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■序章
ヴァザーリの通称『芸術家列伝』が書かれたのは、16世紀中頃のことであるが、この著作の正式の題名は「最も優れた画家、彫刻家、建築家の伝記」というものである。しかしヴァザーリは、画家、彫刻家、建築家を別々のものと考えていたのではなく、この三者をひとまとめにして「デッサン(ディゼーニョ)の技芸家」と呼んでいた。すなわち、「デッサンにもとづく技芸に従事する者」という意味である。ここで彼の言う「デッサン」とは、現在そう用いられているのと同じように「素描」という意味であることはもちろんだが、そればかりではなく、「創意」「意匠」「構想」という知的・精神的活動をも含んでいる。

今日でも、イタリア語のディゼーニョは、「デッサン」と「デザイン」と両方の意味がある。

中世においては、絵画や彫刻は、手を使ってする仕事であるゆえに、「手業の諸芸」に属するものと考えられており、そのために、算数、幾何、天文、文法など、身体を労することのない精神活動である「自由学芸」より一段と劣った、いわば賤しいものとされていた。それに対して、絵画彫刻は「自由学芸」と同じように「高尚」な活動であり、したがって画家や彫刻家は、たとえば人文主義者などと同じように社会の尊敬を得るに値する存在だというのが、15世紀ルネッサンスの芸術理論家たちが主張したところであった。

「芸術家」たちのこのような自覚、さらに言え矜持を端的に示すものとして、この時代から、画家、彫刻家が作品のなかで自己の存在を主張するようになったという事実が挙げられる。具体的には、署名および署名と同じような役割を果たすものとしての自画像の登場である。

他のあらゆる分野におけると同じように、ルネッサンスとは美術においても、個人の力量が大きく問題にされるようになった時代であり、その意味で人間中心主義の時代であった。そしてそれが社会に受け入れられるようになったということは、優れた芸術家の力量を認め、評価し、その芸術家に活躍の場を与える保護者がいたことを意味する。

「パトロン」とは、単に芸術作品の経済的、物質的担い手というだけでなく、芸術家を理解し、作品を評価して、芸術家の支援を与える人びとのことである。

■Ⅰ パトロンの登場
15世紀の前半、特にメディチ家が実質的な支配体制を打ちたてる以前の時期においては、芸術と結びついた重要な公共事業を経済的に支えたのは、多くの同業者組合であった。

フィレンツェは、君主制を嫌って共和制を古くから伝統としてきたが、市民みんなが参加するその政治の組織を支えていたのも同業者組合である。

大変興味深いのは、各種の組合のあいだに、単に商売上だけでなく、芸術のパトロンとしての社会活動の面においても、強い競争意識が見られることである。その結果、有力な組合は、争って芸術活動、文化活動に力を入れるという傾向が生じてくる。

15世紀のフィレンツェにおいては、同業者組合のみならず、個人のパトロンが大きくクローズアップされてくる。初期ルネッサンスの花の時代のフィレンツェを実質的に支配したメディチ家が、また芸術保護者として大きな役割を果たしたことはほとんど伝説的になっているが、メディチ家だけにかぎらず、多くの家族が、芸術の活動にさまざまな形で大きな援助を与えた(もちろん、その芸術活動というのは、教会堂の装飾や祭壇画の制作など、つまり、宗教芸術が大部分であり、したがって今日「芸術保護」と呼ばれているものも、当時の人びとにとっては、純粋な芸術愛好心に由来するものというよりも、むしろ信仰心の表れであったことは忘れるわけにはいかない)。

ローマの共和制の後継者であることに誇りと自負を抱いていたフィレンツェにおいては、君主や貴族は存在せず、彼ら富裕な市民たちが事実上の権力者であった。国王や領主の宮廷が芸術保護の中心となったフランスやイギリスと違って、自らの才覚と器量によって財を成した経済界の実力者たちが社会の中心であったと同時に、また優れた文化の担い手であったところに、イタリアの他のどの都市よりも早くルネッサンスの花を開かせた近代都市フィレンツェの面目があったと言ってよい。

フィレンツェの商人たちは、商業活動と金融活動によって、思う存分その蓄財の才を発揮した。今日の銀行や商社の行っていることと実質的にはほぼ同じような経済活動を、彼らはすでに国際的な規模で展開していたのである。
もちろん、今日の銀行と実質的に同じと言っても、一つだけ大きな違いがあった。それは、中世以来の教会法の制約によって、利子をとって金を貸す行為が禁じられていたことである(→もっぱらユダヤ人が金貸しに従事したのは、そのためである)。

フィレンツェの銀行家たちは、「為替手形」の巧妙な利用によって、実質的にはお金を貸して利子をとるに等しい事業をしていたのである。

かつて中世において広く一般的であった金儲けに対する一種のうしろめたさはほとんどなくなり、銀行家や商人たちは、堂々と利益の追求に専念するようになっていたのである。

『芸術家列伝』の作者ジョルジョ・ヴァザーリは、『芸術家列伝』に付した序論の中で、芸術は、ギリシア、ローマの古代に豊かな発展をとげたが、その後蛮族の進入によってすっかり衰え、チマブエ、ジョットの時代になってようやく、神の恵みを受けたトスカナの地に再び甦ってきた、と説いている。 後に「ルネッサンス」という概念に定着するようになるこの古代の「再生」という考え方は、ここではじめて、明確なかたちで公に表明されたと言ってよい。

20世紀にはいってから、このようないわば古典的なルネッサンス観に対して、さまざまの疑問や反論が提出されるようになった。

「中世からの反撥」…中世は決して文化的にそれほど劣っていたわけでもなければ、暗黒時代だったわけでもなく、それどころか、多くの豊かな文化の花を生みだした時代であり、普通にルネッサンスの文化と呼ばれるものも、多くの点で中世の遺産を受け継いでいるというのが、「中世からの反撥」論の主旨である。

「マニエリスムの再評価」…かつて、ブルクハルトの時代においては、16世紀後半は、ルネッサンスの末期ないしは衰退期と考えられていたが、20世紀になってから、「マニエリスム」はそれ以前の「ルネッサンス」とも、それ以後の「バロック」とも別の、特異な精神状況にもとづく独自の様式であるとする主張が強く打ちだされるようになってきた。

かつては二百年ないし三百年に及ぶ長い栄光の時代と考えられていた「ルネッサンス」も、今では「ゴシック」と「マニエリスム」に前後からいわばはさみうちされて、著しく短縮させられる傾向を見せているのである。
枢機卿ジュリアーノ・デルレ・ロヴェレが教皇ユリウス二世になったのは、1503年11月のことである。

■Ⅱ 栄光のパトロン
ロバート・ローゼンプラムが指摘するように、≪レオナルドの死≫は、新古典主義の時代にほとんど流行のように数多く描かれた「死の床の英雄」のテーマのヴァリエーションであり、もしそうであるとするなら、そこことは逆に、芸術家が「英雄」としてクローズアップされるようになってきたことを物語るものである。

フランス
フランソワ一世こそ、統一国家としてのまとまりを示したフランスの国王たちのあいだで、芸術のパトロンとしての名にふさわしい最初の人であり、そのことは、フランス人たちのあいだで広く認識されていた。

フランソワ一世の在位期間は、1515年から1547年まで、つまり16世紀前半の三十年あまりで、この時期は、フランスが、文化的線先進国であったイタリアの諸都市のルネッサンス文化を積極的に取り入れようとした時期である。

フォンテーヌブロー派とういのは、一口に言えば、イタリア・ルネッサンスの強い影響の下にフランスの宮廷に花開いた優艶華麗な芸術の一派で、もう少し広い視点から見るなら、16世紀にヨーロッパ全体を風靡したマニエリスムのフランス版とも言うべきものである。それがフォンテーヌブロー派と呼ばれるのは、フランソワ一世がパリの南郊にあるフォンテーヌブローの町に新たな居城を定め、その宮殿の造営と装飾に積極的に芸術家を起用したからである。

肖像画というのは、記録や記念の意味と同時に、多かれ少なかれ宣伝の役割をつねにもつものである。そして、肖像画がこの時代以前にもまったく描かれていなかったというわけでもない。しかし、その後のヨーロッパの多くの宮廷絵画がそうであるように、もっぱら君主の権威と徳を称揚し、宣伝するための絵画が生まれてくるのは、まさしくフランソワ一世の時代なのである。

君主の徳と権威を宣伝するための絵画というのは、16世紀における新しいジャンルであったと言ってよい。

マキアヴェリが主張したのは、君主にとって必要なことは、優れた徳目をそなえていることではなく、(実際にはそうでなくても)優れた徳をもっているように見えることであった。つまり、実体以上に「外観」が大切だというのである。そのために、多くの芸術家たちが動員された。

肖像画を、それも宣伝のために描かせるのなら、できるだけ優れた芸術家に依頼したいと望むのは当然のことである。だが腕の良い芸術家は注文に追われて、簡単には引き受けてくれない。そこで君主の方では、これはと思う芸術家に厚遇を与えて、その奉仕を確保しようと試みるようになる。「宮廷人」としての芸術家が登場してくるのは、そのためである。

イタリア
バロック芸術も、特にその発祥の地と言われるイタリアの宗教芸術においては、できるだけ多くの一般の人びとに訴えかけることを目指していた。

ヴァチカン宮殿のラファエロの壁画は本来教皇およびその周囲のかぎられた人びとのためのものであり、ミケランジェロの壮大な天井画も、もともとは観光客のためではなく、教皇個人の礼拝堂を飾るために描かれたのに対し、バロック芸術を代表する教会装飾の大天井画は、本質的に民衆強化を目的としていた。高度に人文主義的教養をそなえたかぎられた知識人たちのためばかりでなく、もっと一般的なレベルで「楽しませつつ教える」というのが、バロックの基本的な理念のひとつだったからである。

トレント宗教会議(1545-63)…プロテスタントとカソリックの両派を融和させるために開かれた宗教会議

「われわれの<救い>の神秘の物語を絵画その他の手段で表現することにより、民衆が信仰の条項をたえず思い起こし、心にかけるよう教化育成すること」という宗教会議の決定は、バロック美術の発展をうながす大きな原動力となった。プロテスタンティズムが、その厳しい禁欲的態度ゆえに絵画や彫刻に強い敵意を示したのに対し、この時期のカソリックの聖堂がいやが上にも豪華に、派手に飾られたのは、そのためである。

バロック芸術は、教会の大がかりな保護の下に発展していった。だが、保護はまた同時に統制でもある。ルター派やカルヴァン派と違って、カソリック教会は美術を大いに奨励したと言っても、それはあくまでも民衆の教化善導のためであり、したがって、その目的から逸脱するものが厳しく禁止されたことは、言うまでもない。その最も端的なあらわれが、裸体表現の追放である(→反宗教改革運動に支えられたバロック芸術派、一面においてはたしかに生々しいまでに現実的でありながら、決して現世享楽的ではなかったのである)。

芸術が民衆教化の手段と考えられ、もっと平たく言えば教会の宣伝の道具と見なされて、事実そのような役割を果たしたとすれば、バロック芸術の特性が、単に芸術の領域のみならず、反宗教改革運動全体に認められる性格でもあることは、少しも驚くにあたらない。いやむしろ、バロック芸術のそのような性格は、教会の布教活動の特性に由来する、あるいは、少なくとも共通の性格をわかちもっていると言った方が、いっそう正確であろう。ここでも、芸術表現は、時代の精神的風土と密接に結びついているのである。

イエズス会…トレント宗教会議の直前に創設されたこの新しい教団は、俗世間を離れて神への祈りにすべてを捧げるというかつての多くの教団とは逆に、積極的に世間に入りこみ、一般の人びとを救うことをその使命とした。

芸術のパトロンという観点から見るなら、イエズス会のような重要な教団が直接のスポンサーとして教会堂の造営や装飾に大がかりな活動を示すようになるのは、17世紀も後半になってからのことである。

17世紀の末に教団が次第に有力になってくるまで、パトロンとして活躍したのは、少数の富裕な市民を別にすれば、主として、教皇、および枢機卿などの高位聖職者であった。

オランダ
17世紀の中頃、王侯貴族や高位聖職者のような特別の人々を除いて、一般の市民のレベルで言えば、オランダは当時のヨーロッパにおいて最も豊かな国であったとう。

オランダは独立(1648年)の以前から活発な海上貿易活動を見せていたが、この独立の時からほぼ一世紀のほどのあいだ、文字通り世界の海を制覇する一大商業国家として、空前の繁栄を享受することになる。

市民たちが芸術のパトロンであったとすれば、画家たちの方もその要請に応えようとするのは当然のことである。17世紀のオランダ絵画が、王宮や教会にふさわしい神話画や宗教画よりも、風景画、肖像画、静物画、風俗画のような市民たちに親しみやすいジャンルを発達させたのはそのためである。しかも。富の蓄積が進み、市場が拡大するにつれて、画家の方で専門分化がおこってくる。

画家の専門が細分化し、市民たちの要望も人により場合によってさまざまであるとすれば、多様化した両者のあいだを調整し、仲介する専門の業者が必要になってくる。そのため、他のヨーロッパ諸国よりはずっと早く、この時期オランダに専門の画商が生まれてきたのである。

17世紀のオランダでパトロンの役目を演じたのは、個々の市民たちだけではない。市庁舎そのものをはじめ各種の同業者組合、同信会、養老院や病院などの施設の理事会、自警団の役割を果たした市民隊など、さまざまの市民団体が、自分たちの建物や事務所を飾るために、画家に制作を依頼することがしばしばあった。

市民団体のパトロンとしての活動が、集団肖像画という他の国ではあまり例を見ない独特のジャンルを発達させた。

スペイン
オランダでも日傭職人のような下積みの画家は大勢いたが、少なくともレンブラントのように名のある画家は、上流人士とも対等に交際できるだけの社会的地位を得ていた。このような事情は、王権や貴族の勢力の強かったスペインでは、いささか違っていた。

文化の先進国イタリアや、あるいはイギリスと比べてさえ、スペインではなお画家の社会的地位が、少なくとも17世紀の前半においては、まだそれほど高いものではなかった。

フランス
「ひとつの信仰、ひとつの法、ひとりの国王」を信条として強力な中央集権体制を築きあげたフランスでは、太陽王ルイ十四世の時代に、もともと芸術家たちの自発的な集まりであった美術アカデミーをも国家の行政組織のなかに取りこんで、さまざまの特権を与えるとともに公的な注文はすべてアカデミーの会員が受けるという制度を整え、そのかわり会員たちには、自分の店をもつことも勝手に作品を売ることも禁じたため、芸術の「保護」はもっぱら国家主導によって推進されてきた。

しかしそのような状況も、18世紀に入ると徐々に、しかし確実に変わっていった。それは、次第に経済的実力を身につけてきた市民たちが、芸術のパトロンとしても無視し得ない役割を演ずるようになってきたからである。

当時のアカデミーの美学では、神話画や宗教画をも含むいわゆる「歴史画」が最も格の高いものであって、肖像画がそれに次ぎ、風俗画や静物画は「劣ったジャンル」として軽蔑させるという「ジャンルの序列」が明確に認められていた。したがって、アカデミーにおいては歴史画家が最も重んぜられたが、パリの市民たちが愛好したのは、より身近な風俗画や静物画であった。そのため、市民たちの支持を得た画家は、アカデミーのなかではより低い位置に甘んじなければならないという矛盾に悩まされることになった。

■Ⅲ パトロンの拡大
実際、今日ではわれわれは、絵画や彫刻を鑑賞しようと思えば誰でも気軽に美術館に出かけていくが、このような制度ができあがったのは、最近二百年足らずのことに過ぎない。

もともと、誰でもが用意に訪れることのできる美術館という思想は、博物学や『百科全書』の理念と同様に、知識の拡大と普及を目指した啓蒙主義の産物であるが、それが今日まで続くようなかたちで実現されたのは、フランス革命以後のことである。事実、フランスにおいては、旧体制の時代にすでに王室コレクション公開の動きがあったが、ルーヴル宮殿を美術館にするということを正式に決めたのは革命政府であり、1793年に、不充分なかたちではあったがルーヴル美術館が開設された。美術に特化した専門博物館としての美術館の登場は、このときに始まると言ってよいであろう。

美術館の登場と、後に述べる展覧会制度の確立とは、美術作品を享受するあり方を大きく変えてしまった。今日でこそ、絵画や彫刻を鑑賞する場といえば、人はまず美術館や展覧会場を思い浮かべるが、18世紀以前においては、それは、王侯貴族の宮殿やせいぜい富裕な市民の邸館であり、あるいは教会のような公共の場所というのが普通であった。近代は、芸術鑑賞の社会的形式をも一新してしまったのである。あるいは、そのような変化こそ、近代と呼ぶべきものであるかもしれない。
そのことは、ちょうど音楽の世界において、かつてはバッハやモーツァルトがそうしたように教会や王侯貴族のサロンが演奏の主要な舞台であったのにかわって、コンサート・ホールないしは劇場で多くの一般聴衆―それもしばしば入場料を払った聴衆―の前で演奏するという今日の形式が、やはりこの頃に確立されたのと、ほぼ見合っているといってよいであろう。
いずれの場合においても、鑑賞形式の変化がもっていた意味は大きい。それは第一に、芸術作品が、装飾や権威や宗教目的のためではなく、純粋に「芸術」として、つまり美的目的のために鑑賞されるという芸術の自律性を強調するもにであったし、第二に、限られた特定の鑑賞者層から、開かれた不特定の鑑賞者層への拡大をもたらしたからである。

国家買上げや政府の注文、あるいは教会装飾といったような公式の芸術保護活動はこの時代においても盛んに行われていたが、それと並んで、フランス革命以後急速に経済的実権を握るようになった新興市民たちが、芸術作品の購入者として台頭してきた。

一方では「民衆のための政府」によって創られた公共の美術館が、他方では広い層にわたる個人の愛好家が、芸術のパトロンとなっていくところに、近代の大きな特色が見られるのである。

芸術の大衆化のもうひとつの指標として、やはりこの時代から目立つようになったものに、安価な版画作品の普及がある。

ルネッサンス期以来、版画は美術普及の有効な手段であったが、18世紀の末に新たに石版画の技法が登場し、19世紀に広く一般化することによって、版画に新しい時代がもたらされた。

版画はいつまでも油絵のいわば代用品としての格の低い位置にとどまってはいなかった。世紀の中頃から、一方では丹念に手間をかけた精緻な複製版画が愛好者層を拡大していったと同時に、他方、版画独自の表現力とその大量制作の可能性を利用して、優れたオリジナル作品を生みだす芸術家たちが登場してきた。

版画は、与えられたイメージを正確に、大量に複製することができるものであるだけに、観賞用のみならず、さまざまの実際的な目的のためにも利用された。それは、写真の利用が一般的になるまでは、新聞・雑誌などの挿絵として、報道・記録のために用いられたし、政治宣伝や商品の広告などにも広く応用された。

しばしば風刺的な意味をこめた戯画という意味でのカリカチュアは、むろん古くギリシアの昔からあったが、市民社会の成立と版画の利用によって、18世紀後半以降、多くの優れた作品を生みだすようになった。

それらのポスターは、劇場の前や街頭に貼りだされることによって、芸術を美術館や展覧会の会場から解放し、民衆のすぐ手の届くところまで近づけるという大きな功績を果たした。それと同時に、石版画という手段の制約と、強烈な印象を与えるというその目的のため、造形的な面においても、鮮やかな色面表現と、時にカリカチュアとも共通する大胆な形態把握とによって、20世紀を予告するような新しい活力をもたらしたことも、見逃すわけにはいかない。

19世紀は、社会の体制や制度と同様に、芸術そのものが大きく変わった時代であった。
その社会の変化とは、ひと口に言って、近代的市民社会の成立と呼ぶことができるであろう。もちろん、「市民社会」という言い方は、定義のしかたによっては、古代ギリシアやルネッサンスのイタリア、あるいは17世紀のオランダなどに適用することができる。しかし、産業革命の成果を手にした都市の中産階級が経済の主要な担い手となり、それゆえに身分制度や門閥をこえて歴史の舞台で主役を演ずるようになるという意味での近代的市民社会は、まずイギリス、次いでフランス先頭に、19世紀において確立したと言ってよい。

芸術の分野においても、少なくともパトロンとして、かつての王侯貴族や聖職者にかわって、一般市民たち、なかでも経済的に余裕のある上層市民たちがクローズアップされるようになってきたことを意味する。

宮廷画家や有力貴族の「お抱え」芸術家の時代が終って、より広い範囲の市民たちがパトロンになったというこの新しい状況は、芸術創造の上にもさまざまの影響を及ぼした。
第一は、作品そのものの大きさの変化である。
今や画家たちは、壮麗な教会の天井や宮殿の大広間を飾るためではなく、普通の市民たちの居間に受け入れられる作品を描かなければならなくなった。

もちろん、例外がないわけではないが、絵画作品の平均的大きさは、ずっとつつましやかになる。早くから市民社会の発達していたオランダにおいては、17世紀にすでに多くの室内用作品が作られていたが、19世紀にはその傾向が、他のヨーロッパ諸国においても一般的になっていくのである。
第二に、作品の主題が大きく変化する。洗練された趣味の伝統も、古典的教養の背景ももたず、堅実で現実主義的な生き方を何よりも大切にした中流市民たちは、神話、歴史、宗教などに主題を求めた壮大な「歴史画」よりも、もっとずっと身近な、親しみやすい主題を好んだ。

もともと眼に見える現実世界の再現という広い意味での写実主義は、市民社会の価値観と密接に結びついている。絵画における写実的表現が発達した時代、例えばルネッサンス期のフランドルとか、17世紀のオランダが、それなりに成熟した市民社会であったことは、決して偶然ではない。

趣味の伝統、すなわち価値評価の基準をもちあわせていなかった「新興成金」である19世紀の市民たちにとって、「本物そっくり」ということは何よりもわかりやすい基準であった。しかしそれと同時に、彼らは、みずから伝統をもっていなかったゆえにいっそう、その伝統の後継者になることを望んだ。その結果、古代の神話や歴史、あるいは聖書の物語に由来する主題を生なましいまでの写実的表現で描きだしたものが、これら新しいパトロンたちの大いに愛好するところとなった。

きわめて現実志向の強い市民たちが、あまりにもあからさまな現実描写に対して、時に強い反発を示したのも、おそらくはそのためである。偽装された写実主義においては、建前である「偽装」こそが何よりも重要だからである。

絵画に対する写真の影響としては、対象の形態と明暗の正確な把握のほか、運動の分析や新しい視角による斬新な構図の導入などが指摘されるが、社会的役割、すなわちパトロンとの関係について言えば、それまで画家の領域と考えられていた報道、記録、記念、教育などの重要な部分が、確実に写真によって奪われるという結果をもたらしたことを見逃すわけにはいかない。

その分だけ絵画は仕事を失ったとも言えるし、逆に制約から自由になったとも言える。少なくとも、19世紀の末以降、絵画が写実的表現を離れて自律的造形表現の世界に向かっていく背景のひとつには、写真の登場という事件があったのである。

18世紀から19世紀前半にかけて、散発的ながらさまざまなかたちでの個展が開かれるようになった背景としては、当時の芸術家たちにとっての唯一の公式の発表機関であったアカデミーの展覧会が、次第に硬直化して新しい試みを受け入れようとしなくなったという事情があった。あるいは、そのことは、別の見方からすれば、芸術家たちの方がいっそう自由に、大胆に自己の創造活動を展開していたということであるかもしれない。いずれにしても、公式の展覧会から拒否されるという事態が、個展の登場の大きな要因のひとつであった。

審査のやり方は、時にこまかい点で手直しがなされたが、基本的には「サロン」を主宰するアカデミーの会員たちが中心であった。しかもそこには、今や広い範囲に拡大した数多くのパトロンたちに受け入れやすいものを選ぶという配慮もはたらいていた。つまり「サロン」には、伝統的な技法に習熟した、一般にわかりやすい作品が並ぶということになる。それは、一種の大衆化現象と言ってよいであろう。逆に言えば、新しい試みや意欲的な実験は、そこでは受け入れられないということになる。アカデミーそのものは17世紀から存在していたにもかかわらず、画一化、形式化という意味合いを含んだ「アカデミズム」という言葉が、1840年前後から登場してくるという事実は、その点ではなはだ暗示的であるといわなければならない。それと並んで、かつては軍隊用語であった「前衛」という言葉が、美術の世界における反アカデミズム的動向を指し示すものとして用いられるようになるのも、この頃からのことである。

■Ⅳ 新しいパトロン
もし美術批評というものが、一般の人びとの眼にふれるかたちで発表された美術作品に対して、同じく公の場で説明、意見を述べるということなら―事実、今日「美術批評」という言葉は、ほぼそのような意味で使われている―、それは明らかに近代の産物である。というのは、当然のことながら、それは一方ではすでに見た展覧会の隆盛と密接に結びついており、他方では新聞、雑誌などの情報メディアの発達を前提としているからである。
もともと、宮廷画家や王室付画家のような直接的パトロネージの時代には、美術批評という形式は成立のしようがなかった。

しかし、観客層が次第に拡大し、しかも、それまであまり美術に縁のなかった新興の市民たちがその主要な担い手になるにつれて、芸術家とパトロンとは、たがいに大きく離れていくという事態が生じた。

そこで、観客に対しては作品の意味や質の良否を教え、芸術家に対しては何をどのように描くべきかを忠告する仲介者としての美術批評家が登場してくるわけである。

それはちょうど、展覧会という制度がそうであるように、芸術家と(潜在的)パトロンとのあいだを結びつける役割をになって登場してきたのである。

ある特定のグループの機関誌や党派的意見を開陳する政論新聞のようなものは別として、一般公衆のための新聞・雑誌というものは、18世紀後半から19世紀にかけての時期に数多く創刊され、人びとの生活のなかに大きな場所を占めるようになった。

これらの大新聞のほかに、特に文学芸術の分野においては、新しい芸術理論や、ある特定のグループの主義主張を訴える小雑誌が、この時代数多く生まれてきた。

またそれとは対照的に、意見や主張を述べるよりも一般の人びとの興味を呼ぶような話題、物語を提供することを主要な目的とした大衆紙も、1830年代から急速に人気を集めるようになった。

その結果、文学の世界では、少数のかぎられた読者に好まれるいわゆる「純文学」作品と、広く一般の人びとの人気を集めた「大衆文学」との両極分解という現象が見られるようになった。

ジャーナリズムの隆盛は、この時代から始まる都市の肥大化と密接に結びついていた。

もちろん、そのような都市化現象とならんで、製紙技術や印刷技術の改良、教育の普及による識字率の上昇、国際関係の多様化にともなうニュースの増大などの条件も、新聞・雑誌の発達に大きな役割を果たしたであろう。

文人、ないしは文学者が美術評論をこころみるという例は、20世紀の今日にいたるまで、数多く見られる。われわれのよく知っている名前を挙げるなら、スタンダール、ボードレール、ゴーティエ、ゾラなどがその例である。彼らは、小説家、あるいは詩人として世に知られる前に、まず美術批評家として登場してきた。

それは、彼らが美術に深い関心を寄せていたからでもあるが、それと同時に、無名の新人にとっては、創作よりも批評の方が世間に受け入れられやすかったという事情があった。

批評にはそれだけ社会的需要があったのである。その背後に、パトロンのいわば潜在予備軍として、新たに社会の経済的担い手となった厖大な数の新興市民層があったことは、言うまでもない。

美術批評の隆盛は、その当然の結果として、さまざまの異なった意見に表現の場を与え、美術界は百花斉放のにぎわいを見せることとなった。もちろんその背後には、ロマン主義の登場以来、それまで唯一絶対の規範とみなされていた古典的な美の理想に対する異議申し立てがあいつぎ、従来見られなかったような革新的芸術表現が生まれてきたことと無縁ではない。

どこからやってきたのか、出自がはっきりしないという意味で、いささか無責任にボヘミア地方あたりから来た人びとを指し示す言葉であった「ボヘミアン」が、社会のなかに明確な場所をもたない放浪の芸術家たちを意味するようになるのは、この頃からである。実際、七月王政の頃から、身なりに極度に気をつかう一般市民とは対照的に、頭髪も髭もぼうぼうにのばし、トレード・マークのようなフェルト帽かベレー帽をかぶった社会の除け者としての芸術家のイメージが、広く定着していく。

新興ブルジョアジーがその中核をなしている市民社会がようやく形をととのえつつあった時期、その社会の枠からはみだして勝手気ままな生活をおくる―あるいはおくらざるを得ない―ボヘミアン芸術家たちも、同時に登場してきたのである。

かつての王侯貴族にかわって新たに登場した公衆という名のパトロンたちは、趣味の基準も伝統ももたなかっただけに、展覧会受賞者やアカデミー会員という権威に対しては喜んで財布の紐をほどいたが、若い意欲的な芸術家たちにとっては、とらえどころのない遠い存在であった。芸術家とパトロンとのその遠い距離をうずめるために、商品展示場としての展覧会が発達し、仲介者としての美術ジャーナリズムが隆盛を見せた。さらに、両者をもっと直接的に結びつける画商の役割がクローズアップされてくるのも、そのためである。
フランスにおいて、今日見られるような画商が登場してくるのは、1820年代の中頃からのことである。

特に同時代の美術作品を専門に取り扱う画商が活躍するようになるのは、ロマン主義時代以降のことである。

市民社会の到来とともに、絵画作品は一個の商品となった。それも時にきわめて投機的な要素をはらんだ商品になった。

作品は画商のもとを通って、いちおうはあるコレクションに収まるのが普通である。今日では、そのコレクションの所蔵者は、各種の美術館をはじめ、政府その他の公共機関、公私の諸施設、一般の企業、そして個人の収集家など、きわめて広い範囲にわたっている。パトロンのこのような多様性と拡がりがまさしく近代の特色に他ならない。

政府による芸術新興活動は、作品買上げや直接注文だけにとどまるものではない。もっと大がかりなものとして、政府、それに加えて地方都市が依頼する建築ならびに建築装飾事業がある。

19世紀のパリは、産業革命の結果として急激に人工が増大し、それまでの城壁に囲まれた中世型の都市から、今日見られるような巨大な近代都市へと変貌していった時代である。パリの町を整備し、飾り立てるために、政府は惜しみなく予算をつかった。

建築装飾ばかりでなく、町のなかのモニュメント(凱旋門や彫像)も、数多く作られた。今日のいわゆるパブリック・アートである。特に、第三共和政府は、政治家、軍人、文学者、科学者、芸術家など、歴史上の偉人たちの彫像で町を飾ることに熱心であった。

政府の注文が、もっぱら著名な芸術家にかぎられていたのに対し、市民社会の成熟とともに新たに登場してきた収集家のなかには、自己の好みと見識で特色のあるコレクションを作り上げる愛好者たちがいた。

19世紀の末頃から、実業界で成功した桁外れの大物コレクターが登場し、時にかつての王侯貴族とも肩を並べるような壮麗な邸館に住み、思いのままに作品を集めるという状況が見られるようになってきた。

第二次世界大戦後、それも特に1970年代頃から、それまでになかった新しい現象として、銀行、商社、メーカーなどの民間企業が芸術活動の支援に参加するという傾向が見られるようになった。