パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない



題名:パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない
原題:Billy-Ze-Kick (1974)
作者:ジャン・ヴォートラン Jean Vautrin
訳者:高野 優
発行:草思社<ロマン・ノワール>シリーズ 1995.08.01 初版
価格:\2000

 昨年『グルーム』ではじけた感のあるジャン・ヴォートラン邦訳第一作目がこの作品。四ヶ月後には『鏡の中のブラッディ・マリー』も同じ草思社の<ロマン・ノワール>シリーズとして発売されるのだが、その後、昨年の文春文庫<パルプ・ノワール>シリーズで『グルーム』が世に出るまでは、大きく取り上げられたとは言えなかった。当時はまだ暗黒小説の地位が今以上に低迷していたのかもしれず、ぼくが知らないだけかもしれないが、ヴォートランの名が話題になってはいないと思う。少なくとも1995年~1996年の『このミス』をひっくり返してみても、ニ作のタイトルはどこにも見当たらない。

そうした不遇の時代を貫いて生き延びてゆく作品がいくらでもあることをぼくは知っているし、現にこれらのニ作は現時点で絶版になっているわけではない。ミステリチャンネルのホームページでは『グルーム』は見事昨年のトップにランクされているし、事実娯楽性も十分に兼ね備えており、奇妙でねじくれていながらも大衆のもとにある小説作りがなされているのがヴォートランの世界であるように思う。『さらば友よ』『ジェフ』の映画監督ジャン・エルマンの顔を持つヴォートランならではの、路上の視点から描かれた世界と言えるかもしれない。

本作は『グルーム』とも繋がる郊外の団地を舞台にしたシリーズ四部作の一角を担う。残念ながらシリーズ第一作の『赤い投票』は未訳。団地の非行少年たちを描いた作品という。訳者は『グルーム』の解説でヴォートランの作品をどんどん紹介してゆきたいというようなことを書いているから、この作家の名前が売れてゆけば、最近のトンプスンのように邦訳も加速してゆくかもしれない。

『赤い投票』に続く団地シリーズ第二作がこの作品。驚くのは『グルーム』の主役ハイムにそっくりの青年とその母が登場すること。母親はハイムの行状に腕をよじっておろおろするばかり。まるで『グルーム』の世界がそのまま団地の中心に引っ越してきたようなイメージ。刑事たちはスタイリッシュというところから遠く離れたところに住む奇妙で滑稽な連中ばかりだし、登場人物はグルーム以上に多種多様であり、明確な連続犯罪が全編を駆け抜けるタイプのきちんとしたミステリのかたちで描かれており、『グルーム』に比べるとずいぶんシンプルでわかりやすく、なおかつ活劇シーンさえ豊富である。

『グルーム』がハイムの脳内の世界に半分占拠されたような小説であったのに比して、こちらはさほど妄想の世界には重心が移動していないために、登場人物たちの豊富さにそのまま委ねられたような視点の入れ代わりが激しい。団地の重任たちが奏でる不協和音で織りなされた混沌の狂騒曲といったところである。混乱にはどんでん返しもフーダニットも盛り込まれているところが、かえって意外に思えるほどだった。

ヒロインとも言うべき七歳の女の子ジュリー=ベルトがひたすら愛らしい。いつも人殺しを夢見る残酷な少女であり、パパである刑事シャポーには犯罪者ビリー・ズ・キックが捕まらないことを確信している。この小説の陽気でたくましい闘いの一面を司るのは紛れもなくこの少女と六歳の男の子エドゥアール、そしてハイムの生まれ変わりとも言うべき精神分裂病のイッポの三人組である。さらに彼らの想像の中から現実世界にはみ出てきた連続殺人者ビリー・ズ・キックなのである。まるでゾロのように。ビリー・ザ・キッドのように。

この作品の背景は1974年。パリでは右翼と左翼のデモがぶつかり、暴力と政治が混じり合う。世間からはじき出されたような者たちの住む団地では、それぞれがそれぞれの抵抗の詩を歌っている。子どもたちや、余命いくばくもない老人ですら。この物語を支えるのはそうした時代のシステムに対する犯行の論理である。暗澹たる世相が生んだ生活史の中にこそ路上の視点からノワールが誕生してゆくことを、すでにこの時点で作品は約束しているのではないだろうか。

(2003.04.04)
最終更新:2007年06月26日 23:03