影なき男




題名:影なき男
原題:THE THIN MAN ,1934
作者:DASHIELL HAMMETT
訳者:小鷹信光
発行:ハヤカワ文庫HM 1991.9.30 初刷
価格:\520(\505)




 ハメットの筆がハードボイルドから都会派普通ミステリーへ移りかけたエポックとなる作品『影なき男』だが、悲しくもこれを最後にハメットは長編を作るのをやめてしまった。書けなくなり、懐が豊かになり、結核が進行する後半生が待っているだけだったのだ。ハヤカワ文庫の小鷹訳ハメットは現在ここまでの三作だけで、後の新訳が期待されるし、小鷹信光もじっくりと腰を落ち着けて、己れのライフワークに挑んでいることであろう。彼の三作における解説文だけでも十分ハメットの入門編のようになっているし、分量もたっぷりあるので、何なら立ち読みだけでもお薦めしておきたい。ぼくとしては、できたらこの三作にはぜひとも触れて欲しいところなのだけれど。

 さて都会派ミステリーといえども、主人公の基本パターンはサム・スペードやコンチネンタル・オプと変わらない。ポーカーフェイス。他人のセリフをそう簡単には信用しないだけの分別。既に多くの修羅場を経験しているだけの冷静な状況判断力。そういったものをすべて持ち合わせているニック・チャールズだが、他のハードボイルド作品と違う点は、さらに多くの物を持ち合わせている、いやむしろ持ち合わせ過ぎているという点だ。妻を持ち、金を持ち、仕事を持ち合わせている点だ。だから彼には切羽詰まったところがないし、サム・スペードのように追い詰められて捨て身になるということにもならない。

 もう一度仕事をこなしてくれと頼まれても、彼は依頼を容易に明白に拒絶してゆく。拒絶しながら徐々に事件の謎の中心に肉薄してゆくところに、主人公ニック・チャールズの非凡な才腕を垣間見るのだが、徹底して非情で冷静な視線と無表情とが、彼という40代にかかった「引退した探偵」の姿をベールで覆い、事件のすべてを大人のものにしている。作中出てくる男女二人の、大人になりきれない若者はニックには徹底して軽くいなされ、あしらわれる。この辺がハードと言えばハードにボイルされてはいると思う。

 失踪ものということで、つい先般読んだばかりのブロックの『慈悲深い死』とストーリーが混乱しがちになってしまったが、『慈悲深い死』に較べてなんとも主人公夫婦の存在が、事件に対して客観的であることか。そういう意味ではストーリーとしてはあまり魅力がないかもしれない。しかし、ハメットが技巧だけで極めて短時間の内に書き上げたという本書が、全米でハメットに最も収益をもたらした作品になり、さらにはTVシリーズ化されたという現実は、皮肉というだけではあまりにも不足な気がするのである。

 この後、戯曲家への転向を狙ったというハメットのねらいは良くわかる。本書は場面、場面でのセリフのやり取りが重要な役割を授かっている。彼がいかに会話を重視していたか、本作では顕著に見て取れるし、このテンポが後のハードボイルド作家たちの会話フレーズの基幹になっていることも同時によく実感されるからである。

(1991.11.16)