緋色の記憶




題名:緋色の記憶
原題:The Chatham School Affair (1996)
作者:Thomas H. Cook
訳者:鴻巣友季子
発行:文春文庫 1998.3.10 初版
価格:\543



 ぼくのとても好きな作家の一人であるクックでありながら、読みそびれてしまった。いつも『このミス』の常連作家でありながら今回は読み逃してしまった。そして今年になってこの本を遅れ馳せながら手にとって、そしてページを開くなり瞬く間に作品の世界に引き入れられる自分を感じて、読みそびれていたことを、ぼくはとても残念に思った。クックはやはりクックのままで、この作家独自の密度の濃い時空間をそこに用意していた。

 前作『闇をつかむ男』から、最近のトマスはこれまでのハードボイルド作品から離れ、時間軸を遡行するロマン的傾向に作風が展開しているとのことであった。当時の解説などでは『チャタム校事件』と原題のままに触れられていた作品の邦訳が本書『緋色の記憶』である。

 人生の限りにおいて最大限に古い記憶を語る老人の追想の形式を取っているが、この文体だけで多くの読者は時間軸の果てに連れ去られてしまうのではないか。それほどしっとりと叙情に富んだ文体が、昔の物語を分厚い時間というオブラートにくるんで語ってゆく。

 謎があって殺人があって被疑者がいて、そして若い主人公である「わたし」がいて、それが今となっては輻湊している。追想の文体というのにはそれなりの仕掛けがあって、それは必ずや主人公の現在の心の状態をフィルターとしていることだと思う。だからあのローレンス・ブロックの名作『聖なる酒場の挽歌』は限りなく切なかったし、この作品は限りなく甘酸っぱく非情なのだ。

 事件そのものにトリックなどはさしてなく、どんでん返しもいらない。本当にぼくらが小説を通して味わいたい何ものかを確実に秘めている作品として、たまらなく上質で、たまらなく心打つ一冊なのである。

(1999.03.07)
最終更新:2007年06月28日 23:25