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人格障害かもしれない**中見出し
人格障害かもしれない 磯部潮 光文社新書

p5 人格障害の人にラベリングをして安心感を得たい。
  精神病ー精神疾患との違い。

p21 正常な人格 とはあくまでもその時代や共同体の多数派の価値観を反映したものにすぎない。

p60 byナイト 精神病か神経症かという二分論では捉えることができない症例群に対しその中間的な存在として「境界状態」を提起した。

精神病(統合失調症)という診断も神経症という診断もつけ難いのだけど、両者の特徴を兼ね備えたケースを「境界状態」と命名した。

↑ただ、この境界状態は現在の境界例とはちがうものである。

p67 DSMの功罪(抜粋)
  • ここでDSMについて私なりの考えを少し述べたいと思います。1980年のDSM-3の日本導入以来、精神科で診断をつける際に、精神科医は座右の書としてDSMを用いてきました。確かにそれまでの精神医学的診断というものは、かなり精神科医自身の主観が強く滲み出ていて、半ば恣意的に診断を下すというような風潮がありました。これを顕著に物語る例として今では笑い話にしかすぎないのですが、全国的な調査で、ある地域の精神分裂病の罹患率が非常に低かったことがありました。実際は事実と異なっていたのですが、当時の精神科の徒弟制度的風土が色濃く反映されて、”師匠”の見立てをそのまま診断に用いたために、このような地域格差が生じたのです。つまり、共通の診断基準が存在していなかったというわけです。
  • しかしDSM-3の登場とともに、原理的には同じ患者に対して世界中の精神科医が同じ診断をくだせるようになったわけで、私のようにDSM-3の登場以降に精神科医になった人たちが、こぞってDSMを診断に用いるようになったのは当然のことでした。DSM-3以降のDSMはその信頼性、妥当性も高く、画期的な診断基準であることも確かなのです。けれども、その一方、DSMを使って診断を下すことだけに腐心して、患者さんを診断→投薬という図式でしか診なくなったような傾向があると私は考えています。つまり患者さんの病気だけをみて、人間を診なくなったと思うのです。本来、私たち精神科医は、一人ひとりの人間をしての存在を診ることにもっとも重きを置くべきであって、診断はそれに付随するものでなければいけません。この人間性の軽視こそがDSM導入の最大の弊害だと考えられます。さらにDSMはあくまでもその時点での横断的な診断基準であり、一人の人間を時間軸上で長期に診ていくという縦断的な診断基準でもありません。これもDSMの一つの弱点といえます。
  • また、DSMは世界中で使用されることを前提に作られていますが、個々に見ると、やはり欧米人に受け入れやすくなっている印象は拭えません。たとえば、うつ病の人の内的な攻撃性を重視している点は、私を含めて日本人にはしっくりこない気がします。私自身は、臨床において診断を付ける際にはやはりDSM-4を必ず用いています。しかし診断だけにとらわれることなく、一人一人の患者さんに合った治療プランを立てるようにしています。

  • p73  人格障害を避ける精神科医は結構おおい。人格障害に対して費やすエネルギーとそのみかえりをかんがえたときに、+-があわないから。

  • 俺的な意見

  • この本は人格障害について主にかかれているのでDSMについて書かれているところだけを
おもにピックアップしてきました。
で、俺が言いたかったのは完璧にこの人のp67のところです。
でもその上になにかしらの対策があるんじゃないかと。
著者は精神科医として問題意識をちゃんともっていて、DSMの功罪についてちゃんと考察しているのでよいのだが、それこそDSMを右において診察→投薬をしている医者に対してもうすこしまたマニュアルになってしまうかもしれないが、ちょっとでもいいから一石なげれればよいなとおもっている今日このごろでした。

最終更新:2006年12月03日 10:10