アナン、





題名:アナン、 上/下
作者:飯田譲治/梓 河人
発行:講談社文庫 2006.02.15 初版
価格:各\695

 北上次郎という読書の鉄人が、本書の巻末解説を担当している。彼はこの作品を読むまでは、飯田譲治という人について全然知らなかったのだそうだ。映画やTVドラマに興味があればまだしも、『アナザヘヴン』、『ナイトヘッド』などで、飯田譲治がそれなりに印象的な映像作家であることを知ることはあっただろう。

 また飯田譲治の原案を文章に焼き付けている梓河人という豊かな表現者に関しては、飯田譲治という人を介してしか、なかなか接することができない。梓氏は縁の下の力持ちでありながら、プロの仕事を確実にこなしている。映像化されたものと小説として書かれたものの感動の重さが同質である辺りにも、彼の役割の重要性は、充分に垣間見られる。

 ホラーともSFとも犯罪小説とも取れる異色のジャンルでありながら、どこか日本の現代に生きる生身の人間のリアリズムを描き、そして常に人類の行方についての遥か未来を見据えたようなところのあるこの二人の作風は、ぼくにとっては、かつての手塚治虫みたいな存在でもある。特定の縛りを自らに設けることなく、自由にエンターテインメントのテクニックを駆使し、ジャンルにこだわらぬ独特な世界構築を果たしているのが飯田譲治と梓河人だ。

 本書は2001年に『アナン』というタイトルでハードカバーにより上梓されている。当時からこの作家たちを追跡していたはずのぼくが、購入を躊躇ったのは、何よりも「スピリチュアル・ファンタジー」という余計なコピーのおかげである。これは北上次郎さんも同じことを書いているのだが、ファンタジーというだけで尻込みをしたくなる人間にとって、この本は、作家が作家であれ、とても取り付きにくい先入観を植え付けてくれた。

 ところが、実際にこの小説を読んで、やはりというか、ぼくは久々に本当の意味で感情を揺すぶられてしまったのである。とりわけ父と子という題材において、個人史の追体験までをも求められることになった。例えば、『砂の器』の映画化作品では、延々綴られる父と子の巡礼の旅風景は観客の涙を否応なく誘うものとして有名である。本書はまさにその種の張りつめた空気を伴って、とてもピュアな、人間の根源的なところを、震わせてしまう。

 冒頭、東京に雪が降ったら死のう、とかねてより決意していたホームレスの流(ながれ)は、最後のご馳走にと漁っていた高級料亭裏のゴミ袋の中から、まだ生きている赤ん坊を発見する。段ボールハウスのなかで、大勢のホームレス仲間たちの助けを借りながら、赤ん坊はかろうじて育ってゆく。ところが赤ん坊を抱き締めると、誰しもが自分の思いを言葉にして語り出す。語ることのできないのは、記憶喪失者である流だけだ。第一部は、ホームレスの中で育つ不思議な捨て子の物語に終始する。赤ん坊の不思議な脳力を取り囲んで、それぞれのホームレスたちの個性溢れる存在がたまらなく温かでユーモラスで、ページを繰る手が止まらない。

 その後、赤ん坊を連れた流は、司法の手に追われるようにして都会を後にする。千葉の海辺の町に流れ着き、タイル細工の家業を持つ家族の物置に、住み込み職人としてお世話になる。記憶を超えて、流はどうやらタイル職人としての腕を持っていることがわかったのだ。捨て子はいつしかタイル遊びに夢中になり、徐々に美しいモザイクを生み出す天才アーティストとして成長してゆく。

 捨て子の名前はアナン。赤ん坊を包んでいた古新聞の記事で目にとまった名前だ。もちろんそれはきっと国連事務総長の名前だったろう。

さて、他の誰にも語れぬことを、誰もがアナンには打ち明ける。アナンはこれを解決もしなければ助言もしない。ただ、聞くだけの存在。人々は、ただ話すことで、癒しを受けてゆくように見える。まるでサイコ・セラピストの診療室のように。カトリックの懺悔のように。

 この本は、流という記憶喪失の父と、アナンという、自らも、特殊能力に悩む捨て子との、14年間の物語だ。二人はどこからやってきたのかわからないままに、多くの個性ある老若男女と出会いつつ、様々な人間悲喜劇を生み出してゆく。

 飯田譲治と梓河人の物語には、いつもこれといった謎の解決はない。『アナザヘヴン』は人間の脳に成り代わって侵略を進める宇宙生物の話。『ナイトヘッド』は超能力少年たちの逃避行の物語だ。この『アナン、』にも、実は、大勢の奇異な人間が、出没する。外傷が瞬く間に再生する健太は、自分を宇宙人なんだと告白するクラスメイトである。ホームレスの電波青年は、知的障害児でありながら、予知能力を発揮する。芸術家の宙太郎も同じように予知能力を持つ。登場人物のうち二人はどうも殺人者であるらしい。殺された女性が幽霊となってアナンを助けるシーンだってある。だが、それらの一つ一つの不思議はとりわけ追求されない。物語の方向性はアナンの成長の方角だけをしっかりと捉えたまま離そうとしない。

 確かにこのストーリーの範疇は、超常現象・怪奇現象に満ちたファンタジーであるのかもしれない。だが、もたらされるエピソードの蓄積は、むしろどんな現代小説よりもリアル極まりない物質で固められている。地理的にも時代的にもこれといった具象は示されないが、こうした荒っぽいプロットのなかで、優先され扱われてゆくのは、常に人の心のありようの問題だ。これだけは何よりもリアルである。人間の厚み、深み、奥行きといったものが、あるがままに描かれるために、薄っぺらで型どおりといったシンプルな人間は全く出てこない。どの人間も複雑で、予測しにくい人ばかりだし、どの人間にも単一の解決策は与えられていないように見える。それが本書をとても高く価値づけているように、思う。

 宝探し、犯人探し、銃撃シーン、追跡と逃走、政治汚職にラブロマンス。エンターテインメント要素はてんこ盛りだから、退屈させられることがない点も瞠目に値する。

 そして、感動のラストシーンへ。

 ぼくは、不思議なことに、本書を読みながら、いつの間にか自分が父にも子にもなって、自分史を追体験させられている事実に気づく。正確にはそれは父ばかりではなく、自分ばかりではない。ぼくの弟が死んだとき、母よりも何故か慟哭する父の姿のほうが悲しく見えた記憶が、唐突に蘇った。また、赤の他人であるはずのアパートの大家の一家に、ぼくは引っ越してから長い間、夏休みともなると預けられていたのだが、それほど一家に愛され、ぼくもなついていたあの日々のどこかの時点にぼくの記憶は戻ってゆく。大家の、実直を絵に描いたような主人が、真夜中にぼくを背負って、雪の東京を町医者に向かって走ってくれている光景である。あのときのあの温かな背中を、吐く息の白い湯気を、ぼくはまたもや思い出した。一生忘れることができないぼくのなかの宝物のような時間である。

まるで人類としての父と子であるかのような思い、つまり幼い子供を守るために自分がもう一度生きてみようと決意した冒頭の流のような思いは、時には実の父と子を流れる凡庸な時間を凌駕することだってあるはずだ。

 こどもは、そうした特異な時間に注がれた大人たちの愛をちゃんと受け取り記憶に焼きつけるものだ。永いこと、忘れることなく。心の奥底の部分で、確かに。

 ぼくは、日々、我が子を見る。じっとこどもたちの未来を見つめるように。そんな、人類の最もピュアな本能を刺激してくれるのが、このような物語だ。時にはスリリングに、時には謎解きの好奇心で引きずり回し、また時にはユーモラスなキャラクターたちによる抱腹絶倒。次には彼らと一緒に悩み、多くの冒険に乗り出し、多くの困難にともに立ち向かう。そうして物語は、これ以上ないラストシーンへと収斂してゆくのだ。

 小説の可能性ということを思うと、この小説には何かがあると感じざるを得ない。非常に綿密に練り上げられ、こつこつと積み上げられたビルディングス・ロマン。こうした物語を、最良の形で生み出せる作家たちに、語り部としての天性の性(さが)を、どうしたって感じる。

作家たちは、多くの改稿を重ねた文庫版のあとがきで、こう書いている。『アナン』の物語は、6年後の今、文庫化されるに当たり、6年間の成長を遂げた。数年後に彼らが『アナン、』を見直すときには、そこには成長したまた別の物語が生まれてゆくに違いない、と。『アナン』は、接した人々と一緒に成長を遂げてゆく心の物語なのである。そしてアナンという少年に、ぼくらは忘れていた自分自身を語ってみることで、真の癒しが得られるのではないだろうか。

(2006/02/26)
最終更新:2007年06月28日 00:41