**1**
窓のむこうをぼんやり眺めながら、アスカはリビングのソファーに座っていた。部屋の中では時間だけが動いている。調和された空気を崩したのは、翠星石の声だった。 「明日チビ人間の家に行くことになったですぅ」「……、最近まめに通ってるわね! ジュン君のことが気になって仕方ないのかしら?」「ちち違いますぅ! すす翠星石は、あの、その、だッだから、契約! 契約してるからマスターとの距離的な、バっ、バランスが大事で……」「赤くなってるわよ?」「ううぅッ、ほっ、ホントにそんなんじゃ……しし真紅にも会って、その、ドール同士の連絡も……」「はいはい」 アスカはニヤニヤしつつ立ち上がって、キッチンの方に歩いていく。 冷蔵庫を開けると、予想の枠を遥かに超えたマジックを見せつけられたかのような表情で固まった。しばらくしてから、太い音を立てて扉を閉めた。「おかしいわね」 そうつぶやき、スリッパのかかとを軽く引きずってリビングまで戻る。ソファーに腰かけた翠星石が見上げると、アスカと目が合う。「なんですか? とりあえず翠星石は犯人じゃないですよ?」「まだ何も言ってないじゃない」「大方察しはつくですぅ。どうせアイスが無くなってる、翠星石が食べた!とか言い出す気ですぅ」「ちがうわ。逆よ、逆」 言葉の意味をすぐには理解できず、翠星石はアスカを見つめたまま次の言葉を待っている。「アイスは無くなってないわ」疑問を色濃く滲ませた声でアスカが言う。「それどころか、増えてるのよ。しかも大量に。おととい、あたしが食べた時は2、3カップしか残ってなかった。あれから誰も買ってないはずだわ。でも、いま冷凍室の中を見たら1ダースぐらい入ってるのよ」 「アス姉が知らないだけで、ハル姉が買ってきたんじゃないですか?」「んー、そうかしら……」 腑に落ちない顔で、アスカは首を捻る。そこにハルヒがやってきた。「ただいま!」 ちょうど買い物から帰ってきたのだ。荷物が入った大き目のビニール袋をテーブルに置く。「アイスたくさん買ってきたから食べましょ! あたし思うのよね。冬に食べるアイスって、他の季節では味わえない美味しさがあるわ」 袋からアイスを取り出すハルヒを2人は呆然と眺めていたが、やがて困ったようにアスカが切り出した。「あ、あのさ、ハル姉。アイス……いっぱいあるんだけど」 そう言って冷蔵庫の扉を開け、中にあるアイスの山をハルヒに見せる。「あれ、そうなの? なんだ、あんたたち買っておいたんなら言ってちょうだいよね。まあ、どうせ毎日誰かが食べるから、別に構わないけどさ」「翠星石たちは買ってないですぅ。ハル姉が買っておいたんじゃないんですか?」「え? 違うわよ……ていうかあと2、3個しかなかったと思ったから今買ってきたんだし」「……じゃあ、誰が買ってきたの? 誰も買ってないはずのアイスが、いっぱいあるってこと?」 3人は、不思議そうに顔を見合わせるばかりだった。
++2++
透きとおる空の青は、痛いほどの輝きをもって私を包んでいる。 足元には、降り積もった新雪のように真っ白な大地が果てしなく続いていた。 どこまでいっても青と白。そして、二色の世界にぽつんと置き去りにされたような、大きな鏡とその手前に生えた小さな樹の芽。「あれは何?」 隣にいる翠に聞くと、如雨露を渡された。手ぶらになった翠が黙って歩き出したのでついていく。導かれるようにして鏡と樹の近くまで来ると、鏡は、全身を映してもいくらか余るほどで、ちょうど家のドアをひと回り大きくしたくらいのサイズだった。樹は、膝よりもやや高いところまで伸びていて、そのうるおい溢れる緑は、力強い生命力とともに毒々しさをも感じさせた。 鏡の前に立つ。私が映っている。 私は、持っていた如雨露を樹の上で傾けた。光を含んできらめく水が降り注ぐ。樹は、少しだけ大きくなった。胸の内側から湧き出る満足感。だけど、罪悪感のような不純物も微かに混ざっている。不純物は、すぐに消えて無くなった。 鏡を見る。 そこに映る私は樹に水をあげていない。水の代わりに、突き刺すような冷たい視線を浴びせている。「どうして水をあげないの? あなたは鏡でしょ? だったらあたしと同じ動きをしなきゃ」 私は鏡に話しかけるが、鏡の中の私は口を閉ざしたままこちらを見つめ返すだけだった。「そんなことも分からないの?」と聞こえた気がする。 鏡に映っている樹は、私が水をあげた樹に比べてずいぶん濁った緑色をしていた。
私は問いかける。「ここはどこなの? nのフィールド?」 翠は何も答えてくれなかった。
**3**
まるで難易度の高い間違い探しに挑戦しているみたいに、翠星石は壁にかかったカレンダーと新聞とを何度も見比べていた。「おかしいですぅ」 ぶつぶつ文句を言いながら、新聞をテーブルの上に置く。「どうしたの?」 アスカに聞かれても、何て説明すればいいのか分からない。ど忘れした単語がどうしても出てこない、そんな顔をして行き場のない歯痒さに苛ついている。 翠星石は、自分の認識が誤っていないか確かめるように、順を追って話し始めた。「今日は何日ですか?」「30日でしょ」「これを見てくださいですぅ」 そう言って新聞の日付欄を指さす。「28日……え? あれっ!? あたし日付を勘違いしてた?」「翠星石も30日だと思ってました。ところで今日はチビ人間の家に行く予定だったのを覚えてますか?」「覚えてるわ。昨日そう言ってたわよね」「今から行きます、とさっき電話をしました。そしたらあさってじゃなかった?とノリに言われたです。これはどういうことですか?」 アスカは薬指でこめかみを押さえて考え込む。「ちょっと待って……、翠は今日ジュン君の家に行くはずだった。ところがそれはあさってだと言われた。あたしたちは今日が30日だと思っていた。ところが新聞には28日と書いてある。つまり、あたしたちと世間の認識には、二日分のズレがあるってことだわ」 「昨日のアイスの件といい、絶対おかしいですぅ! 異変が起きてますぅ! しかも、仮に今日が28日だったとしても、ジュンの家に行く約束をしたのは29日のことですぅ! どうしてノリが28日にそのことを知ってるんですか!?」 「参ったわね」腕を組み、ため息まじりにアスカが唸る。「29日を境にして、あたしたちは一日進んだのに世間は一日戻った……? アイスの件も含めて、確かに変ね」 「ひょっとして、ハル姉の能力ってやつですか?」「その可能性が高いかも。ところでハル姉は?」「出かけていったですぅ。キョンと二人で買い物らしいですぅ」「……、あんたは? 結局ジュン君の家には行かないの?」「ノリはいつ来たって構わないし、いらっしゃいと言ってましたけど……正直それどころじゃないですぅ」「そうね。何とかしなきゃね。じゃ、あたしたちも出かけましょうか」「どこ行くんですか?」「こういうときに助けてくれそうな人の家よ」
**4**
アスカと翠星石は、綾波、長門、ルリの三姉妹が住む家を訪れた。「厳密に言えば、時間が遡行したわけではない」 一連の異常事態について話すと、長門は、何が起きているのかを淡白な音声で教えてくれた。「日付の錯誤は×月26日から30日までの5日間がループしていることに起因する。今回は4519回目に該当し、あなたたちが認識している『昨日』は4518回目の29日。当該シークエンスではまだ29日は経過しておらず、4518回目の29日から当該シークエンスにおける28日を連続したものと錯覚しているにすぎない。シークエンス間の記憶を一部持ち越し、部分的に忘れているため、このような記憶上の混乱に陥った。通常は記憶の持ち越しは起こらず、涼宮ハルヒに近しい人間であっても、既視感や違和感を自覚できる程度の潜在的なレベルに留まる。あなたたちは、涼宮ハルヒと非常に密接な関係にあることから、このような特殊な事例がみられた。また、シークエンスごとに、起こる事象の順列組み合わせは多少異なる。たとえば、遊びに行く予定が30日という点は変わらなくても、予定が立てられた日は、4518回目のシークエンスでは29日、4519回目のシークエンスでは28日以前となっている。このような事象配置の差異と記憶混乱が重なったことが、より大きな混乱を招く原因になった。アイスについては、小規模かつ単純な世界改変によるもの」 話し終えてお茶をすする長門を前に、アスカと翠星石は完全に面食らっていた。「……予想はしてたけど……」「……何がなんだかサッパリですぅ……」「ちょっとファースト! 翻訳しなさいよ!」「無理よ。私にも意味がわからないもの」 聞かれる前から諦めていたように綾波が言う。するとルリが横から説明した。「要するに、26日から30日の間を何度もぐるぐる繰り返しているんです。私たちにはそんな自覚が無いので、今日は28日だと思ってます。アスカさんたちは、前回の26日から30日のうち、29日だけを覚えているんです。だから今日は30日だと思うんです」「なるほどね!」「最初からそう言いやがれですぅ!」「アイスの件は、ハルヒさんがちょっとだけ世界を変えて買ったことにしてしまった、ということだそうです」 アスカは、青い瞳をぶつけるように長門に向けると、身を乗り出して訊ねた。「で、それはハル姉の仕業で間違いないの? だとしたら、理由は何?」 長門は、無感動な表情のまま一定のトーンで答える。「間違いない。時間ループは涼宮ハルヒが起こした。世界改変についても同様。おそらく、感情に何らかの変化があったことが原因と考えられる。詳しいことは私にも解らない。ただ……」 「ただ?」「彼だったらあるいは、解るかもしれない」
++5++
如雨露で樹に水をあげていると、突然、視界に一本の黒い線が生じた。それは、何も無い空間に鋭利なナイフで切目を入れたみたいだった。そして黒い線は開かれて細長い楕円になり、中から小さな女の子が出てきた。 女の子……? 違う、人形だ。淡いブロンドの髪を左右にまとめて結び、ワイン色のドレスを着ている。翠と同じドールの、真紅だ。 私の前に立つと、穏やかな眼差しを向けてくる。こころの中を見透かしているような、やさしい目。「怯えているのね」と真紅は言った。「鏡の中の樹にも水を与えなきゃいけないのに」 私は悔しくなって言い返した。「だって、鏡の中のあたしは同じ動きをしてくれないのよ? あたしのせいじゃない!」「そのとおりだわ。どんな形の愛情が正しくて、どんな形は間違っているかなんて、決めつけてはいけないものね。でもどうして、その子は寂しそうなのかしら」 真紅に言われて翠を見ると、ぎこちない微笑みが無理をしているように思えて、私のこころを締め付けた。胸の奥に、再び罪悪感のような不純物が生まれる。「こちら側の樹だけに水を与え続ければ、すぐに育って大きくなるわ。育ちすぎるぐらいに。同時に、鏡の中の樹は枯れていくの。あなたは、鏡の中の樹に水を与えたくないのよ」 「そんなこと……」「悲観する必要は無いわ。足りないものはひとつだけなのだから」 真紅に慰められても、胸の不純物は消えなかった。
私は問いかける。「ねえ、鏡の向こう側にはどうやったら行けるの?」「どうやっても行けないわ」真紅は答えた。「ここは無限に広がっているように見えるけど、どこにも行くことはできない。この白い地の下には無意識の海があって、それはどこにでも繋がっているけれど、無意識の海に行くことはできないのよ」
**6**
自宅に戻ってきたアスカと翠星石は、リビングで計画を立てる。長門の指名に従い、キョンに会って話を聞いてみることにした。ハルヒが能力を発動させた心理的要因を探り、時空間の異変を元に戻すためだ。 「キョンにハル姉との用事がない日を狙って、こっそり会いに行くわよ。それからアリバイも作らなきゃ」「なんでそんな回りくどいやり方をするんですか?」「あんたバカァ!? ハル姉に能力を自覚させちゃいけないからに決まってるじゃない。それに、あたしたちがこっそりキョンと会ってたなんてハル姉に知られたら、事態が悪化するかもしれないってさっき言われたでしょ。とりあえず、あたしはミサトの家にいることにしてもらうから、あんたも上手くやりなさい」 「オーケー任せろですぅ! でも、ハル姉とキョンの予定は分からないですよ?」「なんで?」「また翠星石たちだけ、その、シー、シーク……シークァーサー?の記憶が飛んでしまったら」「そうねぇ。その日になってから予定を聞いて、アリバイ作らなきゃね。でも、よく考えたらあたしたちの記憶持ち越しにズレが生じたっておかしくないわ」「今のところは大丈夫みたいですぅ」 一息ついて、アスカは何気なく庭に目をやった。「え……?」 吸い込まれるようにガラス戸の前まで歩いていく。「こんなにたくさん……いつの間に……」 翠星石も隣に立って外を見ると、そこには色とりどりの花が咲き乱れていた。花壇に敷きつめられた土も、そのうち養分を取られすぎて全部無くなってしまうんじゃないかと不安になるほどだった。 「な、なんですかこれは!? 翠星石の花壇が大変なことに! こんなに植えた覚えは無いですよ?」 二人はしばらくの間、絶句したまま見とれていた。「あたし思うんだけどさ」アスカがささやくように言う。「別に悪いことが起きてるわけじゃないのよね。この花もそうだし、アイスの件も。どちらかと言えば良いことよ。まあ、時間が繰り返しになってるのは良いことではないかもしれないけど。でもそれだって、考えようによっては悪いことじゃないわ。だってずっと今のままでいられるなら、ある意味幸せなことでしょ」 「言われてみれば、悪いことは起きてないですぅ。アイスが増えるのも花が増えるのも、翠星石にとってはありがたい限りですぅ……」「ハル姉はまだ買い物かしら。きっと周りに幸せ振り撒きながら、キョンを引っ張ってはしゃいでる頃だわ。狂ったように咲いたこの花たちは、今のハル姉の気持ちそのままって感じかもね」
翌日、翠星石がハルヒに聞いてみた。「そういえば昨日は何を買ったんですか?」「ん? あたしは何も買ってないわ。キョンのやつが妹の誕生日プレゼントを選ぶのに付き合わされたのよ」 昨日と今日は繋がっている。4519回目の×月29日は無事におとずれたようだった。
**7**
「やれやれ」 事情を聞かされ、最初に発した言葉はそれだった。 アスカと翠星石は、それぞれミサトとジュンの家に遊びに行くとハルヒに告げ、自宅を出た。それからすぐにミサトとジュンに電話をしてアリバイを作っておいた。その後、キョンに連絡をして、彼の部屋まで来たところだ。 眉を八の字にして、キョンは続ける。「まるで駄々っ子だな。何か時間を進めたくない理由があるんだろう」「あたしたちには思い当たる節が無いのよ」「申しわけないが俺にも無い。昨日だって終始上機嫌だったし、ここ最近特に変わったことも無かった」「今までこういうことはあったんですか?」「一度あったね。あれは夏休みのことだったよ。いまだに原因はよく分からんが、あいつなりに夏休みにやり残したことがあったんだと思う。そのときは、みんなで宿題をやることになって、何故かそれで時間が進んだんだ」 キョンの話にアスカは何度か頷いた。「そういう括りっていうのかしら、たとえば『夏休み』なら『終わらせたくない』って気持ちが出てくる。それなら分かるのよ。でもこの5日間には特別な何かがあったわけじゃない。……記憶が曖昧だから自信もって言えないけど、何もなかったと思うわ。少なくとも自分の意思ではどうすることもできないような何かがあったとは思えない。だからもっと個人的というか、ハル姉の心の中にしまい込んだ理由なんじゃないかしら」「そうかもしれないな。ハルヒが今まで起こしてきた超常現象の殆どは突拍子もなく、動機は理解不能だ。誰にも見せないだけで、実はとんでもないことを考えいてたっておかしくはない。あいつが何をやり出すつもりなのかは、俺には全く予測できん」「使えねー彼氏ですぅ」「ほんとねぇ」 2人の反応に、キョンは突っ込みを入れることを放棄して肩をすくめた。「そんな訳で、あまり役には立てそうもない。思い当たる理由が無いか他の団員たちにも聞いてみるけど、あまり期待はしないでくれ。まあどんな理由にせよ、鍵になる何かは必ずあるはずだ。分からなくても、偶然でもいいから引き当てれば時間は進むことになると思う」
アスカと翠星石は、しばらく雑談してからキョンの家を出た。「キョンに分からなければ、お手上げかもしれないわね。あたしたちは永遠に5日間を繰り返すのかしら」「鍵になる何かなんて翠星石には分かりっこないですぅ」「そうよね。キョンだけじゃなくてあたしたちから見ても、ハル姉には特に変わった様子は無いのよね。ホントにハル姉に原因があるのかしら?」 そんな話をしながら、二人はのんびりと帰路についた。 自宅に帰ると、ハルヒは買い物にでも行ったのか、誰もいないようだった。アスカは何か飲もうとキッチンに向かう。するとそこに見慣れない物があることに気付いた。「ねぇ、翠! これ何!?」 どうしたのかと翠星石もキッチンに行くと、すぐにアスカが驚いた理由が分かった。一目見ただけで様々な機能が搭載されていると分かるような、最新型のオーブンが真っ先に視界に飛び込んできたからだ。「な、なんですかこれ!? こんなのウチにはなかったですよ!」「あたしたちがいない間にハル姉が買ってきたのかしら?」「そんなわけないですぅ。家電買う時は必ず前もって言うはずですぅ」「また少し世界改変されたのね……そのうち家ごとリフォームされちゃうんじゃないかしら」
++8++
「この樹はどうしてここに生えてるの?」 私が聞くと、真紅に怪訝そうな顔をされた。「どうして?おかしな質問ね。この樹がここに生えているわけじゃないの。この樹の根元から、この世界が広がっているだけよ」「わからない。じゃあ鏡の中の樹は何なのよ?」「鏡は……現実の世界を教えてくれるもの。鏡の中の樹を生かすのも殺すのも、あなた次第だわ」「こっち側の樹に水をあげてるのに、鏡の中のあたしは水をあげようとしない」「言ったでしょ? あなたがそれを望んでいるからよ」「あたしが!? 何を望んでいるの?」「それは」真紅は笑いながら言った。「あなたが一番よくわかっているじゃない」 私が一番よくわかっている? そうかもしれない。「鏡の中のあたしは誰?」「ここでは……あなたはあなた自身とは少し違うわ。鏡の中のあなたも、今ここにいるあなたもね。引き受ける存在、助ける存在。こちら側の樹にも、鏡の中の樹にも水を与える存在。そして、鏡の中の樹に一番近い場所にいるのよ。どちらかと言えば、樹があなたそのものと言えるわ。あなた自身かもしれない」「なのに鏡の中の樹には水をあげない」「そうね。こちら側の樹に水を与えたら、普通は鏡の中の樹にも水を与えるわ。こちら側の樹が育てば、それに合わせて鏡の中の樹も育つのが理想的。鏡なんだから同じ動きをするんですもの、当たり前のことだと思うかもしれないけど、案外難しいのよ。でも、少なくともそうなるように努力するべきだと、私は思うわ」 鏡の中の私を見る。その顔は、明らかに影を帯びていた。「あたしは努力してないの?」「そんなことないわ。人より少し、欲張りなだけよ」
私は問いかける。「ねえ、教えて。ここはどこなの?」 真紅の表情は、春の日差しのようにやわらかかった。「さっきからおかしなことばかり聞くのね、アスカ。ここはあなたのこころの世界でしょ」
**9**
4519回目の×月30日。 夕飯後のひとときを、アスカはリビングのソファーでくつろぎながら過ごしていた。その隣に、二人分のコーヒーカップを持ってハルヒが座ってきた。「ありがと」 ハルヒからカップを受け取ると、アスカはそっと口をつけてコーヒーを飲んだ。「明日からよね」そう言って、ハルヒも同じようにコーヒーをすする。「寂しい気もするけど、まぁ少しの間だけだしね」 ソファーの前のテーブルにカップを置くと、アスカは訊ねた。「何が? 何が明日からなの?」「何がって、翠がジュン君の家で暮らすのがよ」「……どういうこと?」「あれ? 聞いてない? なんだっけ、アリスゲームがどうのこうのでしばらくジュン君の家で暮らすって」「そ、そうなの? 知らな……」 知らないとは限らなかった。時間ループと記憶持ち越しの混乱で、部分的に忘れていることがあると長門に言われていたのだ。アスカが覚えていないだけということもあり得るだろう。 そう考えたら、「知らない」とは断言できない。「でも……」アスカの顔がにわかに曇る。「どうしてジュン君の家で暮らさなきゃならないわけ?この家にいたっていいじゃない」「それは……翠はジュン君と契約してるんだから、やっぱり一緒にいないとまずいんじゃないかしら?その辺の詳しいことはあたしにはよく分からないけど。仕方のないことよ。翠だって、できることならずっとこの家にいたいでしょうけど、時にはそうして離れなければならないことだってあるわ」「しばらくの間って、どれくらい?」 「たぶん、アリスゲームのことが一段落したら帰ってくると思うわ」「じゃあ、いつ帰ってくるのか分からないじゃない」「まぁ、そうだけど。大丈夫よ、そんなに長くはかからないって翠も言ってたし」「そうは言ってもいつまでかかるのかは分からないんでしょ? そしたらいつ帰ってくるかも分からない。大体、アリスゲームって戦うんじゃないの? だったら、ひょっとしたら……帰ってこないことだって……」「心配なの?」「心配に決まってるじゃない! ハル姉は心配じゃないの!?」「もちろん心配よ」「じゃあどうしてそんなに平然としていられるのよ?」「平然となんかしてないわ。ただ、信じてるもの」「信じてるって、何を?」「翠は必ず帰ってくるわ。しばらくしたら帰ってくる。翠がそう言ってるんだから、そうに決まってるでしょ」
++10++
「こちら側の樹に水をあげることによって、それは根を伝い、無意識の海に流れ出すわ。アスカはその行動が何を意味するのかよく知っているの」 真紅に言われて、私のこころは固い殻を破ろうとするみたいに高鳴った。「鏡の中の樹は、現実の世界においてあるべき姿であろうとする。でも、鏡の中のあなたはそれを止めてしまっている。水を与えないことによって。あるべき姿とありたい姿は別のものだからだわ」 私は吐き捨てるように言った。「醜いわね。鏡の中のあたしも、今ここにいるあたしも」「そういう言い方はよくないわ」真紅は優しかった。「失うことが怖いのよ。それだけ大切ってことね。だからいつまでも繋いでいたい。こちら側の樹がそれを望んでいるから、あなたは動けない樹の代わりにその望みを叶えようとしているの」 空を見上げる。何も変化の無い空。決して調和を崩さず、その青を汚さず、変化することを全力で拒んでいるように見えた。「この樹の望みは……あたし自身の望みは、無意識の海に流れ出た後どこへ行くの?」「あなたにとても近い人間のこころに辿りつくわ」「水をあげることをやめればいいの?」「それは無理よ。樹は、水を求め続けるもの」「じゃあ、この樹を切り取ってしまえばいいの?」 真紅は悲しそうに答えた。「そんなことをしてはダメ……心に大きな傷がついて、一生治らないわ」「あたしに足りないものは何?」「鏡の向こうでは気付いているはずよ。こころの世界で、うまくコントロールできていないだけだわ」
翠を見ると、まぶたを閉じ、まるで遠いところから伝わってくる音を一生懸命聴こうとするように、もどかしい顔で何かを考えているみたいだった。私はとても苦しくなった。
**11**
アスカはテーブルに置かれたコーヒーカップに視線を落とした。「それは、そうかもしれないけど……でも翠にもしものことがあったらどうするのよ?nのフィールドから戻ってこれなくなったりしたら……」「その時はあたしが助けに行くわ」アスカの言葉をさえぎって、ハルヒはしなる鞭のような口調で言い切った。「まぁ、翠は強い子だからその必要はないかしらね。真紅だってついてるし。それともアスカは、翠が帰ってこないとでも思ってるの?」「思ってないわよ。ただ、何かちょっと不安なのよ。自分でもよく分からないけど……」 口をすぼめてうつむくアスカを、悪戯っぽく笑いながら肘でつついてハルヒが言った。「ジュン君に取られちゃうような気がするんでしょ?」「ちっ、違うわよ! なんでいきなりそうなるのよ! 姉妹でそんなこと思うわけ……」「ふうん。わかりやすいわね。姉妹だからこそ、なんじゃない? 可愛い妹を誰かに取られたくないのよ。別の言い方をすれば、翠がここから離れてどこかに行ってしまうんじゃないかって不安なのよ」「だっだからっ! 違うってば! 取られるとか取られないとか、そういう話じゃないでしょ!?」「ええ」ハルヒの大きな黒い瞳が、じっとアスカを見つめる。「そういう話じゃないでしょ?」 ハルヒの眼差しは、アスカの気持ちを内側に折り畳んで、それをアスカ自身のこころの奥まで引き込んでいくようだった。
翠星石は自室でカレンダーを見つめている。「明日からチビ人間の家で暮らすことになってるです……。でも、きっとまた時間は巻き戻されて、30日を越えることはないですぅ……」 ふいにドアをノックする音がした。「翠、入るわよ」 開いたドアの向こうから現れたのはアスカだった。「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」「何ですか?」「あのさ、明日からジュン君の家で暮らす予定なのよね?」「そうですよ」「そのことって、あたし知ってたかしら?」「……? おかしな質問するですね。知ってるはずですよ。4、5日前に話してますぅ」 そう言ってはっとする。「アス姉、ひょっとして……」「覚えてないわ。さっきハル姉に聞いて知ったのよ。どうやら、記憶の持ち越しにズレがあったみたいね」「で、でもなんで! ここ何日かアス姉と翠星石は一緒にいても記憶にズレなんてなかったですぅ!なんでそこだけズレてるですか?」「ほんと、なんでそこだけあたしの記憶は持ち越されなかったのかしら……」 翠星石には、アスカの声がどこか申し訳なさそうな気持ちで覆われているように聞こえた。
その夜、翠星石は夢の世界に迷い込んだ。
++12++
鏡の中に小さな人影がぼんやりと浮かぶ。人影が次第にはっきりとしてくる。それは翠だった。鏡の中の翠もまぶたを閉じていた。 私は如雨露を置くと膝をついて、こちら側の樹にそっと手のひらをあてる。何故かそうしなければならない気がしたからだ。 同じ高さの目線から、真紅が語りかけてくる。「アスカは一つの理想の世界を作ろうとしているわ。変わらない今。何不自由ない世界。そんな理想郷を少しずつ作り上げようとしているのよ」 私は静かに言葉を重ねる。「どうしてあたしはそんなことをするの?」「時間の渦に翠星石を閉じ込めるため」「どうして閉じ込めたいの?」「きっと、絆というものが目に見えないからだわ」「不安だから?」「そうね、失うんじゃないかって。あるいは……そもそも絆は存在しているのかって。翠星石がしばらくジュンの家で暮らすことを聞かされて、アスカは怖くなったのよ」「繋いでいたかったの?」「翠星石にとって理想的な世界を作って、繋ぎとめておきたいのよ。そうでしょ? 違う?」「……違わないわ」「ハルヒは、無意識の海から流れてくるそんなアスカの望みを読み取って、現実世界に反映させているわ。でもそれは……」「そうね、翠にとって理想の世界じゃないわ。あたしにとって理想の世界ね」
「時間を前に進める方法はふたつあるわ」真紅は言った。「ひとつは、絆を形にすることね。そうすればアスカの不安は消え去る。つまり望みを形にするってことかしら。もうひとつは、目に見えない絆を信じることだわ。アスカが前に進めば、時間も前に進むことになるのよ」
真紅が鏡に目をやったので、私もつられて見た。鏡の中の樹は、相変わらず濁った緑色だった。その樹皮の表面を何かが流れ落ちていく。根元まで流れていく様子が、私のこころを強ばらせる。私はそれを確認してから今度は鏡の中の翠を見ると、そのまぶたがゆっくりと開いた。 そして映画のスクリーンが暗くフェードアウトするみたいに、鏡の中の翠は少しずつ闇へと変化していく。闇はだんだん濃くなって、やがて翠は私の目をまっすぐ見つめながら、鏡の奥へ消え入るように去っていった。 私はこちら側の翠を見る。ちょうど鏡の中の翠が消えるのと同時に、まるで入れ替わったかのようにまぶたを開くと、深く澄んだオッドアイを私の視線に絡めてきた。 すべてはなめらかに連鎖しているように動いていた。翠は小さな口を開く。「絆を形にしてみるです。翠星石は、ジュンとの契約を解いてアス姉と契約を結びます」「ジュンとの契約を解けば」真紅の言い方は、私を試すようだった。「翠星石がしばらくジュンの家で暮らす必要はなくなるわ」
**13**
アスカは、夢を見ていた。どこからともなく落ちてくる青い雫が、水面に波紋を作り出すたびにそこに映った自分の顔が揺れている。そんな夢だった。目が覚めると、アスカは確かに自分の部屋にいたのだが、まるで夢がそのまま続いているような錯覚に陥って、しばらく動くことができなかった。 その錯覚は、体だけでなく、意識までをも固定していた。固まった意識の中に、一方的にある感情が流れ込んでくる。自己嫌悪によく似た感情だった。それを止めることができず、感情でいっぱいになった意識の殻は弾けるように破れ、アスカはようやく動くことができるようになった。
ダイニングに行くと、ハルヒひとりが食卓の前に座っていた。アスカは向かいの椅子に座って、新聞を手に取った。「おはようハル姉。翠は?」「おはよう。さっき出かけていったわよ」 日付欄を見る。×月29日。時間ループは続いていた。おそらく4520回目以降の29日なのだろう。 アスカは、翠星石の行き先も目的も何故か分かるような気がした。はっきりとは思い出せない夢の中で、しかしはっきりとそれを知ったと確信できるのだ。「あたしも、ちょっと出かけてくるわ!」 いつになく真剣な面持ちで、アスカは自宅を後にした。
綾波・長門・ルリの家には、可愛らしい客が来ていた。「どうぞ」 翠星石はルリに出されたお茶を飲んだ。しばらく沈黙し、やがて意を決したように事情を全て話すと、長門に返事を求めた。「情報統合思念体からの答えとしては、あなたの言う通り。桜田ジュンとの契約を解除するとともに、惣流・アスカ・ラングレーとの契約を成立させれば、時間ループは終了し#月1日が訪れることになる」 長門は、ややゆったりとそう説明した。「どうして……」綾波が訊ねる。「それで時間ループが終わるの? どういう関係があるの?」「解らない。情報統合思念体が到達し得るのは意識レベルまで。原因については、その先の領域に潜むものと考えられる。その領域は、有機生命体に『こころ』と呼称されている」 そう言われて、翠星石は寂しそうにする。その顔を見たルリは、少し厳しい口調で翠星石に訊ねた。「本当にそれでいいんですか? そうすれば時間は前に進むでしょうけど、アスカさんは前に進みませんよ?」 ルリの言う通りだった。
++14++
「そんな……ジュン君との契約を解くぐらいなら、あたしがこの樹を切り取るわ!」 大きな声を出してしまった私を、翠は悲しそうに見つめている。この樹を切ろうとすると、みんな悲しそうにする。「何がきっかけになったのかは、それほど重要ではないわ。問題はもっと根本的なところにあるの。アスカが怖いのは、家族を失うということ。とても個人的な問題ね。私は、簡単に結べる『契約』より、簡単には崩れない互いの『信頼』の方が、アスカにとっては必要なことだと思うわ。だから翠星石、あなたの考えに反対はしないけど賛成もできないわ。それはアスカを信じていないことになるんじゃないかしら? アスカはもう気付いているんだから、信じることも必要よ。もちろんこれは私の考えで、何が正しいなんて決めることはできないけれど」 真紅が言葉を区切ると、それに合わせたかのように空間に再び黒い線が生じた。「ひとつだけアスカに教えておくわ。あなたたち姉妹は強い絆で結ばれているのよ。翠星石と同じドールの私から見ても羨ましいほどに。絆は目に見えないけれど、確かにそこにあるのだわ」 そう言い終えると、真紅は黒い線を両手で広げ、その中へと去っていった。 まだ、自信が無い。私が翠の提案に反対したのは、ちっぽけなプライドのせいだ。そんな風に思えて仕方がなかったから。 翠はひざまずいて、こちら側の樹を撫でた。「真紅の言ってることはきっと正しいです……。この樹を切り取ることも、ジュンとの契約を解くことも、結局は同じです。どちらが何を負担するかの違いがあるだけです」
鏡を見ると、そこに映る私が樹に水を与えていた。鏡の中の樹から次第に濁りが消え、生きいきとした緑に染まっていく。徐々に枝葉が伸び、鏡を越えてこちらに飛び出してきそうだった。こちら側の樹も、翠が撫でるうちに少しずつ伸びていき、二つの樹は、角度によってはその枝葉で円を形作っているようにも見える。いびつだが、ほっとさせるような形の円だった。
私は、私の望みが無意識の海を流れて辿りついた先のことを思った。「ハル姉ってさ、いろんな意味で強いと思わない?」「思うです」
「そういえば……今さらなんだけど、翠はどうしてここにいるのよ?」「……翠星石にもよくわからないですぅ」 照れたようにそう答える翠を見て、私は思わず笑った。
真紅の言葉がこころに響く。絆は、確かにここにある。
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翠星石は、ジュンとの契約解除のために桜田家へと向かった。ふと途中の公園で足を止める。後ろの方から速いテンポで足音が近付いてきた。振り返ると、アスカがこちらに走ってくる。「アス姉……」 翠星石の姿を確認すると、アスカは駆けながら叫んだ。「だめよ翠! ジュン君との契約を解いてはだめ!」息を切らして翠星石の前で立ち止まると、腕をつかんでもう一度言った。「だめなのよ、翠。ジュン君との契約を解いちゃだめ……。そんなことしなくったって大丈夫、大丈夫だから」 アスカのその行動が、翠星石には自然な帰結であるかのように受け入れられた。「アス姉は……」次の言葉を待つように目に力をこめるアスカを見て、翠星石の顔がほころぶ。「見かけによらず心配性ですぅ。まーったく、実は甘えん坊なんじゃないですかぁ?」「……う、うるさいわね! そんなことないわよ!」 翠星石はそれ以上何も言わずに、アスカに向かって両手を広げた。「なにしてんの?」「家に帰るんじゃないですか?」「そうだけど、なんで両手を広げてんのよ?」「たまには抱っこしやがれですぅ!」「いやよ、なんでそんなことしなきゃなんないの!? 自分で歩きなさい」「翠星石はこうみえても人形ですよ? 人形を抱くのに理由が必要か?ですぅ!!」「……はいはい」 アスカは翠星石を抱きかかえると、ゆっくりと家路についた。
#月1日。「そろそろ行くですよ」 翠星石がそう言うと、キッチンの中からハルヒが出てくる。「忘れ物ない? あんまりノリたちに迷惑かけちゃだめよ?」「わかってるですぅ」 翠星石は玄関に行き、ハルヒと、部屋から出てきたアスカもそれについていく。家のドアを開けると、日差しは思いのほか強かった。「じゃあ、気をつけてね」アスカが言った。「ハル姉もアス姉も、翠星石がいないあいだ寂しくて泣いたりしたらだめですよ?」「泣くわけないでしょ」間髪置かずにハルヒが返す。「今日からうちでは毎日花丸ハンバーグよ」にやりとしてアスカが付け足す。「ぐっ……す、翠星石だってノリに頼んで花丸ハンバーグにしてもらうです!」 アスカは、雲ひとつない空を少し見上げたあと、青い瞳を翠星石にそっと向ける。「いってらっしゃい」 そう言って手を振るアスカの微笑みに、翠星石はどこか力強さを感じていた。
それから約一週間後の朝。 清々しい光がリビングに差し込む。アスカは、ソファーに座って紅茶を飲んでいる。 玄関の方から声がした。「ただいま、ですぅ!」 翠星石が帰ってきたのだ。 紅茶の香りも、まだあまり動かされていない朝の空気も、綺麗に調えられてそこにあるんだと、アスカには思えた。翠星石の声は、そんな部屋の中に溶けこむように聞こえてきた。 鞄を持ってリビングに入ってきた翠星石を見て、アスカはいつもと変わらない調子で言った。「おかえり、翠」
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