邪気眼を持たぬものには分からぬ話 まとめ @ ウィキ 京のわんこ◆其の弐

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「坐蔵、お前、ちょいと外に出てきな」
 ある日の昼過ぎ、師匠が突然私にそう声を掛けた。
 絵のアイデアが全く浮かばず、ひたすらに広げたスケッチブックに向けてがんを飛ばしていた私は顔を上げる。
「外に? お遣いですか?」
「このあほう」
 師匠がその手に持っていた扇子で私の耳と耳の間をぺちんと叩く。
 ここは師匠の部屋である。京都は稲荷総本山、山一つ分に及ぶその広大な敷地内の南東に位置する住居区。何百という部屋が連なる、寮のような巨大な長屋の中の一室である。正規の稲荷たちといえこの総本山に毎日寝泊りしている稲荷は実は全体の六割ほどであり、残りの稲荷たちは各々担当となっている分社や、世話になっている個人の御宅、はては結婚して身を固め、専業主婦として相手と暮らしたりしている。私は僅か二回目の邂逅にして探偵の男と情事に及びそのままホイホイと嫁に嫁いでしまった稲荷を一匹知っているが、それはこの話の趣旨からは逸脱するため詳しい説明は止めておこうと思う。
 ともかく、師匠はそれ以外の六割に入る。総本山で仕事をこなす、謂わば内勤稲荷であった。師匠の部屋は他の部屋に比べてかなりの個人的改造が為されており、無数の棚が取り付けられた壁には一面に筆や絵の具や顔料が据え置かれ、一般人にはまるで混沌の海に迷い込んだような錯覚を覚えさせるのであるが驚くべきことに師匠はこれらの位置関係を全て把握し、六畳一間の空間を完全に掌握していた。
「話が全く見えませんよ師匠。お遣いじゃないのに外に出ろとは如何なる了見ですか」
 叩かれた頭頂部をさすりながら私は師匠にそう申し立てるが、師匠はどっかりと畳の上に座り込んだまま、懐から取り出した真鍮製の煙管に火を点けていた。
 師匠はその名を『槐 柘榴』という。もちろん稲荷であり、雌であり、少なくとも外見は若々しく見え、そして非常に美しく、右脚が無かった。
 銀色の毛並みに鼠色の頭髪を頂き、白でも黒でもない、灰色の稲荷である。前述した通り非常に美しく優美な外見をしているのであるが、しかしその行動や性格は外見の優美さとは全く持って対照的である。日長一日一年中いつでも同じ浴衣で過ごし、髪は伸び放題、好物は酒と肴である。ずぼらで怠惰、およそ女性的な面は皆無であり、優美さと愚鈍さが一つ所に同居しているような、掴み所の無い御方だ。そういえば「柘榴」の花言葉は『優美』と『愚かしさ』である。
 しかし、こと女性が苦手な私にとっては非常に親しみやすい相手であり、そして何よりも、私は師匠の描く絵が好きなのであった。

 師匠が煙管を燻らせている間、話しかけても反応が帰ることは無い。そのため私は師匠の吐き出す煙に咽つつ、次の言葉を待っていた。
「書を捨てて街へ出ろ、ってのは誰の言葉だったっけな?」
 師匠が突然呟き、私はその台詞で大方の師匠の狙いを察した。
「つまり師匠は、俺に外に出て気分転換してこい、と言いたかったんですか? ちなみにそれは寺山修司による評論で、正確には『書を捨てよ町へ出よう』です」
 また師匠が私の脳天を叩いた。
「うるさいねぇ、どうだっていいだろうそんなもの。今のあんたを見てたら、俺まで気が滅入っちまいそうだったんだよ」
 師匠の一人称は『俺』である。
 私は脳天の鈍痛に耐えながら、しかしこの師匠の不器用な気遣いにも気付いていた。確かに、ここ数日間の私ははっきり言ってスランプである。紙を前にしても全く筆は進まず、そもそも筆を持ちたいという衝動が起こらない。私は大体一ヶ月周期でこういったスランプが起こるのだが、今回はかなり厄介なものに思えた。挙句の果てにはこうして自分の部屋からもそもそと抜け出し、師匠の部屋で何かのパルスを受け取ろうとしていたのであるが、それも失敗に終わった今となっては確かに外へ出て気分転換というものは良いかもしれない。
「まあ、健全なオトコならここらで一発女とやったりでもするんだろうがねえ」
「ぐっ」
 私は女性、雌、すなわちオンナというものが苦手である。
 自分でもそのはっきりした原因は解らない。怖いものは怖いのだ。以前、何とかその原因を自己分析によって解析しようと試みたが、「喰われそう」というよく解らない結果に落ち着いてしまった。
 だって怖いじゃないか。男に覆い被さり大口を広げ、そして一物に喰らいつく。咥え込んだら離さずまるでスッポンである。
 そういえばヴァギナ・デンタタという精神用語も存在する。元々は神話や民話の分類だったそうであるが、かのジークムント・フロイトは男性の持つ「去勢不安」つまり性交の最中に女性に飲み込まれたり、挿入したペニスを去勢されてしまうかも知れないという無意識的な恐怖に関係していると述べた。またこの恐怖のもとを、膣への入り口である女性器の形やあり様が口のようだと連想されることにあるとする見方もある。さる南方熊楠によれば、アイヌの伝承には「昔、最上徳内が探検し発見したメノココタンという島の住民は全員女性で、春から秋にかけて陰部に歯が生え、冬には落ちる。最上が「下の口」を検めたところ、刀の鞘に歯形がつく程度の咬力があった」というものがあるという。なんという恐ろしい話であろうか。
 しかしまあ、平たく言ってしまえばつまり、私はオンナが苦手なのだ。
「坐蔵、お前いい加減に善い人の一人や二人作ったらどうなんだい。その歳で“まだ”なんだろ?」
「し、師匠に言われる筋合いはありませんっ」
「ほう、俺に楯突くか、いい度胸だ」
「ちょっと、師匠、あまりこっちに寄らんで下さい、怖いので」
 師匠が上半身を突き出し私の方へ顔を寄せると、元々肌蹴ていた浴衣が更に肌蹴てその巨大な乳房が露になる。私は女性の身体にくっついている脂肪の塊に対してこれといって興奮はしないが、しかしかといって直視しては犯罪的絵面になってしまうためにこういった場合は速やかに視線を逸らす術を身に着けていた。
 師匠が私の顔面へ紫煙を吐き出しつつ、にやにやと笑みを浮かべる。
「お前とこの小間使いはどうなんだ。仲善いんだろう?」
「は?」
「玄守の奴だよ。よく一緒に珈琲啜ってるじゃないか」
「ああいや、それは確かにそうですが。でもあれは、折角淹れてくれた珈琲を一人で飲むのも悪いかなと……」
「このあほう」
 脳天に扇子。
「お前は何よりも他人の心根ってのが解ってないんだよ。だから描く絵も全部が全部独りよがりなのさ」
 そう言いながら、師匠は上半身を引っ込めて胡坐をかいた。硬い音が響き、私の目の前に木製の脚が現れる。
 師匠の右脚は、膝下から無くなっている。理由は解らず、恐らく尋ねても答えてはくれないだろう。私としても尋ねる気は無い。しかし私は師匠の右脚を見る時、このひょうきん者な師匠にも他人には語らない過去があるのだと、自分でもよく解らない不可思議な思いに囚われるのだった。
「は、はあ……」
「まあいい。とにかくほれ、さっさと出てきな。俺はちょいと一眠りしたいんだ。お前が横でぐだぐだやってると眠れない」
 そう言うと師匠はごろんと引きっ放しになっていた布団の上に転がる。わが師匠ながら堂に入ったぐうたらっぷりである。しかしそれでも尚、只管に堂々としていられるのは、やはりそれこそ師匠が師匠たる所以だからだろう。
 こうなってしまっては、最早師匠と意思疎通を図るのは動物園でライオンと会話する以上に困難である。私はここに留まって師匠に怒られても嫌なので、自分のスケッチブックと鉛筆を纏めると早々に立ち上がり、着流しについた埃を払い落とした。
 ふすまに手をかけた時、不意に後ろから声が掛けられる。
「坐蔵、お前、御苑まで行ってきなよ」
「はい?」
 私は思わず手を止めて振り返る。御苑とは京都御苑の事であろうが、しかしここ総本山からはかなりの距離がある。気分転換にしては仰々しい。しかしその事について問い詰めようにも既に師匠は目を閉じてしまっており、あと数分もすれば夢を見始めるだろう。
 私は師匠に気付かれないように小さく溜息をつくとふすまを開け、ごろりと転がった師匠の背中に向けて一礼してから部屋を後にした。


◆続