浄夜




作者:花村萬月
発行:双葉社 2005.09.30 初版
価格:\1,800

 本書カバー帯に「純」文学と書かれているが、恐れることはない。花村作品は、何文学でもない花村文学なのであり、他の何者でもない。本書も、例によって、純文学と呼ぶにはあまりにもおちゃらけた会話、つまり数多くの駄洒落や、軽妙トークに満ちており、このあたりは花村作品すべてにおける共通項のようなもの。彼の書く軽いエッセイなどに通じる諧謔と遊び心がリズミカルに展開してゆくのも、いつもどおり。

 作品がどこに向かってゆくか想像しにくいのも、もちろんいつも通り。最初は乗りが悪い感があるが、それも一見無縁とも見える、男女二人の主人公が交互に、勝手に自分の世界に没し切っているからだ。そのあたりだけ見ると、萬月史の中で中だるみに近い時期の作品を想起させ、やや心配になる。

 だが、『欝』以降、あるいは『皆月』以降と言っていいか、そのあたりからの花村作品は、ひところの中だるみ傾向にすっぱりと別れを告げて、ずっとずっと気持ちを入れた文章を書き綴ってくれている。本書でも徐々にヒートアップしてゆくのがわかる。特にヒロインの方の逸脱が凄まじい。

 電車の中でなにげなく出くわした舎人という醜い中年男との関わりが、何とも運命的で、逸脱はここから自由度を高め、奔放な萬月ワールドの面目躍如となる。

 とても単純化してしまえば、性と暴力がこの作家の大きなテーマであるのだが、これまでの作品では、性と暴力は決然と分断されていたように思う。性は生であり、正であり、創造であり、愛であるが、暴力は死であり、負であり、破壊であり、殺意であった。本書では、初めて(?)この二大テーマが融合する。SMと言ってしまえば、あまりに類型的になるが、破壊されることが快楽である舎人という存在が、この作品の核になってゆくあたり、花村ワールドの新しいビジョンと言うべきか。

 男と女の二人の主人公がどちらも、SとMの機会に晒され、どちらも浄化を体験する。浄められる時間を自覚する。聖なる夜というのでもない。ふとしたことから知り合った互いの異常なるパートナーが、彼らに新しい世界観を植えつけてしまう。いともあっさりと。

 花村萬月氏のホームページを見ていると、若い作家を育てる、文学指導者的スタンスの作家像が最近強まっているように思う。本書では彼の戯画化されたモデル花山太陽という作家が登場し、派手な登場と派手な退場を見せてくれる。小説教室の先生という役柄で。このあたり、公私、裏表を類推する材料として、ある意味興味深い題材を本書では扱ってくれていると思う。

 女性主人公は花山小説教室の生徒だが、過食嘔吐に悩んでいる。男性主人公は、花山太陽の担当編集者として、小説作りにプロの視線を向ける。この二人が作家を軸に交錯したときに、作品は大きく変容する。逸脱の果ての変容。

 巻末の初出案内によれば、この一部と二部の間、5年の執筆ブランクが見事に空いている。一度中断された作品が5年ぶりに再開されており、変容はさらに突き進む。最も一部にて主人公らのあまりに強烈な個性が既にできあがっているから、読んでいる側にとってその空隙は存在すら感じさせない。常に逸脱と変容を作風として印象付けている作家だからこその賜物であろう。

(2005/12/11)
最終更新:2006年11月23日 20:53