氷の天使 (『マロリーの信託』改題)



題名:氷の天使 (『マロリーの信託』改題)
原題:Mallory's Oracle (1994)
作者:Carol O'Connell
訳者:務台夏子
発行:創元推理文庫 2001.5.25 初版
価格:\880

 竹書房から出版されて一時期その独特な作品のムードによって人気を博したが、その後絶版となりシリーズの新訳も出ることがなくなった。深く地中に埋葬されてしまったかのごとき不運なシリーズを、東京創元社が新訳というかたちで出版しなおしたというシリーズ第一作が本書。竹書房文庫では『マロリーの神託』というタイトルで当時のファンの脳裏に刻みこまれている作品である。

両者の翻訳を比べてみるとよくわかるのだが、暗喩や奇妙なねじれ、くせのある会話体といった、難解な文章表現がただでさえスムースな読解を阻むというのに、竹書房文庫版石川順子訳は句読点を多用しすぎた切れ切れの文章のせいかたいへん読みにくく感じた。ぼくは読み始めてすぐに務台夏子の新訳に切り替えた。それでもだからといって転がり出すように読み進むというわけにはゆかないのが本書。

主たる題材である連続老女殺人事件よりも、女主人公であるマロリーの物語に重心は置かれている。最初からシリーズの初作として構想されたものらしく、多くのマロリーに関わることが事件以上に語られてゆく。のっけから死体として発見されるマロリーの育ての親マーコヴィッツ刑事。既に故人となっているマーコヴィッツ夫人ヘレンの母性。マロリーを囲む刑事部屋の仲間たちとの適度な距離感。彼らを通して表現されるマロリーの孤高さ。マーコヴィッツの古いチェス仲間たちや、遺言を預かる<直感記憶>の天才・チャールズ。彼らのなかのマロリー。マロリーのなかの彼ら。

マロリー。もと泥棒。ストリート・チルドレン。現在はコンピュータのハッキングを特技とし、尾行が勤まらないほどの美貌。何の感情も湛えない瞳が、情操の欠落を意味している。畏怖をふりまく近寄りがたい気配。善悪の彼岸にいて、ハッキングも銃撃も厭わない。刑事でなければ凶悪犯になり得たかもしれない。張り詰めたピアノ線のような女刑事の物語。

かくのごとくマロリーの物語だけでも闇を多く秘めているというのに、この作品では扱われる事件そのものがまた錯綜して混乱を呼ぶことこのうえない厄介なしろものときている。ニューヨークでありながら、周囲とフェンスで隔絶された無菌病棟のようなハイソサイエティの住宅街。知的で金持ちで贅沢で人生をゲームのようにもてあましているグラマシー・パークの人々。彼らのみの上に突如降って沸いた猟奇的連続殺人。奇妙な欠落感をたたえた容疑者たち。さまざまな種類のナイフ。老女たちだけの降霊会。霊媒、ハッカー、インサイダー取引。あまりにも奇妙な個性が入り乱れる。誰もが重大な欠落を保有して狂っている。誰もが独自の世界に生きている。

本作の読みにくさは、それぞれの住民の脳内世界にアクセスするたびに読者が混乱を極めるためだ。マロリーを離れたサイド・ストーリーの主人公が何人も存在する。それぞれが抱え切れなくなった人生の重みを処理しかね、宙吊りになった日常をかろうじて綱渡りしている。だれもが容疑者になる素質を孕み、刑事マロリーの側にひそんでいて安定を欠いた世界の空虚に反響する。

サイコ・ブームのさなかに発表されたがサイコという箱には収まり切れなかったであろう作品。形の定まらない独自すぎる作品世界。今でこそオリジナリティあふれる破壊的なノワールも多いが、当時この作品の異質な肌ざわりというものはさぞかし強いインパクトを与えただろう。ニ月には最新作『天使の帰郷』が出たばかりのシリーズ。重く濃いシリーズだがぼくは追っていってみようと思う。少し遅い足どりで。じっくりと。

(2003/03/23)
最終更新:2007年06月19日 23:27