チェイシング・リリー






題名:チェイシング・リリー
原題:Chasing The Dime (2002)
作者:マイクル・コナリー Michael Connelly
訳者:古沢嘉通・三角和子
発行:早川書房 2003.09.15 初版
価格:\1.900

 そもそもハリー・ボッシュ以外のノン・シリーズは少ないと言える作家だ。『ポエット』『わが心臓の痛み』に続いて、これが三作目。日本の作家がシリーズだけでは食べて行けない現状に比して、アメリカの作家は、売れればシリーズだけで食べて行けるのだろう。だから日本の作品のようにレギュラー登場人物のメンツだけを揃えてシリーズと名乗るような空疎さはない。シリーズはそれなりにシリーズの個性や変化そのものを売りものにして前向きにぐいぐいと進んでゆく。それがアメリカ小説のシリーズの意味であり、ハリー・ボッシュのシリーズもまさにだからこそやめられない。

 そのシリーズの世界が堅固なものであればあるほど、ノン・シリーズ作品もその重力に引っ張られる傾向さえある。とりわけマイクル・コナリーのノン・シリーズはその実、ボッシュの生きる世界の陸続きの地平にばかり展開している。本書にもそれは同じことが言える。

 本書の主人公はトラウマを背負っているいわゆるエグゼクティヴである。経済的に大成功を収めようとする瀬戸際の科学技術、それもナノ・テクノロジーの科学者という畑から一大企業としてジャンプアップを図っている。このまま成功者になることが色濃い。なのに彼を牛耳るのはトラウマ。幼い頃。義父。姉への虐待。そして姉は何を隠そう、ドールメーカー事件の犠牲者であった。ボッシュの地平。

 科学者の城を築き上げ、その安全の中に閉じこもろうとする主人公。ボッシュとは真反対に立ち尽くす小市民的な青年。多くの失敗の中から成功を得んとするあがきの中で、彼はインターネットの中の娼婦を追跡する。ちょっとしたきっかけなのに異常な追跡欲を見せ始める。コナリーの作品特有の取り憑かれたような情熱と偏りが見えてくる。抉らなければならない暗黒が立ち現われる。

 科学という安全で正確な根城に、不確かな犯罪の影が迫ってくる様子。そのアンバランスが全体を支配する。いつもと調子が違う、少しホンキートンクとも言えるメロディ。だからこそ、それがどこでボッシュの世界、あの絵のなかの残虐なこの世と繋がってゆくのか。その一点こそがこの作品の見所である。罠も影もすべてその世界から足音を立ててやってくる。そのスリルを演出するコナリーならではの一流の味つけ。

 いつもの調子ではなく、それでいて、いつものどんでん返し。ミステリーとしての格調。多くの意味で広大になり、視点が切り替わるようになってきたコナリーの新たな魅力を、敢えて味わい、次のボッシュの物語へと繋げてゆきたい一冊である。

(2003.10.11)
最終更新:2007年07月08日 17:12