皆月




作者:花村萬月
発行:講談社 1997.2.20 初版 1998.4.3 2刷
価格:\1,700

 ずっときちんと完読していた萬月に躓いたのはこの本が手に入らなかったからである。ちょうどこの頃札幌に引っ越して間もない頃で環境も仕事も慣れぬ生活のなか、読書の余裕がなかった。大きな書店がどこにあるのかもわからず、手に入れたい本がなかなか発見できなかった。だからこの作品は、札幌の大きな書店の位置もだいたいわかった今ごろになってやっと手に入れた。重版になっていて良かった。

 そもそも萬月作品は初版絶版というハードカバーが多かったと思う。芥川賞を取る前には多くの作品の文庫化だって怪しかった。そんな中できちんと重版される作品というのは、何がしかの読者側からの評価を得たものに限られていた。『皆月』は、吉川英治文学新人賞を受賞したから、あっさりと重版に漕ぎつけたのだろうし、今の花村萬月の勢いならば今後も重版を重ねてゆく作品であるに違いない。

 萬月読者であれば、読み出してすぐに気づくことだが、文体が違う。「私」なんていう一人称が珍しいばかりか、かなり押さえた大人しい文体で、この作品はきちんとした普通のストーリー性を持って流れ始める。初期の頃はストーリー性をある程度抱えていた花村作品は、実はここのところストーリーを無視したような緻密な描写(主として性と暴力)で、非常にバランスを欠いていた。そうとしか思えないから、ぼくはここまで、『笑う山崎』『セラフィムの夜』を除けばほとんどの近作を酷評してきていた。

 ところが、本作は驚いたことに、作者が今回はきちんと書こうとかなり意識的に表現選択し、意図的に小説作法そのものをリニューアルしているかに見える。実際この後の花村作品を読んで行くとわかることだが、この作品は、確実に萬月小説作法の転機となる独特の味を持っている。この後の満月作品は超大長編を基調としてゆくことになるが、従来彼のディテール描写は薄い本にはバランス的にとうてい見合わないものだった。『皆月』は決して厚みのある本ではなく、むしろ平均的なそれであるが、ここにバランス感覚を持たせ、いつもの過剰なディテールを省いたり、流されて行くことのない抑制の効いた表現で、新しく書いてみたような本、つまりこの作者にとってはまた一つの心境地と言ってよさそうな本であるかに見える。

 作品のタイトルでもあり、作中でも語られる『みんなが月』であったという表現はその後『ぢん・ぢん・ぢん』の中でも作中人物によって語られる。人間の中に太陽はいない。みんなが太陽を反射する月でしかないというイメージ。太陽の不在は、神の不在に通じる何ものかであり、こちらのテーマはより壮大なイメージとして『ゲルマニウムの夜』へと繋がって行く。

 ディテールでは上の『みんなが月』のイメージはかなり思いのだが、全体を見ると、これは『二進法の犬』の相似形の小説であるように思う。まるで『二進法の犬』の下書きというべきか。コンピュータを相手にした堅気の主人公。その日常生活のずれが、もう一つの価値観の世界に主人公を呼びこむ。これは花村萬月的モラルの世界であるのだが、愛と暴力がさらに色濃く浮き出し、ごまかしの利かない世界でもある。萬月氏自身が身を置いたことのあるゆえにその価値観から抜け得ない、一つの世界であり、これは、堅気の読者にとっては強烈な引力を持った場所である。アキラがそれを象徴し、堅気の主人公はそれらの世界を肯定してゆくことで、身の置き場を最終的に確保している。乱暴に見れば『二進法の犬』の世界なのだ。

 そして『皆月』には二つの重要な価値がある。一つは大きな新人賞を獲得したことで世間と萬月との強い絆が生まれたこと。萬月にそれこそ足りなかったと思われる世間との絆であるだけに、今後小説が彼の生き甲斐となるきっかけになっているようで、嬉しいことこの上ない。エッセイで彼が語るようにこれからは好きなことを好きなように書いてくれる。ようやく……の思い。そうでなくてはこちらも面白みがないのだ。

 もう一つは、流されていたような小説作りがとりあえず堰き止められたこと。こちらもエッセイで彼が言うには、小説をビジネスと割り切って書いていた、書くことが少しも面白くなかった、小説家をやめて蕎麦屋でもやろうと思っていた等々。出版社という企業の側の暴力とすら感じられる新人作家の運命でもある。そんなさなかで書かれた作品が面白かろうはずがない。今、花村萬月が小説作りの面白さに目覚め、それなりに世間を相手取ってのきちんとした姿勢で書く、書く喜びを持つ、そうしたすべてを今読者として肯定してあげたい。一つのバランス感覚を備えた、新しい萬月作品が始まる。

 明らかに『皆月』は、そうした新萬月時代への序曲なのである。

(1998/12/31)
最終更新:2006年11月23日 20:42