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ハンニバル





題名:ハンニバル 上/下
原題:Hannnibal (1999)
作者:Thomas Harris
訳者:高見浩
発行:新潮文庫 2000.4.10 初版
価格:上\705 / 下\743

 レクターの最終話を想像するときに、ぼくはもうてっきりFBIとレクターとの全面戦争以外にあり得ないと確信していた。それこそ行動科学課が、クラリスが、クロフォードが、レクターにとことん追い詰められてゆくストーリーを想像しては、わくわくしていた。そして俗物的な発想でから、レクターという至上最悪の殺戮者を、まるで怪物退治映画のように破滅させて終わってゆく楽観的で単純極まりないクライマックスをしか、ぼくは考えていなかった。

 ある程度作者がレクターへの愛着を前面に出してくることは想像がついたものの、ここまでレクターに肩入れしたプロットに仕上がるということまでは、さすがに思いも及ばなかった。作者はぼくの想像以上にレクターの中に強烈なヒーローの役割を見いだしていたのだった。

 三部作を通して見てくると、レクターは単純な善悪の構図での悪の側に回るということは結果的になかった。悪は常にもっとシンプルかつ当座の存在として他に用意されてきた。レクターは悪の存在以上に強烈に存在感を香らせながらも、常に脇役であり、デリケート極まりないスタンスを持った存在であり続けた。細い一本のワイヤー上を辿るようなもろく複雑な存在であり続けることを、小説はレクターに求めていて、だからこそ、前2作までは物語の主要なストーリーの常に枠外の存在として際だっていたのだった。

 しかし、レクターそのものを主人公に迎えるこの物語では、当然ながら、より悪に染まった相手役が必要とされた。力も金も動機も執念も持った存在。それでいて強烈な悪と醜悪とを撒き散らすような不気味極まりない存在。まさに、この物語の一方の主役であるメイスン・ヴァージャー。ハリスはまたもとんでもないキャラクターを造形しあげたものである。この人物の造形こそが既にしてシリーズ最終作を、ど肝を抜いた展開に持ち込んでゆき、読者をまたも唸らせてしまう。ハリスの力業はまだまだ健在であったんわけだ。

 批判的な評者からはきっとこんな指摘を受けるに違いない。「レクター・シリーズは最終作においてとうとうブラック・ユーモアに堕してしまった」……と。物語をハイ・アングルから見つめたり、時には時間軸を狂わせるかのような回想めいた文体と言い、これまでにない作者の側の遊び心をこの作品は感じさせる。クラリスの役割、そして狂言回しのようでいながら、最後に重要な役柄を与えられるポール・クレンドラーの存在などは、ときには黒い笑いを生じさせるほどである。重厚感とくそ真面目な緊張感が売り物であった作家のイメージが強かったために、この作品における余裕を老いがもたらす衰えだと見なす評者も少なからず出てくるに違いない。

 確かに異常というのは、あるラインを過ぎたところからは、悪夢的な笑いの世界である。デイヴィッド・リンチの悪夢的な映画がそれをよく経験させてくれる。

 しかし、とは言え、フィレンツェにおけるゴシック趣味と、その陰影の似合うレクターの存在。歴史と世界がもたらす彼の過去。クラリスの過去。より鮮明になる夢の中の羊たちの謎。すべてが明かされるという意味では、終わっていなかった『羊たちの沈黙』の正統なる続編であり、重厚さ、壮大さは前作以上の迫力を持って迫ってくるものがある。

 アートと言いたくなるほどに懲りまくった殺戮模様。食肉という生理的な恐怖を携えたレクターの遺伝子。トマス・ハリスのしつらえた状況設定。そして何よりも盛り上がり行くドラマ性。

 最強の小説が彼によってまたも産み出されてしまったのだ。

(2000.04.27)