ぢん・ぢん・ぢん



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作者:花村萬月
発行:祥伝社 1998.7.20 初版
価格:\2,800

 花村萬月の新作品世界としての『鬱』には今一つなじめなかったのだが、そのわけは、彼の一つの方向として純文学を志向しながら、半端な姿勢に終わっているかに見えるからだ。小説家としての私小説を目指し、それでいて最後には、これまでのビジネス・ライクに書かれてきた作品群を踏襲した愛と暴力との禁断の物語……。とりわけ実験的、作為的な表現方法にはうんざりした。改行の少なさ、表現の抽象。それが単純に読みにくく、ぼくには苛立たしかった。バランスが悪いというのが、ともかくぼくの感想だ。

 なのでこの作品も恐れてはみたのだが、読み始めて実にほっとするような日常言語の作品であった。萬月節とも言える、やわらかで、魅力的で、読んでいるだけで幸福を感じてしまうような従来の文体が戻っているのだ。抽象に走ることが皆無ではないにしてもそのバランスはとても心地よく感じられる。さてそうした心地よい文体で描かれた世界はと言うと……。

 一言で言えばこれは『地獄の黙示録』なのだ。現代の新宿を舞台に、独りの等身大の若者を、「闇の奥」へと狩り立てる<みちゆき>の物語なのだ。もともとロードノベルの多い作家である。<みちゆき>に端を発して小説を書いている作家だと言ってしまっていいくらいだ。だけど、この作品はこの厚みにして舞台装置の移動はない。旅になど出ない。現われるのは夜のネオン。昼間の都会。汚れた部屋と、ゴミのような生活、浮浪者たち、やくざたち、変態性欲者たち、裏路地、新宿ゴールデン街であり、もう一つの「不夜城」である。

 だからこそ、若き主人公イクオの<みちゆき>は、夜、闇、汚濁、混沌への旅である。花村萬月作品での「愛」の表現方法はいつも「性」と「暴力」という二つのかたちを取る。萬月という作家が表現するのではなく、萬月作品の作中人物たちがこのかたちで表現するのである、くれぐれもお間違いなきよう。しかしこの作品では性と暴力は愛の表現方法ではなく、問いかけの手段であるように見える。飢えるイクオが満たしたいなにかであり、なぜここに「在る」のかという究極の問いかけ。なぜここに「在る」のかを考える人間の特権……とインテリ浮浪者・時田さんに言わせているが、イクオの性と暴力は人間的特権として用いられている。

 あらゆるタブーを禁じたような性描写が連続するが、そこからはあくまで真摯でピュアな気配しか立ち昇らない。それはあくまで性のすべてがイクオの問いかけであるからだ。神なき何ものかへの問いかけ。

 そしてこの作品のもう一つの重要な性格として、一言で表現すると「インタビュー小説」とでも言うべき点がある。現代日本性風俗図鑑とでも言いたくなるほど、さまざまな種類の相手との性行為を通して、イクオはよく質問をする。相手もよく答えてくれる。一つ一つの会話がインタビューのように重ねられ、イクオの血肉になってゆくようである。作者はあとがきで無数の週刊誌を参考にしたことを書いているが、まさに風俗最前線インタビュー的に、多くの視点からのインタビューを敢行しているように見える。すべては問いかけ、求めの姿勢であり、ぐいぐい引っ張られるような要点を心得た対話であり、とりもなおさずこの作品の最大の魅力になっている。

 この終わりのない旅に、取って付けたような結末となったのは、イクオから離れすぎたサブストーリーとも言える別の主人公のせいだ。作者の最初の思惑と別に巨大に育ってしまったという則江のほうの物語は、終始まるでホラーで薄気味悪い。触感として非常に気味の悪いサブストーリーを育てた挙句に、より破壊的な衝動にもってゆくこのやり方も、萬月らしいといえば萬月らしいと納得した。イクオの通りぬけてきた煉獄のひとつが、最後まで熟成してしまった、できなりのプロットであろう。花村萬月も本当に小説家として熟成したと感じる理由のこれも一つだ。

 大変な下準備のもとに書き始めたであろう大長編小説を書きながらこねる。最後にはこの作品をイクオが書いた作品としてダブらせ「どうやって終わりにしたらいいかわからない」と語らせたのは、もしや本音か。すっごく矛盾のある終わり方だけど、つい許したくなるのは、そのあたりのプロットを重視していない、ぼくのような読者なのである。

 ともかくこれは日本最大の地獄行。あなたは『屍鬼』と本作、どちらが怖いだろうか?

(1998/12/31)