このような批判が成り立つと提示する。『オランピア』では、絹の敷物の代わりに日本の着物、猫の代わりに招き猫を置いている。19世紀後半のフランスでジャポニズムが流行している。マネも『エミール・ゾラの肖像』(1868)の背景に日本の絵画をとり入れている。だとすれば、日本の文脈を無視したこんな使い方もあり得たろう。

 

 現在、森村は西洋絵画の男性に扮したり、日本美術や20世紀の出来事、女優、現代のイコンなどにも進出したりもしている。チェ・ゲバラやアルベルト・アインシュタイン、マリリン・モンロー、三島由紀夫、マイケル・ジャクソンあたりはアンディ・ウォーホルの試みを「着る」に拡張したとも言える。

 

 こうしたまねぶ芸術を実践した一人が贋作画家として人気を博すジョン・マイアット(John Myatt)である。彼については、2010117NHKハイビジョン放映の『ハイビジョン特集 贋作の迷宮 ~闇にひそむ名画~』は詳しい。

 

 1985年、美術教師ジョン・マイアットは、突然、妻が家を出てしまい、残された二人の子を育てるために、辞職し、収入を得ようと、Private Eye”誌に’GENUINE FAKES. Nineteenth & twentieth century painting from 150 pounds(まごうことなき贋作、1920世紀の絵を150ポンドから)という広告を出す。

 

 当初は合法的な仕事をするつもりだったが、詐欺師ジョン・ドルー(John Drewe)が彼に眼をつける。マイアットの描いたアルベール・グレーズの贋作をククリスティーズに持ちこむと、本物と鑑定され25000ポンドで売れ、大金が分け前として渡される。二人の子供のためと自分に言い聞かせ、彼は深みにはまっていく。

 

 彼は模倣する絵画に関する情報を丹念にリサーチする。構成から背景、色調、タッチ、道具などを詳細に調べ上げる。さらに、年代測定をクリアするための古く見せる技法も編み出している。

 

 その上で、何よりも重要なのは、描くときには、その画家になりきることである。今、カンバスに向かっているのはジョン・マイアットではない。フェルメールだ。その際、生前認められなかった画家の方が演じやすかったと述懐している。マイアットは対象となる画家は別人である。模倣する際に、彼らが自覚していない内在知を形式知として認識する必要がある。マイアットは、画家本人以上の彼をわかっていなければ、完璧な贋作が描けない。

 

 演技と美術表現の相互作用は贋作に限ったことではない。NHKの連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』で水木しげるを演じる向井理は、ヒロインの夫のマンガの描き方を研究して演技をつくったと告げている。NHK総合2010618日放映の『あさイチ』において、向井がペンを走らせていると、水木しげるがそれを興味深そうに覗きこんできたと明かしている。

 

 1995年、関係者の密告でマイアットのかかわる贋作ビジネスが発覚、逮捕され、懲役1年の判決を受ける。出所後、合法的な贋作画家として再出発する。話題性もあいまって評判を呼び、現在、高額で取引される人気画家の地位を獲得している。

 

 森村の試みには模倣対象への解剖学的アプローチが見られる。森村はそれを自覚していて、自身の批評に「解剖学」を用いている。模倣を通じて暗黙知を明示知にするアプローチを「解剖批評」と呼ぶことにしよう。解剖批評は対象を自分に引き寄せるのではなく、寄り添ってその固有の声を聞く、対象を徹底的に解剖し、作者が意識していたことや内在化されていること、社会的・歴史的背景・事情を明らかにする。それは対象の固有な可能性を顕在化させる試みである。これは美術に限らない。あらゆる表現に適用できる。

〈了〉

参照文献

森村泰昌、『踏み外す美術史』、講談社現代新書、1998

森村泰昌、『美術の解剖学講義』、ちくま学芸文庫、2001

森村泰昌、『まねぶ美術史』、赤々舎、2010

「森村泰昌」芸術研究所

http://www.morimura-ya.com/

 

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

記事メニュー
目安箱バナー