五郎治殿御始末






題名:五郎治殿御始末
作者:浅田次郎
発行:中央公論新社 2003.01.10 初版
価格:\1,500

 久々の浅田節を堪能する。短編小説。どれもこれもが感動を誘う、人間の生きざまの物語のはずが、時代小説では一転して、どれもこれもが「死にざま」の物語と化してゆく。生きざまと死にざまは言葉は違えど、同じものを違う見方で表現しているだけなのかもしれない。

 時代は明治維新直後、『壬生義士伝』の後にやってくる勝者たちの価値観により、経済、政治、文化などがどの日本人にも目眩いを起こさせるほど大変革を巻き起こしていた混乱の時代。侍たちのの根幹に厳然とある葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」。その始末を明治維新と言う大きな垣根を乗り越えるために時代にどうつけてゆくのか。時代から試練と難題を押しつけられた者たちを描く、独特の味を持った短編集。

 幕末を描くものは多いが、維新直後を描く小説は珍しい。短編集のそれぞれにおいて、多くの変化が題材として扱われている。

『西を向く侍』幕府の天文方役人は、暦が西暦に変わることへの抵抗、混乱を経験する。
『遠い砲音』では砲兵隊長が、時刻の呼び名が刻から時分へと変化するなかで時を告げる砲音を鳴らし始める。
『柘榴坂の仇討』では桜田門外の変のその後を生きた対立する二人の男を尻目に、仇討が法的に禁止されてゆく。

 幕末の記憶を維新後どう始末してきたか。日本人のある時代を個人の物語にまで落として書かれた浅田ならではの感涙の短編たち。時代は、明治維新というものが日本国にもたらした大いなる奢りとともに軍事国家への道を進んでゆき、「死ぬことと見つけたり」は国により悪用され、無私を強要される時代へと移ろい進んでゆく。

 その都度、始末をつけてゆかねばならないのはその時代時代の個人である。時代は変わっても人間である営みについては大きく変わるはずもない。無理や変節を押しつけられるそうした悪の時代に、いかに人間としてのことわりに生きてゆくことができるのか。そうした価値を読者に問いかける、著者入魂の一冊と見た。

(2003.06.30)
最終更新:2007年06月04日 22:42