テロリストのパラソル







題名:テロリストのパラソル
作者:藤原伊織
発行:講談社 1995.9.14 初版
価格:\1,400(本体\1,359)

 ぼくは団塊の世代の次の世代に当たる。いわゆる三無主義が流行った辺り。高校に入学したての日々には、校舎の壁に「警察の介入を許すな」とか「同士を奪還せよ」とか書かれた垂れ幕が風に翻り、屋上で教師たちがこれを慌てて回収していた光景が残る。大学に進むと、分科会に属するあるセクトの集団として有名だったある研究会の部室が内ゲバで鉄パイプの襲撃を受け、救急車やパトカーがわりと慣れた感じでやってきていた。しかしこういう光景をぼくはなんという感慨もなくただよくわからずに見ていた世代だった。

 安田講堂の攻防もぼくはテレビで見ていたが、同じテレビで見ていたビートルズも新宿フォークゲリラも、新宿の歌声喫茶「ともしび」の光景も、どれもよくわからない上の世代の文化であり、そしてそのままよくわからないままにほとんどの上司が団塊の世代であるという企業に就職して、彼らの勤勉だったり胡散臭かったりする仕事ぶりを目にするようになった。こうした世代と酒を飲んだりする時には、ぼくを、あのいつもテレビを見ていたようなまなざしにさせてしまうその世代だけの話題がたいていなにかの形ででてくるような感じであった。

 そうした世代を主人公に据え、派手めなテロリズムと、主人公の探偵ぶりが一気に駆け抜ける非常に面白い暗黒小説、そういった印象がこの作品であった。ただし、こういう作品の良さというのは、ぼくを決してテレビを見るようなまなざしにさせてしまわないことであるのだろうと思う。単純に主人公の出会いや過去や信念を共有することで世代という怪物的な概念はどこかに消えてゆく。同世代の読者だけのための作品というのではあまりにさびしいところを、きちんとサスペンスの形で救っているところが、全く頼もしいと思う。

 もちろんこの本を語るときに世代の話は出るだろう。そういえば原りょうの作り上げたあの探偵・沢崎だって同じような世代、同じような頑固オヤジだと思う。ぼくはやはり一つ上の世代がこうして紡ぎあげてくれる熱っぽいものを、今も見上げていたいし、それがわからなくっても常に謎として存在し続けて欲しいと思う。時代の置き土産のような団塊の世代。彼らが燃やした闘争のくすぶりの跡を、違った感慨で歩き、見続けることがぼくらの世代であり、ぼくらの実に懐疑的な生き方であったのだと思うのだ。 

(1995.11.0)
最終更新:2007年06月03日 21:11