漂流街





題名:漂流街
作者:馳星周
発行:徳間書店 1998.9.30 初版
価格:\1,700

 『夜光虫』と相前後して書かれた作品なのか、それともどちらかを先に書き終えて次に取り掛かったものなのか、ぼくにはわからない。ただこれだけは言えるような気がする。どちらの作品も同時に書いたのだとしたら、プロット作りの作業にほとんどの時間を費やしたのだろうとしか思えない。

 馳星周がどんな書き手なのかぼくは知らない。でも本名の彼とぼくはつきあいがあった。その中でプロットを丹念に準備しないと書き始めることなんてできない、って彼は言っていた。自分はいいかげんな性格だし、プロットなし書き始められるほどの才人でもない。確かにそう言っていた。

 だからと言ってプロットがあればあとは自動筆記のように語り継ぐことができるかというと、そうも言えないと思う。馳星周を特集したTV番組の中では、彼は、校正の作業が永遠に終わらないと言ってた。締め切りの時点でそれは本となるが、ゲラを持っている限り彼はずっと限りなく校正しそうな顔をしていた。自分でいい加減というほどいい加減ではない作家。そのデリカシー。その誠実。それが馳星周という作家だ。

 正直言ってこの作品は『夜光虫』に比べてかなり完成度が低いと思う。巻き込まれてどうにもならなってゆく『夜光虫』、過去の重厚さとその錯綜。そうしたものは、こちらの小説にはないと思う。どう見たって、『漂流街』は先天的に殺しが好きなキラー・オン・ザ・ロードの物語だ。プロットもそれを血のせいだとして認めている。

 その一点だけでもぼくはこの作品は好きになれない。後天的な孤独は社会や現実を反映したドラマになり得るけれども、先天的な孤独というのはもっと乾いた眼、あるいはもっと狂気の目線で(エルロイのように)描いてもらうのでなければ着いてゆくことができない。冷静に計算されたプロットを背後に感じるからこそ、そのプロットのほつれがあちこちに散見される。

 プロット上乱暴だと思われるシーンがあまりにも沢山ある。弟ロナウドのこと。カーラへの最後の決意のこと。ペルー人とのこと。警察への通報にしてももっと他のシーンでというほうが自然であった。多くの破綻があるのだ。何でも同じ方向を向かせて物語を紡げばいいという問題ではない。やはり小説のプロットに限度はあると思うのだ。

 確かにこの作品には作者の姿勢方向があると思う。誠実な点もあると思う。だから校正が不足のうちに、急かされた一冊の本として出てしまったのだと思いたい。作者の不本意だと思いたい。日本の出版事情の厳しさが作家を追い詰めているのだとした、それはとても残念なことだ。

 もっと贅肉を絞った作品が欲しい。方向をそろそろ螺旋的に成長させる時期にかかっているのだと思う。二作目、三作目ではなく、四作目。当然読者の側も構えが変わってゆくのだ。そろそろ金太郎飴小説(花村萬月もこれだったよなあ)から脱皮をと願うのは、読者にとって贅沢なことではあるまい。

(1998.10.02)