泥棒は選べない



題名:泥棒は選べない
原題:Burglars Can't Be Choosers (1977)
作者:ローレンス・ブロック Lawrence Block
訳者:田口俊樹
発行:ハヤカワ・ミステリ 1980.04.15 初版 1988.10.31 3版価格:\780

 まずは、私がこのシリーズに関しては、すっかり遅れてきた読者であるということから告白しなければなるまい。一方でマット・スカダーのシリーズや短編集、他のノンシリーズ長編など、この作家の作品は大好きで次から次へと手にとってきた一方で、なぜこのシリーズに食指が伸びなかったのか、我ながら不思議でならない。

 スカダーものが陰であれば、この泥棒バーニー・シリーズは陽であるというのが通説である。これまで読んできた短編集の中にも、実はこのバーニー・ローデンバーはしっかり登場する。もちろんスカダーの登場する短編も、他の短編専門キャラクターのシリーズも、短編集にはけっこう収録されている。殺し屋ケラーなどは長編もあるにはあるが、どちらかと言えば短編向けキャラであろう。

 そういう意味で、泥棒バーニー・シリーズがまったくの初めてというわけではない。しかし短編で読んでいるキャラクター設定では、やはりバーニーの素性はわかり切れない。このシリーズ第一作の長編を通して、まずはバーニーの言葉に耳を傾けなければならない。彼の個性・特徴・主義・性格などを推し測らなければならない。そんな気持ちで読み始めようと思ったのだ。日頃新刊に追われ、未読本の読書だけでひいひい言っている身には、そうした未読本に背を向け古い作品に取り組むというのは、それなりに覚悟入りの贅沢な行為なのである。

 本書を読み始めて気づいたのは、多くの点で殺し屋ケラーのシリーズとの共通点であった。殺し屋も、泥棒も、反社会的、アウトローな、いわゆるつまはじきであり、夜と闇を象徴するような、悪の存在であるはずだ。ところがブロックの作り出した彼らは、仕事を仕事と割り切りつつ、普段のわれわれと同じように生活を愉しんだり、同じように感じたりする部分があり、いつの間にか読者は普通の人が事件に巻き込まれてしまい、大変なことになったというような同情的視点で見るようになる。しかし、ケラーは標的を殺すことで、バーニーはどんな鍵でも開けてしまうことで、この人たちが極めて特殊な職業に就いていることを思い出させる。

 暗黒小説のヒーローにだってなれるはずの犯罪者たちという一面が、われわれと変わらない人間的感性を持っているということの矛盾こそが、両シリーズの個性であり、ブロックの手法なのである。殺人も窃盗も、どちらも彼らにとっては仕事に過ぎず、仕事を完全にこなそうとするプロ意識と、仕事以外ではとても趣味た娯楽の多い実に豊かな日常生活を過ごそうという生きる意欲まで感じてしまうのである。なぜこのようなプラス志向を持った人間たちが、犯罪者になったのか、よくわからないところもあるが、既にその設定からしてブロックの不思議世界なのだ。

 ケラーが旅、その地の料理、切手収集などを愉しむ代わりに、バーニーは仕事をしない日常生活をガールフレンドと気楽に送ることを愉しむ。生活費がなくなりそうになると仕事をするが、仕事をやり過ぎない。生きてゆく一つの方便としての盗みであり、鍵を開け、金目のものを奪ってゆくことは、彼の達成感を呼ぶ。どこまでも楽観的なプラス思考で自分の人生を捉える、という意味においては心底見習いたいものすら、この人は持っている。

 そういう彼を騙そうとする輩がおり、彼を巻き込む事件が起こり、彼は平和を求めて、また別の鍵をこじ開けてゆかねばならなくなる。大方そんなストーリーがシリーズにおいては続いてゆくのだろう。ケラーとの相違点としては、長編のシリーズ主人公であるということ。短編主人公であるケラーよりも、ずっと豊かにバーニーは、その生き方、人生観、性格などを描写することに時間が費やされてきたはずである。今も、継続的に出版されている本シリーズ、時間を縫って読み進めてゆこうかと思う。

(2007.07.08)
最終更新:2007年07月08日 15:57