邪気眼を持たぬものには分からぬ話 まとめ @ ウィキ

ミネルヴァの梟 3.

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jyakiganmatome

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ミネルヴァの梟 

1. 第三夜


    ◆◇◆


 歩き出してすぐに、私は愕然とした。
 床が無い。
 普通、ショッピングセンターといったら、つるつるした綺麗な床がずっと続いているはずだ。もちろん、この悪夢の中で綺麗な床なんて贅沢は言わないし、さっきからざらざらべたべたした赤黒い床を歩いてきた。だけどまさか、床自体が無くなっているなんて思わなかった。
 いや、実際には、予感はあった。今までも何回か、こうして建物が原型をとどめていない事はあった。でも大体、それは床が半分崩れているとか、壁が崩れて進めないとか、その程度だった。でもこれは……

「ああ……あれだ。カイジの鉄骨渡り」

 目の前の光景を見ながら、思わずぼやいてしまった。
 私の目の前には、ショッピングセンターの床が完全に崩れ去って出来た大穴と、その端から端までを繋ぐ、寂しい鉄骨だけが横たわっていた。ちょうど私の目の前から、はるか遠い大穴の対岸まで、本当に橋みたいに。
 とてもこんな所、渡る気なんてしない。穴は底が知れないし、何よりただでさえ足元が暗くて危ないのに。どこか回り道を探そう……そう考えて、私は踵をかえした。

 すぐに希望はかき消された。2階も3階も、先へ進むための通路は全て崩れていた。まるで建物自体が大きな腕で横薙ぎに削り取られたみたいに。しばらく階段やエスカレーターや、他に進む方法を探してみたけれど、どうやってもあの鉄骨を渡る以外の方法が見つからない。漫画やアニメなら都合よく通気ダクトでもあるんだろうけど、これは悪夢だもの。夢も希望もあるはずない。
 渡るしかない。
 私は溜息をついて、鉄骨のスタート地点まで戻った。





     ◆◇◆


 一歩だけ、鉄骨の上に足を置いてみる。鉄骨は崩れた床の中から直接生えるように突き出していて、私が乗っただけじゃ崩れそうにない。横幅は、私の足の幅の、4倍くらい。簡単に落ちはしないだろうけど、余裕がある太さじゃなかった。それに、表面がぬるぬるしている。この鉄骨の上にも床と同じように、得体の知れない汁が降り注いでいた。うっかりすれば足を滑らせてしまいそう。
 私はナイフで、着ているワンピースのスカート部分の裾を、細長く切った。それをナイフを握った右手にぐるぐると巻きつけて、ナイフが手から離れないようにする。唯一の武器を落としたりしないように、念のための配慮だった。
「……」
 一度穴の縁に立って、中を覗き込んでみる。
 闇というよりは、「暗黒」とでも言った方がよさそうなほどの、暗闇だった。ライトで底が見えるかと思って照らしてみたけど、結局無駄だった。
 落ちたらどうなるんだろう、と思って、足がすくんだ。
 落ちたら死ぬかな。死ぬだろうな。運良く足から落ちて生きていたとしても、下半身はぐちゃぐちゃだろう。どっちにしても、夢から醒めないまま、ゆっくりと死んでゆくことになる。どっちも私は、まだごめんだった。
 だけどここで立ち往生を続けていても、私は永遠に目覚める事はできない。いくしかなかった。

「ふう……」
 一度深呼吸する。肺の中に生臭い空気が流れ込んできたけど、これで少しだけ落ち着いた。気がする。
 鉄骨の上に、右足を乗せた。
 ぺちゃ、という音。
 そろりと体重をかける。足の下の液体が押し出されて、少し流れた。
「ん……」
 右足が滑らないのを確認して、左足を上げる。それをゆっくりと右足の前方に置いた。
 また、ぺちゃりという音。私は細く息を吐き出す。何とかなりそうだった。ライトでしっかり進行方向を確認していけば、最後まで渡りきれるはず。自分を励まそうと、そう呟く。
 右足を前に出す。
 私はゆっくりと、本当にゆっくりと、むき出しの鉄骨の上を歩き始めた。


 中ほどまで来ただろうか。
 歩みはとても遅いけれど、順調といってよかった。本当は急いで渡り切りたいけど、急げば死ぬ。左手のライトで鉄骨の表面を照らしながら、私は一歩ずつ、確実に足元を確かめながら進んでいく。
 そうして少しだけ視線を上げると、大穴の向こう岸が見えてきていた。気が付けば、もう三分の二ほどは進んでいたようだ。私はその進み具合に少しだけ安心した。

 そのときだった。
 また、鳴き声が聞こえた。
 さっきよりもずっと近く大きい、おおおおお、という声。
 静寂の中で突然響き渡ったその声に、私は思わずびくりと身構える。

 それがまずかった。
 驚いて身を硬くした瞬間、足元が震えて、私の左足が鉄骨の上で滑った。

「わっ!」

 とにかく、落ちてはいけない。
 私はそれだけ考えながら、咄嗟に身体を、腕を、鉄骨に引っ掛けようとした。
 滑った私の左足は闇に吸い込まれるようにして引っ張られる。バランスが崩れたせいで、右足まで釣られて鉄骨から外れる。私は闇に向かって落ちていこうとする足を、身体全体を使って止めた。

 私は鉄骨の上に、お腹から落ちた。
 幅30センチくらいの鉄骨が、私の腹にめりこんだ。内蔵がくしゃりと潰れる感触がした。肺から全部の空気が押し出されたと思った直後に鋭い痛みを感じ、一瞬遅れて、私はその場で胃の中身を全部吐いた。同時に、両脚に生暖かいものを感じる。痛みと衝撃で、私は失禁していた。
 上からも下からも汚物を吐き出す私の視界に、小さくなっていく光の点が見えた。
 ライトだ。
 今ので、私はライトを落としたらしい。儚い光点がみるみる小さくなっていく。右手のナイフは布切れで手に巻きつけていたから、辛うじてその場にとどまっていた。
「……」
 私はもう一度嘔吐して、そのせいで落っこちかけて、慌てて手を鉄骨にひっかけた。そのまま、何とか鉄骨の上に身体を持ち上げる。もう立ち上がる気にはなれなかった。鉄骨を抱くような形で、枝を這う芋虫のような格好で、私は朦朧とした意識を先へ進ませる。
 ずるりと前へ進むたびに、服や身体や顔に、赤黒い、腐った肉から染み出した汁のような液体が、べったりとついた。気持ち悪い。鼻の奥がまだ生臭い。濡れた下着は不快だ。情けなくて涙が出た。大声で泣きたい。だけど泣いてる暇なんて私にはない。進まないといけない。
 だって進まないと、目が覚めないんだもの。
 ちくしょう。
「ちくしょう」
 無意識の内に私は呟いていた。ちくしょう。でもこれが誰に対する怨嗟の声なのか、私には分からない。ちくしょう。とにかく悔しい。膿に塗れながら、それでも芋虫のように進むしかない自分が悔しい。
 この怒りを、憤りを、どこへ向ければいいんだろう。
「はっ……は……」
 気が付くと、鉄骨は終わっていた。
 私は喜ぶ気にもなれないまま、鉄骨から平面の床へと這い上がった。右手の布切れを乱暴に解いて、両手を突いて立ち上がった。ずっと角ばった鉄骨にしがみついていたせいで、体中が軋んで、痛んだ。お気に入りの黄色いワンピースは、もう元の色なんて分からないくらい汚れていた。
 眼を凝らす。
 その先に、居た。
「はあ、は、はぁ……」
 円柱状の、大きな広い吹き抜け。その真ん中。
 まだ遠すぎて、どんな奴なのか分からない。だけど確かに、そこでは闇が蠢いている。私の右眼に、ぐねぐねと揺れるシルエットが映った。
 あいつだ。
 あいつが私の殺すべき、異形だ。

 私は尿に塗れた下着を脱ぎ捨てた。ワンピースのできるだけ綺麗なところを選んで、そこで太股の汚れを拭った。腕で乱暴に顔を拭いて、床に置いておいたナイフを拾って、強く掴んだ。
「……」
 怒りを、憤りを、向ける相手?
 そんなの、考えるまでも無い。
 だって……

 この悪夢の中で、私が怒りをぶつけられる“もの”は、たった一つしか無いんだもの。
 私はナイフを握り締めて、異形へ向かって歩き出した。
 殺してやる、と呟きながら。
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