てのひらの闇





題名:てのひらの闇
作者:藤原伊織
発行:文藝春秋 1999.10.30 初版
価格:\1,667

 日頃会社組織に組み入れられてその立場での存在を余儀なくされているぼくのような人間にとっては、冒険小説やハードボイルドは別の世界への旅であり、異なる価値観たちとの出会いであったりする。だから自分の世界の相似形のような舞台設定をされるとそれだけでなんだか重苦しい気分になってくる。

 ぼくはこの本の導入部でいきなり、ああ企業か、そこに組み入れられた人間たちのあがきの物語なのか、と非常に不安、鬱屈、陰り、その他ともかく息苦しいものを少なからず感じながら、少々の落胆とともに読み進めていた。あんまり読みたい種類のものではないな、というのが正直なところ。

 しかしこの本は、それだけのものではなかった。一見企業サスペンスみたいな衣をまとっているが、実はその正体はタフな男のハードボイルドであった。それは主人公がサラリーマンの衣を身に纏った狼であることが露見するにつれてさらにあらわになってゆく。とは言え大藪春彦の『甦る金狼』ほどに派手な狼の姿を取るものではないし、ストーリーもあれほど劇画的ではない。むしろ地味な企業人間が肩書きを脱ぎ去ったときに自らの中にまだ残している最低限の志とでも言うべきものがこの本の魅力だと思う。

 やくざのドンを父親に持つという状況設定は、藤田宜永の『理由はいらない』『動機は問わない』のシリーズで馴染んだものである。そこから知恵を拝借したのかどうか知らないが、ここでは探偵ではなく勤め人の主人公にその環境を割り当てていて、これがある意味で現在を戦うための主人公の武器となる。誰にもひた隠しにしてきた自分の正体。そして弱者たちへの優しさ。

 卑しき街をゆく中年男の誇りと優しさ。ラストシーンは、ぼくは涙腺がゆるんでしまいそうになった。かつてこういう作品を求めていた志水辰夫が残念ながら恋愛小説方向に曲がって行ってしまった売れっ子となってしまった今、彼の正当な後継者が現われたなとぼくはひそかにほくそ笑みながら巻を置いた。文体であるシミタツ節を再現する作家は二度と現われないと思うけれど、ある種の誇り高き中年人種たちの戦いを描かせるという意味では、ぼくはひさびさに、奮い立つくらいに嬉しくなってしまったのである。

(1999.11.06)
最終更新:2007年06月03日 21:18