邪気眼を持たぬものには分からぬ話 まとめ @ ウィキ

ミネルヴァの梟 4.

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jyakiganmatome

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ミネルヴァの梟 

4. 第四夜


    ◆◇◆


 ショッピングセンターの、西端。ガラス張りの天井のせいで、空まで大きな穴が空いているように見える。最も、この悪夢の中で見える空は、いつでも星一つ無い真っ暗闇だけど。
 そしてその巨大な縦穴の底。立ち止まった私の、十数メートル前方。
 そこには異形がうずくまっている。
 ここからは遠くて、ライトが無ければ、私の右眼でもまだシルエットしか見えない。それは例えるなら巨大なアドバルーンのように見えた。大きなまん丸い物体が、吹き抜けホールの一階の床に、まるでふわふわと浮かぶようにして揺らめいている。一体どういう原理で浮いているのか、まだ分からない。ひょっとしたら、本当に風船みたいにガスが詰まった奴なのかも。

 私は歩き出す。とにかく、あいつを殺さなくてはいけなかった。私が目覚めるためには。
 背後には、もう逃げ場は無い。さっき渡った大きな穴には鉄骨がまだあったけど、戦いになればあれを渡って逃げる事なんてできるはずない。私自身、もう二度とあんな場所はごめんだった。つまり今の私は、巨大な鍵穴状の空間に捕らえられて、大きな怪物との決闘を強いられているといえる。
 無意識のうちに、私はナイフを強く握り締めていた。

 やがて異形の姿がはっきりと見えてくる。
 そいつは確かに風船のような形だった。だけど、その外見はとても風船だなんて可愛げのあるものじゃなかった。
 真っ黒な身体に、醜く膨れ上がった頭部と、それに不釣合いなほど細い首と小さな胴体。口も鼻も眼も無いのっぺらぼうなその頭の直径は、ゆうに5メートル以上はあると思う。ぬらぬらと光りながら血管を浮かび上がらせるその頭がどうやって支えられているのかと不思議に思っていたら、何のことは無い、3階の通路から4本のロープが伸びて、それがそいつの頭に突き刺さった杭に繋がっていた。こいつは風船みたいな見た目だけど、その特性は風船とは真逆だ。自分の頭の重さを自分だけで支える事ができないから、高い所からロープで吊ってもらっているんだ。
 私はゆっくりと、その間にもどうやって攻撃すればいいかと考えながら、その風船頭に近付く。

 その時だった。
 風船頭が、眼を開けた。

 のっぺらぼうだと思っていた頭は、実はのっぺらぼうじゃなかった。
 丸い頭は、その面積のほとんどが、目玉で覆われていた。
 今まではずっと、まぶたを閉じていたんだ。そう、それは風船じゃない。光る目玉が無数に張り付いたボール。まるでミラーボールだった。
 一斉に開いた大小様々なその眼が、やっぱり一斉に、私を見た。

 ざわっと鳥肌が立った。
 気持ち悪いだとか、いやな感じだとか、そういう問題じゃなかった。


 そいつの視線はまるで、毛虫が私の全身に卵を植えつけて孵化し続け、いくら払い落としても次から次へと毛虫が生まれて永遠に終わらないような――
 眠ろうとして布団に入って、ふと布団を捲ったら無数の蛆虫が裏側に張り付いていたような――
 鏡を見たら、自分の顔面に無数のできものが出来て、じゅるじゅると膿を溢れさせているような――


 ――そんな、生理的な、本能的な嫌悪感を、私に与えた。

 私は瞬間的に、頭に血が上った。
 突然、許せなくなった。
 こいつがここに、私の目の前に存在しているという事実が、どうしても許せなくなった。
 それは、真夜中にゴキブリを見つけたとき、『殺さなければいけない』という衝動にかられるような、そういう感覚。
 殺すまで、安心して眠れない。そんな感じ。

 そう。
 いつも、そう。
 私が、怪物たちを殺す理由って、実は目を覚ましたいからだけじゃ、ない。
 ただ、殺したい。
 ただ、そいつの存在が、許せない。
 理屈を並べても、やっぱりだめ。
 嫌いなものを排除したい、という生き物の本能。
 私は結局、『衝動』で怪物を殺すんだ。


     ◆◇◆


 私はとにかく、走って異形の懐に飛び込もうとした。
 あれだけ頭が大きいし、それは天井から吊られている。一度頭の下にさえ入ってしまえば、あとは首でもなんでも切り落とすだけだった。
 ナイフを握り締めて、私は一気に間合いを詰める。

 すぐに甘かった事を知った。
 暗闇の中から、何かが飛来して、私の頭をかすめた。私はそれに気付いて、咄嗟に地面に転がる。次の瞬間、二撃目が正確に、さっきまで私の頭があった場所を通過した。
 それは異形の腕だった。暗くて、更にずっと地面に横たえられていたから気が付けなかった。その腕は数メートルの長さがあり、まるで鞭のようにしなって私の身体を抉ろうとしたのだった。
 私はすぐに立ち上がって、また走り出す。腕が今度は、上から叩きつけられようとしていた。真っ直ぐ走らずに横に飛びのいて、なんとかそれを交す。
 今の回避だけで、私は息が上がっていた。予想外だった。こいつは、見た目以上に素早い。衝動に任せて飛び込んだ事を後悔した。
 だけど立ち止まっていては腕の一撃を喰らうし、それは今更逃げに転じても同じことだった。私はとにかく、怪我を覚悟で怪物の小さな胴体に向かって走る。
 最後の腕の一撃を、飛び込むようにジャンプしてやり過ごした。注意してさえいれば、大振りな攻撃だ。避ける事はできる。しかし地面には砂利や砂があり、スライディングした私の膝や肘の皮はべろりと剥けて、血が流れた。痛いけど、そんな事を言っている場合じゃない。
 私は目の前に来た怪物の胴体……そこだけがまるで女性のようにしなやかで美しいそれに向けて、渾身の力でナイフを突き出した。
 駄目だった。ナイフは僅かに突き立ったけれど、奥まで届かなかった。
 硬い。想像以上だった。これじゃあいくら斬りつけてもとても殺せない。私は戦慄する。

 その時、私の真上でふらふらと揺れていた頭部についた目が、一斉に閉じた。
「逃げろ。」
 私の無意識が叫んで、私はそれに従った。ナイフを引き抜くと、必死に飛びのいた。

 怪物の頭が落下してきた。
 ロープの端は、何か巻取り機械のようになっていたのだろうか。ロープが突然緩んで、怪物の頭がその重さに任せて落ちてきた。もちろん、頭の下に居た私を押しつぶすために。
 足の先が、怪物の頭に触れた。間一髪、私はまだ生きている。剥けた皮の下の肉に更に砂利が食い込んで、私はその痛みに唇を噛んで耐える。 

 だけど、安心はできなかった。
 怪物が、今度は口を開けた。頭の表面を覆う目、その隙間を縫うようにしてすうっと切れ目が入ったかと思ったら、それが開き、紫色の口内と巨大な舌と、白い歯が見えた。その口はまるで人間の口にそっくりで、そのせいで私は更にそいつに嫌悪感を覚えた。
 舌がこちらに伸びてくる。まずい。このまま舌に絡め取られたら一巻の終わりだった。私は口の中に引き込まれて、あの歯で噛み砕かれてしまうことだろう。痛い痛くないはともかく、少なくとも生きていられない事だけは確かだった。一度でも舌に捕まれば終わりだ。
 私は、一瞬だけ逃げようとした。
 だけど同時に、ある予感が走って、私は動きを止める。

「――――っ」

 次の瞬間には、私は動いていた。
 立ち上がり、ナイフを振りかざして、迫ってくる怪物の舌に突き立てた。

 絶叫が上がった。
 やっぱりだ。
 こいつ、固いのは黒い部分だけだ。身体の表面の、皮膚だけ。口の中は、まるでレバー肉みたいに柔らかい。多分、目玉もそうなんだろう。落ちるときに目を閉じたのは、柔らかい部分が傷つかないようにするためだったんだ。

 更にナイフを突き立てようとした私を、しかし強烈な衝撃が止めた。
 今度は、腕だった。横薙ぎに払われた怪物の腕が、私の身体を弾き飛ばした。私は吹き抜けホールの壁際まで飛ばされ、動いていないエスカレーターの手すりに叩きつけられた。ばきんと身体のどこかで音がした。少し遅れてやってきた鋭い痛みに目を開けると、左手の手首が折れているみたいだった。小指の方向に、90度以上かくんと折れ曲がって、ぶらぶらと揺れている。
 ぎゃぎゃぎゃ、と、嫌な機械音がしている。見てみると、怪物の頭がゆっくりと天井へ引き上げられるところだった。やっぱり、この吹き抜けの3階部分には何か巻き取り機械があるのだろう。どうやらそれも、怪物の意思で動いているらしい。だとしたらさっきのチャンスを逃がしてしまったのは、失敗だった。恐らくもうあいつは頭を落としたりなんてしてくれないだろう。弱点が知られてしまったからには、あいつはそれを守ろうとするはずだもの。もう攻撃はできない。

 ……いや。
 一つだけ、方法があるかもしれない。

「ロープ……!」

 私は立ち上がり、痛む身体を引き摺って、止まったエスカレーターを上へと駆け出した。
 目指すは3階。
 ロープの出所。
 向こうから落ちてくれないなら、こっちから落っことしてやる。
 ロープを切れば、あいつは自分の頭を自分で支える事ができずに、その頭を地面に落とす。あの身体の構造からして、きっと腕だって振り回せなくなる。
 あとは下まで降りて、ナイフを突き立てる。口を開けてくれないなら、目玉にだ。何回でも、何百回でも、突き立てる。死ぬまで、何度でも。
 見てろ、くそったれ。


 私はエスカレーターを上がりきった。だけどそのまま登ろうとして、足止めをされる。こっち側のエスカレーターは、上から崩れた瓦礫で塞がってしまっていた。ここは通れない。上に行くには、ドーナツ型になった2階通路の反対側まで行かなくちゃいけない。私はエスカレーターを後にして走り出す。
 刹那、私の目の前の、ガラス張りされた落下防止の手すりが、粉々に砕けた。
 何かと思ったけれど、考えるより先に、私は走った。これはほとんど勘だったけど、次の瞬間には私が居た部分のガラスが砕けた。運が良かった。
 走りながら下を見ると、怪物がその長い腕を大きく振りかぶっていた。
 そうか、あいつ、瓦礫の破片をこっちに投げつけたんだ。
 気が付いた時には怪物の腕から、欠片と呼ぶにはあまりにも大きすぎる巨大な瓦礫が飛んできた。恐ろしい速度だった。とてもじゃないけれど、目で見て避けられる速度じゃない。
 今度の狙いは正確だった。
 私はとにかく伏せた。床に伏せていれば、あいつよりも私の方が位置が高いんだから、当たる可能性はかなり低くなるはずと考えた。
 予想は当たっていた。だけど少しだけ、伏せるのが遅かったらしい。投げつけられた瓦礫から一本鉄筋が飛び出していて、それが私の背中をかすめた。
 激痛に、思わず声が上がった。
 棒状に飛び出していた金属は、まるで刃物のように私の背中の肉を鋭利に抉り取って、闇に消えていった。伏せた私の体の下に、生暖かい液体が溜まり始める。私の背中から流れ出た血だった。ひどい痛みが脳を焼く。まるで背中に焼けた鉄棒を突き刺されたような痛みだけど、なのにその痛みは不思議と冷たく鋭いのだった。
 私はそのまま伏せていた。こうしていれば、怪物から私は死角になる。ほふく全身でいい、ゆっくりエスカレーターまで進んで、そしてそのままロープを切り落とす。私はじりじりと、這うようにして進み始めた。さっき剥がれた皮膚が、地面に引き摺られて更に私の肉から剥がれ落ちる。守るものの無い無防備な肉には、細かい石や砂利が無数に食い込んで、少しずつそれを抉った。
 痛くて痛くて頭がおかしくなりそうだった。こんなに痛いのに、どうしてまだ私は狂ってないのかと思った。一歩進むたびに泣き声が喉の奥から漏れた。私はぼろぼろ涙を流しながら進み続けた。

 その時、目の前に巨大な瓦礫が落下した。
 またひとつ、今度は後ろに。
 次は、頭の横だった。
「……!」
 気付かれた。
 あいつは直接私を狙わないで、一度上に向けて投げ始めたのだ。野球のフライみたいに。床が邪魔して届かないから、一度上に上げてから私を狙っているんだ。狙いこそ適当だろうけど、数が多すぎる。私に当たるのは時間の問題だった。頭や身体じゃなくてもいい、足にでも当たれば、もう私は動けなくなる。あとは出血多量だろうが、それとも石が頭を潰すのだろうが、どっちにしろ殺される。

 私は走り出そうとして立ち上がり、転んだ。
 痛みのショックで脚も腕もびくんびくんと痙攣している。立ち上がろうにも、ちゃんと言う事を聞いてくれない。きっと、出血も影響してる。
 それでも私は進もうとした。手で床を引っ掻きながら、落ちてくる瓦礫からとにかく逃れようと、エスカレーターの下まで逃げようと、必死に走った。ナイフだけは離さないように、折れた左手で床や壁や瓦礫を掻いて進んだ。爪が剥がれ落ちて、指先の骨が見えたころ、私はエスカレーターの下に逃げ込んだ。ここなら上からも横からも、瓦礫で狙う事はできない。つかの間の安全地帯のはずだった。

 私は腕や脚の痙攣が止まるまで待って、エスカレーターを上り始めた。
 もう、私は何も考えていなかった。
 痛みのせいかのか、出血のせいなのかは分からないけど、とにかく何も考えられなかった。

 頭の中にはただひとつ。
「殺さないと」。
 それだけだった。

 殺さないと。殺さないと。
 目を覚まさないと。

 狂っちゃう前に。



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