鋼の雫-04
深い闇の中。俺は血の池を這いずり回りながら、奴から逃げ続けていた。
血の泥濘に足を取られ先刻から何度も何度も、俺は転倒している。
-未だに終わる事の無い暗闇。
「助けて…くれ…だれか…」
誰も助けてくれる筈が無い。此処に居るのは俺と、奴だけだ。
此処に楽園は無い。此処にあるのは深い深い暗闇と血の池だけだ。
足音が聞こえる。何かを引き摺りながら、歩く音。
奴だ、奴が来たんだ。俺を殺しに、奴がやって来る。
また、逃げないと。また、殺される。
俺はいつまでこの逃走と、逃走の日々を続けなければいけないんだ?
-この闇に、終わりは無いよ。
俺の後ろには、奴が居た。
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「うああああああああああああ!!!!!!!!!!」
「ご、ご主人様!?」
俺は腹の底から声を絞り出して絶叫し、目を覚ました。
俺の呼吸は荒く、酷い汗を掻いていた。
-また、あの夢か。
毎日見るあの悪夢。もう十分だった。
あの夢を見た後は決まって、最悪の気分で目が覚める。
だが不思議な事に、今日は少し違った。
呼吸を整え、辺りを見回す。時計の針は7時26分を指していた。
と、俺はそこで一つ変な感触がある事に気付いた。誰かに右手を握られている感じだ。
右手に目をやる。
パートナーマーシーナリーGH410…ステラが居た。
彼女はその小さな両手を使って、俺の右手をぎゅっ、と強く握り締めている。
「……ステラ、何してるんだ」
「…ご、ごめんなさい!ご主人様が凄いうなされていて…心配だったから…」
-不思議と、嫌な感じはしなかった。
-小さいけど暖かい、手。
-とても安心できる、温もり。
「大丈夫だ…とりあえず手を離してくれ」
「は、はいっ!ごめんなさい!」
離れていく小さな両手。
自分で離してくれ、と言ってこう思うのも何だが、何だかとてもそれが名残惜しく感じた。
何故か知らないが俺は、つい声を出してしまった。
「なぁ…」
「…?、どうしたんですか、ご主人様?」
「…い、いや…何でもない」
ステラの声で我に返る、俺。
不思議そうに俺の事を見つめる、ステラ。
今日のご主人様は、様子がおかしいな、と。
「シャワー…浴びてくる…」
俺はそう言うと、ステラの返事も聞かずドレッシングルームへ駆け込んだ。
---
昨日の夜から、ご主人様の様子がおかしい。
この2日間、とても私に対して冷たかった。口すら利いてくれなかった。
だけど、今日は違った。朝、ご主人様がなぜか知らないけど凄いうなされていた。
だから私は、ご主人様の部屋に勝手に入って行った。
本当ならご主人様は凄い怒るはずなのに、今日に限って怒らなかった。
それどころか、顔を少しだけ紅くして、私から逃げるようにしてドレッシングルームへ駆け込んでいった。
出掛ける前も、昨日までは私に何も言わずに出て行ったのに今日に限って、”行ってくる”って言ってくれた。
私はGH301だった頃みたいに、”行ってらっしゃい、お気をつけて”と答えた。
それを聞いたご主人様はなんだか、とても嬉しそうだった。
私もとても嬉しかった。ご主人様が日に日に優しくなってきてる気がする。
いつかは、元のご主人様に戻ってくれるのかな?
戻ってくれると、うれしいな。
ご主人様が冷たかったのはたった2日だけど。
私にとってその2日は永遠と思えるほど、長く感じたんだもん。
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「悪い事…とは解ってるけど……」
そう言いながらステラは、主人の部屋に入りビジフォンの電源を入れた。
「御免なさい。やっぱり、私、ご主人様が何処に行ってるか気になるんです」
ビジフォンの前で頭を下げて、居もしない主人に向かって頭を下げるステラ。
ビジフォンの電源が入ると、まずはスケジュール表を開いた。
「………、今日はミーティングも、ミッションも、何も予定は…無いみたい」
スケジュール表を閉じる。次はメールだ。
本当はこんなプライバシーを侵害するような事はしてはいけない。
解ってるんだけど……御免なさい、ご主人様。
「今日読んだメールの履歴を開いて……と、よし」
今日ご主人様が読んだメールはどうやら一通だけのようだ。
「差出人…A.Kiyokage…?…誰だろう。始めて見る名前だなぁ……」
おっと、そんな事はどうでも良い。
必要なのはご主人様が今日、何処に行ったか、だ。
とりあえず、このメールを読んでみよう。
***
「………ご主人様の、古い大親友?」
どうやら、このA.Kiyokageと言う人はご主人様の大親友らしい。
ずーっとニューデイズの山奥深くに住んでるらしく、今日、街に戻るから久々に逢おう、と言う事らしい。
「ふむふむ……ニューデイズのオープンカフェで2:30PMに待ち合わせ…か」
時計に目をやる。まだ8時半だ。
待ち合わせ時間はお昼過ぎなのに…何でご主人様はこんなに早く出掛けたんだろう。
「……気になるなぁ…」
やっぱり、話しかけてくれるのは嬉しいけど、何も教えてくれないのは、寂しい。
何だか省かれているみたいだ。
「……何か、ご主人様が優しくしてくれたから、私、欲張りになってる……」
昨日の夜、そして今朝、ご主人様が私に優しくしてくれて、嬉しいのに。
私はご主人様と少しでも会話できれば、それで満足だったのに。
何故か今の私は、もっとご主人様を求めてしまう。
今の私は、ご主人様の1を求めれば、ご主人様の10が欲しくなってしまうだろう。
今の私は、ご主人様の10を求めれば、ご主人様の100が欲しくなってしまうだろう。
もしかしたら、あの優しさはただの気まぐれだったかもしれないのに。
もしかしたら、あの優しさはもう俺に近づかないでくれ、って言う遠まわしのサインなのかもしれないのに。
「どうしちゃったんだろう…私」
-ご主人様の全てを手に入れるまで、満足できない。
ふと、急に主人のベットへ、ステラは目をやった。
「ご主人様の…ベット」
とことこ 小さな歩幅でベッドまで歩いて行き、ベットの上によじ登る。
「ご主人様…いつも此処で寝てるんだよなぁ…」
そう言うと私はその場で横になった。
「いつの日か、一緒に…寝たいなぁ…」
ご主人様のニオイがまだ微かに残っていた。
石鹸の良いニオイだ。
「ご主人様に…抱いて貰いたいなぁ…」
そう言うと、ステラは、おもむろに自分の手を、自分の陰部へ持っていった。
「あ、あれ、私…何してるの…?」
手が止まらない。
体が熱い。まるで、自分の体じゃないみたいだ。
「あんっ……」
息を荒くし、妖艶な喘ぎ声を出すステラ。
「やだ…やだ…どうしちゃったの、私…」
自分のやっている事が理解できない。
否、頭の中では理解できてるんだけど…体が…言う事を聞かない…。
「手が…止まらないよぅ…」
御免なさい、ご主人様、ステラは、悪い子です。
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「……染み、出来て…無いよね…?」
私はご主人様のベットを目を凝らしながらじっと見た。
うん…多分…大丈夫…。
一応、雑巾で何回も拭いたし…、綺麗だよね…?
誰も居ないのに、何故かとても恥ずかしい。
さっきまで私はここで、ご主人様の事を考えながら一人で喘いで居たんだ…。
「ガーディアンの行動を監視するためのカメラなんて…ついてないよね…?」
辺りをキョロキョロと私は見回すが、それらしいカメラはついていない。
よかった……。もし誰かに見られたら…と考えるだけで顔が燃えそうになる。
「うぅ……」
私はここでさっきご主人様の事を考えながら-誰かに見られていたらどうしよう
さっきから、同じ事が頭の中でグルグルと回っている。
「ご主人様が悪いんだ…急に私に優しくするから…」
ご主人様のせいにするなんて……駄目な私……。
「でも…気持ち…良かったな…」
-と、何となく目に入った時計。-時計の針は9時を指していた。
「まだ…9時……2時半まで時間…あるなぁ……」
ニューデイズに行くまでを1時間として見れば、まだ後3時間以上ある。
「どうしよう……」
-また…しちゃおうかな…。
そんな事を考えていると……。ポーン、と部屋のアラームが鳴る。
「こんにちわ~、店主さん居ますか~?」
元気な女の人の声が、入り口から聞こえた。
「お、お客さん!?そ、そうだ…お店番……!」
「いないんですか~?」
「は、はーい!今行きますー!」
私は大慌てで、隣の部屋に移動する。
と、一つ、私は恐ろしい事に気づいた。
……人が来なくて、良かった…。
もし”さっき”人が来ていたら、どうなっていたんだろう……。
ゴクリ、と唾を飲み込む。
「…考えない方が、良いね」
-
ニューデイズ。和風のデザインをした建物が所狭しと並ぶ、ニューマン達の惑星。
パルムやモトゥブとは違い、この惑星に生息する物が俺は全て好きだ。風情がある。
出来る事なら俺はガーディアンを止めてこのニューデイズに一人で静かに暮らしたい。
空気も綺麗だし、住んでいるニューマン達も良い奴ばかりだ。多少、排他的な所もあるが。
此処でしか飲めない”緑茶”と言う飲み物をすすりながら俺は、そよ風に舞う木の葉を見ていた。
良い風だ…。戒めと言うガチガチの鎖に固められた俺とは違う。自由気ままに吹き、自由気ままに移動する。
お前達が羨ましいよ。
「…まだ2時か…、早く来すぎたな」
さてさて、後30分どうしようか。俺は頭を使った。この30分というのは非常に曲者だ。
10分や15分そこらなら、茶を飲んでぼーっとしているだけでも過ぎて行く。
だが、30分というのは茶を飲んでぼーっとしていても中々過ぎず、かと言って何処か散歩へ行けるほど長くも無い。
「困ったものだ」
…と、後ろから肩を叩かれた。
「よっ、相変わらず待ち合わせ時間に早く来る癖は、治ってないんだな」
俺はその声に反応てし、身を反らした。
目の前に居たのは、栗色の髪をロングに伸ばし、耳をとんがらせた、ニューマンの男だった。
「……よう、アギト。お前こそ、何も変わってないな…。変わった事と言えば、髪が伸びたぐらいか?」
「おいおい、久しぶりに会ったって言うのに、第一声はそれかよw」
「軽い冗談って奴だ。まぁ、立ったまま会話なんて勘弁だ。座れよ。俺の部屋じゃないけど」
「勿論、そのつもりさ」
そうして、俺達は久々に会話を始めた。こいつとは2ヶ月間逢っていない。
俺が餓鬼の頃からの親友なんだが、俺が”事件”に巻き込まれた後すぐにニューデイズへ越して来てしまったのだ。
後に成って知った事だが。
幸い、メールアドレスは変えて居なかった様で何とか連絡は取れていた。
女が3人揃えばヤカマシイと言う。だが今の俺達は、それ以上にとても騒がしい声で会話をしていたのだろう。
なんせ、久々の再会だ。俺達はお互いに話したい事が山ほど逢った。
何故、急に引っ越してしまったのか。
何故、今は山奥に一人で住んでいるのか。
今はどうやって食い扶持を稼いでいるのか。
勿論、昔話だって沢山しただろう。
既に体験した事を話し合っていただけなのに、何故か全てが新鮮に感じた。
だが、楽しい時間と言うのは一瞬にして過ぎて行く。
俺達が気付いた時には、既に時間は夕方の5時を越え、太陽も沈み掛けていた。
俺達が会話をしていたオープンカフェも、閉店だと言うのでしぶしぶ出て行く事にした。
今は、人気の無い公園に居る。風が気持ちよかった。夕日も綺麗だ。
「本当に、時間が過ぎるのってあっという間だよな」
「だな」
「名残惜しいけど、今日はもう返るよ」
「…そうだな、もうこんな時間だしな」
「お前、寝床のアテは在るのか?」
「大丈夫、ちゃんとホテルの予約を取ってあるさ」
「そっか……んじゃ、俺はもう返るよ。早くしないと今日の便、無くなっちまうしな」
「ああ。…今日は来てくれてありがとうな」
「気にするなよ、親友だろ」
「はは…何か、そう真っ直ぐ言われると恥ずかしいな」
「ま、今度はメシぐらい、奢ってくれると助かるんだけどな」
「善処するさ」
「そっか。それじゃ、またな」
俺は、そう言って公園を去ろうとした。
「なぁ」
「ん?」
反射的に俺はアギトの方を向く。
「こんな事、聞くのは良く無いって解ってるけど…さ」
気まずそうに俺と視線を合わせず言った。
「ん、何だよ?変な事じゃない限り、答えるぜ?」
「………怒るなよ?」
「何だよ、もったいぶるなって」
「まだ……お前、キャストの事、嫌ってるのか?」
「………」
太陽もすっかり沈んで、辺り一面は大分暗く成っていた。
さっきまでは気持ちよかった風も、今では少々寒く感じる。
-沈黙。沈黙が、2人の間を貫いた。
「や、やっぱ聞くべきじゃ無かった…よな。悪い」
「いや…別に構わないよ」
俺は、プラットフォームに向かい、歩き始めてこう言った。
「戒めが消えない限り、俺には無理な話だ-」
俺はそう言うや否や、すぐに走り出す。
正直、アギトにこの質問をされるのは辛い。
「…ハンク」
折角、いい雰囲気で別れられる所だったのに悪い事をしたな、と俺は心の中で思った。
「…謝りのメール、送らないとな…」
俺も公園を後にしようと、ポケットに手を入れて歩き始めた。
今日はちょっと薄着をしてきたから寒いな…。早くホテルに戻ろう。
「あの……申し訳ありません、アギト様ですか?」
「ん?」
背後から声がした。幼い少女の様な声が。…って、こんな時間に女の子?
つい名前を呼ばれたから反射的に返事をしてしまったものの…。
…オキク・ドール…が居たりして。ニューデイズだし、夜だし、何かイカにも”出そう”だし…。
(まさかな……)
不気味に思った俺は、とりあえず、声の主の方へゆっくりと振り向いた。
目の前に居たのは赤い洋服を着た、俺の腰ぐらいまでしか伸長が無い、小さな女の子だった。
可愛らしい顔立ちをした女の子で、オキク・ドールとは似ても似つかない。
「……オキク・ドールじゃなくて良かった…」
ほっ、と俺は安堵の溜息を吐く。
「…あの……?」
「あ、失礼…。…君は?」
「ステラ、とご主人様には呼ばれて居ます。ハンク様のパートナーマーシナリ/GH410です。
貴方にお尋ねしたい事があって、声をお掛けしました」
「GH410…。君がハンクの…?」
パートナーマーシナリー…。噂には聞いて居たが…。
ガーディアンのパートナーマーシナリがこんなに可愛い少女の姿をして居るとは知らなかった。
しかし……キャストで、少女か。
「あの……」
「あ、あぁ、悪い。少し考え事をね。聞きたい事って?」
「…ご主人様の事についてです」
-やはり、そう来たか。何となく予想はついた。
大方、ハンクのキャスト嫌いについてだろうな…。確かに、俺はハンクの過去を知っている。
まぁ、折角ハンクには内緒で俺に逢いに来たんだ、このまま帰すのは可哀相だ。
「あいつについて…か。…まぁ、ここで立ち話も何だし、俺の部屋に来いよ。そこで話そう。大分寒くなって来たしな」
「貴方の…部屋で、ですか?」
-間
「…、あー…あぁ、別に邪な事考えてるわけじゃないから安心してくれ。ただ寒いだけだよ」
「別に…そう言うわけではありません…勝手にお邪魔してよろしいのかな、…と」
「俺は全然構わないぜ。むしろ君みたいな可愛いお嬢さんが来てくれるなら大歓迎だ。飯位なら奢ってやれるぜ」
「ありがとう御座います。お心遣い、感謝します」
ぺこり、とステラと名乗った少女は行儀良く俺にお辞儀をした。
彼女…ハンクに相当厳しく躾けられているんだろうな…可哀相に…。
「じゃ、行こうか。しっかり付いて着てくれよ」
「かしこまりました」
そうして俺達は公園を後にした。日は完全に沈み、夜が、やってきた。
あいつの、大嫌いな、夜が。