マルタの鷹




題名:マルタの鷹
原題:THE MALTESE FALCON ,1930
作者:DASHIELL HAMMETT
訳者:小鷹信光
発行:ハヤカワ文庫HM 1988.6.15 初刷 1991.9.31 4刷
価格:\560(\540)



 『赤い収穫』に続いては本書『マルタの鷹』。『デイン家の呪い』はついこないだまで御茶ノ水丸善にあったのが油断して売れてしまい、以後神保町界隈からもBOOKS《深夜+1》からも姿を消してしまい、入手できなくなってしまったのである。

 さて『マルタの鷹』は中学時代に図書館から借りてちっとも粗筋がわからなくてつまらない思いをして返した作品。しかし現在読み直してみると、さほど複雑なストーリーではなく、よく「ハードボイルドの基本」として挙げられるこの作品の、シンプルでしかも濃密な魅力が味わえるのである。粗筋のわかりづらさ加減では、何と言っても登場人物が段違いに多い『赤い収穫』のほうが遥かに上を行っていると思うのだ(^^;)

 で、サム・スペードだが、全くのポーカーフェイスで、己れの信条を守るために全力を尽くすという、これ全身タフガイの典型のような男。撫で肩なのに喧嘩が強く、推理小説の探偵より頭が鋭く、世慣れしていて滅多に他人のセリフを信用しない。まあ見事なまでに確立した一個の人格、ハードボイルドという言葉を集約すべき一個のヒーロー像なのである。ハードボイルドが馴染めない、読んだことがないという方には、チャンドラーやスペンサーやブロックよりもハメットを薦めたほうが遥かに説得力があると思う。無駄な贅肉を廃した徹底的なハードボイルドの基本形だけがここにあるのであり、後世のハメットに耽溺した作家たちがいかにそこに自分ありの肉付けを施してきたかが逆に一目瞭然としてしまうようなハードボイルド探偵小説の源泉がここにあるというわけだ。

 行動を客観的にクールに描くというヘミングウェイのやり方を、ミステリー小説に持ち込んだハメットは、チャンドラーに較べればぼくの周囲ではほとんど語られることさえなかったし、かくいうぼく自身チャンドラーから過去へと遡る作業を怠ってもいた。チャンドラー作品というのも黄金期があって、その時期の作品はとてもテンポのいい文体だし、泣けるほどの男の描写が頻出するが、ことハメットの場合泣けるシーンなんて全然ない。だいたいそれほど細かくは描写されていないのだ。敢えて三人称という視点を取っているのも主人公のなんやかんやの心理描写から大きく距離を置いておきたいハメット力学の方法故ではないかと思う。

 その淡々とした行動描写と、唯一性格を露にする会話の妙技とが、小説をきれいに最低限の部分まで削り上げシェイプアップさせているから、読者にしてみればハイテンポで能動的なリズムとともに、ストーリーの味のある面白さを堪能できると思う。その中で描かれる人間たちの、何とも実に生き生きとしていること。これが60年も前の作品なのかと俄には信じがたい鮮やかさが、この作品にはこめられているのである。

(1991.11.16)