シティ・オブ・ボーンズ






題名:シティ・オブ・ボーンズ
原題:City Of Bones (2002)
作者:Michael Conelley
訳者:古沢嘉通
発行:早川書房 2002.12.31 初版
価格:\1900

 この作品を読み終えると、世の中とは実にさまざまな暴力装置に満ち満ちているのだ、というあまり信じたくはないリアリティに行き当たる。

 権力の闇をまるまる抱え込んだ警察という組織は、国家によって公認された銃器を手にすることで、より決定的な暴力装置として機能してしまうことがあるようだ。政治的な部分においても、個人感情の部分によっても。ハリー・ボッシュがいつも組織から警戒され抑制される立場になりがちなのは、誰よりも執拗に真っ当であろうとする極めてストレートな個性ゆえだろう。誰も彼ほどに重い何かを抱えて仕事に対峙してはいないか、あるいはそのように見える。

 ベトナムのトンネルネズミの時代に味わった恐怖が、未だにボッシュの肚のなかで泡だっている。極めて死に近い場所を感じて過ごしたベトナム。また、母を殺されて孤児になったことで、影のようにすぐ隣につき従っていた破滅と言う名の友人。極めて特異なトラウマに疼くからこそ抱え込まざるを得なかった虚無。その内的な虚ろを、まるでシジフォスのように捜査にかかり切りになることで、限りなく満たそうとするが、満たされることはない。

 少年の骨が発見されたことで、ボッシュは自分と犠牲者とを重ねてしまう。捜査自体が、ボッシュにとっては鏡と向き合うような日々となる。エディ・バンカーの『リトルボーイ・ブルー』に描かれた世界。一度挫けると立ち上がることのできない少年非行とその懲罰システムという暴力装置。彼らの将来を長い刑務所暮らしと短い娑婆生活との往復という、ゴミのような人生に変えてしまう、出口なき法社会。

 マスコミという名の、人の生命より経済の力学で動き出す恐るべきもう一つの暴力装置。検死官までがまるでスター気どりで、おまけに蝋人形のように血が通わない。分刻みで発表を急ぎ、真実とは逆方向に顔を向けた愚かな取材による個人破壊。

 自殺という人間内部に刻まれた暴力装置のいくつもがボッシュを取り囲み、どこかで煮立っているような街。骨が地中からその存在を浮上させようと鳴り響く天使の街。そんな中で正義を執行することの困難さ。事件というものが生じさせる人間と人間との運命の綾模様。

 ボッシュはとりわけエキセントリックな刑事というわけではないのだ。ただ、他の多くの捜査官よりもひたむきなだけだ。捜査以外にあまり意識を向けることがないという点では相当に特異だとは思う。恋愛のさなかにも意、識的に抑制をしないと捜査に心が奪われてしまう。意図して捜査を忘れていられる時間を作ろうと、とても不自然な動きをせねばならない男。

 救いなき事件の捜査を進めてゆくなかで、これ以上ないほどの最悪が二度も起こる。容赦なく奪われる生命。死に囲まれながらやがて捜査を完了するボッシュの先にあるものが、何となくこの作品の半ばにして見えてきてしまった。ラストシーンがずっと頭に住み着いてしまった。

 ボッシュ1950年生まれの52歳。2001年の1月に事件を捜査。そして……。

 ぼくはこの作品で、シリーズは終わってしまうのだろうと、ラスト50ページくらいの間ずっと思っていた。それくらい、捜査という行動が彼を袋小路に追い詰めてゆくかに見えた。解決に向かう事件も、例によって暴力装置である同僚たちのジューサーに絞り尽くされたカスのように味気ないものになってしまう。ボッシュが本作で抱え込んだ溶鉱炉のような虚無に出口を見つけてやることができたとは、とても見えない。

 だから、よく考えてみれば、このシリーズがこれで終わるわけはないのだった。

(2003.01.07)
最終更新:2007年07月08日 16:56