ダーク・ムーン








題名:ダーク・ムーン
作者:馳星周
発行:集英社 2001.11.10 初版
価格:\1900



 正直、最初に『不夜城』で登場したときは、血沸き胸躍ったものだった。でも今、これを読んでいて、ぼくはどうも醒めている。映像化して映画にしたらけっこう面白いバイオレンスものになるかもしれない。少なくともサム・ペキンパあたりが映像化したら、それをきちんとした役者がやってくれるなら、いい映画になるだろう。

 日活無国籍アクションという言葉を思い出す。銃をぶっ放し放題、国籍不明。ストーリーのためなら何でもあり。さすがに小説では無国籍アクションというわけにはゆかないので、バンクーバーとかリッチモンドとか、ぼくにはちんぷんかんぷんな土地の名前を世界地図のどこかから引っ張り出してきた馳星周。刑事と黒社会であれば銃はぶっ放し放題。そしてまずは何でもあれの状況を作り出す。

 『雪月夜』が面白かったのに、『ダーク・ムーン』がつまらない原因はそのあたりかな、とわが胸に問うてみる。そう、残念ながら小説としてのこの本は面白くなかった。すべてのキャラクターが計算されて動く駒のようであり、ストーリー展開のためにはキャラクターの前には何も立ち塞がらないご都合のよさ。作者さえも欺くがごときキャラの暴走が全然ないように感じるこの緻密さがいやなのだ。どんなキャラクターのバイオレンスもすべてが計算されたように思え、クライマックスは予定調和。

 これが美学と言ってしまうのならそれまでだけど、まだまだ気になる模倣の数々。3人の男を主役に配置するやり方は当然エルロイのLA4部作のパクリだ。悪徳警官(現・元)もそのまんまパクリだ。やくざの元締めに追い詰められてしまう状況もパクリであり、ホモである自分を否定したいというプロットもまったくパクリだ。文体も(訳文だが)かなりの点でパクリだ。どこを向いてもエルロイだ。

 では、なぜエルロイが面白いのに、この作品が面白くないのだろう。エルロイのほうが事実や歴史の海に、作品という船から錨をどっしりと下ろしているからではないだろうか。殺人そのものに意味のない小説よりも、殺人そのものに強烈な意味を持ち生きるバイタリティに変えてゆくエルロイの主人公たちは、ある意味で膨大な燃料を食って何かを動かしてゆく力に変える内燃機関のような存在だ。馳の主人公たちは何も変えることなく滅んでゆく存在だ。

 だからいつも言うのだが、本書のような作品はいったい何のために書かれ、何のために読まれるのだろう。エルロイのパクリの部分で読ませるが、新機軸ではない。まさかエルロイを外している読者をだけ狙っているというわけではないだろうな。それなりに大変に上手な技術的パクリであるからこそ商売として成り立つのはわかる。でも馳星周作品の空っぽさについて、そろそろ取り上げられてもいい時期ではないか、などと思ってしまうのは、気短かに過ぎるだろうか。

(2001.12.18)
最終更新:2007年06月17日 19:04