ガラスの鍵




題名:ガラスの鍵
原題:THE GLASS KEY ,1931
作者:DASHIELL HAMMETT
訳者:大久保康雄
発行:創元推理文庫 1960.5.20 初刷 1991.2.15 27版
価格:\480(\466)



 ほんとうは全部小鷹信光訳で読みたいハメット作品だけど、ハメットが自作中最も気に入っている作品であり、ハードボイルド作品としての評価も結構高い(この作品をベストに押す人も多い)『ガラスの鍵』をこのまま捨て置いて、次に移るわけにはいかないな、と思い、30年も前のままの翻訳本を買ってきて読んでしまった。翻訳のリズムはやはり小鷹訳から移ると少しまだるっこしい(というか古臭いのね)部分があるが(訳さなくてもいいカタカナで済むような部分を強引に漢字ひらがなで訳すとそういう現象が起こる)、まあそれでも会話文主体のハメットの文章だから、非常に面白く読めるのであった。

 本作はネド・ボーモンという賭博師を臨時探偵に据えた、選挙裏話ストーリー。街には対立する二大勢力があり、謎の殺人がこの勢力間にくすぶっていた種火に多量の油を注ぐことになる。といっても『赤い収穫』のように戦争のような殺し合いが頻発するわけではなく、あくまで主人公ボーモンの動きを軸に静かな冷戦がこの街を二つの側に振り分けてゆくのである。またボーモンは街の暗黒街の顔役とかなり親しい間柄であり、もう一方の側からこっぴどいリンチを食らったりもする。それにも関わらず彼が決して人に服従するタイプではなく、究極的な一匹狼の姿勢を貫いているように描かれているところが、ハメット特有の頼もしさを感じさせてくれる。

 実にハードボイルドという言葉がよく似合う男たちと、嘘つき女たち。暴力と酒を伴侶とする、社会の怪しげなはみ出し者たち。裏切り者。金銭欲や権力欲に降り回される狡猾なインテリたち。服従しか知らないが権力の動きにだけは敏感な役人たち。都会には実にさまざまなキャラクターが満ちていて、この中で何かを貫こうとする者だけがその猥雑な欲望の迷路を前に進むことができるかのようである。

 形は一応ミステリー仕立てで、一言で言えば殺人事件の謎を追う賭博師の物語だ。しかし殺人事件の解明こそが選挙の鍵を握るとあって、夜のギャングたちが捜査にさまざまな迷彩を与えてくれる。ネド・ボーモンはこの迷宮の中をどのように立ち回るのか、といったことがやはりこの作品の見所になっているわけであり、ネド自身のハードな側面が作品を鋼のように独り立ちさせているのだ。ハードボイルドとは何か、なんて質問に対してはこの作品を読んでしまえば単純に明快なる答にあっさりと辿り着いてしまうのかもしれない。それほどハメットは鮮やかな人物像をここでも描いているのである。

 『デイン家の呪い』はなかなか見つからず、長編一作を残してしまったので、予定していたゴアズの『ハメット』も少し繰り延べにすることにしてしまった。小鷹訳が出揃ったところで『ガラスの鍵』を読み返し『デイン家の呪い』に取りかかろう、と思っている。

(1991.11.20)
最終更新:2007年07月11日 21:28