検屍官




題名:検屍官
原題:POSTMORTEM
著者:PATRICIA DANIELS CORNWELL
訳者:相原真理子
発行:講談社文庫 92.1,15 初版 1992.8.11 第9刷
価格:\680(\660)


上質のサイコ・スリラー。人気があるのも肯けますが、人間重視のこのフォーラムでは男性諸君にイマイチ受けないのがこの『検屍官』の女性主人公であるようです。検屍官なんておどろおどろしい職業に付いている理科系の頭脳的なヒロインが、職業的な女性の自由や権利を振りかざしながら事件に当たるのだから、まあ世の男たちに可愛げのない女と見られるのも当然の話で、そのこと自体は、ぼくはまあ仕方のないものだと思うし、それを抜きにしたらけっこう事件としては面白い話であったとは思う。犯人はなんだかなという意見もあり、やはりそういう点では「レッド・ドラゴン」みたいな犯人小説の足元にも及ばないことは事実。

 では、なぜこんな本が受けているのか? 最近の流行りと言うか、「法律事務所」は法律家によって書かれたサスペンス、「白く長い廊下」は外科医の書いた麻酔事故ミステリー、そしてこの本は検屍官事務所勤務のSEが書いた本だから、検屍とコンピューターが共にストレートに題材になっている。最近内外ともにこんな作家たちが賞を取っているのはやはりぼくには流行と映るし、イマイチ納得の行かないものがあったりする。ドキュメント志向の小説というものがそれほど受けるのでは、想像力だけを武器にする作家たちはいったい何に立脚したらいいのであろうか?

 ま、このへんの愚痴はたまたまいろいろ受賞したりしていることに対する社会的評価なる権威へんの愚痴。

 だからこの小説もそうしたドキュメント性に面白さを感じる人はいいかもしれないけれど、そうでない人には今一つ迫力に欠けるのだと思う。こういうストーリーの方がよかった、という書き方は常々とてもわがままなだけの感想であるような気がするんだけど、敢えてそういう言い方を試みてみると……

 この主人公を、検屍官ではなく、例えば作者のもう一つの顔であった警察担当記者の眼で描けばいったいどうなったろう? 例えばその場合シリーズにはしにくくなったかもしれない。でも、この作品に登場するアビー・ターンブルという女性醜聞記者(?)の眼で、この事件を追えば、例の5番目の殺人事件の衝撃度は読者にとってどうであったろう? また彼女の眼を通した女性検屍官像の方が、女性検屍官の独白よりもずっと深みが出たような気もしちゃうのである、ぼくは。個人的にそういう視点的ひねりの効いたプロットの方が好きであるというだけではなく、小説的興味(つまり絶対つまらないものより面白いものの方がいいという欲望)から言えば、大多数の読者に媚びる面白さのことだって作者は考えた方がいいのだと思うけど、どうだろうか? この作品はストレートで一本調子な独白に満ちているから、せっかくの作者の筆力や丁寧さも作者の職業的日常を離れていないと思う。

 同じ他職業作家の雄としてディック・フランシスがいるのだけど、彼の作品ではいろいろな主人公が、内から外から競馬界を見据え、それぞれ異なる方向で事件に関わって、結局は事件そのものをぼくら異国の読者の日常にまで普遍化してしまう。小説というのはそういうことだと思う。

 以前に関口苑生氏が言ってた言葉を思い出す。「純文学」は自分を書いていればいいけど、「エンターテインメント」はいかに自分以外の人間を描けるか、だろう。この言葉は最近のエンターテインメントの風潮に共通して感じることの多い、ぼくの愚痴そのものでもあるかもしれない。

 あ、このフォーラムでは唯一「検屍官」を誉めているのがMさん。女性で医師(つまりキャリアウーマンですね)の眼から見たら、これほど共感のできる小説はないのでしょう。こないだ仕事でお会いしたときにMさんとそのへんのスタンスの違いなどを語り合ったことを思い出しました。

(1992.10.29)
最終更新:2007年06月17日 15:20