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論文:おっぱいについて~著者 竜胆菖蒲~

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jyakiganmatome

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 前書き、及び第一項の序盤までを省略とする



 人間とおっぱいの関係を語るにつけて、まずはその語感から切り口を開きたい。
 おっぱいとはすなわち乳房である。
 しかしながら、それをただの乳房と言い切るのはあまりにも忍びない。
 なぜならば、おっぱいとはおっぱいと呼称するからこそおっぱいなのである。
 よって、この場においてはこれが学術的論文で有るにも関わらず、それを乳房と言う医学上正式と言える名称ではなく、あくまでおっぱいという呼称で貫く事をお許しいただきたい。
 その独特の語感は、それだけでおっぱいという存在そのものを表している。
 それが日本人であるのなら、たとえ生まれてこの方おっぱいという存在に振れたことが無かったとしても、その語感だけでおっぱいの形状をイメージできるに違いない。
 「お」でまずその包み込むような柔らかさを脳裏に描き、おっぱいが象徴する女性そのものの感触的魅力について想起させる。続く「っ」で一度発音を詰まらせることは瑞々しいおっぱいを眼にしたときの、何とも言えない胸の高鳴りを表している。そして「ぱ」では張り裂けんばかりのおっぱいの張りが、瞼の裏一面に広がる事だろう。留めには、「ぱ」で広がった口を自然に閉じる直前の形状へと導いてくれる「い」でこの単語を締めくくる。その様はまさしく男性の人生を導いてくれた母の温かみを表現するかのようではないか。
 はたして日本語においてこれ以上に完成され、かつ堅苦しい人工感を感じさせない単語が存在するだろうか。
 答えは否である。
 それは言葉としての完成度だけでなく、その言葉がまさしくおっぱいを指す物であるからに他ならない。
 名は体を表し、また、体は名を表す。神聖なるものに付けられた名には、その言葉にもまた言霊が宿るのだ。
 例えば魔除けのまじないに神の名を連呼する物があるが、あれはまさに言葉が神をあらわすからこそ、言葉自身に力が宿っているのである。ならばそれがおっぱいに適用されないわけがない。
 おっぱいとは心であり、すなわち神である。
 であるからして、おっぱいとは神性を持つ言霊に相違ないと私はここに断言したい。
 それが唱えるだけで人の心を奮い立たせ、また時に癒すのは、神性を持つからなのである。
 おっぱいと言うものがおっぱいと言う名を持つ者は、必然であるとともに、また重要な意味を持っているのだ。

 しかしながら言葉の上で言葉の話をされても、それをただの言葉遊びにしか感じられないのは仕方の無い話である。
 ここでおっぱいそのものについてもっとも解り易いテーマであるだろう、おっぱいの性的側面についてお話したいと思う。
 まずおっぱいの話をしておいて恐縮なのだが、おっぱいの性的魅力のルーツを語るには尻の話をしなければならない。
 尻。それはまさしくおっぱいの前身であるが、なるほど、そう言われても納得のいく、良い響きではないか。
 尻は確かに乳房によく似ているが、それは決して偶然ではないと私は思う。
 おっぱいが尻と同じように二つの大きなふくらみと谷間を持つことは、人間が人間として今の形に進化したことによるという説があるのだ。
 太古の昔、人間が四足歩行出会ったときは、セックスアピールとなるのは大きな尻であった。
 なぜならば尻の大きさは安産に繋がり、尻が大きく立派なほどに丈夫で元気な子孫を残せると言うアピールに繋がったからである。
 しかし人間は二足歩行を開始し、そうすると尻は突き出された形から目立たない目線の下へと追いやられることになった。必然的に、尻のセックスアピールが弱まってしまったのである。
 そこで、人は眼の高さに尻の代替品となるふくらみ、つまりおっぱいを求めて進化したのだ。
 考えてみれば乳房もまた子を育むための器官。獣の乳房がおっぱいの基となったのは相応しいと言えるだろう。
 私はこの説に納得するとともに、そこに計り知れないロマンを感じた。
 この説の通りに考えるなら、まさしくおっぱいとは生命を生み出す力にあふれているに違いないではないか。
 そしておっぱいは同時に、性的愛撫の代表的な対象部位にもなっている。
 動物の愛部が主に首筋付近や局部に集中するのに対し、人間のオーソドックスな性交渉に置いておっぱいへの愛部は避けて通れないと言えるほどに一般化しているのである。
 なぜおっぱいに性感帯が集中しているのか、その答えはおっぱい尻代替論にやはり帰結するのだ。
 つまり人間が二足歩行を始めたことで、人の性交渉は正面から向かい合う形に移行したのだ。
 その結果、もっとも愛撫しやすい位置に性感帯が集中した、と考えられる。
 美しい話ではないか。
 人は相手の顔を正面から見て愛を確かめ合うからこそ、おっぱいに性的魅力を抱くのだ。
 おっぱいとは人と人とが向き合うために必要なものであったのだ。
 この話に対する反論も勿論存在する。
 即ち、「おっぱい性的快感があるから性的意味合いがあるのなら、肛門に性的意味を求めるのか」という意見である。
 私からすれば、当然肛門に性的意味はある。
 しかしその話を今ここで論議するのは話の脱線を招くために、また別の機会を設ける事としたい。

 さて、ここまで私はおっぱいの魅力に対し、あたかもその膨らんでいる事が重要であるかのように語っているように、皆様の眼に映るかもしれないが、そんなことは勿論無い。
 世間一般に置いて俗に「貧乳」と呼ばれる部類のおっぱいが存在する。
 しかし乳に貧しいとは、なんともおっぱいを侮辱している響きに思えるではないか。
 よってこの場においては俗に言う貧乳と言う単語を、あくまでも「つるぺた」、もしくは「ちっぱい」に置き換えて話を始めたいと思う。
 勿論巨乳と言う物が魅力的なのは皆様も経験上、当然の事として納得しているのだろうが、だからといってちっぱいに価値が無い等と言うのはファシズムである。
 かのニーチェはこう言った。
 「貧乳を嘲る者は、自らの心が貧乳にならないよう注意せよ。貧乳を揉みしだく時、貧乳もまたお前を揉みしだくのだ」と。
 乳房の嵩が無いと言うだけでそれを魅力が無いと片づける物の胸は、外面で乳房が豊かなように見えても、その胸の中の心は遥かに貧しいのだという教えである。
 そう、おっぱいの真の豊かさとは、その胸に抱く心で決まるのである。
 ちっぱいには夢が有る。
 それは「いつかは誰もが見惚れるような巨乳になってみせる」という大志でもあれば、もしくは「胸が小さくてあの人に魅力的に思ってもらえないのではないか」という乙女の恥じらいで有るかもしれない。
 それら、胸の中に抱く乙女心と呼べる物、撫子の心こそが真なるおっぱいの魅力を作り出すのだ。
 平らな胸を想像して見ると良い。
 そしてその胸を今まさに愛撫しようとした瞬間、自分の胸の小ささに申し訳なさそうにする女性の表情を描くが良い。
 それを眺めながら、ついに掌に触れる、控え目ながらも確かな柔らかさを持ったちっぱいの手触りと、その中心で時に巨乳のそれ以上に主張する、桜色の乳首の存在感を感じるが良い。
 その瞬間、君はまさにちっぱいに触れるだろう。
 濃厚なうまみが無くとも、さながら白身の刺身のように、ほろりと粋に主張する、ちっぱいの儚げな魅力が、宇宙の心を見せてくれる。
 その素晴らしさたるや、決して巨乳のそれに劣らないと私は確信している。
 ちっぱいを嘆く事なかれ、しかしながら奢る事なかれ。
 それは間違いなく、私たち人類にとって価値ある財産なのだ。

(以下、第9項まで続く)
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