鉄道員(ぽっぽや)





題名:鉄道員(ぽっぽや)
作者:浅田次郎
発行:集英社 1997.4.30 初版 1997.5.30 2刷
価格:本体\1,500

 先日出張で稚内へ一人出かけた。サロベツの常宿《あしたの城》に今年三度目の宿泊をし、利尻に沈む、宿主によれば今年一番の夕焼けを見て、翌朝、稚内へ行き仕事を済ませて札幌へと南下した。

 音威子府蕎麦というのはそれなりにこのあたりでは有名で、町らしき町とも言えない音威子府の駅に、ぼくは立ち食い蕎麦を食べに寄った。昔、ホームで暖かい蕎麦を食べて、そこで蕎麦を作っていたオバサンに「ここの蕎麦はいやにおいしいね」と言うと「ここの蕎麦はつなぎを使っていないからねえ」と自慢げに微笑みを返してくれたものだった。

 音威子府の駅舎はそののち、やたらきれいでウッディなデザインとなり、記念写真を撮ってゆく観光客の姿さえありそうだった。駅舎に寄って音威子府蕎麦をおよそ10年ぶりくらいに食べた。蕎麦は太めで、ややかさかさしており、あまり美味しいとは言えなかった。

 でもそのときぼくと同時に地元の人らしいオバサンが蕎麦を注文した。駅の中の小さな蕎麦屋で働いているのは一人の白髪頭の老人。オバサンは蕎麦を注文しながら「ミカちゃんは帰ってこないのかい?」と老人に訪ねている。時期はちょうどお盆を数日後に控えていた頃なのだ。

「ミカは帰ってくるけどシュウジは帰ってこれないらしい」
「忙しいんだね、きっと」
「忙しいんだあ、きっと」
「でもミカちゃんが帰ってくるんならねえ」

 ……こんな会話のやりとりを聞いて、ぱさぱさした水っ気のない蕎麦をすすりながら、ぼくは『鉄道員』を思い出していた。

 もしかしたらこの蕎麦屋のお爺さんも、もとはこの駅の駅長であったかもしれない、などと思いかえして老人の顔をつくづく眺めると、そこには多くの深い皺があって、その向こうに、ぼくには読み取ることのできないたくさんの時間が翳を落としているように見えた。老人はぼくの中でますますこの小さな道北の駅のかつての駅長に見えてくるのだった。

(1997.08.31)
最終更新:2007年06月05日 02:35