「こころ」の本質とは何か 滝川一廣

ここでは第二章以降は統合失調症など具体例をあげているので、精神医学のことについて書かれている第一章だけにのみ視点をおいて書く。

P13 人間学的精神病理という立場←病気といったものを、あるいは病者というものをあくまでも全体性をもった人間として捉えねばならないということ。
 病んでいるとはいえ、一個の全体性としてかんがえるということ。さらに状況的な全体性でとらえていく。状況的とは、その患者がおかれたパーソナルな個別な状況をはもちろん、社会、歴史、文化を含めた状況においてとらえていく(まとまりが悪いな。。)

→現在では人間学的精神病理(後で言う力動精神医学)退行ぎみ。理由は患者の変遷、と精神科医の変化。+p15 実証性のなさ=実証主義的ないみでevidenceに乏しく、あくまでも仮説であり思弁的な概念であり、実体的に検証不可能。

P16 現在の精神医学は人間的、状況的、全体論的にではなく、生物的、症状的、局在論的に精神障害をとらえていく。
精神障害を生物学的な障害、中枢神経、の物質における異常という視点から捉える。
→これを端的に映し出しているのがDSM(今日の精神医学の公式的な診断分類として流布)

DSM3以降、精神障害を病因や病理構造(病気の成り立ちや仕組み)によって分ける、伝統的な診断分類法を捨て、目に見える症状の形式的側面だけを目安に診断分類をするもの。
→DSM3は簡便でプラグマティックなやり方。病因とか病理には未解明な部分も多く、それを基準とすると、決着のつかない学説論争になりかねない。

また診断者の臨床眼が聞かれる。精神障害は客体的な検査でしんだいんが下せず、あくまでも患者さんの言葉や行動を手がかりとした診断者の「判断」として診断される。

病理構造に基づく診断は、その訴えや言動の背後に潜む精神構造、つまり精神病理を状況全体の中から掘り下げて診断するものだから深い臨床経験や高い判断力が要求される。

→DSMはそれをすてる。
目に見える症状だけをマニュアルにそって数えあげてそれにもとづいた診断名を付ければ、臨床の練達度に左右されず、誰が見ても同じ「診断」になる確率が高くなる。

そういう意味で利便性があり、愛用されている。

著者は人間学的観点からみて、マニュアル化に対して「平板になる」と否定的。
→DSMなどを追求するだけで、精神障害を捉えることができるのか。本当に病気の人への理解や援助につながるのかという疑問をだしている。

ここで、元に戻り、江間もかいているように精神医学には2つのながれがある。このほんでは名前はちがうが、正統精神医学、力動精神医学である。

正統精神医学―脳の生物学的な仕組みにおいて理解。←「身」の体から迫る。
身体医学をルーツとしている。人間の身体とはきわめて合理的、合目的に作られているという前提にたつもの(from生理学)よって、人間の精神機能は本来合目的。よって非合理が生じたら精神機能をつかさどる脳になんらかの異常が生じるためそれを突き止める。(現在の精神医学はこの正統精神医学が主流)

力動精神医学―人間の「こころ」の心理学的な成り立ちは非合理と不自由であるがそれはランダムではなく、不自由と不合理の根拠があって、その成り立ちや構造を合理的に解き明かすこと。→精神分析

p24 正統精神医学と力動精神医学はどちらか一方に軍配があがるものではなく、基本的には相補的なものであり、実践的な臨床医なら片方だけで押してゆく者ほいないと思う。
→著者は力動精神医学に重きをおく立場。

正統精神医学では人間は本来的に合理的だという見地にたつので、「正常」と「異常」との境界をはっきりさせようとする。DSMでは改訂ごとに「精神障害」の種類が増加し、DSM4で記された各障害の有病率を単純に計算するとアメリカ人の3~4割がなんらかの「精神障害」という計算になる。

自分の意見もすこしいれつつかいてしまいました。しかもノートに書いてあったのをそのままうつしただけなので、意味不明とおもったところは質問してください。
最終更新:2006年12月10日 21:07