神の手





題名:神の手 上/下
原題:Predator (2005)
作者:パトリシア・コーンウェル Patricia Cornwell
訳者:相原真理子
発行:講談社文庫 2005.12.15 初刷
価格:各\714

 前作『痕跡』ではシリーズの原点に戻ったという感触があった。それなりに犯罪そのものを科学捜査によりシンプルに追い詰めてゆく、作品骨子の面白さが感じられた。その調子で走るという予感すら得た。

 本書はそれに比べるとずっと複雑さを取り戻したようなイメージがある。その最たるものは、レギュラー・キャラクターながらヒロインを食う勢いで作品を牽引してきたピート・マリーノの読者との距離感だ。

 このシリーズがいつかしら一人称をやめ、三人称複数の視点で、多くのキャラの動向を同時並行的に追うようになったのはごく最近のことだが、それとともに、作者の思い、ヒロインの思いといった血の通った文体が鳴りを潜めた影響は、少なからず、作品世界に冷たい氷のような温度低下を引き起こしているように感じられる。

 もともとあまり温かみの感じられない死体相手のシリーズではあるが、ヒロインの、姪ルーシーへの愛情やマリーノの押し付けがましい親近感などが作品の冷気に対し時折り温もりのこもった息を吹きかけ、人間味のある世界を描き出していた。

 ところが三人称複数の本書からは、人間たちのそれぞれの距離感がかつてのものよりずっと遠く離れ離れに引き剥がされているように感じられる。それぞれが孤独に、別の世界で、各個の思惑により動き回ることで、モザイクが部品のように事件の周囲を軋りながら何とか組み合わさっているというイメージで。

 どんでん返しと主人公の危機という意味では、この作品はシリーズの原点に確かに回帰している。しかしそこに至る道程はまるで別の作家の手になるもののようでさえある。多くの人物たちが冷たい事件を乗り越え、悪魔のような犯罪者たちと戦い、影響されて、あまりよくない境遇でぎりぎりの精神状態を保っているかに見える。

 事件そのものより、そうした要素がもたらす次作への期待感がシリーズとしての魅力だというならば、このシリーズは確かに大きな変容をいつか知らず遂げているのだと言わざるを得ない。確かに15年以上の時がこの作品の上を走り去った。その間に現実の世界にも多くのことが起こり、地球の大気の構成分子もすっかり入れ替わったことだろう。

 その変化こそがロング・シリーズの楽しみ方なのかもしれない。このシリーズにどこまで着いてゆくつもりなのか、ぼくは自分でも全然わからない。いつも頭の中によぎるのは、次作に聞いてみようという思いだけである。87分署のように約束されたシリーズもあれば、この検視官シリーズのように先の見通しが立たない不安定なシリーズもある、ということなのだろう、きっと。このアンバランスな時代、めくるめく世界の底に立っていると、それはそれでいいというような気がしてくるから不思議だ。

(2006/10/18)
最終更新:2007年06月17日 14:21