わが母なる暗黒





題名 わが母なる暗黒
原題 My Dark Places (1996)
著者 ジェイムズ・エルロイ James Ellroy
訳者 佐々田雅子
発行 文藝春秋 1999.7.20 初版
価格 \2,476

 エルロイの生の声に初めて耳を傾けることができる。彼の抱えた過去の重さに初めて触れることができる。エルロイの作家としての現生活に至る曲がりくねった地図を初めて開くことができる。警察小説、その中のヒーローたち、力、強さ、暗黒史、葬られる女性たち。エルロイの傾斜してきたすべてのものの現実を見つめることができる。

 エルロイの過去への旅が始まる。ぼくらは現在から、遥かな遥かな過去のLAへと彼の足跡を追う。実に丹念で途方もない旅。過ぎ去った時間という大きな暗黒の壁の向こうに消え去った真実を彼が求め始めた。ぼくらは彼の捜索活動に随行する。

 一方で永い時間を主人公にしたかのようなトマス・H・クックの美しい作品群があり、一方で解決の困難なエルロイの母の殺害事件がある。50年代の歴史、ハリウッドに関わろうとするエルロイ。母の死を知ったときの彼の状況が明らかにされる。母と父との青春、時代が明らかにされる。

 それまではエルロイ自身も小説の形式で片づけてきた魂の病歴を、この本を作ることにより一気に解決に持ってゆこうとする。事件の解決を求め、結果がどうであれ、最終的には心の癒しと、母との和解を……。

 非常に重要なページが過ぎてゆくが、それはどれもエルロイの個人史であり、一方ではアメリカの歴史の一ページでもある。彼の創作の秘密の一部が明かされもする。彼の費やした母親殺害事件の捜査活動への労力と時間は驚くべきもので、彼を援助する者たちの真剣さまでが行間から伝わってくる。

 誰もに置き去りにされた一人の女の殺人事件を、被害者の息子が時間の厚みのこちら側から探索する。その捜索がどれだけ根気よく行われたものであるのかは、この本の記録から十分に読み取ることができる。捜索の過程で殺人事件に群がる多くの迷える魂、多くの人の虚言・幻想にエルロイは耐えねばならない。骨の折れる仕事である。

 その中で次第に形を取ってゆく母。そうした母への初めての理解。いや、和解。

 極めて個人的なこんな物語を、赤の他人であるぼくが読んで、なぜこうも強烈なのだろう? 小説でもなく、サービスも不足していると思う。エルロイは自分のペースで母と対峙し、自分の記録の仕方でこれを書いたのだと信じることができる。なのに、なぜ遥かに隔たった文明、国家、風土のもとに生きるぼくが彼の個人的物語なぞにこうも関心を抱いてしまうのだろう。こんな残忍な事件・暗い旅路の中に人間の普遍がいくばくかでもあるのだというのだろうか? ほんとうに不思議なことだと思う。

(1999.08.29)
最終更新:2007年07月08日 16:38