黒蠅





題名:黒蠅 上/下
原題:Blow Fly (2003)
作者:パトリシア・コーンウェル Patricia D.Cornwell
訳者:相原真理子
発行:講談社文庫 2002.12.15 初版
価格:各\695

 シリーズ前作の『審問』のラストでは、衝撃的な展開を迎えた。主人公のケイ・スカーペッタを中心に、ピート・マリーノ、姪のルーシー、ベントン・ウェズリーらが、ここまで闘ってきた相手は、目の前のサイコパスばかりではなかったというもの。真の敵は、実はパリを拠点に展開する犯罪者一族シャンドン・ファミリーであった。

 まさにそれまでのシリーズ展開を根底から覆すような荒技と、あまりのスケールアップに、この作家、この先を書き続けることができるのだろうか、と危惧すら感じた。その後、やはりその展開の強引さに作家も足踏みをしたのか、三年の間、シリーズが更新されることなく過ぎた。

 だから本作は、広げ過ぎた風呂敷をどのように折り畳んで見せるのか、という興味でいっぱいのはずのものである。当然あれだけ拡大してしまったスケールであり、この一作ですべてに片がつくとは到底思えない。

 驚いたことに新作は、初めて一人称のスタイルをかなぐり捨てたものになっていた。これは作家としても相当の冒険だろう。前作のラストでさえも相当のハイリスクを背負ったことになるのに、今度は特徴であった一人称、ケイ・スカーペッタの女性的視点を棄てることで、せっかく軌道に乗っているシリーズ人気を自ら崩すことさえあり得る。大勢のミステリ外読者を獲得した人気シリーズだからこそ、冒険小説、サイコミステリー、スリラーとして、贅肉を排除し、娯楽小説としてのストーリーテリングに賭けてゆくやり方が、この先読者にどう受け入れられるものなのかは、わからない。

 三人称で移り行く視点。つまりケイの視線が届かない部分をむしろ中心にして回ってゆくストーリー。明らかにこれまでのシリーズのやり方を逸脱した方法。テンポよく切り替えられてゆく舞台装置に、スリリングな状況が重ねられてゆく。物語の面白さはあっても、これまでのじっくり描かれていたケイの生活、心境、プライベイトなサブ・ストーリー等の部分の厚みはどうしても、犠牲となる。それでも敢えてスリリングなストーリー展開のほうを選択した作者の冒険が、シリーズ人気と言うことに対して吉と出るのか凶と出るのか。

 錯綜したプロットの割には、ラストの畳み込むような収束の仕方にぼくとしては若干急ぎ過ぎのイメージを持った。せっかくのスリルをさっと終わらせて片付けてしまうやり方は、このシリーズでは何度も経験した、あっけないという感覚で共通したものなのだが、そればかりは一人称から三人称に移行しても変わることがなかった。

 予想通り、何もかもが片付けられたわけではなく、宿題を遺したままに、展開は次作に持ち越される。まるでハンニバル・レクターのレプリカのような動きをする敵手だが、レクターの迫力に少し届いていない気がする。ともあれ、次作ではこの敵がパリの本家と組んで、どんな仕掛けに出て来るのか。シリーズ初期とは明らかに別種ではあるが、次作への期待感を持たせたまま、ようやく一息をついた、といったところか。

(2004/01/10)
最終更新:2015年02月19日 10:40