孤独な鳥がうたうとき




題名:孤独な鳥がうたうとき
原題:Peril (2004)
作者:トマス・H・クック Thomas H. Cook
訳者:村松 潔
発行:文藝春秋 2004.11.10 初版
価格:\2,300



 何だか似たような雰囲気の小説を読んだことがあると思った。はっきりとストーリーは思い出せないのだが、クリスマスの夜のある一日だけを描いてとてもお洒落だったミステリー、エド・マクベインの『ダウンタウン』である。包装紙は要らないから、そのまま直接カバーにリボンをつけてクリスマス・プレゼントにしたいような本であり、それもクリスマス直前に(イブだったかどうかは記憶にない)、出版されたものだったと思う。

 エド・マクベインならこのような本はお手のものだと思う。そんなお洒落で軽妙なミステリーを、それでいて人生の艱難辛苦を舐めた人でなくては決して書けない深みのある人間描写を、エド・マクベインなら巧妙にいつも書いてきたからだ。都会の雰囲気を身にまとった綺麗でとてもまとまりのよいストーリー。そうした本をまさかトマス・H・クックが書くとはよもや思わなかった。

 クックはどちらかと言えば重たいイメージのある作家だ。軽妙洒脱という読み物からはおよそ遠いところに立つ作家だと思っていた。フランク・クレモンズのシリーズはあろうことか「ネクラ探偵」という呼称で知られた。殺人事件を通して人間の暗い情念を、心の奥底にある闇の深さを描き、それでいてとても柔らかな文章で綴ってゆく格調の高い作風。誰もがいつでも認めてしまうであろうその文才にぼくは常に喝采を送ってきたが、そこには常に生真面目なまでの文体へのこだわりが感じられた。

 初期ハードボイルドから、記憶シリーズのウエットな一人称独白文体。さらに続く『心の砕ける音』に始まる新段階といえるクックは、シックな文章力を駆使して、たまらなくウエットで、叙情性のあることばを高レベルで書き続けてきた。そうした裏打ちがあるからこそ、本書のようなショートシーンで紡がれたキルト織のような親しみやすい洒脱な長編に挑んでも、そこには活き活きとした人間たちのドラマが満載されているのだ。

 どちらかと言えば登場人物数の比較的少ない作風であるクックが、幾人もの都会生活者の心のありようを語り出し、特定の主人公ではなく、街そのものに唐突に現われる人々の再生のドラマをいくつもいくつも重ね合わせてゆく。不思議な体験であり不思議な感覚だ。作者名を伏せられたらクックと言い当てることができないだろうし、クックと知っていれば、クック以外の何ものでもない繊細さが散りばめられているように見える。

 クックの才能がまた一つ別の次元へはばたいた、実に新しい一作だ。実のところWOWOWのオリジナル・ドラマ『心の砕ける音』を見て、ヒロインを演じた鈴木京香の溢れるような存在感にどきどきさせられたものだ。本書では、セーラという女性が、やはり大きな夜の海に彷徨い出す。クックの小説をいつも確かに輝かせるヒロイン造形の妙は、本書でも健在である。

(2005/03/13)
最終更新:2007年06月28日 22:45