邪気眼を持たぬものには分からぬ話 まとめ @ ウィキ

群青京都・・・「群青少女①」

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jyakiganmatome

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第一話:群青少女①

  ◇

 神様なんて信じてなかった。

  ◇

 日本人の美学は「察し」と「思いやり」なのだとどこかで誰かが言っていた気がするけれど、残念ながら私はもう誰の言葉だったか忘れてしまっている。
 なるほど、日本人は確かにお人よしな部分があるかもしれない。昔は鎖国だか何だかもしていたらしいけれど結局開国してしまったし、いや、これはお人よしというよりは押しに弱いのかもしれないけれど。
 そんな日本の中でも、この古都・京都はことさらに「察しの街」だ。
 先に断っておくと私は生まれつきこの街に住んでいたわけじゃない。だからこの京都特有の空気感というか、奇妙な特性に未だに慣れていない部分がある。
 なんと言うべきか、道行く人々皆一様に「腹に一物ある」ような感じがする。皆みんな、何かしらの思いを胸の内に抱え込んでいて、それを静かに研いでいるのだ。そしてそれを誰かに気付いて欲しい気付いて欲しいと本当は思っているのに、だというのに自分からはそれを公にはしない。代わりにそれとなく隠喩的な表現を用いて相手に伝え、そしてアピールされた相手はそのさり気無い隠喩に気付く「義務」がある、と本気でみんな思っている。そうでもなければ、帰って欲しい迷惑なお客にお茶漬けを出したりしないし、出された方もそれを理解して帰宅したりしないだろうと思う。ここで相手の本心に気付けない鈍感な人間は、恐らく京都の街では非常に生きづらい。

 私がこの都に抱いている印象はといえば、「相手の顔色を伺う街」だ。
 色々な人々が厚い雲で本音と本心を隠し、色んな色をまぜこぜにして灰色にしてしまう街。でも外から来た観光客にとっては、多分それが心地良いのだろう。そう、京都はあまりにも観光に特化しすぎてしまったせいで、一般市民にまでもその作法が染み付いているのだ。外から来た「客人」にとっては良いかもしれないが、実際に暮らしてみればどうしてもその裏側の染みや汚れに目が行ってしまう。夢の国のナントカランドの裏側で汗だくになって雑用をこなしているクルーの姿を見てしまうようなものである。
 なのだから、この街が百年前に神仏妖怪と交わした「共生条例」も、まあ、やっぱり勢いで押し切られてしまったのだと思われる。


 この世界、今時は日本人なら小学生でも護身用の陰陽術を義務教育で習うし、獣人や妖怪なんかの人外は何百年も昔に世界に認知されたし、京都には二百万の有象無象たちが生活している。
 その有象無象たちのうち、六割は人間だ。三割は妖怪だ。残りの一割は神様だ。
 神は人間に説教をたれ、人間は妖怪をいじめ、妖怪は神を罠に嵌める。
 神は妖怪を討伐し、妖怪は人間を化かし、人間は神を畏れ敬い信仰する。
 それがぐるぐる繰り返されて、この街はまるで大きな歯車のように廻っている。


 神様なんて信じてなかった。
 でも、居るものは仕方が無いのだ。くやしいけれど。


  ◇


 そもそも私は隠し事が苦手だ。
 正直に言うと、この京都の街での私は「生きづらそうな」人間なのだと自覚はある。本音を隠すのも隠されるのも苦手なのだから、隠すことが美学と化しているこの街にすんなり馴染めるはずもない。
 だから、ほとんど唯一と言っても良いほどの友人だった赤石 紅子の訃報を知らされた時も、私は動揺を隠すことができなかった。

  ◇

 彼女は両親以外で、自分から名乗る前に私のことを「群青」と呼んだ唯一の人間だった。黒板に名前を書いても読んでもらえない事さえあるこの奇妙奇天烈な私の本名を一方的に言い当てられ、その時はとても驚いたのを覚えている。
 実は彼女曰く、「青春というには青臭すぎる性格だから」というだけの、からかい半分での仇名のような呼び方のつもりだったらしい。この事実は後々知ったのだけれど。

 そんな紅子について語る上で、何はともあれまずは屋上の存在が欠かせない。
 馬鹿と煙は高いところが好きだという。彼女は高いところが好きで、そして私も高いところが好きだった。馬鹿と煙。彼女は私よりも馬鹿ではなかったから、きっと煙だったのだろうと思う。私はどっちかというと馬鹿の方だ。
 紅子に会いたければ、授業中以外なら屋上にさえ行けばほとんど絶対に会うことができた。彼女は人と話すよりも景色を眺めるのが好きで、特に空を、ことさら青空を眺めることを好んだ。同じように小難しい人付き合いに辟易していた私は、空を見上げる彼女の横でフェンスに寄りかかって、眼下の町並みを眺めた。人付き合いは苦手だけれど、過去の歴史と近代的な設備がごちゃまぜになったこの街の風景は、私も好きだった。

 かつて屋上は、赤石紅子の縄張りだった。
 建物や場所というものがその主を失って寂しがったり、悲しんだりするかどうかは解らないけれど、彼女が死んだあの日以来、私にとって屋上はひたすらに寂しい場所になってしまった。
 名前がこれでもかというほど赤かったその反動なのか、彼女は青が好きだった。美術部員で、趣味も文科系だった彼女は、群青という名前の私よりもずっと上手に青色をそのファッションに取り入れていた。一方で、私は名前とイメージが被るのが嫌で、どこか無意識的に青色の小物などは身辺から弾いてしまう癖があった。私は、青よりも鮮烈な、赤色の方が素敵だと思っていた。果たして名前負けしていたのが彼女なのか私なのかはよく解らないけれど。
 そのため彼女の葬儀場では、黒や紫や金色の仏壇色よりも、棺桶に敷き詰められた青染めの花の絨毯が目に焼きついた。
 青色が好きな赤と、赤色が好きな青は、何の前触れもなく引き離された。


 今だからこそ多少気持ちも落ち着いたものの、あの、屋上から見える青空が好きだった奇妙にして唯一の友人を失ってから、私はしばし抜け殻のような状態になってしまったほどだった。心が伽藍洞にになってしまったかのような空しさと、現実感の無さとでだ。そしてその現実感の無さには、彼女が「死因不明の変死体」という、あまり一般的ではない末路を迎えてしまった事も絡んでいる。といっても、日本は司法解剖をする率が年間100万人の死者に対して僅か2%の「死因不明社会」だという話を聞いた事もあるし、果たして彼女の死因を正確に特定するためどれだけの事がされたのかは解らないけれど。
 いずれにしても、私が悲しんでいようが絶望していようが、はたまた泣こうが喚こうが、この街は今日も今日とてぐるぐる廻る。
 ぐるぐる廻るこの街の、その速度で涙も乾いてしまう。


 彼女の死に顔を拝んでから初めての登校で、屋上に上った。
 馬鹿と煙は高いところが好きなのだ。
 だけどあの真っ赤な煙は、本当に、冗談のように掻き消えてしまった。
 残された青い馬鹿は相変わらず、こうして高いところに上る馬鹿のままだ。

 秋の始めの空は綺麗で、突き抜けるような群青にぼやけた白が浮かんでいる。
 まったく。青は好きじゃないんだってば。

 あたしの名前とかぶってるっつーの。



  ◇



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